最終話 敗戦

 コートを脱ぐ季節になり、Tシャツになり、またコートを着る季節になっても。

 なぜか、一切勝てなかった。それどころかまともにラップすらできなくなった。


 緊張しすぎてリズムキープができない。韻が浮かばない。韻ばかり言おうとしすぎて言いたいことを言えていない。言葉に文脈や説得力がない。まるで小説教室での創作の反省と同じだった。神経が高ぶりすぎて、泥酔しないと、ラップできない。他、色々あるが、最大の原因は別にあった。


 オレは毎日ラップの練習をしていた。

 千葉のM君と携帯電話を固定料金の通話し放題にして、ビート無しのアカペラで一日三十分から一時間程度セッションしている。リラックスしているときは、「船場商店街」から「喧嘩両成敗」で韻を踏んだり、「蕁麻疹」、「ビンラディン」、「殺人マシーン」でM君が踏み返してきたら、「言葉の伝統」、「夜中のテンション」、「図書館戦争」で踏んだりしていた。が、本番になると、オレはすべてが滅茶苦茶になる。

「お前は、そう、まるで中学生! 口臭い、お前、ち、チューがクセぇ!」と不器用に言って、バトル中なのに相手の失笑を買うという具合だった。スタイルを変えようと、冷静な言葉でラップしてもバイブスが伝わらず、言葉が上滑りして、自分というものがまったく見えてこない。一人も手が上がらない。五百円をドブに捨てている木曜日が続いた。


 夏になり、オレはM君と一緒に東京の代々木公園で開催されたビーボーイパーク2012というバトルイベントに参加した。


 またしても、マギー司郎のような格好をしたあまり強いとは言えないコスプレラッパー相手に、すっかり頭に血が上ってしまい、D戦で使っていた「フリースタイル、ユニクロのフリース買える」を使い回して言ってしまうばかりだった。それ以外はまともに声すら出ていない。自分自身と声が分離したみたいだった。ちなみにM君は三回戦まで勝ち上がった。


 大阪に帰ってから、M君と電話して、アドバイスをもらった。


 敗北を重ねる最大の原因である『オレの法則』に気付くのはこの時だ。

「CUBEさんってさ……いや、あの大会に出てたラッパーのほとんどに言えることなんだけどさ、マイクの持ち方できてないよね」

「ま、マイクの持ち方……? は?」

 オレは腰が抜けそうになった。

「そうだったのか……マイクって持ち方あるんだ……」

「いや、あるよ! 何言ってんだ。一人カラオケで練習して来いよ!」

 これが『オレの法則』である。

 それは、「最初の一回はなぜかうまくいくが、すぐその後に、基礎中の基礎の守らなければならないことを完全無視してしまい、しかも気づけない」というやや長いタイトルの法則だ。

 オレにはもう一つ問題があった。理屈でわかっていても実行しないというクセがあるのだ。マイクの持ち方を直そう。だが、いざステージに立つと、「うおおお前はバカ! クソ!」と叫ぶだけ。しかもマイクを口元に固定してないので、声を拾えず、オレが何を言っているのか誰もわからない。不器用でも理屈で考えたことを少しずつ実現するのではない。まったく実行しないのだ。だから次のバトルの時も、まったく同じことを繰り返してしまう。負けても成長しないのだ。


 オレは負けて強くなる奴らが心底羨ましかった。


 秋から冬にかけて、全国でも有名な大阪のバトルイベントである『イグジット』に二回出場した。エントリー料金は二千円。

 『イグジット』は心斎橋の中心地にあるクラブハウスで、隔月の第三土曜日に開催される。ソファでくつろぐスペースも整っている、わりと大きめの会場だ。「韻・サーチ・オブ」の何倍ものキャパシティがあった。

 脳を揺らす音響とフロアを彩る照明は、いつもの地下2階のクラブとは比較にならない。ステージ上には、決闘場の剣のごとく二本のマイクがスタンドに挿し込まれている。観客はだいたい百人で、しかもその百人は皆ヒップホップ好きの濃い面々ばかりだ。

 ラッパー達の似顔絵が描かれたトランプをピアスにしている女性。指の先までマイクの入れ墨をした怖い顔の兄ちゃん。トイレにいけば三つ編みをしたやつれた男が怪しい錠剤を飲んでいる。実際は風邪薬かもしれないが……。

 皆、拳と拳をかるく突き合わせたり、握手したり、ハグしたり、「ういーっす」「わっつぁ、あーい」「ぷおっぷおっぷおっ」とよくわからない体育会系挨拶を交している。酒と煙草にまみれた、かなりご機嫌な空気で、男がほとんどだった。「イグジット」のバトルトーナメント出場者数は三十六名。誰でもエントリーできるのだが、五百円のワンコインバトルとはまったく違う緊張感だ。


 オレの出番は一回戦の第四試合だった。バトルの相手はブカブカのズボンに白いTシャツ、綺麗なナイキのスニーカーを履いた今時古風なB-BOYだった。その名もA・メン・ボス。体格はオレより横幅が二倍くらいあり、ステージに上がった途端、シャツを脱いで上半身裸になった。巨大な身体に、火炎のような形をしたタトゥーが右肩から二の腕にかけて彫られており、観客が「おおおおっー!」と沸いた。司会者は「もう秋も終わりなのにこの格好!」と突っ込みをいれていた。

 それと同時に、「韻・サーチ・オブ」の時と同じく、「え、この人、ほんとにヒップホップなの?」と思える色白で眼鏡のオレこと事務員CUBEがステージに立って騒然となった。観客の空気がまだはじまったばかりで暖まっていなかったが、いったいどんな試合になるのか、会場は期待の視線を注いでいた。


 オレはステージに立って、フロアを見渡した瞬間、完全に戦闘スイッチが入ってしまった。相手がこっちを睨んで顔を近づけてきていた。メンチをきられたら、普通なら目をそらしたり、即行で家に帰って布団に潜り込むところだが、この時のオレはまったくひかずに、今この場で殺されてもかまわないと、本気で睨み返していた。

 クラブに行く前に、母に言われた「クレジットカードとか保険証は財布から抜いた? ちゃんと鍵を持って外に出なさいね。夜中に帰ってくるんでしょ。ドア、バタンって閉めたらだめよ。お父さん、目、覚ますから、玄関をそーっと静かにね」という注意も何もかも忘れて、文字通り身を捨てる覚悟だった。


 あまりに真剣だったので、少しだけ相手がひいた感じがあった。もしかしたらこの人、いい人なんじゃないか? とかオレは思っていた。DJがスクラッチ音を鳴らし、「レディーファイト!」と司会者二人が叫んだ。

 相手が先攻だった。正直、Dに比べて高度なラップではなかった。しかも、あまりにチョイスするワードが独特で、何を言っているのか、近くにいるのに聞こえない。

 わずかに、「お前普通の格好しているな! 何そのジャンパー、ユニクロだろ、このオタク眼鏡! おい、眼鏡、聞こえてるんか!」とディスが聞こえた。オレは『オレの法則』通り頭に血がのぼり、いつも練習していることなんてすっかり頭から無くなり、真っ白になってやり返した。

「オレはやってる文学ラッパー! お前より踏んだるやっぱ! お前とは格が違うんだ言葉のオーケストラ、お前はクソ野郎、ボケコラ! どけそこ、コラオラァ!」と力の限り叫んだ。相手も、「何だこの眼鏡! おい、おしっこ行ってこい! 家にかえって、オナニーしとけ、シコってこい! オタクだろ気持ち悪い、絶対マザコン、うんこ! 普通の格好でダサイ、クズ、オレの方がうえ! うえ! オレの方がうえ、おああああー!」

 オレも返していく。

「何もできないクズ、アホ! オレはやっていく! オレはやっていく! 少なくともお前より生きる! お前はとにかく! ……絶対にアホ!」と手をぶんぶん振り回しながら、喉がつぶれるぐらい声をだした。もちろんマイクは口元で固定していなかった。相手はどうしても勝ちたいらしく、オレがラップしている時、耳元で「あーあーあー、うんこうんこ! うんこ! あーうんこ!」と叫んで集中力を妨害してきた。大会史上空前のバカ試合になった。試合終了後、会場から拍手が起こった。何の拍手なのかよく分からなかった。


 判定は、「韻・サーチ・オブ」の時と同じく、観客の歓声や挙手の多さで決まる。オレに一人も声が上がらないと思いきや、半分くらいあがった。「え、オレに声あげるって、まじかよ」と、新鮮だった。ただ、相手が僅差で勝った。オレはうなだれてマイクスタンドにマイクを戻して、ステージから下りようとした。その前にふと対戦相手のA・メン・ボスを見ると、仏のような笑みで「ナイスファイッ」と言って握手を求めてきた。よく見ると入れ墨の部分以外、やや日焼けして、綺麗で丸い体をしていた。手と手を握り合った。勢い余ってオレたちはステージ上で抱き合った。笑いと拍手が起こった。彼は上半身裸のままフロアに下りていった。オレもステージから下りた。すると細い三つ編みを何本も垂らした髪型でガリガリの顎髭の男が近付いてきた。さっきトイレで薬を飲んでいた奴だ。何を言われるかと思いきや満面の笑みで、「ヤバかったっすよ」「え? え? あ、はい」とオレは返事して頭を下げるだけで精一杯だった。

 ヤバイ。

 それはオレが得られなかった最大の賛辞だった。負けてるし、同じこと繰り返してるし、成長してないし。でもヤバイ。これってなんだ。立てないくらい疲れた体に、スカイブルーやら淡麗生を流し込んで、神経を酔わせながらバトルの決勝までクラブの隅でたたずんでいた。


 二度目の「イグジット」のバトルの時も、相手はこの前よりもっと弱かったが、「こんな普通の格好、でもコトバを抜刀して切り裂く圧倒!」は言えたが、それ以降、「うおおお横取り四十万!」とかよくわからないことを叫んで負けた。そして司会者に、ステージ上で、「キミ、マイクの持ち方からやね。声はね、まっすぐしか行きません。マイクを口の前に持ちましょう」と観客の前で説教された。

 やくざに五千万借金して半分まで返済したというこの司会者からの言葉はなんだか優しかった。もう一人のいかつい司会者は「なんか選挙演説みたいやったな」と笑っていた。

 だが、オレの心の中では、「これ、何回目のアドバイスなんだよ! 何度みんなに同じ助言されたらいいんだよ! ラップも小説も!」とバカバカしくなってやってられない気分だった。ラップができないとか、思い通りになるならないの次元じゃなくて、なんでそれ以前の問題をこなせないんだ。オレはビールを一気飲みして、また胃酸が込み上げた。

 家に帰ろうとして、クラブハウスの階段を上がって外に出た。アルコールの取りすぎで、喉が渇いて仕方ない。頭が熱っぽくて、冷たい風が心地よかった。白い息を吐きながら、缶コーヒーを買った。

 自動販売機の前で「あー、さっきの」と言って話しかけてきた青年がいた。群馬県から大阪に引っ越してきたばかりのスケボー青年で、オレと同い年だった。

「小説書いてるんですね。ラッパーじゃないのに、舞台に上がるってすごいですよ」

「いやぁ……小説もラップもなかなかうまくいかないもんすね……」

「僕、スタジオ借りて友達とラップしてるんですよ。良かったら来て下さいよ。ぜんぜん僕、うまくないけれど、でもラップすることで自分のもやもやをはらすというか」

「あるある、ラップで仲直りとか、ストレス解消とか。オレ、携帯ラップ仲間が千葉にいるんすけど、ラップやりあうことでほんと癒されてるというか」とか話し合った。

 三十分ほどで、話題が一巡した。ほとんど空になった缶は持てないくらい冷たくなっていた。

「小説書いてるんですね」

「うん」

「試合、何を言ってるかわからなかったけれど、僕と同じような感じというか、ラッパーっぽくない人が……ステージに立とうとすること、いいと思う。僕はあなたのほうに手を上げたよ。意味不明だったけど、何かを言おうとしていた」

 夜中、寒空の下、この青年と二人で缶コーヒーを飲みながら思った。彼の感想は、オレが小説を書いていて、普段から小説学校で言われているオレの小説に対する評価と同じだと。どこまでもオレは同じなんだと。俯いて苦笑した。

「でも……意味不明じゃダメだなぁ。手をあげてくれて嬉しいけれど。本当に言いたいことばかりにとらわれて、本当に言いたいことが言えてない……できてない。やっぱ、うまいこと言うテクニックを鍛えるしか、ないのかなぁ……んなこと言いつつも、まずはまともにマイクが持てないと」とオレは缶コーヒーに残っていた最後の一滴を飲み干した。

 群馬県からの青年と再会を誓い、帰り道。玄関をそーっと開けて閉めなきゃいけないことを思い出しながら、自転車をこいだ。

 結局、Dとの最初のバトルでの勝利を最後に、今もまだ一勝もできていない。成長しない『法則』を持つオレ。どう生きたら良いだろう。でも、成長しないから好きなことをやめなければいけない? そんなことは無いだろう。

 はじめて会った相手や見知らぬ人に、ステージ上で悪口を言い続けて、ヤバイとは何かを掴もうとして、結局一年ダメだった。ラップができなくてもいいから、マイクを口元で固定する練習をしよう。でも結局できないから、とことんそのままでいようというのも、良いかもしれない。そもそも成長なんて、誰が決めるんだ。勝って勝って勝ち続けるのみというお気に入りの曲を聴きながら、負けて負けて、でも平然としている。その方が、ヤバイだろと、自転車をこぎながら携帯電話でM君に伝えたら、「勝つ負けるにこだわるカスは蹴るのみ」とアンサー。「奴らにくらわす背面キック。顔突っ込ますぜ大便器。これが一年の敗戦記」とオレも応えた。

「踏めてるじゃねーか。自転車に乗りながらできるのに、それ本番でどうしてできないかなー」とM君が悔しそうに笑ってくれた。

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敗戦記 猿川西瓜 @cube3d

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