アレ

夏氷

禁断の果実

「なぁ、アレは?」


 父がそう言うと、台所で洗い物をしていた母がハッとしたように振り返った。


「あら、ごめんなさい。忘れてたわ」


 母はそう言うと、


梨果りかちゃん、アレを持って来て」


と、妹の梨果に声を掛けた。


 梨果は「はい」と可愛らしく返事をすると、座っていた椅子から立ち上がり、窓際にいた私の手から『アレ』と呼ばれる果実を持って行った。


 まるでプチトマトのような色と大きさの『アレ』は、意外にも柚子や酢橘すだちのような厚い皮で守られ、小さな梨果が少々乱暴に握ろうともびくともしない。


「はい、ママ」


 梨果がそう言いながら『アレ』を誇らしげに差し出すと、母は、


「ありがとう」


と言って『アレ』を受け取り、その小さな果実に包丁を入れた。


 切り口からは限りなく黒に近いあか色の果汁が飛び出し、母のエプロンを汚す。


「あら、嫌だ」


 母はそう言いながらも、


「はい、じゃあ、これをパパに持って行って下さい」


と、半分に切った『アレ』を小皿に乗せ、梨果に渡した。


 梨果は待ってましたとばかりに『アレ』を受け取ると、嬉しそうに、


「はい、お待たせしました」


と、父の元へと運ぶ。


 父は梨果の小さな両手で差し出された小皿を同じように大きな両手で受け取り、


「ありがとう、梨果」


と言って、すぐさま嬉しそうにサンマや味噌汁、しいてはご飯にまで果汁を絞り始めた。


「梨果も~」


と手を伸ばす梨果に、


「じゃあ梨果もちゃんとお椅子に座ってご覧」


と父が促し、パタパタと駆け出す妹と洗い物を終えて食卓に着く母。




 私も小さい頃は、今の梨果と同じ様な事をしていた。




 毎日が楽しくて仕方がなかった。




 あのね、梨果。




 お姉ちゃん、梨果のお姉ちゃんになるのを凄く楽しみにしてたんだよ。




 だって、そんな事知らなかったんだもん。




 私がそんな事を考えていると、また梨果がやって来て私の指先から赤い実をもぎ取って行った。






 痛ッ!






 『アレ』がもぎ取られた指先から、ジンワリと血が滲み出た。


 まだ1mm程の小さな実。


 最近、膨らむのが……遅い。


「ねぇ、あなた。そろそろかしら」


「あぁ、そろそろだな」


 そんな会話をしながら、母が自分のお腹を愛おしげに触った。


「なんのお話?」


 スプーンを口にくわえ、不思議顔で首を傾げる梨果に、


「梨果がもうすぐお姉ちゃんになるって話だよ」


と、父が優しく微笑んだ。




by KAORI(aoicocoro)

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アレ 夏氷 @aoicocoro

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