【陰】乏月(ぼうげつ):四月の別称

 

 例えば、名前を捨てたら。

 僕は僕の名前で呼ばれなくなる。

 何と呼ばれるようになるのかは分からないけれど。それでも多分、今とは違う名前がつくのだろう。

 事実を塗り回すための名前。

 今の僕ではない名前。


「あー疲れたー」

「アタシもー」

「今日の現国たるくなかった?」

「今日っつーか、いつもじゃん。教科書読んでるだけな癖して寝るなっつー方が無理だっつー話」

「だよねー。マジありえない。もう眠すぎ」


 例えば、顔を変えたら。

 一目見ただけでは誰も、僕が僕だと気付かなくなる。

 美しいともてはやされるか、醜いとそしられるかは分からないけれど。それでも多分、本心を押し隠して愛想笑いをする必要も、涙を堪えて無表情を貫く必要も無くなるのだろう。

 事実を塗り直すための仮面。

 今の僕ではない仮面。


「最近なんか、色々ダルいんだけど」

「あー、わかるソレ」

「なんっか、毎日毎日同じようなことばっかやってさ。親も教師も同じことばっか言うしさ」

「だよねー、いい加減飽きるっつーの」

「だろだろ。なんか面白いこと起こんないかな。ハプニング的なヤツがさ。しかも近所で」

「例えば?」

「えー、そうだな。『連続通り魔殺人事件』とか」


 例えば、記憶を失えば。

 僕自身の存在意義さえ、あやふやに壊れ消えてなくなる。

 白紙になった世界がどんな出会いを生み、どんな別れを待つことになるのかは分からないけれど。それでも多分、見知らぬ世界で新たな関係が築かれるのだろう。

 事実を塗り替えるための記憶。

 今の僕ではない記憶。


「通り魔とかいって、危なくねーソレ!」

「そのスリルがいいんだって」

「はあ? いっそお前があぶねーし」

「ま、似たような話ならあったけどね」

「似たようなって……? ああ、もしかして半年くらいの前のヤツ?」


 例えば、声を潰したら。

 僕は誰とも会話を交わすことが出来なくなる。

 偽りであろうとも派手で滑稽こっけいな劇を演じてもらいたがる奴等にとっては、永久に舞台から降りられないピエロの訴えなど、どうでもいいのかも知れないけれど。それでも多分、喉をらして訴えても変わらない世の中に対する僕の憤りは、諦めという形で収束するだろう。

 事実を塗りこめるための沈黙。

 今の僕には無い沈黙。


「あそこの親父がキレて、家族全員皆殺しにしたんでしょ? 逃げ回る嫁とか子供とか追いかけて刺したから、家中の床も畳みも血で真っ赤だったんだって。暫くは外まで物凄い匂いが漏れてたって聞いたよ」

「怖いよねー、金が無いからってソコまでする? 普通」

「だよねー。死ぬならオヤジ一人で死ねよ、って感じじゃん?」

「そうそう。道連れとか迷惑だし。頭おかしいんじゃね?」

「頭おかしいから平気でヒトゴロシすんだって」

「あはは、そーいやそうだ」


 例えば、鼓膜を破いたら。

 僕は誰の声も聞き取れなくなる。

 真実を追い求めるという名目で煩く騒ぎ立てる声と同時に、暖かな慰めの言葉も聴けなくなるかも知れないけれど。それでも多分、無音ゆえの喧騒の中でも、僕は確かな安らぎを得るだろう。

 事実を塗り潰すための静寂。

 今の僕には無い静寂。


「そーいえばさ。あの家、結局壊されずに残るんだって」

「え、マジ? っつーか、まだあったの、アレ!」

「らしーよ。アタシも最近、あの辺通ってないから見てないけど」

「なんで壊さないの? っつーか、なんで今までほっとかれてたわけ?」

「近い親戚とか居ないから、誰も手がつけられないらしいよ」

「それにしたって、近所に住んでる人間からしたらヤじゃない? つか最悪。ちょっとやそっとリフォームしたって追いつかないくらい、中は凄い状態だったんでしょ? しかも元の住人誰も居ないんじゃ――」

「いや、それがさ。戻ってくんだって」

「誰が」

「アソコんちの、長男」


 例えば、両目を貫いたら。

 僕は誰の姿も追えなくなる。

 移り変わる季節に翻弄される木々や頭上に広がる空の高さ、周囲に満ち溢れる色とりどりの景色を楽しむことは出来なくなるけれど。それでも多分、好奇と偽善に満ちた視線の網にからめとられずに済むだろう。

 事実を塗り隠すための暗闇。

 今の僕には無い暗闇。


「えっ何、全員死んだんじゃないの?」

「事件を起こした父親と、ソイツに刺された母親と次男と長女は死んだけど、中学生の長男だけ助かったって聞いたよ。一時は心停止までいったらしいんだけど、その後奇跡的に回復したんだって」

「後遺症とかも無く?」

「うん、全くなし。全身十箇所以上刺されて、凄い出血だったらしいけど、刺されどころが良かったっつーか。とにかく、脳とか目とか内臓とか、大事な部分は外れてたんだって。で、半年経って退院して、帰ってくるらしい」

「コッチに?」

「そう。しかもあの家に」

「マジで?」

「マジで」


 一体、何をどれだけ捨てれば。僕は僕自身でなくなるのだろう。

 一体、何をどれだけ壊せば。僕はこの掌に乗るくらいの幸せを取り戻せるのだろう。


 命さえあれば幸せだなんて、何処かの裕福な偽善家の台詞に違いない。少なくとも全世界が自分の敵になる事態なんて、想像さえしたことが無い奴の台詞。

 命があれば、自分以外の肉親が死んでも幸せか? 

 血塗れの部屋で、自分は生きているんだと笑えるか? 

 父親が狂った殺人者呼ばわりされても、自分の存在に胸を張れるか? 

 このうちのどれか一つにでも、自信を持って頷ける奴が居るなら、教えてやる。可哀想な弱者が大好きな世間は、己の厚意に報いない相手が大嫌いだということを。

 肉親が死んだのに幸福を騙るとは、コイツ頭がおかしいんじゃないか。本当はコイツが父親をけしかけたんじゃないのか。弱った相手に余力があると見るや、掌を返したように攻撃を始めるのだ。


 好奇心を隠そうとしないメディアや、同情を掲げて近づいてくるゼンリョウな市民の相手は、もう疲れた。売名と名声を目当てに保護を申し出る資産家の薄ら笑いは、いい加減うんざりだ。

 どうしてこんなことになったのかなんて、過去を振り返る気力など失ってしまった。自分の未来にある影があまりに大きすぎて、押し潰される恐怖に足が震える。

 それでも僕は、もと居た場所に戻ることを決めた。

 何を捨てても、何を壊しても。この心と身体に染み付いた自分自身は、拭いされないと知っているから。


「見て。なんかあの家の前に車止まってる」

「ホントだ。あ、もしかして、アレが噂のラッキーな長男?」


 僕はかえる。


 僕に付けられた名前のまま。

 僕が生まれ持った顔のまま。

 僕に染み付いた記憶のまま。

 声も耳も瞳も、僕が僕であることを何一つ捨てないままで。


 生まれ育ったこの街の、生まれ育ったこの家に。

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