美人計《ツツモタセ》

吾妻栄子

美人計《ツツモタセ》

「それじゃ、リリ、しっかりやるんだぞ」


 ボスはそう言うと、返事を待たずに電話を切った。

 いつもそうなのだ。


「結局、あたしは駒の一つに過ぎない」


 お仕着せの淡い桃色のレースのパラソルを持ち直して、あたしは一人ごちた。


 声に出してから、周囲に誰もいなくて良かったと思った。

 わたくしは今、お金持ちの奥様なんだから。


 おろしたての黒い繻子の旗袍チャイナドレスの背筋を伸ばし、セットしたばかりの髪を撫で付け、ドロップ型の真珠のイヤリングを両耳に確かめる。


 そうすると、一瞬だけ自分が本当に高貴な女になった様に思える。

 実際、ボスの方針で、この「仕事」の時に身に着ける物だけは、本物の高級品なのだ。


「ごめんよ、待っただろう」


 待ち人が現れた。

 ポマードで撫で付けた黒髪、滑らかな丸い笑顔、仕立てのいい真っ白なシャツ。


「よりにもよって、こんな暑い日に」


 白い絹のハンカチで汗を拭う姿を眺めながら、いつも、この人の体内を流れているのはドロドロした生臭い血ではなく、澄み切った水なのではないかと半ば本気で疑ってしまう。


「商談が、思ったより長引いてしまってね」


 大きな二重瞼の目を長い睫毛ごと伏せる。


「決まるまで、色々と無茶を言われたんだ」


 俯いた彼は、何だか叱られた子供みたいに見えた。


「いいのよ、わたくしも今、来たばかりだから」


 あたしは出来るだけお上品な笑顔を作って答える。


「お気になさらないで」


 実際、彼が謝る必要なんてこれっぽちもない。


 これからあたしが彼にしようとしてることと比べたら、五分どころか一時間遅れて来たって、責めるには及ばない。

 というより、いっそ、すっぽかしてくれても……。

 ここまで考えたところで胸が締め付けられる感じがまた襲ってきた。

 彼と組んだ腕に知らず知らず力を込める。

 近頃、この胸の痛みが持病になっているのだ。


「良心の咎め」とか「罪の意識」なんて、そんなごたいそうなもの、一生縁がないと思っていたのに。


「今日は顔色が悪いね、マリア」


 あたしの偽の名前を呼ぶ彼の優しげな目が曇る。

 二つの澄んだ黒い目の中には、怯えた顔つきの女が立っていた。


「そうかしら?」


 何て酷い顔だ。

 口の端をきゅっと上げると、彼の瞳に居座る女は、今度は引きつった笑顔になった。


「今日は、部屋に行く前に……」


 彼はそう言い掛けると、目を逸らした。


――今の君は、見るに堪えない。


 そんな心の声が聞こえる気がして、あたしは背筋が寒くなる。


 だが、次の瞬間、通りを見据える彼の目がパッと輝いた。


「あの店で、お茶でも飲んで行こうか」


 二区画先には、新しいカフェがある。

 この前二人で映画を観た帰りに寄ったが、上海に数多あまたあるカフェの中でも最高の部類だと思う。


 ただし、彼が払ってくれるとはいえ、紅茶一杯の額は、普段のあたしの一食分よりも高い。


「それがいいわ」


 今度は自然に見える様にと念じながら、笑顔を作って頷いた。

 腕を組み直すついでに、それとなく彼のシャツの袖口から覗く腕時計を確かめる。


 二時半を回った所だ。

 ボスの指示は五時。

 あの部屋に連れ込むまで、あと二時間半は恋人でいられる。


 強まる午後の日差しを浴びて、彼の腕時計の文字盤に嵌め込まれた丸い玻璃ガラスが冷たく光った。


 店に入ると、コーヒーの匂いにふわりと包まれる。

 柔らかいのに、甘くて苦い香りだ。

 奥からは、ゆったりしたピアノの音色が流れてきた。


「奥に行こう」


 彼があたしの肩を押す。

 店内は人が疎らだ。

 ふと、窓際に一人座っていた西洋人の男がちらりと青い目をこちらに向ける。

 しかし、すぐまた窓の外に目を逸らすと小声で何事か呟いた。


「ダージリンを二つ」


 あたしを奥の席のソファーに座らせると、彼はやってきた給仕の若い男に言いつけた。


 その給仕の顔つきを見て、あたしはまたギクリとする。


 両手とも指が五本揃っているから別人と分かるが、最近ボスの運転手を任された三下の誰かに似てる。


 そいつと同じでこの給仕もちょっと見は男前で、本人も意識している風だが、よく見ると締りのない口元が卑しい。


「他に何か頼むかい?」


 彼がメニューをこちらに開いて示す。

 金釘みたいなアルファベットがずらりと並ぶと、食べ物の名前というより異国の呪文に見える。


 ……給仕さん、そんな目で客を眺め回すのはやめてちょうだい。

 あたしはあんたの部屋に来た女じゃない。


「いいえ」


 柔らかなソファに凭れたまま、首を横に振った。

 昨日の夜から何も食べていないが、全く空腹を感じない。


「それで頼むよ」


 彼が穏やかな笑顔で告げる。


「かしこまりました」


 給仕は恭しく一礼すると、去っていった。


 だが、立ち去る際に、そいつがいけ好かない目つきを彼に投げたのをあたしは見逃さなかった。

 これは彼と一緒に居る時にすれ違う男がよく浮かべる表情だ。

 自分を男前だと信じてるらしき手合いに、特にこの割合が高い。


 思い返してみると、今までのカモたちも中途半端に整った顔つきをした、二枚目気取りが多かった。

 というより、近づきやすさを優先すると、必然的にそういう男ばかりになった。


 美人局つつもたせなんて、女に縁のない男が引っかかるもの。

 世間はそう思っている。


 しかし、いかにも不細工で冴えない風貌の男だと、却って警戒心が強く、おいそれとは引っかかってくれない(それでなくとも、上海の男は勘定が高いのだ)。


 多少なりとも女でいい思いをしてきた男の方が落としやすいというわけだ。

 更に言えば、そういう男の方が見栄が強いので、自分が被害に遭ってもなかなか他人には言わないという、騙す側にとってもう一つの利点もある。


――狙うなら、欲張りより見栄っ張りさ。


 昔、ボスに教えてもらったことの一つだ。


「あはは」


 思わず目を上げると、彼が額に手を当てて笑っていた。


「またやられたよ」


 細く長い指で秀でた額を叩く。

 張り詰めた絹に似た、滑らかな額。


「君と店に入ると、僕はいつもボーイの奴に睨まれるんだ」


 口調はおどけていたが、目はまた叱られた子供の様に伏せていた。


「君みたいな女性がどうしてこんな男と、と思われるんだろう」


 彼はまるで詫びる風に呟いた。


 背丈はヒールを履いたあたしと同じくらいだし、華奢な体つきも白いシャツの上から見ると男にしては貧弱だとか、あるいはいかにも柔弱で女みたいな顔だとか、彼の姿形だって、ケチを付けようと思えば出来なくはないかもしれない。


 しかし、この横顔を目にして、美しいと感じない人間が果たしているだろうか。


「それは思い過ごしよ」


 知らず知らず膝に組んだ手に目を落とす。

 右手の薬指でダイヤモンドがきらりと刺す様に光った。


 この人の目には、あたしが本当に高貴な女に映ってるんだ。

 金持ちの若妻を装って男を騙し、美人局の片棒を担ぐ、ゲスな女が。


 黒い繻子の襟が首を締め付けてくる。

 こんな上等な生地や値打ち物の宝石なんて、お前に着ける資格はない。


 身に着けた物からもそう言われている気がする。


 ひょっとすると、さっきのボーイが睨んだのは、彼じゃなくてあたしの方だったのかもしれない。

 ここの給仕なら一応はまともに働いて稼ぎを得ている。


 あたしときたら、それにすら及ばない。


 カチャリと何かが手元に落ちる音がした。


「お待たせ致しました」


 さっきとはまた別の給仕が笑顔でこちらを見下ろしている。


 見上げたあたしは凍り付いた。

 今度は、切り込み隊長の兄貴そっくりの男だ。

 右の頬にあの傷がないから、一応は別人らしい。


「本日はご来店いただき、まことにありがとうございます」


 慇懃に述べると、くぐもった声まで兄貴と瓜二つの給仕は、トレイからもう一つの白いカップを彼の前に置いた。


――いよいよ、明日だな。これ、お前も持つか?


 昨日の晩、地下の部屋での打ち合わせが終わって他の連中が帰ると、兄貴はあたしの前に小さな黒い塊を放った。


「こちら、産地より直輸入しましたセカンドフラッシュでございます」


 白い陶器のポットを手にした給仕が誇らしげに述べる。


――昨日、あっちから仕入れたハジキさ。


 黒い塊を取り上げ、細く吊り上がった目であたしを見据えると、兄貴は口の端だけで笑った。


 ヨモギ汁でも塗りたくったみたいに妙に紫っぽい色をした、薄い唇の隙間から、尖った白い八重歯が顔を出す。


 兄貴が裏で仲間からも「烏鴉カラス」と呼ばれているのは、一つにはこの面構えのせいだ。


「近頃は粗悪な茶葉が市場に多く出回っておりますが、当店では厳選した茶葉のみを使用しております」


 厳かな声で語りながら、給仕はカップに湯気の立つ紅茶を注いでいく。


――最近はカモにも変なのが多いからな。またこの前みたいなことになったら、お前も危ないだろ。


 あの時も俺が助けてやっただろ、という風に、兄貴は手にした黒いピストルを差し出す。


 前回のカモはハメられたと気付くと激昂してあたしに掴み掛かった。

 兄貴はそいつを引き剥がすと、靴の踵で顔を蹴り上げ、そいつの前歯を全部折った。


 その時の鈍い音や痛みにのた打ち回る男の呻き声が耳に蘇ってきて、あたしは口に手を当てたまま、黒い鉄の塊を受け取りもせずに見詰めていた。


 騙して金を毟り取った挙句、こんなもので、彼を撃てと言うの?


「素敵なお連れ様で本当に羨ましい」


 鮮血さながら真っ赤な液体を注ぎ終えると、給仕は細い目を更に細くして彼とあたしの顔を交互に見やった。


――リリ、一つ聞くが、そいつが今までカモにした奴らとどこが違うっていうんだ?


 薄暗い裸電球の下で、兄貴は散々弄り回したピストルを改めて検分する様に眺め回しながら、細い目の小さな黒目を光らせた。


――見てくれが男前なのか? 皮一枚剥ぎゃ、皆同じだ。


 兄貴はせせら笑う。

 そうすると、頬を切られた右半分が酷く引き吊るので、正直、見ていると、こっちが息苦しくなる。


――それとも、そいつのナニが良くて離れたくないのか? 若い奴みたいだしな。


 烏鴉カラスの鳴き声じみた、乾いた笑い声が薄暗い地下室に響く。


 ゲスな言葉を彼に使うな!

 あたしは唇を噛み、膝の上で拳を握り締めた。

 叫びが喉元と胸の奥を行き来する。


――一発いっぱつじゃ足りねえな。


 兄貴の呟きと共に、ガチャリと新たに弾薬を込める音が耳を打つ。


――お前もおぼこじゃねえんだ、いい加減、目、覚ませ。


 煤けた地下の壁に、兄貴の声が突き刺さる。


――そいつは人の女房に手を出して、半年もネンゴロしてる奴だぞ。


 業を煮やした様に、あたしの顎を掴んで、無理やり自分の方に向かせると、兄貴はもう片方の手に持ったピストルであたしの頬をなぞった。


――お前が何だかんだとズルズル先延ばししやがるから、今日まで泳がせてやったんだ。


 陰になった兄貴の顔の中で、血走った目がギラついた。


――明日こそ、必ず落とし前をつけてもらう。


 ピストルより、兄貴の手の方がはるかに冷たかった。


「それでは、ごゆっくりお楽しみ下さい」


 給仕はにこやかに頭を下げると、去っていった。


「今度は何だか偉いのが出てきたな」


 給仕が奥に消えてから、彼がぽつりと呟く。

 円らな瞳は、まるで何かを見透かす風に、湯気立つ赤い液体を見詰めていた。


「美味しそうね」


 正直、一滴も口にしたくなかったが、そう応える。


 流れてくる曲は、いつの間にかピアノからジャズに変わっていた。

 色々な楽器がめいめい勝手に騒いでるみたいな曲だ。


「熱い内に飲もう」


 彼が白いカップに口付ける。

 白い地肌の色にほんのわずかに朱を含ませた、柔らかな唇。

 これは化粧品では決して作れない、天然のものだ。


 この唇を眺めていると、高値のルージュを引いたあたしの唇が酷く安っぽい作り物に思えてくる。


 でも、あたしはルージュのうっすら移った彼の唇も好きだ。

 口付ける前は、いつもこの唇の形にぴったり合わせる様にルージュの色を移したいと強く思う。


 でも、いざ唇を重ねると、どんどんずれて、彼の頬や、うなじや、胸板の辺りにまで滲んだ緋色の跡を付けてしまう。


 この人の体は、どこに口を付けても陶器の様に滑らかで、しかも触れると一瞬ひんやりしている様で、温もりが静かに湧き出てくる。


 そして、奥深くに隠された部分に進むほど、温もりは熱に変わるのだ。


「吸っていいかな?」


 胸ポケットに手をやってから、ふと思い返した体で彼は遠慮がちに尋ねた。


「ええ」


 頷いてはみるものの、本音を言えば、あまり吸って欲しくはない。

 煙が嫌だとかそんな理由ではなく、煙草を吸う時の彼が少しだけ怖いからだ。

 紫煙を吐き出す時、とても険しい目をする。


「ご主人は、まだ、香港ホンコンに?」


 煙の向こうから、彼の目が冷たく光った。

 これが、怖い。


「ええ」


 あたしは静かに頷いた。


――嘘だろう?

――本当にそうなのか?


 そんな言葉が出るのが恐ろしい。

 もし、彼にそう問われたら、あたしはもう取り繕える自信がない。


「もう、随分、経つじゃないか」


 彼は低く掠れた声で呟いた。


――取り繕ったって分かるんだ。


 その声はそう告げているかに思えた。


 紫煙のもやが薄れて、彼の顔が現れる。

 冷たいというより、ガラス玉の様に虚ろな目をしていた。


「い、いつものことよ」


 自分でも声がうろたえているのが分かった。


「あの人のことだから、きっとまた向こうにいい人でも出来たんですわ」


 カモに「夫」の話をする時の常として、必死にボスの顔を思い浮かべた。


 藍色の絹の長衣を纏った年の割に広い肩や、節高い指に嵌めた金の指輪ははっきり浮かんでくる。


 だが、応接間の椅子に腰掛けて陰になったボスの顔を思い出そうとすると、三下の運転手やら、切り込み隊長の兄貴やら、旗袍チャイナドレスの仕立て屋やら、耳飾りや指輪を見立てた宝石商の爺さんやら、次々別の誰かの顔が現れては邪魔をする。


「言いましたでしょ、あの人は、わたくしのことなんて、飼い犬くらいにしか思ってないって」


 飼い犬、と口に出してしまうと、声が妙に上擦った。


「君にそんな立派なダイヤを与えてくれた男が、かい」


 彼の目は、あたしの薬指で煌めく石に注がれていた。


「ご主人はきっと、忙しく働いて、物や金を与える以外に、君の愛し方を知らないんだ」


 彼の目が、あたしのセットした髪から、真珠の耳飾りの辺りをさまよった。


「僕の周りにも、そんな奴は多い」


 そう呟くと、彼の顔は一瞬だけ酷く老け込んだ。

 そういえば、この人は二十六歳と言っていた。

 組織で言えば、兄貴と変わらない年配なのだと急に思い当たる。


「そういうものかしらね」


 今までは、単に年だけはあたしより三つ上の坊ちゃんとしか捉えていなかった。


「でも、あの人が本当にわたくしを愛していたら、こんな惨めな生活、させてないわ」


 返事の代わりに、彼はまた煙草に火を点ける。


 バラバラに鳴り響いていたジャズの演奏が止まった。


「主人は、あなたやお友達みたいな人とは違うの」


 これだけは嘘じゃない。


「とても恐ろしい人よ。言葉では説明できないくらい」


 語りながら、家にハジキを置いてきたことを一瞬だけ後悔した。


「わたくしが死んだって、あの人はすぐにまた別の女を後釜に据えるんだわ」


 彼は、黙って煙を吐き出している。


 今までのカモたちは全員、あたしの言葉を信じて疑わなかった。

 いや、カモたちにしたって、本当はあたしの身の上などどうでもいいから、こんな女の行く末なんて知ったこっちゃないから、とりあえず聞き流していただけかもしれない。


「昔のわたくしみたいな、軽率でバカな女をね」


――酷いご主人だね。

――信じられない男だな。


 猫撫で声で囁きながら、どいつもこいつもあたしの首から下を眺め回していた。


――この女は、脱がしたらどんな体なんだ?

――床に入ったら、今日はああしてこうしていたぶってやろう。


 そんな心の声が聞こえてくるみたいで、あたしはその度に吐き気がした。

 そんな奴らから金を巻き上げたって、別に胸なんか痛まなかった。

 スケベ心で引っかかった馬鹿の自業自得。そう思っていた。

 どうせ、あたしの取り分なんて巻き上げる金の半分だし。

 それだって、前回までは三割だったのをボスに交渉してやっと上げてもらったんだ。

 今回のカモは若い男ですし、毎回体を張って三割の報酬じゃ割に合いません、と。


「そうなんだ」


 彼は、今度は何だか哀しそうな笑いを浮かべていた。


「僕といて、幸せ?」


 そうじゃないだろう、と確かめる風に彼は問う。


「ええ」


 彼の目には、表情のない女が映っている。


「本当に楽しい?」


 辛いんじゃないか、と念を押す様に尋ね返す。


「そうよ」


 彼の瞳の中で、うろたえた女が盛んに首を振っている。


「それなら、どうして」


 澄んだ双眸が鏡さながら張り詰める。

 次の瞬間、大きな目の端まで透き通った光が溢れた。


「君は、そんなにも怯えてるんだ」


 もう彼の顔がまともに見られない。


 あたしは青幇マフィアの女。

 あなたを罠に陥れようとしてるのよ。


――ボーン。


 急に頭の上から、音が降ってきた。

 見上げると、あたしたちの席のちょうど上に、大きな壁時計が取り付けられていた。


――ボーン。


「Ⅰ」だの「Ⅹ」だの金色の針を並べたみたいな文字盤の下で、抱き合った男と女の人形がクルクル回っている。


――ボーン。


 狭いガラス戸の向こうで、閉じ込められた金メッキの二人はひたすら踊り続ける。


――ボーン。


 すぐ近くで鳴っているはずなのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。


 時計の音は鳴り止むというより、辺りの空気に流れ込む風に消えた。


 あたしは言いかけたまま言葉の出所を失った唇を閉じ、沈黙に目を伏せた。


「四時を過ぎたな。あいつらは今頃カンカンだろう」


 低く呟く声が、静寂を破った。


「謝らなきゃいけないな」


 あたしがカップから顔を上げると、彼はいつの間にか許容量一杯になった灰皿の上に最後の煙草を乗せて、苦い顔で笑っていた。


「俺は、君が思ってる様な男じゃない」


 そこで彼の笑顔が急に歪んで、形良くまとめた髪を自ら崩す体で頭を横に振る。


「全然、違う」


 一瞬、唇を強く噛み締めると、彼は搾り出す様に続けた。


「金持ちな紳士のフリして、仲間と罠にはめようとしたんだ」

(了)

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