敗戦記

猿川西瓜

第1話 戦勝

 会社の飲み会から一旦家に帰って、「よし!」と決心し、ICレコーダーを引き出しから取り出した。出かけようとするオレに母から強盗や誘拐の心配をされたが、コートとスーツを着たまま、自転車を必死にこいだ。予想以上に寒く、マフラーと手袋をすれば良かったと思った。


 二〇一一年十一月、場所はミナミの繁華街を少し外れたところのラブホ街。

 三階にある自称合法ハーブを売る店の看板が目印だ。

 明かり一つない真っ暗なビルの地下2階にあるクラブで、毎月最終木曜日の深夜、「韻・サーチ・オブ」というイベントが開催されていた。


 クラブといっても、二十人くらいで満員になる小さな場所だ。申し訳程度に中央に飾られた小さなミラーボールが煙草のケムリにまみれて虚ろな光を放っていた。光は、小さなステージの天井に飾られた赤、青、黄色の風船と、韻を踏むことばかり考えているラッパー達を照らしていた。


 勝って勝って勝ち続ける。消えていった奴ら、いなくなった奴らの分も、俺は戦い続ける。負けて倒れたとしても、這いつくばって、ほふく前進で進み続ける。あきらめなければ夢はかなう。頑張っていればいつかわかる。俺やお前が、「やっぱりこの道を進むのをやめておく」と言ってしまうのを、心待ちにしている悪魔。倒してやるぜ、今は泣くな。


 日本語ラップの曲には、真の敵は「自分自身」だという内容がよくある。「なんとしても自分に勝とうぜ。世間の奴らを見返そうぜ」というメッセージが強く前面に出てくることが、割と多い傾向にある。もともと「駄洒落でしょ?」「ただの語呂合わせ」「洋楽のラップは聴くんだけどね」と虐げられてきたジャンルだからか。「日本語ラップって存在そのものが笑える。アメリカのヒップホップのまがいもんじゃないか。そんな馬鹿な音楽で食っていく夢物語はやめようよと言ってくる世間」と向き合うリリックはいつも戦闘的だ。ジャズ、クラシック、演歌、ポップ、そして海外のヒップホップに比べて、日本語ラップは「日本語ラップというジャンルそのものを応援する。そしてそれをあえて選んで活動している自分自身を盛り上げる歌」が出てくることがある。オレはそんな日本語ラップが中学の頃から大好きだ。音に乗せてより多く巧みに韻を踏んでメッセージを伝える音楽は、なんて「新しい」のだろうとオレは思った。


 男友達に日本語ラップの魅力を伝えてもまったく理解されなかった。趣味も会話もまったく噛み合わない中、必死にオレがラップの魅力をしゃべると男子達は皆、しーん……となった。女子とは、会話どころではない。

 体育の時間に開催されたクラス対抗ドッチボール大会で、オレがボールを持ったら応援していた女子が静まりかえって運動場の風の音まで聞こえた。日本語ラップとは、そういうしーんとされる人間のためにあるものだ、と勝手に解釈していた。


 オレは、人とは違う新しい場所が欲しかった。そして日本語ラップというジャンルは、一番落ち着ける居場所だった。韻を生み出していくため、新しい言葉の流れを、友達と馴れ合わずに孤独に考えて前へと進んでいくということは、オレの性格にとても合致していた。

 高校でも教室で一人、三年間小説ばかり読んでいて、やがて小説家志望になった時も、いつも側に日本語ラップがあった。韻を踏むことも、小説を書くことも、孤独な作業だった。たった一人で言葉と向き合うことだった。ラップを聴いたり実際にやってみたりすることと、小説を読んだり書いたりすることは、俺にとっては同じことだった。


 だが、現在、三十路の小説家志望であるオレの生き方が、日本語ラップで歌われるリリックの通りだったことなんてほとんどない。オレの毎日は、ほふくはしているが、前進はしていない日々だった。小説をいくら書いても、通っている小説教室の仲間に「わからない」と言われる。好きなラップに慰められはするけれど、進歩しないで、自分に勝てず、いつも締め切りぎりぎりに未完のまま作品を出すサボり癖のあるオレが、こんな「自分に勝て」と連呼し続ける曲を聴いていて良いのだろうか。


 小説を書くことに疲れたオレは、即興でラップして勝負するMCバトルに夢中になった。お堅い仕事の後、家に帰ればDVDやユーチューブでバトルの映像ばかり見ていた。頭の中で、即興で韻を作り出して、音楽のリズムに乗せながら相手に応える形でアンサーを返すゲームが、仕事を終えては鬱々とした小説を書く日々より全然楽しくて仕方がなかった。


 バトルのルールは、ステージに二人のラッパーが上がり、五百円をステージ上のテーブルに置いて、韻を踏みながらビートに乗せて口喧嘩して、勝った方が相手の五百円をいただくというものだ。主催者でDJ兼司会の松風という男が、「二人のうちどちらがヤバイか」を観客に問いかけ、挙手の数で勝敗を決定するワンコインバトルイベントだ。

 この判定基準の「ヤバイかどうか」。とても曖昧だ。「好きな方」でもないし、「上手な方」でもない。「ただ格好いい方」でもない。ヤバイって何? 日本語ラップを聴きはじめた頃はわからなかったが、今なら理解できる。自分の「今」をわかっている言葉を持っていて、それを的確に表現している奴のことだ。理屈を超えて、「こいつのことがわかった」と思える方に、観客は手を上げるのだ。どれだけうまくラップしても、自分のやりたいことを自分でわかっていない奴は必ず負けた。


 ステージでは、関西のMCバトルの決勝大会に毎年出場する猛者中の猛者ラッパーDが、圧倒的な強さで四連勝していた。

 この「韻・サーチ・オブ」のルールでは、五連勝すると松風から賞金三千円をポケットマネーで渡される。たいていは、Dが「テキーラをみんなに。乾杯しよう」とマスターに言って三千円を即支払い、小さなグラスに注いだ透明な液体を皆で一気に飲むのだ。


 オレはこの日、ぼろぼろに酔っていた。飲み会の帰りで、スーツとコートを着たままだった。社会福祉のビルの地下で事務職の日々を過ごすことと、小説教室で作品を酷評される日々と、人生がいつの間にこんな風に繰り返されているのかわからないままの自分に対して、ヤケ酒していた。

 だからこそ、このアンダーグラウンドに酔いの勢いで来ることができた。クラブに入って、五百円でまずビールを飲んだ。ゲップすると胃酸の味が口内に広がって唾がたくさん出た。


 クラブ内で聞き覚えのある日本語ラップが流れた。顎までコートのチャックをあげて、フードをかぶって音楽に合わせて首を揺らした。中学の頃から着ている、オレの体臭やら大阪の匂いが染みついた黒のコート。


 「誰か挑戦者はいないのかー」と松風がわめいていた。Dの四連勝が決まったとき、オレはフードをとって、チャックを少し下げ、暖房で暑かったがコートのままステージにあがった。


 足が震えていた。


 「えっ、おっ……」と松風が言って、「むむっ」と嬉しそうにDが唸った。会場もどよめいた。クラブに入った時、気軽に話しかけてきてくれたDや他の七、八人の観客に「オレは趣味で小説書いています。名前はCUBEっていいます」と自己紹介していた。

「肌白いね、きみ」

「あ、よく言われます」

「おぼっちゃんぽいね」

「それもよく言われます」

 とか会話していたが、まさかこいつはステージに上がるまい、見学だろうと見られているのは間違いなかった。

「ラップなんてできるのか?」と思われていただろう。

 というか、相手はD。昼ご飯にビッグマック二十一個食べて「今日なんか調子悪いな」と言ったというエピソードを持つ化け物に、ごわごわでつんつるてんの臭いコートを着た、目が優しい(と、観客の一人に言われた)色白事務員に勝ち目があるのか。


 相手はラップの経験も、バイブス(力強さ)も桁違いのヤバイB-BOYだ。対するは自称小説家志望。すでに観ている人には半笑いが浮かんでいた。

 松風によるビート紹介が行われた後、ルール説明。勝負はまず先攻後攻をじゃんけんで決めて、ラップを八小節ずつ交代で二回繰り返す。

 ステージにあがったオレに「えーと、お名前はなんですか」と松風が聞いた。

 オレは緊張した声で「……CUBE。CUBEという名前です。仕事帰りです」

 自分の名前にしている「CUBE」とは、オレが通っている小説教室に最初に提出した作品のタイトルだった。「途中で読むのをやめた」「最近の若者の軽薄な文章」とボロッカスに酷評された思い出の作品だ。その悔しさを忘れないよう、あえて自分の名前にしていた。


「ネクタイどこやったんですか」

 松風がオレの緊張をほぐすように質問してきた。飲み会の時、ネクタイはカバンの中にしまっていた。

「ネクタイ。カバンの中です」

「カバンの中ー! いえーい!」

 松風が客を笑わせた。

「では先攻がDさんで、後攻がCUBEさんで……いきましょうか……木曜日、調子はどうだー!」

 観客が声をあげる。

「Dに五連勝を許していいのかー!」

 松風が煽り続ける。

「レディーファイト!」



 音楽が流れ出し、Dがラップをはじめた。オレより頭一つ分背が高く、筋骨隆々だ。体格差からして圧倒される。

「ビートがドープ、その前にMCがドープ、間違いないこの現場、お前にプレゼントフォーユー」と、軽快に韻を踏んでいく。そして、僕のほうをちらりと見て「その前に、お前もう臨戦体勢入りすぎやで、まだお前の番ちゃう」と言って、観客を笑わせた。彼が「臨戦態勢入りすぎや」と言ったのは、オレがあまりの緊張と、マイクを持ち慣れてないため、ずっと彼がラップしている間も口元にマイクを近づけて持ち続けていたからだ。素人丸出しだった。

 それから「四小節ある、待ったるわ、あと三小節、そしてあと極めていく二小節、一小節、次のバースお前のかます番、はい」とわざわざカウントしながらラップしてきた。その親切心のようなものに逆に腹が立ち、オレも反撃に出た。

 Dの八小節が終わり、間髪を容れずそのままオレの番となる。「はい、はじめてのバトルありがと、ほんまに臨戦体勢、真剣な姿勢」と返していく。相手のキーワードを拾って、意味を込めて返すと効果がある。「フリースタイル、おまえせいぜいユニクロのフリース買える程度のもんだろ!」と最後に叫ぶと、観客の驚いた顔がちょっとだけ目に入って、なんとか対抗できていると思えた。

 オレの人生初の八小節を受けて、Dの番。考える暇なんてない。考えながらラップするのだ。途中で曲を止めたりしない。MCバトルの名試合は、そのまま曲として販売できるくらいのものになる。

「Yo、なんか言ってることわからんけどお前臨戦態勢、はっきり言ってマイクを肌につけてる人間だっせ、みたいな感じ」とDもキーワードを韻で返してきた。「はっきり言ってお前の声量、全然通らへん、みんなに何言ってるか全然わからへん、わかりますか」とオレを攻めてくる。だが、オレの声は響いているはずで、首をかしげた。ここでDはマイクを外して生の声でラップをはじめる。沸く会場内。女性客の「やばい、やばーい」という声が聞こえた。「オレははっきり言ってマイクなんかいらん、マイク使わんでも、Say Ho! 言える、俺こそがいただく勝利!」とリズムに乗せて宣言した。

 オレもアンサーを返すためマイクを持たず、自分の声でやった。会場は、予想外だったらしく、「おおっ?」と沸いた。とにかくオレは韻を踏むことに集中しながら、あるだけの声量で対抗した。

「Say Ho! 正攻法で整理整頓をしていく。この検討をやっていく。そう、五百円以上のもんがあんだろ! ってもんがここにある。この実力差ひっくりかえすヒップホップが! キックバースする四苦八苦する。行くはず、肉薄……!」と、踏み続け、最後はへとへとになってDに体がもたれかかりそうになった。


「しゅーりょー! いえー! とりあえず、外しましょうか、外しましょうか」


 外しましょうかと言いながら松風がオレの肩を抱いた。オレがあまりに必死にラップしたので、暴れるかと思われたらしく、落ち着いて冷静に、という意味だった。観客にどちらがヤバイかを問う判定タイムとなった。

「ではDが勝ったと思う人ー……お、おおおええ?」

 誰も手を上げなかった。

「で、ではCUBEが勝ったと思う人ー。いええええ、勝者、CUUUUUBBEEE!」

 あまりの疲労と羞恥心で手を上げる観客を見ることすらできなかった。ただ、試合中にDが「マイクを使わずに声量でラップできる」とやったので、オレもマイクを口元からはずして、声量で勝負した。結構声が通る方なので、Dの「お前の声量、全然通らへん」は指摘として間違っていて、そこが勝因に繋がったかも知れなかった。とにかくまさかの勝利だった。

 正直、Dは手加減を気付かれないようにしていたかもしれない。小節数までカウントしてくれていたし。それともう一つ勝因があった。オレはリズムに乗せてラップをしていたが、Dはリズムを破るような形でラップしていたからだ。

 勝った瞬間、オレはズボンのお尻のポケットに忍ばせたICレコーダーが、ちゃんと録音できているかどうか考えていた。そしてこの勝利の部分を編集して、毎日一緒にラップのセッションをしている千葉の友達M君や両親や小説教室のみんなに聴かせようと思って、ニヤニヤしていた。

 続けて二戦目のバトルでは、五百円をテーブルに置いて再びDが挑んできた。オレは頭の回転が止まり、同じ言葉ばかり繰り返して焦ってしまい、リズムも崩れ朗読のようになり、パーフェクトで負けた。


 その後、一年間、オレはラップバトルで負け続けた。

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