ゴミ箱ベイビー

響きハレ

ゴミ箱ベイビー

 右手に握ったペニスから白い精液が迸り出ると、左手に持ったティッシュへとそれは落ちた。独特の臭いが鼻を刺す。全身の緊張がさあっと引いてゆき、気持ちが静かに覚めてゆく。新しいティッシュを取って陰部を拭き取ると降ろしていたパンツとズボンを履いてティッシュをゴミ箱へと投げ入れた。ゴミ箱は丸められたティッシュでいっぱいである。

 くだらないことにこれだけの時間を費やしてしまったことに虚脱感を覚え、先ほど抱いた満足感など消えてしまっていた。高校を卒業して進学はせずに就職したが、一年と経たずに辞めて、それ以来いくつかの仕事をやってみたものの定職につかずに生きてきた。時間の無駄遣いをしてきてしまったことが肩にのしかかる。これが毎晩である。はあとため息をついて部屋の電気を消して床に就いた。

 翌朝。睡眠のまどろみから揺り動かしたのは部屋の空気を激しく震わす赤ん坊の泣き声だった。はっと飛び起きて泣き声をよく聞いてみると少しくぐもっている。声のする方を探して見ると、それはどうやらあのゴミ箱の中からのようだった。

 耳をつんざくような部屋中に響き渡る鳴き声を全身に浴びながら、ゴミ箱を妊娠させてしまったのだろうかなどと考える。くだらないことだと思いつつ、その考えが頭を離れなかった。

 ゴミ箱のティッシュをかき分けると確かにそこには小さな赤ん坊が全身を緊張させて泣いていた。見ると服を着ておらず、おむつも付けていなかった。全裸である。思わず抱き上げるが、赤ん坊は一向に泣きやまない。

 廊下をどたどたと走る音が伝わってきて、まずいと思った瞬間に扉が開いた。制服を着た妹がどかどかと部屋に入ってくる。

 「兄貴どうしたの赤ちゃんなんか。女の子じゃん。まさかロリコンが高じて誘拐? だめだよ、こんな小さな赤ちゃんじゃ。……あれ、ひょっとしてそういう趣味だったの??」

 妹の表情が曇る。

 「そうじゃないし、笑ってる場合じゃない」

 全くわけのわからない事態で、この赤ん坊がどこの誰であるのかも分からない、ということを伝えるが、妹はずっと不審がって見つめてくる。

 「もといたところにちゃんと返して、謝ってきなさい」

 妹に続けて母が部屋に入ってくる。

 「お母さんね、あんたがどんな趣味だろうとかまわないけど、犯罪は許さないからね……」

 母がひどく悲しそうな顔をしてじっと見つめてくる。

 「だから誘拐じゃないし……」

 赤ん坊は泣き続ける。

 「じゃあ何、あんたの子……?」

 母はさらに顔を暗くする。

 「そんな赤ちゃんまで産ませて、あんた大丈夫なの……?」

 「何言ってんのお母さん、兄貴童貞だよ」

 思わず「は?」と口から飛び出す。

 「あたし知ってるんだから。知ってるっていうか、誰でも分かるって。毎日飽きもせず家に帰ってきちゃインターネットかアニメでしょ。そりゃ童貞に決まってるって。外泊したこととか家に女の子連れ込んだことぜんぜんないじゃん。おまけにニート! ニートじゃ彼女できるはずないし、いくら馬鹿な兄貴でもそんな状態で子ども産ませようなんて考えないと思うよ? 隣の真由美ちゃんは東京の大学まで出て就職したっていうのにね」

 妹の挑発につられて頭に血が上る。妹は笑いをこらえなくなり腹を抱えていた。

 真由美ちゃんとは、小学校に上がる前からの幼馴染で、中学を卒業するまで同じ学校だった。真由美ちゃんのことは好きだったが、結局その恋は実らなかった。告白したことなどなかったし、小学校を卒業する前にはあまり交流もなかったのだから、恋が実るはずもなかった。

 「東京の大学まで行けば、まあ当然彼氏だってできるだろうし? あんなにかわいければねえ。大学時代に付き合ってた人と卒業して就職した後結婚する人って多いみたいだよ? まあいいかげん諦めなって。いつも兄貴が部屋の窓から真由美ちゃんの部屋を見てたの知ってるんだから。今でもやってんでしょ。……兄貴、もしかして怒ってる? ごめんごめん。兄貴真由美ちゃんのこと大好きなんだもんね」

 妹は早口でまくしたてる。怒りに包まれた頭では何も言い返すことができなかった。

 「そういえば真由美ちゃん帰ってるみたいよ」

 母が割って入ってくる。

 「昨日の夜お父さんが仕事から帰ってくるときにお隣りの加藤さんちの玄関に入っていく真由美ちゃんを見たって」

 斜め上に視線を向けて記憶を取り出そうとしているのがうかがえる。

 「そうそう、なんか真由美ちゃん元気なさそうだった、ってお父さん言ってた。東京で何かあったのかね」

 「兄貴が言って慰めてあげれば? 彼氏と何かあったのかもしれないよ? こういうときに男はつけ入るんだよね。ひょっとしたら童貞ニートの兄貴でもうまくいくかもよ?」

 妹はけらけら笑っている。

 赤ん坊の泣き声がいっそう強くなったところで父も部屋に入ってくる。

 「赤ちゃんの泣き声がして目が覚めたと思ったら、どうしたんだその子」

 父に事態を話し終わったところで妹が口をはさむ。

 「昨日隣の真由美ちゃん見たんでしょ? どんな感じだったの?」

 「ああ、なんだか痩せた感じがしたなあ。痩せたというか、やつれたって感じかな」

 父は腕を組んで中空を見つめていた。

 ああそうだ、と言って父はこちらを向いてまた口を開く。

 「お前、昨日の夜真由美ちゃんと話したんじゃないのか?」

 「え?」

 「昨日の夜中、何時くらいかな、二時くらいかな、タバコが切れたんでコンビニに行こうと思って外出したんだが」

 「夜中にタバコは火事の元でしょう」

 「ごめんごめん。昨日はでも疲れててね、どうしても吸いたくなっちゃって。それで家を出たところで物音がするもんで見上げてみたら、真由美ちゃんがお前の部屋のベランダにいたぞ。小さい頃はお前らお互いに行き来してたもんなあ。まだ交流があったのか?」

 頭に上っていた血の気がさあっと引いてゆく。全身の力が変に緊張して体が震え出した。

 「いや、全然知らない。真由美ちゃんとはもう長いこと話もしてない。……ていうか、え、この部屋のベランダにいた?」

 「そうだぞ。最初は泥棒か何かだと思ったんだけど真由美ちゃんだと分かって、安心したからそのままコンビニに行った」

 「いや、全然知らないよ……」

 赤ん坊が泣いて部屋の空気をびりびりと震わせている。泣き声がいっそう強くなったかと思ったときに家のインターホンが鳴らされた。母がばたばたとやや駆け足気味に階段を降りて玄関へ向かう。がちゃりと玄関の扉が開いた音が聞こえてしばらくするとこちらを呼ぶ母の声がした。

 赤ん坊を父に預けて部屋を出て階段を降り、玄関へ向かう。そこに立っていたのは真由美ちゃんだった。真由美ちゃんを最後に見たのは高校生の頃で、あの頃に比べて顔立ちはシャープになったと感じたが、それは大人になったというだけでなく確かに父の言った通り、少しやつれたという感を抱かせた。目元に覇気があまりないように感じたせいもあるかもしれない。真由美ちゃんがじっと見つめる。

 真由美ちゃんは何も言わずに涙をぽろぽろと零し始める。

 「どうしたの……?」

 そうたずねると涙声で真由美ちゃんが口を開く。両手の袖で涙を拭いながら真由美ちゃんは「ごめんなさい」と言った。

 やや間を開けて二三度「ごめんなさい」と言う。涙声には嗚咽が混じり始めていた。

 「赤ちゃん、いるでしょう」

 「まさか……」

 「ごめんなさい……」

 「真由美ちゃんの赤ちゃんなの……?」

 真由美ちゃんは袖で顔を覆って俯いたまま頷く。

 「ごめんなさい……」

 何があったの、どうしてこんなことをしたの…… 聞きたいことはたくさんあった。しかし疑問を口にすることはできなかった。何よりショックを受けて口を開くことができなかった。真由美ちゃんが子どもを生んだ。誰の子どもなの…… 何があったの……

 こちらが声をかけることもなく、真由美ちゃんは話し始める。高校生の頃から七年付き合った彼氏がいたが、彼氏には結婚するという意思がなかった。結婚するという意思はなかったにもかかわらず、赤ちゃんができてしまった。赤ちゃんができてしまったと知るや、彼氏はすっかり真由美ちゃんに辛くあたるようになった。彼氏の相手をすることができなかったからだ、自分のせいだ、と真由美ちゃんは繰り返した。

 結局彼氏はいなくなった。後には赤ちゃんを身ごもった自分だけが残った。仕事は続けられない。幸い貯金がいくらかった。それで子どもを生んだ。生んだ子供を一人で育てようと思っていたが、お金もすぐに底をつく。そして何より子どもがかわいくない。泣き叫ぶ子どもの声を聞きたくない。顔も見たくない。それで捨てたんだ、と……

 「ごめんなさい……」

 今日何度目かになる謝罪の言葉。

 「ねえ、その『ごめんなさい』は誰に向かって言ってるの」

 思わず口から出てきた言葉に自分でも驚く。真由美ちゃんの話を聞いて、いらいらしていたのだった。

 真由美ちゃんは泣きはらして涙を零し続ける顔を上げて見つめてくる。表情には驚きと恐怖が混ざっているように見えた。

 「悪かったって思ってます……」

 「だから、それは誰に……?」

 「圭くんに」

 圭くん、と呼ぶ声を久しぶりに聞いたが、懐かしさに浸るような気持にはなれなかった。

 「赤ちゃんには? 赤ちゃんには悪いと思わないの……?」

 「思います……」

 真由美ちゃんはまた俯く。

 「でも……」

 「でも……?」

 「あの子を自分で育てたいとは思えない……」

 「真由美ちゃん」

 隣で聞いていた母が口を開く。

 「赤ちゃんはうちでいったん預かる」

 「え?」という声が真由美ちゃんの口から漏れる。

 「真由美ちゃんはゆっくり休みなさい。それでもし赤ちゃんを育てたいと思うになれば、また赤ちゃんをうちに取りに来ればいい」

 「……でももしそうならなかったら?」

 真由美ちゃんの前身は不安に包まれているようだった。

 「そうならなかったらそのままうちで育てる」

 今度はこちらが「え?」という声を漏らしてしまった。

 「母さん、何言ってるの……? 第一子ども育てるにはお金だってかかるんだし……」

 母がにこにこと笑いながらこちらを見つめ返す。目つきは鋭く、目の奥がきらりと光ったように見えた。

 「あんたが働きなさい」

 「え……」

 「あんたもういくつなの。真由美ちゃんがこれだけの人生を歩んでる間にあんたは何してたの」

 「まあそうだけど…… 今まで何も言わなかったじゃん…… いや、悪いとは思ってたけどさ……」

 「あんたが働こうがどうなろうが知ったことじゃない。でもあの赤ちゃんは違う。誰かが育てなければすぐに死んじゃうんだ。あんたには余力があるんだから、家でダラダラしてるんなら、あんたが働きなさい」

 足元がふらつく。肩に予想外の重しが乗せられたように思ったからだった。母の言葉に何も返すことができない。

 「あの……」

 真由美ちゃんが口を開く。

 「そう言っていただけて嬉しいんですが…… あの…… すみません……」

 煮え切らない様子である。

 「ごめんなさい」

 そう言って頭を下げた。

 「やっぱり今はあの子の顔を見たくない。だから、だから……」

 「いいよ…… 俺が預かるよ」

 真由美ちゃんが顔を上げてこちらを見つめる。

 「俺も別になりたいものとか、昔はあったけどさ、今はこんなんだし、もういいんだ。こんな生活いつまでも続けられるわけじゃないから。これは人生を変える一つのきっかけなんだと思う」

 「じゃあ決まりね」

 母が手を叩く。

 「真由美ちゃんは気持ちが落ち着くまでゆっくり休みなさい。赤ちゃんはとりあえずうちで面倒を見るから。圭がいるから大丈夫」

 真由美ちゃんは力が抜けたのか玄関でぺたりと座り込み、そのままわっと肩を震わせて泣き出した。母が寄り添って背中をさすり、真由美ちゃんをなだめて家まで送った。

 真由美ちゃんと母が出て行くと妹が階段を降りてくる。

 「話聞いてたよ? 脱ニートだね。まあこれでみんな安心だ。お母さんもお父さんも、もちろんあたしも心配してたんだからね」

 「悪いな……」

 「で、あの赤ちゃんだけど、本当に兄貴が育てるの?」

 「まあそうなるのかな……」

 「大丈夫……?」

 「うーん、心配だけど…… まあ母さんも父さんもいるから、いろいろ教わりながらやっていこうと思う」

 「いやそうじゃなくてね」

 「え?」

 「兄貴が女の子を育てるなんて、心配なんだよね」

 妹がはあとため息をつく。

 「手出しちゃだめだからね」

 「出すわけないだろ」

 「本当かな? 真由美ちゃんにそっくりの美人さんになるかもしれないんだよ??」

 「馬鹿言うなよな……」

 そう返しつつも、かわいかった子どもの頃の真由美ちゃんの姿が思い浮かぶ。それからするすると妄想が続けて浮かんできて、ドキリと心臓が強く跳ね上がった。子育てをしなければならないという不安の中で、よからぬ期待が首をもたげていることにに気づかないわけにはいかなかった。

 「大丈夫かな……」

 思わずそうひとりごちていた。

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