【陰】愛逢月(めであいづき):七月の別称


 母さん。

 母さん。

 どこに行くの?


 心の中で聞くけれど、いつも、答えてくれない。きっと口に出したって、答えてなんかくれないと思う。

 夜にぼくをお外へつれていく時の母さんは、昼間お日様の下でみんなと一緒に見るのとは違う、凄く怖い顔をして、ぼくのことなんか全然見ずに、どこかを目指してまっすぐ歩いてく。


 母さんは、いつもぼくの右手首を握る。てのひらじゃなくて、手首をつかむ。他の子がそうして歩いているのを見るのは、その子が悪いことをして怒られているときだけなのに。母さんの手はいつだって、ぼくの掌を包んでくれない。

 ぼくの手は宙ぶらりんで、指に風の粒が当たる。だから冬は、おうちに帰るまでに手がすごく冷たくなってしまう。

 でも今は夏だから、だいじょうぶ。昼間よりちょっと冷たくなった風が、指の間をするっと抜けていくだけ。

 だから歩くのが終わっても、指がごわごわして痛くなったりしないってことを、ぼくは知っている。


 母さんの手が、指が、ぐるっと一周してもまだ余ってしまうほど細いぼくの手首を、しっかり捕らえてずんずん歩く。ぼくは大股で歩く母さんに引きずられずにいるのが精一杯で、ほとんど何も言えず、ついていく。

 歩いて歩いて、たまに転びそうになると慌ててもう一方の足を出して、それでも間に合わなくなるから、地面に引っかかった足をもう一回前に突き出して、力いっぱい蹴り出して、そうして、必死についていく。


 ぼくの手を握る母さんの力は、強い。指が食い込んで、とても痛い。でもぼくは、何もいえない。

 ぼくは運動が苦手だから、大人にあわせて歩くとつらい。胸の奥がぜいぜいいって、息がとっても苦しい。

 でもぼくは、何もいえない。言葉なんて、出ない。息をするのがやっとだから。どんどん歩いていく母さんはとても速くて、ぼくは保育園の運動会よりずっと疲れてしまう。


 こっちを向いてくれない母さんの顔はとても暗くて、おばけやしきに行った時よりずっと怖いなと思ってしまう。でもぼくは、母さんが止まるまで、つかんだ手首を放してくれるまで、振り返っていいよっていうまで、黙ってついていく。


 母さんはぼくを、いろんなところに引っぱっていく。昼に工事をしているビルの下だったり、皆が使える広場みたいになっているところだったり、あんまり遊ばない公園だったり、人がなかなか来ない駅の裏側だったり、草がいっぱいの大きな川だったりする。

 決まっているのは夜ってことだけで、場所はあんまり関係ないみたいだ、とぼくは知っている。あんまり人がいなくて、あんまりぼくの家から近くなければいいみたい。

 でも全然知らないところには連れていかれない。だってこれからするのは、ゲームだから。タノシイタノシイ、ゲームだから。

 ぼくが知らないところだと、ゲームにならない。


 今日の終点は、隣の町にある公園だった。昼間に一回か二回、来たことがあるところ。

 公園には滑り台とブランコと、お砂場しかなくて、誰もいない。きっと誰もいない、から合格だったんだと思う。


 母さんの手が、ぼくから離れた。ぼくの、赤くなった手首から。そうして母さんは、いつもみたいに、ぼくの前にしゃがむ。ぼくの目の前に、母さんの目が来て、ぼくはちょっと安心する。

 歩いてるときの怖い顔じゃなくて、昼間の優しい顔に戻って、母さんはぼくの名前を呼ぶ。


「コウちゃん、じゃあ、今日もゲームしよう」


 ぼくは、うなずく。走って滑り台の棒のところまでいって、振り返る。母さんが、嬉しそうにうなずいて、ぼくもちょっと嬉しくなる。


「目をつぶって、千数えるのよ。そしたら、おうちを探して帰って来るの」


 ぼくは言われたとおりに、数をかぞえる。ちゃんと目を閉じて、滑り台の棒に顔を押し付けているから、何もみえない。

 真っ暗だ。真っ暗の中に、ぼくの声が聞こえる。


「いーち、にーい、さーん」


一から千まで数えられる子は、保育園の中でぼくしかいない。母さんが教えてくれたから、数えられる。


「じゅーいち、じゅーに、じゅーさん」


 なんどもなんども繰り返し、教えてくれたから、数えられる。


「ごじゅに、ごじゅさん、ごじゅよん」


 百の次は二百。二百の次は三百。いっぱい数えて、喉がからからしてきたけど我慢して、その先もぜんぶ数える。


「さんびゃくよんじゅうはち、さんびゃくよんじゅうきゅう、さんびゃくごじゅう」


 あんまり早く数えちゃだめ。あんまり早く帰っちゃだめ。

 ぼくはそれを、知っている。

 冬、あんまりにも寒くて寒くて、我慢できなくて、頑張って早口で数えて、いそいで帰ったことがあった。そうしたら母さんは、ズルしたでしょう、って怒った。ぼくを連れていく時より、ずっと怖い顔で、すごく叱って、どなって、ドアを閉めた。

 バンって大きい音がして、その音もすごく怖かったけど、母さんはもうぼくを入れてくれないんじゃないかと思って、それが一番怖かった。だから母さんに聞こえるように、もう一回、ドアの前で数えた。いーち、にーい、さーん。


 その時は、五十くらいまで数えたら入れてくれた。でもやっぱり怖い顔をしてて、ご近所に迷惑でしょう、ってにらまれたから、次からは、あんまり早く数えるのはやめよう、ってぼくは思った。


「ろっぴゃくじゅうさん、ろっぴゃくじゅうよん、ろっぴゃくじゅうご」


 じゃあ遅く帰ったらいいのかな、って思ったけど、それも違った。

 その日は春で、あんまり暑くも寒くもなかった。千回数えて振り返ったら、真っ暗な中でひらひらしている桜の花びらが凄くきれいだったから、それが落ちるのを見ながら、千をもういっかい数えてみた。

 そうしたら、おうちのドアに鍵がかかってた。ドンドン叩いても、母さんは出てきてくれなかった。ドアにぴったり耳をつけてみると、声だけじゃなくて、何の音もしなかった。

 なんでだろうって、不思議だった。ぼくはちゃんと、千を数えたのに。二回も数えたのに。

 手が痛くなるまでドアを叩いて、母さんを大声で呼んだら、ぱちっと小さな音がして、玄関が明るくなった。そうして出てきた母さんは、やっぱり凄く怒っていた。

 いったい、何時だと思ってるの、もうとっくに寝てたのに。

 ひらひらしたパジャマの前を押さえながら怒る母さんは、とても怖くて、ぼくはゴメンなさいを言いながら、遅くなりすぎてもダメなんだなって、思った。


「きゅうひゃくきゅう、きゅうひゃくじゅう、きゅうひゃくじゅういち」


 それ以外にも、いっぱいダメなことはあった。

 ゲームをしてることを誰かに教えちゃダメ。

 迷子になったって言えば、道をきくのはいいけれど、つれてきてもらったらダメ。

 おまわりさんは、話しかけるだけでダメ。

 人のいっぱい居る道を通っちゃダメ。

 でも、怪我をするようなところを歩くのもダメ。

 動物に触っちゃダメ。

 泣いちゃダメ。


 いいのは、誰にも話しかけないで、忍者みたいにおうちとおうちの間にある細い道をいっぱい通って、早すぎず、遅すぎず、ぼくが元気で帰ること。

 ぼくが怪我をすると、母さんが他の大人の人に怒られるんだって。そんなのは、イヤだ。だからぼくはいつも、ダメな方法じゃないか気をつけて、いっぱい考えながら帰る。


「きゅうひゃくきゅうじゅうはち、きゅうひゃくきゅうじゅうきゅう、せーん」


 最後まで数え終わって、ぼくは振り向く。その先に、母さんはもういない。

 きっと、ぼくが数え始めたところで走って帰ったんだと思う。前に、なんでそんなに急いで帰るのって聞いたら、母さんはとっても忙しいからよ、って言ってたから、たぶん合ってる。

 ちょっと疲れたな、と思って、滑り台の棒によりかかって、近くにある時計を探した。ぐるぐるまわる針のじゃなくて、数字が書いてあるやつ。

 針の時計は、二って書いてあるのに十だったりして、むずかしい。ぼくはあの時計をどうやって見たらいいのか、まだよく分からない。

 顔を動かして探したら、前の道のところに立ってる棒に、大きく数字が書いてあった。数字と数字の間に点々がついてるから、きっとあれは時計だ。走って行って、数字を読んだ。

 20:52

 にじゅう?

 点々で分けられている二つのうち、お茶碗を持つ手の方の数字が、よくわからない。時計の数字は、十二までじゃないの?

 時計を読むのに失敗して、ちょっとがっかりしたけど、でもまだ大丈夫、と思った。怒られない時に入る方法は、まだ他にある。それには、先ずおうちに帰らなくちゃ。

 あっちとこっちを見て、うしろも見る。来たことがある公園だと思ったけど、暗いからよく分からない。

 どこをどうやって行ったら帰れるのか、自信がない。昼の感じと夜の感じは、結構違う。

 だから、母さんに手を引かれてきた感じを思い出そうと思った。ええと、ええと、こっちかな? 

 ドキドキしながら、ぼくは覚えている感じの道に足を踏み出す。きっと、あってる。たぶん、あってる。だいじょうぶ。だいじょうぶ。

 同じ言葉をなんかいも、繰り返しつぶやいてみると、ちょっと勇気がわいてくる。

 だいじょうぶは、ぼくが今、一番お気に入りの魔法の言葉。怖いドキドキがちょっとだけ治まる、すごくステキなおまじない。


 おうちに、ついた。ちょっと迷って、戻ったりしたから、とっても疲れた。

 早くおうちに入りたいけど、怒られるのがいやだから、そっとドアに近づいて、そこに耳をつけてみる。

 これが、ぼくが見つけた、怒られないための方法。母さんじゃない声、男の人の声が聞こえたら、まだ入っちゃダメな合図。

 自分の息をしずかにして、ドアの向こうに耳をすます。誰かいるかな、もういないかな。

 もしいたら、ぼくはその人が帰るまで、近くの草がいっぱい生えてるところに隠れていなくちゃいけない。母さんにみつかったら、多分すごく怒られるって、知っている。

 そういう時は、寒くてもやっぱり冬が良かった。夏は蚊がいっぱいいて、刺されるととてもカユイのだ。

 ドアに耳をつけてから、心の中で、五十数えた。部屋の中は静かで、誰の声も聞こえなかった。

 もしかしてもう寝てるのかな、って、ちょっと胸がざわっとした。でも、そんなに遅い時間じゃないみたいだった。お隣の電気が、まだついてる。


「母さん、母さん開けて。ただいま、ぼくだよ」


 大きい音になりすぎないように気をつけて、ドアを叩く。五回目くらいで、玄関に電気がついた。


「お帰りコウちゃん」


 良かった、今日の母さんは笑顔だ。

 ドアの向こうに立っていた母さんは、お風呂に入ったばかりみたいで、石けんのいいにおいがする。ぼくもちょっと、いい気持ちになる。


「ゲーム、楽しかった?」

「うん、楽しかったよ」


 母さんがニコニコ顔で迎えてくれるから、このゲームはいつだって楽しい。絵本でゆうしゃがやってる冒険みたいだ。

 がんばって、最後にもらえる宝物は、母さんのあったかい笑顔。


「そう、良かった。じゃあ、明日もしましょうね」

「うん」


 元気良くうなずいて、ぼくはおうちに入る。お風呂に入れてもらって、上がったらジュースを飲んで、歯磨きして、母さんと一緒に寝る。

 ぼくのおうちはベッドが一個しかないけど、母さんのベッドは、とっても大きいから平気だ。寝相の悪いぼくでも、朝まで毛布をかぶってぐっすり眠れる。

 大人の人二人だって一緒に寝れるんだよ、って母さんは前にお話してくれた。そんな魔法のベッドがあるなんて、人に言ったら盗られちゃうかも知れないから秘密、とも言ってた。

 だからぼくは、母さんとするゲームのことも、ウチのベッドのことも、ぼくがいない間に誰か男の人がおうちにいることも、誰にも言わずにナイショにしている。

 同じ保育園に通ってる、まなちゃんにも。保育園で一番やさしい、さちこ先生にも言って無い。

 母さんとぼくだけの、秘密の約束。


 夜になると母さんは、ぼくをゲームに連れていく。前は何日かに一回だったけど、今は毎日。それはたぶん、男の人が毎日ぼくのおうちに来てるってことなんだ。

 知ってるけど、言わない。知ってるけど、言えない。だって夜の母さんは、本当に怖い顔をしているのだ。

 前よりずっと怖くて、前よりずっと力が強くなったような感じがする。前よりずっと遠くへ連れて行かれるようになったのも、そのせいなのかな。そうなの、母さん?

 母さんは見上げるぼくなんかに気付かないで、ぼくの腕を引っ張っていく。毎日毎日、引っ張っていく。遠くまで、引っ張っていく。


 だから右手がぐるっと赤くなってしまって、それが寝ても取れなくなってしまって、保育園の先生とかにいろいろ聞かれるようになった。

 これ、どうしたの? アザになってるじゃない。痛い? 大丈夫? お母さんに優しくしてもらってる?

 へんなの。母さんは、優しいにきまってるのに。

 ぼくは皆が心配そうな顔をするのがよくわからなくて、説明しようとしたけれど、ゲームは母さんとぼくの秘密だから、違うよってわかってもらうのが大変だった。

 これはね、ぶつけたの。ぼく、寝相が悪いから。

 でも、ぶつけたくらいじゃ、そんなふうにならないのよって言われて、ぼくは困ってしまった。ぼくの言ってること、信じてもらえないみたい。


 おうちに帰ってから母さんにそれを言ったら、昼なのに怖い顔になった。保育園の先生に言われたことは、ダメなことだったみたいだ。

 ゲームのこと言ったの? って怒る時みたいな声で言うから、あわてて首を横に振った。

 ぶつけた、って言ったの。でも、信じてもらえなかったの。

 母さんはそう、って息を吐いて、台所の方へ行ってしまった。

 ジャーって水の流れる音と、母さんの声。誰かとお電話してるのかな。今日のご飯はなんだろう、ハンバーグがいいな、と思いながら、右腕を見た。

 前は、お風呂に入って寝れば取れたのに。イヤだな、と思ってこすっても、赤くて黒いのはとれない。

 いっぱいこすったら、もっと赤いのがひどくなって、慌てたぼくは、こするのをやめた。また先生に聞かれたら困る。

 しらないうちに消えないかな、と思って右腕をじっと見てたら、母さんが戻ってきた。


「出かけるわよ」


 ゲームをする時と、同じ顔だった。


「どこに?」

「ゲームしにいくのよ」

「まだ、ご飯食べて無いよ?」

「そうね」

「おなか空いちゃうよ」


 母さんはいつもみたいに、ぼくの右腕を握った。手首の、一番細くなってるところ。今は赤く黒くなってるところ。だから、右手の先は宙ぶらりん。


「いいから、来なさい」


 そうしてぼくは、母さんが大事にしてる車に乗った。真っ赤でピカピカの車。ゲームに行くときはいっつも歩いて行くのに、今日は車なんて、ちょっと凄い。

 ゲームに行く時に右腕をつかまれないのも、ちょっと嬉しい。だって今より赤くなったら明日また困るし、ぼくの座っているのは母さんの隣なのだ。


 母さんは怖い顔で、前を見ている。いつものゲームの時の顔だ、と思う。だけど赤い夕日に照らされた顔は、いつもの夜の明かりの下より明るく見える。

 何か楽しいことがあったのかな、と思う。聞いてもいいかな。ちょっと迷った。

 顔はやっぱり怖いけど、腕をつかまれて歩いてるんじゃないから痛くない。息も、苦しくない。だからぼくは、喋れる。でも、聞かなかった。

 前とか横とかに、かっこいい車がいっぱい通り過ぎていくのを見るのに、いそがしかった。とてもいそがしかった。


 信号がある道路だと、みんなあんまり速くないけど、信号が無いまっすぐの道路では、どの車もびゅんびゅん走る。それを発見して、ぼくはすごいぞ、と思った。明日、保育園で教えてあげよう。

 母さんの車も、信号の無い道路では速かった。スピードの数字が百四十になっている。いつもは四十とか五十なのに。そんな大きな数字、みたことない。

 母さんの車は、いろんな車を追いこして、びゅんびゅん走る。ビルとかおうちとかの代わりに、緑がいっぱいの山が見えるようになって、それでも母さんはスピードの数字を小さくしたくないみたいだった。


 道路の両方に山がにょきにょきし始めた頃から、太陽がいなくなって、空が赤から紫になって、最後には黒になった。お星様とお月様がキラキラしていて、とっても綺麗だけど。

 暗い中で見ると、山はちょっと怖かった。明かりが全然ついていないからかな。怪獣みたいにみえた。

 母さんは、怖くないみたいだった。他の車の人も一緒。怪獣と怪獣にはさまれた道を、真っ直ぐ向いてずんずん走っていく。


「おりるわ」


 久しぶりに喋った母さんの声は、冷たかった。おりる、って車からかな、と思ったけどそうじゃなくて、信号の無い道を走るのをやめる、ってことだったみたい。

 グルグル回る道路を下りて着いた道にも、信号があんまり無かった。それに、ぼくらの他に誰かいるのかな、って心配になるくらい、何もなかった。

 車も無かったし、明かりも無かった。母さんの車は怪獣みたいな山の方に、車を向けた。


「怖いよ、母さん」


 母さんは、何も言わない。


「おなか空いたよ」


 何も答えてくれない。

 そうして真っ直ぐ走って走って、ガタガタ道になってもまだ走って、草が切れてザクザクいう音が聞こえてもまだ走った。

 あんまり車が揺れるから、ぼくはお尻が痛くなった。母さんは痛くないのかな、って心配になったけど、怖くて聞けない。

 きっと聞いても、答えてくれないんだろう、と思う。さっきも、全然答えてくれなかったし。


 車がやっと止まったのは、草がぼうぼうの森の中。母さんがさっさとドアを開けて出て行ってしまうから、ぼくも急いでシートベルトを外して、外に出た。

 ざくっ。

 背の高い草に、胸まで埋まった。お月様とお星様が空でキラキラ光ってるはずなのに、下を見ても、地面が見えない。

 ぼくの足も見えない。

 腰も見えない。

 怖い。


「母さん」


 怖いよ、って言おうとしたけど、見上げた母さんの顔の方が怖かった。母さんは、助けてほしくて差し出したぼくの手をつかんだ。

 赤く黒くなった右手首。そのままずんずん、行こうとする。いつもみたいに。

 ゲームを始めるときみたいに。ここで、ゲームするの?

 ここはどこなの、母さん。ここ、ぼく知らないよ? ここから始めたら、帰れないよ!


「母さんっ!」


 叫んだ。力いっぱい。

 母さんはびくっとして、ぼくを見た。暗くてよく分からなかったけど、お昼間の顔にちょっと似てた。そんな感じがした。

 ほんの、少しの間だけ。


「来なさい」


 冷たく言った母さんは、やっぱり夜にぼくを連れていくときの顔で。


「ゲームよ」


 そうしてぼくは、引っ張られる。いつもみたいに、手首を引っ張られる。

 大人の力で、無理矢理に歩かされる。わがままを言って、叱られてる子みたいに。


 母さん。

 母さん。

 どこに行くの?


 今日は本当にわからない。ぼくは、どこに連れて行かれるんだろう?

 今までは、こんなこと無かった。いつも行くのは知ってる公園とか、駅とか川とかだった。

 だからぼくは、全然怖くなかったのだ。でも今は、怖い。すごく、怖い。


 ガサガサガサガサ。長い草が足を引っ張って、ぼくを転ばそうとする。母さんはそのたびに、手首をぐっと引き上げる。

 暗くて周りなんか何も見えなくて、足が止まりそうになってしまう。母さんはそのたびに、手首を強く引っ張る。それが痛くて、怖くて、涙が出そうになるけど、泣いたら怒られるから、我慢する。

 泣いたらダメ。それもゲームのルールのひとつ。


 だんだん木が増えてきて、何回も根っ子につまづいた。細くてかたい枝が、ぼくの頬っぺたを引っかいていった。

 手とか足とかも、いろんなのにぶつかってる。お洋服が無いところは、いっぱい傷ができてるんじゃないかと思う。

 明日、保育園のみんなに心配されるんじゃないかな。聞かれたら、なんて言おう。信じてもらえる言い訳を考えながら、ぼくは息を切らして歩く。


 リーリーリー。まわりから、いっぱいの虫の声。頭の中に虫が百匹くらい住んで、みんなで鳴いてるんじゃないかって思うくらい。

 ぼくと母さんは、虫の声をつっきって、まっすぐ進んでいく。

 ガサガサガサ。リーリーリー。ガサガサガサ。リーリーリー。


「ここでいいわ」


 母さんが急に立ち止まって、ぼくは母さんのお尻に顔をぶつけそうになってしまった。

 着いたのはぽっかり開いた広場みたいなところで、大きさは小さな公園くらい。森の動物のためのお遊戯場みたいだ。

 広場のところだけ草が短くて、境目は全部、木と長い草で埋まってる。お月様の光が当たって、中はとっても明るい。草についたお水が光って、キラキラきれい。


「さあ、行きなさい」


 母さんは、いつもみたいにぼくの手を放そうとした。痛いくらい握りしめられていた右腕から、力が抜けていく。

 いつもと同じだけど、いつもと同じじゃない。ぼくは必死で、母さんの手を追いかける。

 しがみつこうとしたけど母さんの手は早くて、ぼくの両手からするりと逃げた。


「行きなさい」

「ここから、ゲームするの?」

「そうよ」


 前を見る。キラキラきれいな森の広場。

 でも、知らない場所。だからぼくは、帰れない。

 後ろを振り返る。真っ暗怖い夜の森。

 どうやって来たのか、わからない。だからぼくは、帰れない。

 だいじょうぶ、って魔法のことばを唱えようとしても、できない。だってぜんぜん、だいじょうぶじゃない。

 母さんがぼくの背中を押し出して、ぼくは広場の中に立った。お月様の光が眩しい。


「目を瞑って、千数えるのよ」


 いつもと一緒の、母さんのことば。ゲームを始める時の、お決まりのことば。

 でも違うって、分かってる。母さんの声がいつもより、優しくない。

 それにいつもと同じゲームなら、ぼくはこんなに怖くない。絶対帰れる、ってわかってるから怖くない。

 母さんのところに帰れるから、ゲームは怖くない。最後に優しい母さんに会えるから、ゲームはとっても楽しい。

 でも。

 でも、今は。


「ねえ、母さん」


 どうして、ここなの? どうして、お車で連れてきたの?

 歩いてなんて、帰れないよ。ぼく、お腹空いたよ。

 帰りたいよ。早く、帰りたい。

 ゲームするのもうやだ。

 ここ、怖いよ。


 いっぱい言いたいことがあって、ありすぎて、言えなくて。


「なに」


 母さんの冷たい声で、ぼくののどがキュッとなる。

 でも、言わなきゃ。聞かなきゃ。ひとつでいい。保育園の先生達が、ぽそぽそナイショ話してる時に言ってた。

 一番ぼくが、心配なこと。腕をつかんで連れて行かれるたびに、ずっとずっと、心配だったこと。


「あのね」

「うん」

「母さんはさ」

「うん」

「母さんは、ぼくが嫌いなの?」


 ホントに子供が大事なら、あんな持ち方しないでしょう普通。

 母さんが迎えに来て、さようならをしてから、先生の一人がぼくを指して、そう言ったことがあった。

 愛してないから、あんな持ち方できるんじゃないの。

 あんな持ち方っていうのが、ぼくの手首をつかんで引っぱることだって、すぐにわかった。

 ぼくもずっと、おかしいなって思ってた。だって誰も、そんな持ち方されてない。みんなちゃんと、手をつないでもらってる。指と指がギュッとなって、すごくあったかそうでいいなって思って、いつも見てた。

 愛してるっていうのは、テレビが言ってたから多分合ってる。好きってことだよね。

 じゃあ、愛してないっていうのは。好きの、反対っていうのは。


「嫌い、なんでしょ?」


 悲しくなって、涙が出そうになった。ずっと聞こう聞こうと思ってたけど、そうよって言われたらどうしようって思って、聞けなかった。

 昼の優しい母さんと、夜の怖い母さん。まるで違う人みたいに変わっちゃうけど、でも手の持ち方だけは一緒で、だからどっちにも、聞けなかった。


「馬鹿ねぇ」


 母さんは、笑った。ぼくは泣きそうなのに、すごくおかしそうに笑って、指で目をこすった。

 ぼくはまじめなのにって、怒ろうかと思ったけど、やめた。笑った母さんは、昼の優しい母さんみたいだったから。

 いっぱい笑って、いっぱい目をこすって、母さんはぼくの前にしゃがみ込んだ。


「嫌いだったら、一緒にゲームやるわけないでしょう?」


 ぼくの心が、パッと明るくなった。涙なんかどこかに吹き飛んじゃったみたいだ。


「ホントに?」

「ホントよ」

「ホントのホント?」

「ホントのホント」


 優しく笑って、今度は母さんがぼくに聞いた。


「コウちゃんは、母さんのこと好き?」

「うん!」

「じゃあ、母さんの悪口とか、他の人にいったことある?」

「無いよそんなの!」

「ゲームのことも、誰にも言って無いわよね?」

「言ってない」


 母さんは、にっこり嬉しそうにうなずく。ぼくは母さんが嬉しそうだから、すごく嬉しい。


「コウちゃんは、ゲーム好きよね?」

「うん、好き!」

「帰ってきたら御褒美に、いっぱい頭撫でてあげてるものね」

「うん!」

「御褒美、欲しいでしょう?」

「うん、欲しい!」

「じゃあ、ゲームしましょう」


 母さんが立ち上がって、ぼくは力いっぱいうなずく。広場の真ん中まで走って行って、うずくまって目を瞑る。

 いーち、にーい、さーん。リーリーリーと一緒に、ぼくの声が森にひびく。

 よーん、ごーお、ろーく。リーリーリー。

 なーな、はーち、きゅーう。リーリーリー。

 数が三十をこえた頃、ようやく違う音がした。

 ガサガサガサ。草を踏んで歩く音。


 リーリーリーとぼくの声を置き去りに、母さんが、ひとりで帰っていく音がした。

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12個月 樹以 空人(じゅい からと) @jyuikarato

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