第13話 精霊たちの偉大なる統括者

「レクス・スピリトゥス、精霊王さまって……。ほ、本当にいたんだぁ……」


 詠唱を中断させられたテミスが、どこか感心したような声でそう言った途端――。


「あにゃッ、い、痛ッ! うにゅうう……」


 これが夢の中の出来事ではないかと疑ったテミスが、自分の頬を思い切りつねった。

 そのあまりの痛さに思わず奇声を上げた彼女は、赤くなった頬をさすって悄然とするのだった。


 その隣では、最前まで緊張していたはずのマカベウスが、気分を削がれたのか、ため息をつきながらそんな彼女を一瞥する。


 ――まあ、それが当然の反応だよな。しかし、こりゃ面倒なことになったぜ。


 今すぐ後頭部をボリボリ掻きむしりたい衝動に駆られつつ、マカベウスはそう思いながら、目の前に突き立った流木に目を向けた。


 岩に突き立った古い流木の先端では、精霊による超自然的な現象が、若干弱まりつつも依然として続いている。

 まるで精霊たちが、突如として背後に現れた精霊王レクス・スピリトゥスによる沙汰を、首をうなだれて神妙に待っているかのようだ。


 マカベウスはそれを真剣な顔つきで見つめながらも、まだ回復していない魔力をかき集めるかのように総動員し、声の主の気配を探しはじめた。


 どこからともなく聞こえてきた老年男性の声は、みずからを精霊王レクス・スピリトゥスだと名乗ったが、すぐにそれが本当だと納得してもおかしくないほど、その声には威厳と存在感が満ちあふれていた。


 あれほど波立っていたのが夢か幻だったかのように、地底湖の水面は、すっかり静けさを取り戻して穏やかになっている。

 流木の先端にある回転体の勢いが弱まったのと同じ反応なのは、ここにいる水の精霊がひとしく精霊王レクス・スピリトゥスの反応を待ち、その行動を抑えているからなのだろう。


 それなのに、精霊王レクス・スピリトゥスは一度みずから名乗ったきり、何分たってもその姿を現さないどころか、再び口を開こうともしない。


 そうしているうちに、ややせっかちな性格のテミスが眉根を寄せ、マカベウスの白衣の裾を引っ張った。これは明らかに、焦れている証拠だ。


「ねえねえ……おじちゃん? 精霊王さまはどこ行ったのよ。あれっきり、気配もしなくなっちゃったけど……?」


「俺が知るか。さっきから探してるが、魔力がほとんど残っていないんだから時間がかかるんだ」


 マカベウスはすでに目を閉じていて、消え去った精霊王レクス・スピリトゥスの気配を探りながら、鬱陶しそうにそう返事をした。


 だが、彼の魔力が枯渇しているためか、魔力をたぐり寄せる力がどうしても弱く、いつまでたっても気配の発生源を探知することができない。

 それなのに普通の感覚は正常らしく、テミスが横でふくれっ面をしていることは、黙り込んだ彼女の様子から何となくわかるのだった。


 盛大なため息をついたマカベウスは、魔力の探知を中断して目を開けると、頬を膨らませたままのテミスの方に向き直った。


「仕方がない。探知はお前がやれ。精霊との契約でかなりの魔力を使っただろうが、それくらいは残っているはずだ。いろいろとちっこいお前でも、枯渇するほどじゃないだろう?」


 やや失礼な単語が混じっていることに気づきもせず、そう説得してくるマカベウスの顔をまっすぐ見返すテミス。

 しかし、魔力というものの存在を昨日初めて知ったばかりのテミスは、その言葉の意味がすぐ理解できずに、思わず小首をかしげた。


「コカツ? 枯渇ってなに? さっきおじちゃんが死んだようにぶっ倒れた、あれのこと?」


「ん? ああ……。お前にとってはさっきの契約術式が、生まれて初めての魔術だったな。魔力の上限について知らないのも無理はない、か」


 これまでに魔術の使用経験がないのなら、自分の魔力がどれだけあるか知っているはずがない。そう思い直したマカベウスは、後頭部をポリポリと掻きながら話を続けた。


「まあ、お前にもいずれわかるだろうが……。普通の人間と違って、俺たち魔術能力者スキエンティア・マギカには体力の限界だけじゃなく、魔力の限界というのもある。ぶっ倒れた俺が言うのも何だが、あまり無理をすると、死ぬことになるぞ」


「う、うん……わかった。覚えとく」


 思った以上に深刻な内容の話に、テミスは固唾を呑み、こくこくと何度もうなずく。

 それを見て、少し怖がらせてしまったことを悔いたマカベウスは、ふっと柔らかい表情に戻りつつ、流木の先で回転する物体へと再び目を向けた。


「よしテミス、目を閉じて意識を集中しろ。あいつの居場所を探るだけだから、呪文の詠唱は必要ない」


「うん……。じゃ、やるよ?」


 身長が低いテミスは、長身のマカベウスの隣に並ぶと目を閉じ、先ほどと同じ要領で腹の底から魔力をくみ上げながら、回転体の方に意識を向けた。

 風はすっかり収まっているものの、地底湖のすぐ近くに立って目を閉じるのは、ふらりと落っこちてしまいそうで、少し恐い。


 ――あ、見える。これって、精霊たち?


 テミスが腹の底から魔力をくみ上げ、それがこぼれないように気づかいながら意識を集中させていると、暗闇の中で青や赤、黄色など、さまざまな色で明滅し、ホタルのように飛び交う光の点が見えてきた。


 精霊とは、自然界に偏在する「聖なる霊魂」のようなものだと唱えた研究者が、かつて存在した。


 もちろん彼らは、人間の霊魂とは違う。自然現象が巻き起こす力から生まれると、その場にとどまって数百年の寿命を生き、魔力が尽きると人知れず消えていくという。


 ただし、よほど高位の精霊でない限り、普通の人間はおろか、たとえ魔術能力者スキエンティア・マギカであってもその姿を見ることは難しい。その魔力をかすかに感じることができる程度だ。

 それらは今、閉じられたテミスの目に、ホタルが飛び交っているように映っているのだ。


 ――これなら、精霊王さまがどこにいるのか、わかるかも。


 そう思い、目を閉じて意識を集中させていると、まるでホタルの親玉のような巨大な光が、テミスの方にゆっくりと近づいてくるのが目に入った。


「……にゅ?」


 その巨大な光は、目を閉じて鬼ごっこをするテミスが暗闇で見えない隙に、大胆に忍び寄ろうとする鬼さながら、無遠慮にどんどん近づいてくる。

 テミスはその光に気づいていたが、その光自身は、テミスがすでに感づいていることを知らないらしい。


「まさか……この光が、精霊王さまの……?」


 そう直感したテミスは、神と並び立つ存在とされる、偉大なる統括者の到来に身を固くした。


 今にも彼女の前で姿を現し、王の威厳と男らしい艶やかさがこもった声で、「そなたがテミスか、聞きしにまさる美貌よの。わが妻として、ともに天界まで来ぬか?」などと、遠回しに愛の告白でもしてくるのではないだろうか。いや、そう妄想するしかない。


「ああっ! 精霊王さま! テミス・クーリアは、あたしはここですっ……」


 ついに目と鼻の先にまで近づいた光。テミスはそれを全身で受け止めようと、両腕をいっぱいに広げて待ち受けた。

 常人では感じることすらできない魔力の世界で、至高の存在と人間とが交錯する――。


 ――むにゅん。


 途端、何もない虚空から突如として現れた、子どものように小さな手。

 その手が、テミスの無防備な両胸を「むんず」と、瞬間的にわしづかみにした。


 しかもその手は激しく動き、テミスの乏しい、いや発展途上の両胸をぐんぐんと揉みしだいてきた。


「――ひゃっ?」


 いきなり繰り広げられた斜め上の展開に、何が起こったのかすぐに理解できず、それ以上の言葉が出せないまま固まるテミス。

 それをいいことに、虚空から現れた小さな両手は、まるで品定めでもするかのように、テミスの胸を隅から隅まで、心ゆくまで堪能し続ける。


 ――あ、あたしの、あたしの大事な胸ッ……!


 今までマカベウスはおろか、両親にすら触らせたことのない、乙女の大切な膨らみ。

 それを、突然現れた小さな手に、心ゆくまで堪能されてしまった。そのことにようやく気がついたテミスは、顔を真っ赤にして全身を震わせはじめた。


「うーむ、うぬがテミス・クーリアか。適格者なれども、若いのう。身体の方はまだまだガキじゃ」


 そこへどこからともなく、テミスの胸の感想をため息交じりで漏らす、何者かの声が聞こえてくる。


 ところがその声は、口調こそ偉そうな老人だが、声は十三歳から十四歳程度の少年のもの。

 声変わりしたばかりの男の子が、劇で老人の声を演じているかのような、そんな声音でもある。


「にゃ、にゃ、にゃ……にゃんですってぇ……?」


「むう、ちと早まったかのう。我はもっとこう、ムチムチでナイスバディな子が好みなんじゃが……」


 突如として出現した小さな両手。その両手に心ゆくまで揉まれた大事な乙女の胸。

 そのあげくに下された、失礼きわまりない評価。

 そしてその評価を下したのが、老人の口調でありながら少年そのものの声という現実。


 一連の出来事は、わずか一分半程度の間に起こったことだ。

 だが、そのすべての出来事が、テミスの想像をはるかに超えていた。


「大丈夫か、テミス!」


 そんな出来事が続き、頭の中が真っ白になって言葉すら出せなくなったテミスと少年との間に、ようやくマカベウスが割って入った。

 見えている両腕を無視したマカベウスは、本体があると思われる空間へ無造作に手を伸ばすと、その大きな手で何かをわしづかみにした。


「コルァ! このエロガキ! テミスに何てことしやがるッ!」


「――あ痛ッ! いたたたっ! 何すんだよエセ聖職者! そこボクの頭! 割れる割れる! もう握るなってば!」


 どうやらマカベウスは、魔力がこもった腕を伸ばして、少年の頭をわしづかみにしたらしい。


 いたずらがばれ、痛がりながらも悪態をつくその口調は、もはや老人のものではない。声音から連想される、十代前半の少年そのものになっている。

 そして痛がって暴れているうちに魔法が解けたのか、今まで見えなかった少年の全身がうっすら見えはじめると、透き通った状態から実物の身体へと、徐々にその姿を現していった。


 だが、ようやく姿を現した少年の身なりは、およそこのような地底湖には似つかわしくない。


 まるで王族の貴公子か貴族の御曹司が、お供を連れて庭を散歩するときの装い……。そういった表現がしっくりするような、そんな優雅な服装である。

 半ズボンに白い靴下、白いシャツに褐色の革ジャケット、そして胸元にあしらわれた小ぶりのリボン。それはどこからどう見ても、典型的な「お坊ちゃま」の姿だった。


「いててッ! ちくしょう! そんなに強く握ることないだろ。デリケートなボクの頭が、ザクロみたいに割れちゃうところだったじゃんか!」


 少年はようやくマカベウスの右手から脱すると、目尻に涙を浮かべて自分の頭をさすった。少年の髪は刺繍糸のような明るい金色をしていて、光がない場所でも照り映えるかのようだ。


 振りほどかれた右手の指をほぐすようにうごめかせてから、マカベウスは鼻を鳴らした。


「ふん。お前がやらかしたミスに比べれば、そんなのは可愛いもんだ。そもそもわが主に並ぶほどの古き存在であるお前が、あっさりザクロみたいになるとは思えんがな」


「おやおやっ? ようやくボクの偉大さを理解したようだねぇ、エセ聖職者」


 金髪の少年は目尻の涙を拭いながらも、マカベウスの口からわずかに畏敬の言葉が漏れたのを聞き逃すことなく、わざとらしく胸を張ってみせた。


「ふふん、そうとも。古き神々どもを原初の闇の時代から睥睨し、今も新しき神と並ぶほどの実力を持つ存在、それこそボク――あ、痛えッ!」


 そこまで言ったとき、少年の脳天にマカベウスの拳骨がまともに突き刺さった。


「調子に乗るな。精霊の統治者たる龍王の姿がそんなガキだと、もし世間に知られたら、一神教徒どころか多神教徒ですら泣くぞ?」


「ぐぬぬぬ……。ボクの本当の力さえ戻れば、エセ聖職者のひとりやふたり、すぐに消し炭にしてやるってのに……」


 再び頭を押さえ、悪態をつきながら悶絶する少年を横目で見ながら、マカベウスは今も茫然と二人を見比べているテミスの方に、気づかわしげな視線を向けた。


「うっ……。ご、ごめんなさい」


 マカベウスと目が合ったテミスは、ずっと凝視していたことを恥じるかのように、ふっと目をそらした。

 あまりの出来事に理解が追いつかないらしく、執拗なセクハラを受けたことは彼女の念頭からなくなっているようだ。


 むしろ、もしこの少年が本当に精霊王レクス・スピリトゥスであるのならば、彼と対等どころか親子のような会話を交わすマカベウスの方こそ、テミスにとってより強い驚きの対象である。


 そうなると、何をおいてもまずハッキリさせなければならないのは、この少年の正体である。

 マカベウスから目をそらしたテミスは、少年の方に視線を移すと、ジト目になって尋ねた。


「それで、あんた……いや、あなたは、本当に精霊王さまなんですか? どう見ても、ちっこい子どもにしか見えないんですけど……」


 テミスがジト目になったのは、自分勝手な妄想がこのような形で裏切られたことに対する、逆恨みも含めてのことである。

 それでも敬語を忘れなかったのは、彼が本当に精霊王レクス・スピリトゥスだった場合の保険である。やや失礼な物言いだけは、覆い隠すのに失敗したが。


 一方、そう尋ねられた少年は、ジト目になったテミスから質問された途端、すこぶる嫌そうな顔つきになりながら返答した。


「む? まあね……。いかにもボクは精霊王レクス・スピリトゥスだよ。嫌なやつに変な魔法をかけられて、こんな姿になってはいるけどさ」


 レクス・スピリトゥスという部分だけ強調した少年は、胸を張り、背伸びをしてそう言う。


「でも、言っておくけど……」


 少年はそこで言葉を切ると、テミスの頭のてっぺんから足下までを舐めるように眺め下ろしてから、まるでいじめっ子のようにひねくれた、嘲笑の表情になって言う。


「どう見てもさあ、ボクより、お前の方がチビじゃん?」


「んなっ……!」


 蒼白になって絶句するテミス。それを見て大仰に両手を差し上げ、ニヤつく少年。

 そんな二人を見比べ、額に手を当てて「もう俺は知らんからな」と呟くマカベウス。

 身長のことはそれほど、テミスにとって触れられたくない禁句なのだ。


 次の瞬間、テミスの全身から、炎のように鮮烈な赤色をした魔力の奔流が噴出した。


 もはや、相手が単なる少年だろうが、精霊王レクス・スピリトゥスだろうが関係ない。身長に関する侮蔑を語る者は、誰であろうと彼女の敵である。


「あ、あたしのことをチビって言うなぁ! このドスケベ淫乱エロガキーーっ!」


「――ぬおおおッ?」


 ついでにセクハラ行為に対する仕返しも含めた、テミス渾身のキックが炸裂した瞬間、地底湖に盛大な水柱がそそり立ったのだった。

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少女と剣と裁きの女神 南風禽種 @nanpumuseum

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