右近の桜

かめかめ

第1話

 雛人形をしまい忘れてしまった。そう気づいたのは三月も中旬を過ぎてから。毎年のことだから、もう諦めている。

 雛人形をしまい忘れるとお嫁にいけないという迷信を体現した四十数年、私は一人で生きてきた。これからも一人で生きていくだろう。私は子を成せない。

 結婚を考えた人はいた。けれど子のない数十年を二人で生きていく自信がなく別れてしまった。二人になるのは一人でいるより、ずっと難しい。

 雛人形の埃をはらい、やわらかな紙で包む。

小さな頬、小さな手。大事に大事に包み込む。そうして暗い箱の中に閉じこめる。みんな変わってしまわぬように蓋をする。

 右近の橘、左近の桜という言葉を、つい最近になって知った。雛人形の小さな橘の木は人形から見て右に、桜の木は左に飾るのだそうだ。長年、知らずに飾り続けていた。人形たちは密かに私を笑っていたかもしれない。暗い箱の中で。何も知らない、変わらない私を。私は箱の外、埃をかぶり変色していく。

 並木の桜が咲いた。開花してすぐに雨が降り、道に汚ならしく花びらがこびりついている。できるだけ踏まないように歩く。靴を汚したくない。

 ソメイヨシノは実をつけないのだと、いつか本で読んだ。実をつけず、子孫を残さず、狂い咲く。そうして汚ならしい花びらを散らし、ただ生きていくのだ。他の植物を浸食しながら。

 ソメイヨシノは接ぎ木で増える。種を残さないから他の木に自分の細胞を埋め込んで増えていく。自分のDNAだけを限りなくばらまく様は、雨に塩垂れた花びらのようだ。汚ならしい。

 桜の木をしまい損ねてしまった。大きな箱を押し入れから引っ張り出すのも億劫で、邪魔にならないよう窓際に置いておくことにした。

 仕事に不満はない。やりがいはあるし、稼ぎも悪くない。何より一人身の気楽さで仕事にかまけていられるというのが大きい。朝起きて仕事に行って帰って寝る。なにもかわらない毎日に私の肩にはただ埃が積もるだけ。黄ばんでいっていつか埃に埋もれ見えなくなるだろう。

 桜のことを思い出したのはソメイヨシノが散ってしまってしばらくたってからだった。やっと花びらが見えなくなったと思ったら赤黒いガクが落ちてきて、やっぱり私は道の隅を歩いていた。

 一本のソメイヨシノの根元に細い枝が出ていて、その先に一輪の咲き遅れた花が開いている。誰かが蹴ればひとときに消し飛ぶだろう。いや、誰もこんな足元の花になど気づかないだろう。そう思っていたが、並木の下を歩くたびに誰かがそこに立っているのだった。ある人は写真を撮り、ある人は微笑みかけていく。私は立ち止まり、かがみこんで花を覗きこんだ。ふわりとした花びら、そよかな雄しべ。朝の木漏れ日を浴びてみずみずしく輝いている。一輪は一輪であるからこそ美しかった。

 すっかり暗くなった部屋に帰る。蛍光灯をつけると窓のしたに桜の木があることを発見した。そう、発見したのだ。私はそこにずっとあった桜の木を知ることなく日を過ごしたのだ。

 桜の木を手に取り光に透かしてみる。桜色は薄っぺらいけれど、光をうけて華やいだ。

 私はそっと埃を払うと、やわらかな紙で桜を包んだ。来年は左に飾ろうと忘れないように人形の箱に「左近」と書き留めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

右近の桜 かめかめ @kamekame

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る