愛の王女と死の王子

 老人は少女を戒めから解き放つと、彼女を攫って城から逃げ出しました。月下を駆ける老人は、その老いを感じさせぬほど軽やかでした。少女によって愛を与えられた体は、力に満ちあふれていました。風のように駆ける姿は、まるで幼き少年の頃に戻ったよう。城を抜け出した老人は、彼の国民たちに背を向けて、新たな世界へと旅立ちました。

 もはや彼が求めていたのは、死を乞う国民たちではありません。今この腕に抱かれる、小さな少女だけでした。孤独な老人は、もはや死を与えることも、乞われることも望んではいませんでした。

 ただ。

 腕の中の少女は、頬を薔薇色に染めて老人に微笑みます。

 老人は心の底から、少女に微笑み返しました。

 彼が望んだのは、優しく溶け入る愛だけでした。

 追手をふりきった二人は、森を歩き、海を渡り、空を見上げました。それらは幽閉されていた少女にとって、かつてないほど美しいものでした。老人は少女にあらゆるものを贈りました。空に架かった虹。湖に浮かぶ月影。空から零れ落ちた冷たく白い欠片。素敵なものはたくさんありました。一つひとつ丁寧にリボンをかけて、老人は少女に贈り物を贈りました。

 少女はそれらに手を伸ばしては、瞳を輝かせていました。

「こんなもの、あの城にいる間は見られなかった。とても、きれい」

 少女は、老人が贈るもの全てに目の色を変えて喜び、彼に微笑みました。

 しかし喜ぶ少女にも、唯一つ、老人から受け取らないものがありました。

 それは森の奥深く月明かりの下ひっそりと咲いた薔薇の花でした。夜露を受けて、きらりきらりと輝く薔薇の花。それは花弁の華やかさを誇っていました。赤く輝く光の花。美しい綺麗で素敵な贈り物。しかし、少女はそれを手折ろうとする老人の手を留めました。

「いいの」

 彼女は儚げな微笑みを浮かべていました。

「このままが一番きれいだから」

 少女は決して老人から『死』を受け取ろうとはしませんでした。彼女が老人に死を乞うことはありません。二人の間は死ではなく、愛によって結ばれていたのです。

 やがて歩き続けた二人は、王国の外れに建つみすぼらしい小屋にたどり着きました。そこはかつて老人が少年だった頃生活した小屋でした。なつかしさに顔を緩める老人を見て、少女は我が事のように喜びました。彼女の提案から、二人はそこに住まうことになりました。

 貧しくも穏やかな生活が始まりました。

 必要なものは近くの村まで行き、老人は少女のために働きました。

 通うようになった村には、悲しいことに老人を覚えているものはいませんでした。泥人形と呼ばれた少年は、人々の記憶の彼方に消えていました。『死』ではない彼を必要とするものは誰もいなかったのです。

 悲しみが胸を覆いましたが、老人はすぐに立ち直りました。老人には、傍らで微笑んでくれる少女がいました。彼女の微笑みが、老人の存在を肯定していました。

 彼は身を粉にして働き、初めて得た賃金で彼女のための服を買いました。

 ふわりと揺れる、白のワンピース。決して高価なものではありませんでしたが、裾のレースが繊細で揺れる様子が美しく、老人は初めて見た瞬間に、それを彼女のために贈ろうと思っていました。丁寧にリボンで包み込んだ贈り物。それを手渡したとき、少女はひどく驚いていました。彼女はその目を何度も瞬いて、贈り物をなかなか受け取ろうとしませんでした。

 気に入りませんか。

 そう尋ねると、大きく首を振り、じわりじわりとその頬を朱に染めました。嬉しそうに、はにかんで笑う彼女の、その笑顔。謝辞とともに、頬に口づけられる、そのぬくもり。彼女の一挙一動に心動かされ、それを愛おしいと、老人は胸のぬくもりとともに思いました。

 老人は幸せでした。少女は老人に確かな愛をくれました。かつて花嫁が彼に与えた偽りの愛ではない、真実の愛です。老人は自分が死に近づいていることを忘れて、束の間の愛情に溺れました。

 しかし、幸福な時は続きません。二人の時間に、やがて影が差しました。

 あるとき、老人は働きに行く最中、湖畔に光り輝くものを見つけました。静かな水面を反射させ、月の光を受けて輝くそれは、一振りの銀の剣でした。

 見た瞬間に、鳥肌が立ちました。細見の刀身には、見覚えがありました。

 それは、死の王子の剣でした。幾千の涙と、幾万の血に濡れた、死の象徴。彼自身とも言える、銀の剣です。

 何故このような処に。老人は戸惑いました。

 王子の座から逃げ出したとき、城に置き去りにしたはずの『死』は、今静かに彼の前にたたずんでいました。

 恐る恐る手に取ると、それはひどく手になじみました。それは、彼だけの剣。彼だけの死。失われた彼の半身でした。

「死の王子……」

 声に驚き振り向いたとき、そこには白いドレスを身にまとった女が、立っていました。

 彼女は花嫁。死の王子の伴侶である、花嫁です。王子と目が合うと、彼女は花がほころぶように微笑みました。

「探しました。帰りましょう」

 そう言って駆け寄り、愛おしげに触れた指先。それを、死の王子は忌々し気に振り払いました。すると花嫁は、愚かしい子どもを見るように、王子を見上げました。

「愚かな死の王子、貴方はまだ分かっていないのですか。貴方の幸福は、ここにはありません。本当は分かっているのでしょう。彼女の与えるものが、『何か』。『彼女』が、何か」

 彼女が口にしたのは、今まで老人が避け続けてきた、真実でした。愛する少女の、その特別な力。それがただの奇跡でないことを、死の化身である老人は知っていました。知っていながら、向かい合うことから避け続けていました。老人は少女に自分が死の王子であることを告げることができずにいました。真実を告げたとき、この儚い砂糖菓子のような愛情はもろく溶け落ちてしまうのではないかと、老人は危惧していたのです。そんな老人の迷いを見透かしたように、花嫁は容赦なく、真実を突き立てました。

「彼女は、愛。真実の愛です。そして、貴方は理解していないのです。愛が、いかに醜いのか」

「……愛が、醜い……?」

 老人は訝しげに花嫁を見つめました。それは思いもよらぬ言葉でした。

 愛が、少女が、どうして醜いのでしょう。

 彼女は可憐で愛らしく、あんなにも慎ましいのに。

 しかし、彼女は戸惑う老人に、花嫁はほっと息をつきました。

「やはり、まだ知らないのですね。よかったですわ」

 そして、振り払われた指先を今一度絡めて、花嫁は老人の手を引きました。

「一緒に帰りましょう。愛していますわ。死の王子。貴方は真実の愛に手を伸ばしてはなりません。あの汚らわしい女など、貴方にはふさわしくありませんわ」

 汚らわしい、女。その言葉で、目の前が怒りで染まりました。

 今までどんなに自分自身を罵倒されようと、彼は静かに微笑み続けてきました。しかし今となっては、彼は愛する者に対する罵りの言葉を黙って見過ごすことはできませんでした。

 老人は怒りのままに、花嫁の首を掴んで引き寄せました。

「あなたに、彼女の何がわかるというのですか」

「……わかりますわ。きっと貴方よりも、ずっと……」

 首を掴まれた花嫁は、悲しげに目を伏せました。

「……わたくしは、彼女の愛ですもの」

 ほの暗いものが、胸の内を覆っていました。彼女の言い方では、まるで自分が彼女の真の理解者ではないようでした。いいえ。老人は心の中の声を否定しました。彼女を一番に愛しているのは自分なのです。感情は強まり、その心に呼応したように、手の力も強まりました。

「……ぐっ…………あ、なたは…………あい……を……理解……できな」

 手のひらの力は弱ることなく、花嫁の首を絞めていきました。口の端から涎をたらし、花嫁は足をばたつかせましたが、そのような抵抗は死の王子の前では無意味でしかありませんでした。

 やがて。ばきりと。骨が砕ける音が響き、沈黙がその場に訪れました。白い腕は力を失い、ぱたりと腰の横に落ちました。微かな抵抗は失われ、花嫁はうめき声さえあげなくなりました。

『どうかわたくしを貴方の花嫁にしてください』

 記憶の向こうで、少し照れた微笑みがゆらりと揺れます。

 まだ何も知らぬ少年のころ。献身的に支えてくれた花嫁。手と手を取って、日々をともにした、永遠の伴侶。かわいらしいと、いつか思ったその微笑みごと。死の王子は、花嫁をくびり殺しました。

 それを見守るように、湖畔には銀の剣が突き刺さったまま。生きるものを失った場は、静寂に飲み込まれました。

 震える体を抱えて、老人は家に走りました。

 手に残る感触。最後に見た、花嫁の苦悶の顔。そのすべてが、老人を苦しめます。老人はすぐにでも少女に縋り付いて泣き叫んでしまいたかったのです。今まで少女に告げてこなかった、己の正体をすべてさらけ出し、泣いて懺悔をしてしまえば、彼女はきっと微笑んでそれを許すでしょう。彼女は愛。慈しみとともに、打ち震える老人を抱きしめてくれることでしょう。そうして、はやる心のままに家に駆け寄り、その扉を開こうとしたところで、老人は違和感に手を止めました。

 それは、普段ならば老人が留守にする時間でした。少女一人が家に残される、しじまの時間のはず、でした。

 しかし、一人きりの家から、話し声が響いてきました。少女と、誰かの声が、くすりくすりと声をひそめて笑う。それはどこか。とても、淫らで甘い笑い声です。

 怪訝に思った老人は静かに家の扉を開いて、中に入りました。物音は、変わらず、少女の部屋のほうから聞こえました。気付かれぬように静かに近づき、わずかに開いた扉の、小さな隙間、そこから、老人は部屋の中をのぞきました。

 そこには、目を疑いたくなるような光景が広がっていました。老人が見てしまったのは、愛おしい少女の姿。そこには村の男とまさぐりあう、少女がいました。互いの体液をこすりつけ、ねぶり合う。それは、何ともおぞましい光景でした。


 なんだ、これは。


 猛烈な吐き気に身を震わせて、老人は口を押えました。

 目の前で繰り広げられるものが、何か。それは、老人の理解を超えていました。寝台の下には、白い服が脱ぎ捨てられていました。レースはたわみ、生地はくしゃりと折れ曲がって、皺を作っていました。それは、老人が彼女に贈った愛でした。

 愕然とする老人の視線の先で、少女は微笑み、村の男の口を吸って言いました。

「愛しているわ」

 その視線の先は、老人ではありません。名も知らぬ、一人の男に、その愛はささげられていました。瞬時に湧きあがったのは、燃える黒い炎でした。

 老人はすぐさま扉をあけ放ち、少女に跨る男を殺しました。そして噴き出す血にまみれたまま、少女を詰りました。

 これは、何なのです。いったい、どうして。私はあなたを愛しているのに、これは。

 私はこんなにも、あなたを愛しているのに――

 激怒する老人に、しかし少女は首を振って微笑みました。

「貴方は私を愛してない。貴方は、愛ではない」

 己の胸に、手を当てて彼女は言いました。私が、愛です。と。

「私は『愛』。あらゆるものを愛し、そして生み出す母」

 そういうと、彼女は血だまりの中に沈む死体に口づけました。老人が殺した、彼女の愛すべきもの。それを、彼女は愛おしげに抱きしめました。

「私は、すべてを愛しているの」

 物言わぬ死体を抱く少女。

 老人は顔を歪めました。彼女は男の体を抱きしめて、微笑んでいました。彼女の唇が語る愛は、老人ではなく死体へ。彼女の唇は、老人ではなく、物言わぬ男へ与えられていました。

 それは、老人の願いと、大きく異なっていました。震える手を握りしめ、彼は王女に言いました。

「……どうして、私を愛しつづけてくれなかったのです。私にはあなたが必要だというのに」

 しかし、困惑と潜めた怒りを向ける老人に、愛の王女は微笑みつづけました。

「変なことを言うのね。愛しているわ。貴方が全てを殺しつくすように、私は全てを愛するの。大好きよ、ねえ、死の王子様」

 老人は、目を見開きました。少女は、老人の正体が死の王子であることを知っていたのです。うろたえる老人を諭すように、少女は微笑みを濃くしました。

「貴方に私は分からない。私は愛の王女。貴方は死の王子。貴方は私とは違うものよ。死は終わりがあるだけ。死は穢れなきもの。だから私はこんなにも醜いのに。貴方はそんなにも綺麗」

 『死の王子』に、愛の王女は手を伸ばしました。その白い頬に物欲しそうに指を這わせ、そのまま唇に親指の腹をこすりつけました。

「私は愛。貴方は死。だから、私たちは、とても遠い」

 落とした視線の先、そこに二人にとっての国民が、死に果てていました。それは、愛すべき民、そして死すべき民でした。物言わぬ国民を見つめて、彼女は静かに言いました。

「そして、貴方は、また。私の愛する者を殺すのね」

 その言葉を残して、少女は裸のまま、二人で暮らした家を飛び出しました。

 老人は少女を追うべきか、悩みました。しかし、彼女との時間をふりかえり、愛しい少女の微笑みを思って、老人は立ち上がりました。

 分かり合えるはずです。彼女の思い違いを正し、二人の愛の絆を結びなおせば、きっと再び微笑み合うことができるはずです。二人の今までの時間は、それほどに、愛おしくかけがえのないものでした。老人は、彼女を信じて、彼女を追いかけることにしました。

 愛の欠いた体は、走るたびにきしみました。背筋はどんどんと曲り、皺に顔は覆われ、息はあがり、喉からひゅーひゅーと風のような音が漏れます。苦痛に全身が支配された頃。やがてたどり着いたのは、老人が花嫁をくびり殺した湖畔でした。

 長い時間をかけて、追いかけた少女の足跡の先。求めた愛の果てに、そうして老人は見てしまいました。湖畔の向こうで、男も女も動物もあらゆるものと交わる少女を。彼女は恍惚の笑みを浮かべ、彼らに自らの身体を差し出しています。欲にまみれた肉塊たちを前に、老人の目の前が、絶望で塗り固められました。黒く塗りつぶされた世界で、老人は、今までの記憶が、思いが、玻璃のようにもろく、砕け落ちていく音を聞きました。

 顔を覆ってうつむき、涙をこらえて、彼はあふれ出たものを押さえることができませんでした。

「汚い」

 王子は吐き捨てるように、言いました。

 視界を覆っていた手をはずし、少女を、汚らわしいと見降ろしました。

 丁度そのとき、視界の端に光り輝くものがありました。輝きは湖畔のすぐ傍。その輝きの正体を、老人はすでに知っていました。

 死の王子は、湖畔に浮かぶ銀の剣を抜き放ちました。そして迷うことなく、その剣を少女に群がる肉塊に向かってふるいました。血が飛び散り、肉が削げ落ち、骨が露出しました。臓器は肉からはみ出て、大地を彩ります。そうして、その場が赤く彩られたとき、その場に生き続けていたのは、少女と老人だけでした。

 老人は静かに、その切っ先を少女に向けました。肉の塊の中で向けられた殺意に、侮蔑の視線に、愛の王女は瞬きました。

「私を、殺すの?」

 かつて愛した少女が――愛の王女が死の王子を見上げて微笑みました。

 愛? いいえ。あれは、きっと愛ではなかったのでしょう。

 なぜなら、王子は死。彼は誰も、愛することなどできないのです。

 老人は涙を流して、その剣を大きく振りかぶりました。まぼろしの愛を掻き消し、彼を惑わす醜い魔女を殺すのです。しかし。

 剣を振り下ろそうとしたとき、それは訪れました。


 老人の胸が、大きくどくりと脈打ちました。


 取り落とした剣は、あてもなく地面に突き刺さりました。老人は胸を押さえてその場にうずくまります。鼓動は暴れ馬のように、早く強く胸を打ちました。汗が吹き出し、震えが止まらず、老人は自身に起きた異常に打ち震えます。

「貴方に私は殺せない。そして貴方は、私を殺せないまま死んでしまうの、可哀想な、死の王子」

 見上げた先で、愛の王女は言いました。

「けれど、世界が再び愛に満ち、腐敗したとき。きっと世界は貴方を再び望むでしょう。貴方は何度でもこの世に生まれる。永久の命に囚われた私たちとは違う形で、貴方は永遠に生き続ける」

 胸の鼓動がさらに一際大きく脈打って、王子は胸を押さえて倒れました。苦痛にゆがむ世界の先で、最後に見たのは愛の王女の慈愛に満ちた笑みでした。

「また、会いましょう。死の王子」

 愛の王女の視線の先で、死の王子は――死にました。他でもない、自分自身の寿命に殺され、彼は終わりの時を迎えたのです。

 長い時間を経たのち、やがて少女は死に絶えた老人に手を伸ばしました。時の止まった体に触れて、その鼓動を求めて胸に指を這わせましたが、そこに生きていたときのぬくもりはどこにもありませんでした。

「……」

 彼女は微笑みを凍らせました。

 その指は躊躇いがちに。彼の鎖骨へ、首筋、顎。頬をたどって、やがて唇に触れました。

 しかし、いつか触れたものと異なり、血の気を失った唇は、冷たく、凍えるように冷たかったのです。愛の王女は、彼の唇に口付けました。しかし、何度愛を与えても、その唇に熱が灯ることはなく、その体に再び命が満ちることはありませんでした。

 愛の王女は、瞼を閉じました。

 そして彼女は言葉を封じたまま、新たな人形を作ります。動かぬ屍と化した少年の隣で、彼女は新たな『はじまり』を作り上げます。再び目覚めたとき、彼が寂しくないように彼女は二体の人形を作りました。

 熊の人形は、彼の初めての友人となることでしょう。花嫁の人形は、伴侶として彼を支えることでしょう。一針一針、思いをこめて、彼女は人形たちに愛を吹き込みます。

 それは、少年への愛。心が優しく温まる親愛と、突き刺すような悲哀。そして、胸の内を焼き尽くすような黒い嫉心。少女は秘めた思いすべてを、人形たちに注ぎました。

 やがて、二体の人形を作り終えたとき、愛の王女は立ち上がりました。

 彼女の『愛する』国民が彼女を望んでいました。長く、死のみを与えられた国民たちは、愛に飢え始めています。王子の屍から離れて、愛すべき国民たちの声にこたえねばなりません。

 しかし、立ち上がった愛の王女は、震える足を律することができませんでした。

 彼女は再びその場に崩れ落ちて、王子の体に縋り付きました。

 どうして、と愛の王女は思いました。

 不器用に、実直に。彼が与えてくれたもの、そのぬくもりを、王女は知ってしまいました。彼が必死に働いて、はじめて贈ってくれたワンピース。白いレースが精緻で、自分には美しすぎるそれに愛の王女ははじめ戸惑いました。彼に愛がないと、どうして言えるでしょう。彼はどこまでも誠実に、王女を求めてくれました。その無邪気な微笑みに、その優しい指先に何度心奪われたか。何も知らぬ少女のように、頬を染めることができたのは、彼にだけでした。それなのに。


 どうして、と彼女は涙を流しました。

 たった一人を愛することができたなら、貴方が死でなければ。私が、愛でさえなければ。

 しかし、その仮定のなんと愚かしいこと。少女は愛の王女で、少年は死の王子。なればこそ、二人は惹かれあい、この広い世界で出会うことができたのです。

 やがて、長い時間をかけて、涙を止めた愛の王女は、力ない微笑みを浮かべました。

 愛を、国民たちに与えなければなりません。与えたくもない愛を、国民たちに与えて腐らせなければなりません。そうでなければ、彼は。腐敗の中から生まれる彼と、再びまみえることは許せれません。しかし、蘇った少年は最後には、すべてを愛する王女を再び蔑みの目で見降ろすことでしょう。汚いと、また罵りの言葉を受けるかもしれません。

 それでも。

 愛の王女は、傍らの熊と花嫁に口づけしました。その微笑みは。慈愛に満ち満ちていました。彼女は国民たちを愛します。彼女は、王子を愛しつづけました。愛の王女は、そうして。やがて再び訪れる腐敗を永遠に待ちつづけることとなりました。

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愛の王女と死の王子 松井駒子 @hima505

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