死の王子

 月日が流れました。

 死の王子は、かの国に多くの死を与えました。国民達は喜びに震えながら死んでいきました。多くの死とともに存在した彼の隣には、いつも美しい花嫁が微笑んでいました。王子と花嫁、その二人が隣り合うとき、そこには永劫の輝きを放つ美が存在していたのです。

 しかし――月日は、死の王子に残酷でした。彼は死を司る者であり、数多くの者たちの死に対面してきましたが、その一方で己の死へは無頓着でした。彼が己に迫り来る死に気付くことができなかったのは、その死が彼以外には訪れることのない、彼の知らない死の形であったがためでした。

 月日は、彼を青年から醜い老人の姿へと変えました。歩く度にその身はきしみ、猛烈な痛みが彼を襲いました。そしてついには立つこともままならなくなった老人は、車椅子に腰掛けるようになりました。自らの変わり果てた姿に、彼はようやく自らの運命を悟ったのです。逃れられぬ死の運命。それこそが、彼が死の王子たる所以でもありました。

 そうして死期を悟った老人はあるとき、傍らに立つ美しい花嫁に向かって言いました。

「私はもうすぐ死ぬでしょう」

 車椅子から見上げる彼女の姿は、初めて出会ったときと何一つ変わりません。美しい――永劫の輝きがそこにありました。しかし彼女は顔色を変えることなく、自らの死を告げる王子に向かって、とても穏やかに言いました。

「貴方は死にません」

 花嫁は微笑みました。

「どうかあたしを殺してください」

 車椅子に座る彼の下へ、人々は変わらず訪れました。

 その日訪れたのは、年端も行かぬ少女の人形でした。彼女は笑みを浮かべ、老人にナイフを差し出し、その白い首筋を晒します。しかし、老人はナイフを受け取ろうとはしませんでした。彼は、少女に尋ねました。

「何故、死にたいのですか」

 死に行くものへ、その理由を尋ねたのは初めてのことでした。老人は戸惑う少女に優しく微笑み、ゆっくりと言葉を紡ぎました。

「私は生きていたい。あなたは、何故、死にたいのですか」

 夢を見ました。

 国民を殺す夢です。縄で。ナイフで。剣で。壷で。手で。あらゆる物を使って、青年は国民を殺します。彼らは笑っていました。彼が心臓を抉り出すときも、彼が首を引きちぎるときも、死へと向かう自身の運命を前に歓喜の笑みをその顔に浮かべていたのです。その中には涙を浮かべて喜ぶものもいました。

『何故』

 夢の中で、彼は血に塗れて言いました。死に掛けの国民は、更なる刃を乞いて言いました。

『俺には何かが足りないんだ。それを埋めてくれるのは、お前なんだ。俺は疲れてしまったんだ。死にたいんだ』

 国民の顔が、ぐにゃりと歪み、やがて熊の顔になりました。優しい優しい熊さん。彼は青年のはじめての友人であり、理解者でした。しかし熊は、死にました。 青年が殺したのです。

 熊は死んで、何も言わなくなりました。笑わなくなりました。もう二度と、怒ることも悲しむこともありません。

 青年は、熊の死体が腐るまで、毎日彼に話しかけました。寂しくなると抱きしめました。けれど、どろりと溶けた肉片が服に付くだけで、かつてのぬくもりはありませんでした。青年は寂しかったのです。青年は親友だったものを抱きしめて問いかけました。

『熊さん、あなたは幸せですか』

 答えは返らぬまま、熊は骨になりました。

『何故?』

 刃を振り下ろしながら、老人は少女に尋ねました。

『何故死にたいのですか。私は生きていたい』

 少女は刃を受けながら、笑みを浮かべて死にました。答えは返らぬまま、少女は歓喜に震えて、笑いました。笑いながら、殺されたのです。

 笑っていたのです。

 思えば彼らはいつもそうでした。死ぬときはいつも、笑っていたのです。

 死ぬのは、楽しい? まさか。死とはなにか。死とは。痛い? 怖い? 苦しい? 恐ろしい。

『熊さん、あなたは、幸せですか』

 どろりと頭蓋骨から削げ落ちた肉。答えない熊。死の王子の頬を伝わる涙。

――幸せなはずが、ない。

 私は、彼らに何というものを与えてしまったのだろう。

 恐怖に震えて、嘆いても、答えはありません。死の王子は、罪に怯えて落涙し、やがて唇を噛んで一つの結末にたどり着きました。。

 熊さん、私はもうすぐ、あなたのもとへ行きます。

 目覚めたとき、老人は己のすべきことを理解していました。彼は枕元に置いてあった銀の剣を手に取りました。それは、彼が熊を殺し、『死の王子』となったときに与えられたものでした。刃こぼれ一つ無い剣が月の光を浴びて輝きます。なんと綺麗なのだろう。あれから月日が過ぎ、青年は醜く老いました。けれど、この剣の輝きは、まるで死者の命を吸い取ったかのように、血を浴びるたびに増していきました。老人はその美しい刀身を眺めます。この輝きは私の罪。この剣は私の罪。罪とはなんと美しいのか。

 贖罪を。

 脳裏に熊の笑顔が浮かびました。兄のように父のように青年を見守ってくれた親友は今はもういません。彼は青年に殺され、青年は醜い老人になりました。彼は祈るようにその剣を高々と掲げました。

 熊さん、今あなたのもとに行きます。私は多くの命を奪いました。多くの罪を犯しました。贖罪を。どうか、贖罪を。

 最後の力を振り絞り、彼は剣を己の胸に。そうして、鮮血が舞い散りました。

 月光が世界を照らす中、彼と彼女は血にまみれていました。赤い赤い血が、彼女の手から噴き出します。老人の心臓を抉るはずだった剣は彼女の手を赤く染めていました。

「いけません」

「何故……」

「何故?」

 彼女は笑いました。

「私は貴方の『花嫁』ですもの」

 花嫁は己の手から苦労して剣を抜き取りました。剣を抜き取ると、彼女の手から血が溢れ出ましたが、彼女は特に気にせず、剣を床に放り捨てました。剣は冷たい音を立て、老人には手の届かないところへいってしまいました。もの欲しそうに剣を見つめる老人の頬を、彼女は血に塗れた両手で包みこんで、言いました。

「私はずっと、私という存在を疑問に思っていました」

「花嫁?」

「そう、私は『花嫁』です。私は『花嫁』という役割を持っていました。けれど、私は『花嫁』ではなかった。私はただの、愛の王女のお人形。愛玩される道具にすぎませんでした」

 花嫁は、王子の寝台の端に座り、じっと彼を見つめました。

「『花嫁』でない『花嫁』に何の価値がありましょう。私は私ではなかった。では、私とは何か。私は何のために生まれたのか。私はずっと疑問に思っていました。けれど、私は貴方と出会った。貴方を見たとき、私の中で全ての疑問が解けました。私は貴方の『花嫁』だったのです。貴方という伴侶を得たとき、ようやく『花嫁』である意味を得たのです。私は、貴方がいてなりたっているのです。だから」

 両頬に感じる花嫁の手が、酷く冷たく感じました。

「だから、貴方を失うわけにはいかないのです。貴方は死にません。私が私であるために、貴方は死なせません」

 老人は、青ざめて言いました。

「あなたは……私を、愛してはいないのですか。愛していたから、私たちは」

「愛?」

 ふっと彼女は鼻で笑い、やがて耐えられなくなったように、高らかに笑い始めました。広い寝室に彼女の笑い声だけが木魂しました。老人は、恐怖を覚えました。いつも側にいて、微笑み、老人を支え続けた花嫁はもうそこにはいませんでした。

「はっはは……『死』である貴方が、『愛』を語るのですか。愚かな人。貴方も私も、『愛』など持っているはずがないでしょう。『愛』を持つのは世界でただ一人。『愛の王女』だけなのですから。その哀れな愛の王女も貴方に王国を奪われて、もはや愛するものをもたぬ名無しにすぎません。そう、貴方を愛するものなどいないのです。けれど」

 花嫁は血に濡れた小指で、その唇をなぞりました。血が彼女の唇に色を添えました。紅く彩られた唇の端を持ち上げ、扇情的に彼女は言いました。

「貴方がそれを欲しがるなら、私はいくらでも模造品の『愛』を差し上げましょう。私には貴方が必要なのですから。ええ、私の死の王子様。私は貴方を」

 花嫁は醜い老人に深く口付け、白いドレスを脱ぎ捨てます。彼の唇に血塗れた指を這わせて、紅を引きました。まるで、所有の証のように。

「『貴方を愛していますわ』」

 花嫁の微笑みを、自分の体をまさぐる手を、老人は気持ちが悪いと思いました。

 これは、愛ではない。

 老人は全てを拒絶するかのように、瞼を閉じました。

 剣は、取り上げられました。

 もっとも老人にはもはや誰かを殺すだけの力はありませんでした。全身の痛みは日増しに激しくなり、ついには息をすることも億劫になりました。年老いた老人の灯は、消えようとしていました。

 老人は、誰もいないひっそりとした寝室で、冷たい天井を見つめ続けていました。絶望に彩られた世界。彼はただ迫り来る死を待ちました。

 虚ろな目で、彼は彼の王国を見つめました。

 私は何と孤独なんだろう。私は何も手に入れることができなかった。死の王子となった私が手に入れたものは何もない。手に入れたと思ったものは全て幻で、私が欲しかったものは、全て。自分自身で殺してしまった。

 ああ。

 老人は願いました。

 早く死んでしまいたい。

 そのとき。

 老人の耳に微かな歌声が届きました。

「歌……?」

 耳を澄まして、老人はその微かな声を聞きました。不思議な歌声でした。それは、柔らかく悲しみを歌っていたかと思うと、時に激しく突き刺さるような憎しみを形作りました。それは、心の奥にくすぶるあらゆる老人の思いを揺さぶりました。気が付くと、老人は声を上げて泣いていました。心を揺さぶる悲しみ、憎しみ、そして、それを包み込む優しさ。それは、絶望した老人の心にじわりと溶け込み、その心を優しく包みました。老人の中に温かい何かが満ちていきます。それは、老人が求め続けたものでした。

「これが……愛?」

 老人の頬に、温かい涙が伝い落ちていきました。

 体が酷く軽く感じました。まるで背に羽が生えたようです。老人は寝台から立ち上がると、その歌声を求めました。寝室の扉を開け、絨毯のしかれた長い廊下を進み、大理石の階段を下りて、その歌声の主を探しました。 

 彼は右手に掲げた燭台を頼りに、夜の闇の中の光を探します。

 ひっそりと静まり返った城に、微かな歌声と老人の足音のみが響きます。まるで、世界が彼と声の主だけになったようでした。老人は微かな笑みを浮かべました。そうであったら、どんなにいいか。国民も花嫁もいない、彼と歌声の主の世界。愛し愛されるものだけの世界。そこに死はなく、だれも彼に死を乞わない。そんな世界ならば、どれほどよいか。

 老人は歌声をたどって、地下牢へと続く石造りの階段へ歩を進めました。

 階段を下りた先には、鼻の曲がるような酷い腐臭が漂っていました。

 埃の積もった冷たい地下牢には至る所に肉片が転がっていました。それが腐りとろけて、臭いを放っていたのです。その肉片たちには見覚えがありました。あのおさげ頭。あの長い指の手。黒い肌の足。毛皮の美しい胴体。欠けた角。肉片だけで分かりました。それらは今までに老人が殺してきた国民たちの変わり果てた姿でした。地下牢は王国の墓場。かつて生きていた彼らが、物言わぬ死体となって骨と変わる場所でした。死の醜さを全て集めた地下の世界。それを見下ろした老人は、こみ上げてくる吐き気に耐えていました。

 しかし、その腐敗の王国に、彼女はいました。

 地下牢の一番奥。鉄格子の向こうに、一人の少女がいました。彼女はその華奢な体に服の役割を持たぬぼろ切れをまとい、その細い手足を重い鎖で縛り付けられていました。病的なまでに白いその顔かんばせには大きな黒い目隠しがされていました。少女はぐったりと冷たい地面に体を預けて、歌い続けています。その歌声こそ、老人を地下へと導いたものでした。囚われの少女のあまりの姿に、老人は鉄格子に駆け寄ると、それを掴んで言い放ちました。

「なんて酷い、なんてことを。誰がこんなことを」

 すると、少女は来訪者に気づき、体を起こして尋ねました。

「だあれ」

 その声のなんと美しいことでしょう。彼女はその赤い唇を動かして、まるで小鳥がさえずるような美しい声で尋ねます。

「そこにいるのは、だあれ」

 老人は歓喜に震えました。これだ。この人だったのだ。そう心が叫んでいるのが分かりました。老人は震える体を抱きしめて、言いました。

「私は、哀れな老人に過ぎません。愛を知らず、愛を渇望して、愛を得ることのできぬものです。あなたこそ、どなたなのですか」

「……私は名前を奪われた、ただの囚われ人に過ぎないの。けれど、貴方が求めているものは与えられる。ねえ、どうか、この目隠しを外してくださらない?」

 少女は老人の声のした方向を向いて微笑みました。その微笑みのなんと美しいこと。そこにはすべてを包みこみ慈しむものがありました。

 老人は涙を流して頷きました。

 死の王子と呼ばれた老人にとって、彼女と自分を隔てる鉄格子など些細なもの。彼はそれを容易く押し開きました。彼ははやる心を抑えて醜い自分が彼女をおびえさせないようにゆっくりと近づきました。そして彼女の側に片膝をつくと、老人は震える手で少女の目隠しに手を掛けました。


 かつて。愛の王女と呼ばれた娘がいました。彼女は世界でただ一人愛を与えることができる存在でした。彼女は命を生み出し、彼らを愛し慈しみました。彼女は国民たちに愛を与えました。それは美しく、そして醜いものでした。愛は永遠の輝きを放ちながら、人々の心をほの暗いもので満たしていきました。人々の心は嫉妬や憎悪、悲哀に包まれ、不死の王国は荒れました。国民たちは互いに争い、傷つけあいました。しかし彼らに訪れる死はなく、彼らは逃れることの出来ない永遠の愛に包まれ、支配されたのです。

 そう、愛は美しく醜いものであったのです。それを、穢れなき死の王子は知る由もありませんでした。それは、愛の王女が決して死を得ることができないように、死の王子が決して愛を得ることなかったがためでした。

 愛を知らない死の王子は、それ故に彼女の醜さに気づくことはありませんでした。


 目隠しの下から現れ出たのは、光り輝く蒼の瞳でした。それは深海の青にも、果て無き夜空の青にも勝る極上の蒼。それが今、老人だけを映していました。老人は歓喜に震えて、彼女に頭を垂れました。

 少女は涙を流してかしずく老人を眺めて、彼を哀れに思いました。彼女は慈悲の笑みを浮かべて言いました。

「醜い人、かわいそうな人。どうか私を解き放って。そうしたら、私が貴方を愛してあげる」

 少女は不自由な体を伸ばして、老人に額に口付けました。驚き顔を上げる老人の唇に更に口付けを与え、そうして少女は彼に不毛な愛を注ぎました。その口付けのなんと甘いことでしょう。老人は恍惚の笑みを浮かべ、少女の鎖に手を伸ばしました。

「共に行きましょう。私は、あなたを愛してしまいました。あなたなしには生きてはいけない」

 老人は錯覚の愛に囚われて、自らの手で愛の王女を解き放ちました。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る