愛の王女と死の王子

松井駒子

愛の王女

 昔々、あるところに夜の国がありました。そこには草木も人も獣もなく、ただ闇と、ぼんやりと輝く光だけがありました。それはとても寂しい王国でした。

 いつのことだったでしょうか、その悲しい王国からぽとりと一つ零れたものがありました。それは、あまりに寂しすぎた王国が生み出した、一筋の涙でした。それはやがて形を変え、大層美しい少女になりました。少女は何故生れ落ちたのか、その意味も分からぬまま。ただ生まれいづる喜びから、小さな産声をあげました。自分の生まれた意味を見つけることもなく、少女は長く果て無きときを一人きりで生きました。限りなき生のなか、彼女はやがて知りました。

 どうして私はひとりなの。

 その孤独に気付いたとき、世界は変貌を遂げました。

 少女の小さな足元に大地が、ぼんやりと輝く光は月へ、その虚空に空ができ、零れ落ちた涙は海と化しました。少女の触れた大地には草木が茂り、花々が咲き乱れました。

 少女は寂しさゆえに一体の人形を生み出しました。白いドレスを着た愛らしい少女の人形です。少女は彼女を花嫁と呼び、愛しました。己の服を与え、その唇に紅をさし、髪をすきました。そして、多くの言葉を花嫁に投げかけました。

 こんばんは。

 ごきげんよう。

 おやすみなさい。

 はじめこそ、少女は嬉しそうに花嫁に語り掛けていましたが、やがて何の返答もないことに気付くと、深くうなだれて言いました。

「貴女が話してくれたらいいのに」

 すると花嫁は困った顔をして言いました。

「貴女が余りに話すから、私の話す暇が無いのよ」

 答えた花嫁を見て、少女は飛び上がって喜びました。

 それが命の始まりでした。

 少女はそれから多くの人形を生み出し、彼らに愛を与えました。すると人形たちは命を得て、人間となりました。やがて彼らは創造主たる少女に敬意を払い、彼女のために城を作り、彼女を『愛の王女』と呼ぶようになりました。

 それが光り輝く永遠の国、夜と呼ばれる王国の誕生でした。

 さて、夜の王国には死が存在しませんでした。不死の王女が世界に与えることのできたのは、永遠の愛であり、永遠の命だったのです。そのため、新たに生み出される命は幾多もありましたが、失われる命は一つもありませんでした。

 それはやがて王国に悲劇を生みました。

 王女の目の届かぬところで、闇は集まりその色を濃くしていきます。逃げ場のない永遠は、人々の心を少しずつ確かに濁らせました。長い時間とともに、凝縮された悪意の塊。その深い闇からぽたりと一つ、人々の悲しみに満ちた涙が落ちました。愛の王女の知らぬところで、『彼』はひっそりと産声を上げました。

 王国の中心には煌びやかなお城が聳え立っています。その玉座に腰かける者こそ、王国の支配者。愛の王女でした。

 彼女の前には、一匹の熊が跪いています。その熊は花嫁の次に作られた、随分と古い彼女の国民でした。

 熊は言いました。

「王女様、王女様、我らが愛の王女様。どうか私に愛をください。この満たされぬ心に、どうか貴女の愛をください」

 王女は玉座から立ち上がりました。

「ええ、ええ、私に与えられるものならば、私の愛すべき国民の一人である貴方に。いくらでも与えましょう」

 王女は跪く熊の元に足を進めると、その頬に唇をあてがいました。

 しかし熊は首を振りました。

「いいえ、いいえ、王女様。愛の王女様。違います。違います。足りないのです、私の心は満たされません。私には何かが足りぬのです。それを貴女が満たしてくださると、私は思っていました。けれども私は満たされません。この心は何で埋まるのでしょうか。私は、何が欲しいのでしょうか」

 悩み苦しむ熊を前に王女は首を傾げました。

「貴方の言っていることが私には分からないわ」

 熊は王女に言いました。

「多分私は、疲れてしまったのだと思います」

 夜の王国の外れに、みすぼらしい小屋がありました。そこには一人の少年が暮らしていました。大変なのろまで、いつも人の役に立てない薄汚れた少年でしたが、その心はとても澄み切った、美しいものでした。

 しかし、愛を持たない人々には、それを理解することはできません。人々は彼を蔑み、泥人形と呼びました。

 少年は泥人形と呼ばれても、石を投げつけられても、泣いたり、怒ったりは決してしませんでした。彼はただ、いつも困ったように笑っていました。

 あるとき、少年は森に出かけ、迷子になってしまいました。

 薄暗い森の中、少年は熊に出会いました。その熊は酷く尖った牙と爪、そして大きな体を持っていました。熊は少年を見ると、彼に覆いかぶさるように襲い掛かってきました。

 少年は、そんな熊に向かって微笑みました。

「こんにちは」

 熊は驚かしてやろうと思って襲い掛かったのですから、怯えもしない少年を見て、詰まらなくなってしまいました。人間は熊に怯えなければなりません。それがルールだったからです。

「お前はなんで俺に怯えないんだ」

 熊は言いました。すると少年は、きょとんとした顔をして言いました。

「どうして怯えないといけないのですか」

 少年と熊は幾度か会ううちに、友人になりました。少年にとって初めての友人です。少年はそれを嬉しく思いました。

 熊はというと、少年の不思議なペースに乗せられるままに友人になっていたのですから、何だか面白くありません。

 けれど、熊は少年のことを嫌っていたわけではなかったので、自然と二人はいつも一緒にいるようになりました。

 そんなある日、熊は自分の悩みを少年に打ち明けました。

「俺には何かが足りないんだ。俺はその足りないものが欲しいんだ。だけど、愛の王女様は、俺にそれを与えてはくださらない」

「愛の王女様とは、誰ですか」

 熊は目を見張りました。愛の王女を知らないというものが、この世界にいるとは思っていなかったのです。何しろ、夜の王国の生き物達は、全て愛の王女の愛から生まれたものなのです。

「お前は生れ落ちたときの記憶がないのか。温かい女の方がお前の前にいらっしゃっただろう」

 少年は首を振りました。

 熊は少年を見て、言いました。

「お前のことは、前々から変な奴かと思っていたが、どうやら本当に変な奴のようだ。一度愛の王女様に拝謁賜ってみたらどうだ」

 少年は頷きました。

 泥だらけの少年は、お城に住むお姫様に会うことにしました。けれど、そこには一つ問題がありました。

「贈り物?」

「そうだ、愛の王女様はあらゆる国民に分け隔てなく接せられるが、あの方に拝謁賜るならば、最低でも贈り物を用意するぐらいの心構えが必要だ。でないと失礼にあたる!」

 熊は熱弁しました。

「けれど、私にはお金がありません」

「ならば、手製のものにしてみてはどうだ。あの方はお優しいから、心がこもっていればいいのだ」

 少年は、贈り物を探すことになりました。

 少年は森を歩き、海を渡り、空を見上げました。

 空に架かった虹。湖に浮かぶ月影。空から零れ落ちた冷たく白い欠片。素敵なものはたくさんありました。しかしそれらはどれも少年には掴むことができないものでした。肩を落としながら、彼はそれでも姫君への贈り物を探し続けました。長いときを掛け、あらゆるものへと手を伸ばしましたが、彼は素敵な贈り物を見つけることができません。それどころか、少年はあまりに長く贈り物を捜し歩いたものですから、すっかり青年になってしまっていました。

 水面に映った自分の変わり果てた姿を見て、彼は一度は諦めかけましたが、けれど結局贈り物を探すことを諦めませんでした。

 そんなとき、彼は素敵な贈り物を見つけました。

 月明かりの下ひっそりと咲いた薔薇の花は、夜露を受けて、きらきらと輝き、その花弁の華やかさを誇っています。赤く輝く光の花。美しい綺麗で素敵な贈り物。

 これならば。

 青年の手が薔薇へと伸びました。

 華やかなお城に、青年は勇気を振り絞って足を踏み入れました。紛れ込んだ泥まみれの青年。彼はきらびやかな広間にはひどく不釣合いでした。広間に集まった多くの人々が彼を嗤いました。けれど、青年は嘲笑う声に一切耳を傾けず、ひたむきに前を向いて、その歩を進めました。

 そんな彼の姿を、遥かな高みから見下ろす少女がいました。世界で唯一愛を与えることが出来る少女。愛の王女です。

 彼女は、青年を見て、首を傾げました。少女は全ての国民を見知っているはずであったのに、彼のことは全く見覚えがなかったのです。しかし、王女はその疑念を勘違いで振りほどき、すぐに青年へ与える愛について考え始めました。

 薄汚れた青年。見覚えがないことから、ほとんど愛を与えられなかったのでしょう。王女には彼がひどく哀れな存在に見えました。

 よくよく見ると、その薄汚れた顔は、整っているように見えました。綺麗に繕って、愛してあげたら、きっと素敵になるわ。

 そう思って、王女はその青年が自分のもとに辿り着くのを、今か今かと胸を躍らせました。

 一方、愛の王女の左右に侍る二体の人形は、その顔を驚愕で歪ませていました。

 王女の左に立つ熊は、王女に言いました。

「王女様、あのものは私の友人でございます」

 王女は突然の熊の発言に驚きつつ、青年へと目を向けます。

「そうなの。知らなかったわ」

 王女は熊に言うと、青年を見つめます。その瞳はうっとりと蕩けてしまいそうでした。

「けれど、あのものは、おかしい。確かに……少年だったはず。どういうことだ……人形は老いないというのに」

 ぶつぶつと呟く熊の声は、光悦の表情を浮かべる王女の耳には届きません。

 王女の右に立つ花嫁は、王女に言いました。

「王女様、あのものは危険でございます」

 王女は突然の花嫁の発言に驚きつつ、青年へと目を向けます。

「どうしてそんなことをいうの」

 王女は花嫁に言うと、青年を見つめます。その瞳はうっとりと蕩けてしまいそうでした。

「わかりません。けれど……あのものはなんだか。王女様に……害を及ぼす気がするのです……けれど、どうして……こんなに、胸が高鳴るのでしょう……」

 ぶつぶつと呟く花嫁の声は、光悦の表情を浮かべる王女の耳には届きません。

 王女は、うっとりと青年を眺めました。泥だらけのぼろぼろの服。どこか乏しい感情。すぐにでも、彼に愛を与えねばならない。そう、少女は思いました。

「王女様に、最高の宝石を」

 王女の前には大臣が立っていました。差し出された美しい宝石が、きらきらと輝きましたが、王女に見向きもしません。彼女はただじっと、青年を見つめていました。王女の目には、もはや、もの欲しそうな大臣の顔など映ってはいませんでした。

 人ごみの中に姿を消しては現れる青年の姿を、王女は求めていました。彼なら、少女には無い『何か』を与えてくれるのだと確信が生まれました。迷いない足取りで広間に進む青年から、王女は目を逸らすことができなくなっていました。

「いらっしゃい」

 早く早く、私の元へ。

 美しい大理石の階段。玉座へと続く道を一段一段ゆっくりと足を踏み締め、ようやくのぼりきった彼は、ついに彼女と出会いました

「ご、ごきげんよう!」

 手に汗を握りながら、少女は目の前の青年に声を掛けました。近くで見れば見るほど、美しい青年です。泥で汚れてしまっているのが、酷く残念に思われました。

「ごきげんよう、王女様」

 青年がはにかむように微笑むと、王女は頬を染め、下を向いてしまいました。 その様子に青年は笑みを深め、その目を王女の隣へと向けました。

「お久しぶりです、熊さん」

「お前、どうして……その姿は……一体なんだ」

「ちょっと、贈り物探しに手間取ってしまって」

「贈り物!」

 少女は目を輝かせました。青年は熊から少女へと視線を戻して笑い掛けました。

「ええ、あなたに会うために、とっておきの贈り物を用意したんですよ」

 青年は、右手をその背に隠していました。贈り物を隠していると感付いた少女は、その手の先を見ようと、ひょこひょこと飛び跳ねました。

「ふふふ、喜んでいただけたら幸いです」

 彼は背中に隠していたものを取り出しました。

 そして――

 少年を中心に波のように広がった驚愕の波紋が広間を支配しました。

 世界が闇から望み、そうして生み出した、一粒の涙。その化身たる青年は、少女が世界に与えることが出来ないものを持っていました。

 愛の王女の愛らしい目が、驚愕で見開かれます。

 青年が世界に与えたものは、未だかつて誰もが願い、得ることが出来なかった純粋で甘美なもの。

『死』でした。

「なに、これ……」

 長い沈黙の後、一番早く震える唇から声を絞り出すことができたのは、愛の王女でした。

 彼がその手に持っていたのは、一体の死体。永遠のはずの命を無残に刈り取られ、力なく横たわる薔薇の花。少女が、与えることによって生み出した命が、その欠片も残すことなく、失われていました。そしてそれは、気味が悪いほど美しいものでした。

 少女は、震えながら、青年の顔を見ました。

 その人は、その美しい顔に、透明な微笑みを浮かべていました。青年は世界で唯一死を与えられる存在だったのです。


「殺して……くれ」


 そのとき。愛の王女の隣から、か細い声が聞こえました。それは、しんと静まった広間に響いて、やがて溶けました。

「殺してくれ」

 王女は、ゆっくりと隣に立つ熊の方へ向きました。

 熊が、震えていました。その瞳から涙を零し、がたがたと歓喜に打ち震えていました。

「俺が欲しかった物をようやく見つけることができた。ああ、お前に感謝するよ。お前は最高の友人だ。俺は」

「いや! やめて、熊! そんなこと、言わないで!」

 王女の制止も聞かずに、熊は言いました。

「俺はずっと死にたかったんだ」

 青年は微笑んでいます。

「お願いだ。お前にしか出来ないんだ」

 王女は、見ていました。青年がその手を、熊の首に伸ばすのを。ただなす術もなく、恐怖に震えて見ていました。

「あなたが、それで幸せなら」

 男の右手が、熊の首を絞めて、空気が漏れる音がし、熊がもがいて、それから。ごきんと冷たい音が広場に鳴り響きました。そして、熊はそれきり、ぴくりとも動かなくなりました。

 魅入られたように静まり返った広間で、青年は物言わぬ熊を抱きしめて、微笑みました。

「幸せ、ですか?」

 熊はもう動きませんでした。けれども、そのとき、人々には熊が笑ったように見えたのでした。

「……てください」

 誰かの口から小さな呟きが漏れました。

「殺してください」

  漏れた言葉を、まるで噛み締めるかのように、その隣が、そのまた隣が繰り返し、やがてそれは巨大な塊となって青年を襲いました。

「殺してください!」

 それは大きな悲鳴となって、愛の王女の元に届きました。

「殺して‼」

 青年に向かって詰め寄せる人々の山を見て、愛の王女は力を失い、その場に崩れ落ちます。

「どうして……」

 そんな少女の肩を、優しく叩くものがいました。王女が顔を上げると、そこには花嫁の笑顔がありました。一番初めの人形。花嫁はいつも姉のように少女を守ってくれた、何よりも大切な人でした。

「ごめんなさい」

 花嫁は、笑いました。

 縋りつく少女の手をかいくぐって、彼女は青年の元へ足を進めました。

「どうして……」

 救いを求めるように伸ばした手を、掴むものは誰もいませんでした。

 青年は美しい衣を纏い、銀の剣を手に、玉座に座っていました。かつて泥に塗れていた青年とは思えないほど、彼は美しく、輝いていました。

 そんな青年の前に、人々は光悦とした表情で跪きます。

 羊飼いが言いました。

「私を殺してください」

 牛が言いました。

「僕を切り刻んで、貴方の血肉にしてください」

 花が言いました。

「あたくしを摘み取って、貴方を美しく飾らせてください」

 涙を流し、死を請う彼らを青年は哀れに思い、青年は彼ら全員を殺してあげました。

 人々は青年を崇め、敬意をもって『死の王子』と呼びました。

 そんな彼の前に美しい女性が跪きます。

 彼女は少し照れながら微笑んで言いました。

「どうかわたくしを貴方の『花嫁』にしてください」

「よろこんで」

 青年は微笑みました。

 花嫁は、自分の役割を理解し、そして彼の『花嫁』となりました。

 美しく煌びやかなお城。人々の賞賛と賛辞。崇拝と玉座。花嫁と熊。それらは、愛の王女のものであるはずでした。けれど、もはやそれを持っていたのは、新たなる支配者。愛の王女は酷く青ざめて、階下から死の王子を見つめていました。

「どうして」

 震える少女の呟きに、青年は気付きませんでした。青年は玉座に座り、傍らの花嫁に口付けを。

「どうして……」

「いたぞ! かりそめの王女だ!」

 叫び声と共に、彼女のかつての国民たちが、少女を囲みました。

 人々は『王女』を指して言いました。

「かりそめ。かりそめ。我らの真の統治者が現れた今、貴様はかりそめの王女。かりそめなど、もはや必要ない」

 男達の手が乱暴に少女を捕まえました。暴れる少女の頬を打ち、その口を塞ぎ、手足を縛りました。少女は救いを求めるように、玉座に目を向けましたが、青年も花嫁も、少女に気付かず笑っていました。

 『王女』は冷たい牢獄の中へ。ぼろぼろの体を横たえ、悲しみを胸に抱き、涙を流して言いました。

「どうして……」

 王国は『死の王子』にかしずき、人々は新たな支配者の登場に笑みを浮かべました。死の王子は自分を必要としてくれる人々に囲まれ、幸福でした。

 夜の王国は、月の光を受けて、光り輝いていました。

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