番外編

第0話 始まりは桜の木の下で

           ——————番外編——————

・1・



 式美春哉と祭礼桜子の出会いは今から約十二年前。桜舞い散る春だった。



 春哉は小学五年生に上がって最初の授業を終え、その足で帰宅した。

 式美流柔術道場。春哉の実家は道場だ。ここでは祖父が開いた古武術を始めとした様々な身を守る術を教えている。そこにいるのは幼い子供からそこそこ年のいった大人まで。

 今日も自宅に隣接する道場の方からはハキハキとした声が聞こえて来る。

「……」

 春哉は面白くなさそうな顔をしている。そして逃げるように居住区の方に回り込んだ。

(……何が古武術だ)

 春哉は道場の稽古が嫌いだった。

 稽古のせいで友達と遊ぶ時間はないし、習得しても喧嘩に使うことも禁じられている。子供の春哉には何のために好き好んで苦しい思いをしなければいけないのか理解できなかった。

 春哉にとって武術とは、役に立たないただ自分を虐めるだけの行為だったのだ。


「帰ったか春哉よ。さぁ稽古の時間じゃぞ!」


 遠く背後から春哉の祖父・式美竜厳の声が響いた。相変わらず胃を震わすほどの迫力のある声だ。まるで爆音轟く映画館にいるような気分に襲われる。

「いやです爺さん」

 しかし春哉は速攻で拒否する。そしてランドセルを放り投げ、逃げ出した。

「ホッホッホ。かけっこか?」

「うわっ!?」

 真横から竜厳の声が聞こえてきた。あの一瞬で間合いを詰めてきたのだ。いくら子供の速度とはいえ、あれだけ離れていたのに。あまりに速すぎる。

 祖父の大きな手が春哉の首根っこを掴もうと迫る。

「捕まってたまるか!」

 春哉は木製の壁を蹴って宙を一回転し、竜厳の魔手を避ける。皮肉にも日々の修行の成果がここに来て発揮される。運動神経にはそれなりの自信があった。

「ほぅ、ワシの手を避けるか! なかなかやるようになったではないか!」

 竜厳は嬉しそうに言った。続く二撃目も春哉は体を捻り、綺麗にかわす。

 この頃の春哉には知る由もないが、竜厳の手を避けれるだけでもすでに常軌を逸している。相手は歴戦の猛者。子供など赤子も同然。本来は逃げることさえ叶わない。いい年をした門下生ですら、竜厳から十秒だって逃げることはできない。春哉はそれを軽々とやってのけている。

(将来が楽しみじゃわい)

 老人は確かな孫の成長を感じ、鬼ごっこを楽しむのだった。


・2・


「はぁ……はぁ……今日はなんとか逃げ切れたか……」

 敷地内を追われること一時間。春哉は全身から汗を流してその場にへたり込む。

 正直、竜厳から逃れられる確率は現時点で五分五分といったところだ。今日は運がいい。これだけ逃げるとその日はもう追ってこない。あとは好きに遊ぶことができる。

(よし。シャワーを浴びたら友達の家でゲームだ!)

 春哉は心を躍らせながら浴室を目指す。その姿は年相応の子供だ。

 しかしすでにそこいらの体操選手の運動量を軽く超えている。普通の子供ならもう指一本だって動かせない。皮肉にもこうした「祖父から逃げる」という行為そのものもまた、春哉には鍛錬になっていた。


 縁側を歩き、目的の場所はもう目の前だ。

 ふと、春哉は庭にある大きな桜の木を見た。

「……もうすぐ、満開か」

 この桜の木には少々思い入れがある。


 これは春哉の母が大好きだった桜の木だ。


 春哉の母・式美白菊しきみしらぎくは春哉を生んでから体調をひどく崩していた。だから春哉は母が敷地から外へ出たのを見たことがない。

 父親は仕事で海外赴任。滅多に帰ってくることはなかった。病床の母に冷たいようにも見えるが、それでも春哉は父を恨んではいない。毎週必ず送られてくる手紙からは母の気遣う心が常に見て取れたからだ。

 何より手紙を手に取る母はとても幸せそうだったから。

 離れていても繋がっているというのを強く感じた。だから幼い春哉はその繋がりが羨ましくてよく嫉妬したものだ。


 そしてそんな春哉にとって、唯一の父親以上の繋がりがここでの花見だった。


 いつもこの時期になると家族で花見をした。

 歌、酒(もちろん春哉はジュース)、芸、料理。

 全てが今でも色鮮やかに春哉の記憶の中にある。


 しかし、ここ二年はしていない。


 家族の誰一人として、声を上げるものもいなかった。


 二年前、病床に伏せっていた母がこの世を去ったからだ。


「今年はどうするのかな……」

 桜はあの時と変わらず美しくそこに佇んでいる。きっとあと数日もすれば色鮮やかなピンクで周囲を飾るだろう。

 あの色を見ると、春哉は少しだけ胸が痛くなる。


「ん?」


 ふと、春哉は気付いた。


 


 髪の長い女の子だ。年は自分と近いくらいだろうか?

「……ッ!?」

 春哉は目を見開いた。

 ここにはいろんな人が来る。だからそこに少女がいたって何もおかしなことはない。

 春哉が見ていたのはそこではない。


 彼女が手に持っているだ。


「おい!!」

 言葉は後から出てきた。疲れ切った体のことなどすっかり忘れ、春哉の体は言葉よりも先に弾丸のように飛び出した。


 その少女は。

 桜の木を。

 


「やめろ!!」

 春哉は少女の腕を掴んだ。思わず思い切り強く。

 少女はピクッと反応すると、ゆっくりと振り向いた。

「……!?」

 春哉は息を飲んだ。理由はわからない。

 確かにびっくりするほど可愛い女の子だが、今はそこは問題ではない。

 目だ。

 彼女の暗い瞳が春哉を怯ませた。まるで蛇に睨まれたカエルのように。

(……なんだこいつ)

 こんな目、クラスのどの友達もしていない。見たことない。

「……あなた、だぁれ?」


 何というか……闇だ。


 何かとても深い、わからないもの。触りたくないもの。恐怖。

 小学生の春哉にはそうとしか言えなかった。

 そして小学生だからこそ、その思考は実に浅はかだ。


 目の前には得体の知れない奴がいる。

 そいつが自分と母の思い出の桜の木を傷つけている。


 ならやることは一つだろう。

 春哉は少女を睨んで腕を上げる。

 目の前の敵を排除するために。


 一瞬、少女が笑った気がした。


 それが無性に気に食わなかった。


 そして春哉は。

 その手を。

 振り下ろす。


 だが、背後からその手を誰かに掴まれた。

 

 春哉はギッと背後を睨む。だがすぐに我に返った。


「……爺さん」


 そこにいたのは祖父・式美竜厳だった。


・3・


「何で止めたんだよ!?」

 春哉は和室で座す祖父を糾弾する。

「……」

 竜厳は何も言わない。まるで冷静さを失った今のお前と話すことなど何もないというように。

「……くっ」

 春哉もそれを悟ったのか、徐々に落ち着きを取り戻していく。

 ゆっくりと正座して、

「……ふぅ」

 一度、大きく呼吸をする。

「フッ……ようやく落ち着きおったか。まだまだ精神面では修行が足りんようじゃの」

 竜厳は悪戯っぽい笑みを春哉に向ける。思わず春哉はムッとする。

「で? 何なんだよアイツ」

 春哉はまずそれを聞いた。

 竜厳はゆっくりと答えた。


「あやつの名は祭礼桜子さいれいさくらこ。お前の母、白菊のかつての教え子の娘だそうだ」


(……母さんの?)

 春哉の母・式美白菊は結婚する前は教師をしていたと聞いたことがある。確か高校の教師だ。

「何でうちに?」

「あやつの両親が自殺したからじゃよ。身寄りのないあやつをワシが一時的に引き取った」

 他に親族もどうやら見つからなかったらしい。

 それに他の家では見ず知らずの子を養う余裕もないだろう。そういう意味では彼女がここに来たのは正解だ。

 この街で竜厳ほど強い影響力を持つ人間はいない。周囲からの信頼も厚い。

 身寄りのない少女一人引き取るなど彼にとっては造作もない。


 しかし、春哉が聞きたいのはそういうことではなかった。

「何で、あの桜を……」

 正直少し泣きそうだった。

 桜を傷つけられたことももちろんだが、祖父に止められたこともだ。

 あの桜は式美家にとってとても大切なもののはずだ。

「まぁあやつにも色々事情があるのだ。そこは責めてやるな。……そうじゃいい事を思いついた」

「?」

 春哉は本能的に一歩後ずさる。こういう時の「いい事」で良かった試しなんて一度もない。


「春哉。お前にあの娘をしばらく任せる」


「……は?」

 竜厳の言葉に春哉は呆気にとられた。


・4・


「ったく……何で僕が……」

 竜厳の出したお題はこうだ。


 桜子と友達になること。


 年の近い春哉にしかできないことだと、彼はそう言った。

「あんな奴と……」

 正直、第一印象は最悪だった。

 思い出は傷つけられ、おまけにあの目。苦手だ。

 しかし祖父の言葉だ。無視するわけにもいかない。春哉は渋々あらかじめ教えてもらった桜子に割り当てられている部屋に向かった。


「ちょっといいか?」

 トントンと障子を軽く叩く。中から「はい」という声が聞こえたので、春哉は戸を開けた。

「……なっ!?」

 春哉は思わず絶句した。

「……?」

 桜子は首を傾げる。

「な……っ!」

 春哉は両手で目を覆い、叫ぶ。


「何で服着てないんだよ!!」


 桜子は裸だった。



 とりあえず桜子に服を着させ、春哉は部屋の真ん中にある台の周りに敷いてある座布団に座る。。

 桜子はというと、黙って壁を背にして体育座りしている。


「なぁ……さっきの、痣は?」


 春哉はさっき不可抗力で見てしまった桜子の裸体について聞いた。あの時見た彼女の体は痣だらけだったのだ。あれは一度や二度暴力を振るわれてできるようなものではない。それくらい凄惨なものだった。


「お母さんたちが私を殴るの」


 桜子は淡々とそう言った。

「そっか……辛かったな」

 両親が自殺したことは聞いている。そして彼女の体の痣。それだけで小さい春哉でも家庭環境は相当悪かったことくらいはわかる。

 いつの間にか、彼女に対して怒りよりも同情が強くなっていた。


 だが、桜子の反応は春哉の想像を超えていた。


 


 言葉が出なかった。

 彼女の笑顔には嘘はない。本心でそう言っている。

「いやいや、お前に暴力を振るってた人間だぞ? それに最後にはお前を捨てた……」

 そこまで言って春哉は口を塞ぐ。今のは少し言い過ぎたかもしれない。

 桜子は少しだけ悲しそうな顔をするが、やがて歪な笑みを携えて春哉に言った。


「だって、私のこと愛してるから殴るんでしょ? 愛してるから、心配してくれるから……私のこと傷つけてくれるんだもの。そういうものでしょ? 愛って」


「何言って……」

 理解できない。少女の言っていることすべてが。

「でも、死んじゃったのは少し残念」

 腐っても親だ。少女も悲しんでいるのだろうか?

 しかし、次の言葉でそんな考えさえも吹き飛んだ。

「……私も一緒に行きたかったな」

「いい加減にしろ!!」

 思わず春哉は桜子を押し倒した。

 その手に少し鈍い感触が伝わる。

「あ……」

 春哉はすぐに謝ろうとしたが、桜子は笑顔だった。


「ハハ、痛い……ねぇ、あなたも私を好きになってくれるの?」


 まるで飼い主を求める犬のように、桜子の瞳には期待と恐れが入り混じっていた。

 笑っている。でも泣きそうなようにも見える。

「……っ!!」

 春哉はその目を見ていられなくなり、部屋から飛び出した。



「何なんだあいつ!!」

 春哉は力任せに壁を蹴りつけた。


 まともじゃない。何もかもが。

 理解できないし、気持ちが悪い。


「……」

 でもなぜかさっきの桜子の顔が頭から離れてくれない。

(なんなんだよ……あんな顔……)

 構ってくれることが嬉しいのか。

 押し倒されたことに腹を立てているのか。

 両親の死を悲しんでいるのか。

 はたまた楽しいのか。

 喜怒哀楽がない混ぜになったひどく歪な表情だった。

 いやそれ以前に。


 


 ふと、春哉は外の桜の木を見る。日はもう落ちていて、月光が池に反射し、桜をライトアップしている。

 春哉の母が特に好んでいた情景だ。

「……母さんの、教え子の娘」

 正直、春哉には全く関係ない。わざわざ関わる義理もない。

 しかし春哉はふと考える。

(……母さんならどうしただろう?)

 春哉は教師としての母を知らない。もしかするととんでもない敏腕教師だったのかもしれないし、その真逆もあり得る。

 でも春哉の知る母は優しかった。病気に蝕まれていても常に春哉のことを一番に考えていてくれた。だからそんな母はきっと良い教師だったのだろう。


 もう一度、桜の木を見ながら春哉は桜子のことを考える。


「……綺麗だったから、傷つけたっていうのか」

 

 彼女の言葉を借りるなら、そういうことになるのだろう。

(意味がわからない)

 春哉はゆっくりと歩き始める。

 未だわからないこの気持ちを持ち続けながら。

 夜を迎えた。

 

・5・


 数日後、春哉が門の前を掃除していた。

 なんとなく、あの日以来春哉は桜子を避けていた。今もこうして彼女から距離を取っている。

 すると、一人の男が春哉に声をかけてきた。

「やぁ。君、ここの子かい?」

 優しそうな若い男性だ。二十代中盤といったところか。少し服装がだらしがないこと以外はいたって普通だ。

「はい。うちに何かご用ですか?」

「ここに桜子って小学生くらいの女の子がいるだろう? 僕はその子の遠い親戚なんだ」

 つまりは引き取りに来たと男は言いたいのだろう。それならこっちは助かる。変な気遣いをしなくて済むのだから。

「わかりました。すぐに祖父にお伝えします。中でお待ち下さい」

「あ、ちょっと待って。その前に電話を済ませてからね」

 そう言った男は門から少し離れたところで電話を取り出す。誰かからかかってきたようだ。

 春哉も近くにいた門下生に祖父を呼ぶように伝えた。あまり今は直接会いたくなかったからだ。

 そして案内するために男の元に戻ると、


「——大丈夫ですって。不倫相手の女の娘ですけど、全く面識ないわけではないしバレませんよ。顔だけは可愛いですし、仕込めば当面は稼げると思います。はい——」


 春哉には男の言っている意味の全ては理解できなかった。

 だが。

 一つだけ確かなことがある。


 それは男が桜子のことをこれっぽっちも心配していないということだ。

「……」

 なぜだか奥歯に入る力が強まった。



「ふむ。それでお主があやつを引き取ると?」

「はい。ここから遠くはなりますが、桜子ちゃんの面倒は親戚である私と妻が責任を持ってみようと考えています」

 男は誠実そうにそう答えた。どうやら結婚しているようだが子供はいないらしい。

 しかし自分は男の本性を知っている。遠くからその芝居を見ていた春哉は胸糞が悪い思いだ。

「桜子よ、お主はどうじゃ?」

「……私は、構いません」

 桜子は人形のように全く動かず、ただ返事をした。竜厳が面識はあるかと問えば、もう一度コクンと頷く。

「では——」


「いや待て」


 竜厳は手で制した。まるで衝撃波を受けたように威圧された男は思わずたじろぐ。

「な、何ですか? まだ、何か? 必要な書類は全てこちらで——」

「いや何、この子の監督役はワシではないからのう。ワシの一存では決められん」

「え、それはどういう?」

「春哉!」

 唐突に竜厳が自分の名前を呼んだ。

「はい!」

 外で待機していた春哉は思わず答えた。

「中へ入れ」

 言われるがまま、春哉は中へ入り、男の横に座った。


「監督役ってこの坊やですか? ハハハ、ご冗談を——」

「何か、問題でもあるのかの?」

「ッ!!」

 竜厳の迫力に男は押し黙る。


「して春哉。お前はどう思う? この男に桜子を任せて良いのか?」

 竜厳は春哉に問う。


「僕は……」

 みんなが。桜子さえも春哉を見ている。

 普通に考えればこれはチャンスだ。桜子にとってはもちろん、春哉に取っても厄介払いができる。

 なのにすぐにOKを出せない。

 アレを聞いてしまったがために。


 いやそれ以前に——心配だった。


「僕は、ふさわしくないと思います」


「ほぅ」

 竜厳は興味深そうにそう答えた。

 だが隣にいた男は違った。

「は? お前、何言ってんの?」

 男は春哉の言葉に激怒した。さっきまでの誠実そうな雰囲気はどこかへ消えていた。

「この方は彼女を何か金儲けのために利用しようとしています」

 今の春哉には確信があった。


 目の前の女の子を守らなければならない。


 そんな確信が。

 祖父に言われたからではない。

 母親に関係があるからでもない。


 春哉は自分の中にある「わからない感情」に従っただけだ。


「ふむ。その話が本当ならば、お主にこの子は任せられんな」

「ちょっと待ってください! 子供の言うことですよ? そんなのデタラメに決まって——」

「喝!!!!!!!!!!!!!!」

「ヒィィ!?」

 竜厳の覇気が部屋を支配した。男は思わず尻餅をつく。春哉も普段は感じないピリピリとした感覚を肌に感じていた。

「くそっ! こうなったら!」

 男はポケットからナイフを取り出し、春哉に迫る。

 現状この場で最も危険な存在は竜厳であり、そのために最も効果的な人質は春哉だからだ。

「大人しくしろガキ!!」

「はっ!」

 だが春哉は臆さなかった。小さい体を最大限に使役する。

 ナイフを捌き、男の腕を掴む。そして男のスピードを一切殺さず、自身のスピードを譲渡してさらに加速させて宙へと誘う。

「うげっ!!」

 男は壁に叩きつけられ、車に衝突したかのような衝撃を背中に受けて伸びてしまった。

「ホッホッホ。見事!」

 竜厳は盛大に拍手を送る。春哉は少し照れくさかった。

「しかしまだまだじゃな。ほれ」

「あ……」

 竜厳が春哉の手を指さすと、春哉は自分の手から血が出ていることに気がついた。完全には捌ききれなかったらしい。

「桜子よ、手当てをしてやれ」


 男はその後すぐに警察に引き渡された。

 別室で、春哉は救急箱を開け、中身を確認する桜子を見ていた。

「どうして?」

「え?」

 唐突に桜子が春哉に近づいて聞いてきた。

「どうしてあの男の人を認めなかったの? 私、あの人知ってるよ?」

「どうしてってお前、ついて行ってたらあの男にきっとひどいことされてたんだぞ?」

「それが何?」

 桜子は言ってることがわからないというように首を傾げる。

「だから、その……」

「?」

 答えられなかった。何せ春哉自身自分の気持ちがわかっていないのだから。

「とにかく! あんまり自分を粗末にするな。痛いのが愛とか俺には……痛ッ!!??」

 春哉は思わず叫んだ。桜子が消毒液を傷口に吹きかけたからだ。

「フフ……」

 桜子が笑顔を見せる。

「もうちょっと優しく……」

 春哉も思わず笑みを見せた。


 今思えばこの時笑って済ましたがために、この後とんでもないことになってしまうことをこの時の春哉は知る由もない。


・6・


 その日の夜。

 春哉は布団の中で横になっていた。

 久々に武術を使ったせいか、思考とは裏腹に身体は未だ興奮している。

 半分くらい意識は睡眠に傾きかけているため、このままもうじき眠りに入るだろう。


 しかし、モゾモゾと足元に妙な感触を春哉は覚えた。


(ん……何だ?)

 少し首を上げ足元を見ると、人影が見えた。それは布団の中に入り込み、徐々に春哉に迫ってくる。

(え!? え!?)

 さすがの春哉もこれには動揺を隠しきれなかった。

 そして布団がガバッとはだける。

「……さ、桜子ちゃん?」

 まるで潜水から浮上してきたように大きく息を吸い、桜子は春哉の顔を上から眺める。

 あの時とは違う。今は本当に笑っている。

「な、何だよ?」

 まだ少し寝ぼけていて、春哉の意識は朦朧としていた。


「私、あなたのこと好きになったかもしれない」


「は? 何——」

 春哉が言い終えるよりも先に


 ガッ!


(ヒッ!?)

 春哉の意識は強制的に覚醒させられる。

 それもそのはず。桜子がいきなり持っていたナイフで枕を突き刺してきたからだ。

 桜子は首を傾げるが、春哉にはわかった。あれは確実に春哉の額を狙っていたものだ。暗かったのが幸いだった。

 春哉は勢いよく飛び跳ねて、桜子から距離をとる。

「お、お前! いきなり何するんだよ! なんか恨みでもあんのか!!」

「恨み? どうして? 今私、あなたのこと好きって言ったよ?」

 何を言っているのか? と不思議な顔をされる。

「だったら何でナイフなんて持ってきた!?」

「だってさっき消毒した時、あなた笑ってたでしょ?」

「はい?」

 わけがわからなかった。彼女が何を言っているのか。

「もっと痛くすれば、もっと喜んでくれる」

(あーそうか。こいつ確か……)

 そこで合点が行く。彼女の異常性をすっかり失念していた。

 どうやらあれは自分だけに適応されるルールではないらしい。

「死ぬだろ!!」

 思わずツッコんだ。

「そうしたらお母さんとお父さんに紹介できるわ」

 笑顔でとんでもないことを言い始めた。

 桜子は再びナイフで春哉に向かってくる。

(こいつ……速い!)

 何とか横に飛び込む形で避けるが、今のはかなり危なかった。


 両親から受けていた虐待。

 桜子はそれを愛だと信じている。

 自分のことを思って動いてくれた目の前の少年は、少女にとっては王子様のように映ったのかもしれない。それは誰もが感じる恋の瞬間だ。

 だからこれは春哉に対して行う少女の最上の愛情表現。

 文字通り恋する乙女が好きな男の子にしている。


 なりふり構っていられない。暗くてよく見えないため部屋中のものがガシャガシャと音を立てて足や手に当たる。とりあえず距離を取るために春哉はそのままの勢いで障子を破って外に出た。


「ん? どうした春哉」


 ちょうど部屋の前を通っていた竜厳が春哉に声をかけた。

「じ、爺さん。助け……おわっ!!」

 桜子の追撃が春哉を襲う。木の床にナイフが突き刺さる。

 竜厳もこれには驚く。桜子の顔が今まで見たことないほどにキラキラと輝いていたのだから。

「ほー。随分仲良くなったようじゃのう」

「どこが!?」

「ねぇ春哉くん。逃げないでよ♡」

 春哉は素早く立ち上がり走り出した。

 二人は庭の桜の木の周りをぐるぐると走り回っている。

 桜子はどこまでも春哉を追っていた。その目には春哉しか映っていない。


(ようやく笑顔を見せたか。……少々考えていたのとは違うが)

「ま、大丈夫じゃろう」

 そう言って竜厳は豪快に笑った。

「笑ってないで助けてくれ!!」


 まず一つ。桜子は前に進んだ。

 両親を失って生きる意味を失った彼女にできた新しい居場所。

 それがたとえ間違った形であっても、絶望するよりかは遥かにマシだ。

 生きる理由を彼女は得た。

 同時に殺す理由も。


 これから二人の間には様々な出来事が待っている。

 そして月日は流れ、春哉はあの時わからなかった本当の気持ちにようやく気づくのである。


 たとえそれが。

 どんなに歪でも、どんなに狂っていても。

 この気持ちの本質はきっと間違いではない。


 それが彼らにとっての愛のカタチなのだから。





*ちなみに、この日を境に春哉は道場での稽古を真面目にやるようになりました。





番外編・桜子さんの殺人レシピ 完

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桜子さんの殺人レシピ 神島大和 @Yamato

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