後編
朝井と小野先生は、私のおかげで急接近した。
まあ急接近とは言っても、前よりはよく話しをするようになっただけだ。あくまで先生と生徒であり、そこからの逸脱は全くしていない。
もともと小野先生は生徒とよくお喋りをする方だから、変わったのは朝井の方だ。いつかのバス停みたいに、緊張で話せないなんてこともなくなり、自然に話しかけられるようになった。
受験勉強の合間に、先生の好きな歌手や映画についてわざわざ勉強しているらしい。ただでさえ勉強漬けになる中三のこの時期に。
ほんと、恋って偉大だ。
しつこい残暑やテスト期間もようやく過ぎ去り、この町にも秋の気配が訪れている。秋風が気持ち良い。バスを待つのにも快適な気温だ。
久しぶりにバス停で朝井を見かけた。向こうも私に気づくと軽く笑ってバス待ちの列から外れる。私たちは他の乗客がバスに吸い込まれていくのを待ってから話し始める。
お互いに空を見上げながら、ぽつぽつと近況を話す。
「最近、俺らもとうとう受験生って感じだよなー」
「いいじゃん、わかんないところを先生に聞くチャンスが増えるよ」
「はは、さすが。初めはどうなるかと思ったけど、南雲さんに相談できて良かったな」
「それって結構心外。私ってそんなに信用できないキャラだった?」
ごめんごめんと、朝井は相変わらず照れくさそうに笑う。
今の朝井なら、もう私のアドバイスなどなくても自分で行動できるだろう。そう思うと少し寂しい気もする。
そんな感傷に囚われていた一瞬の沈黙。ふと、朝井がつぶやいた。
「俺、先生に告白しようかな」
あまりに自然な言い方で、言葉の意味を理解するまでに時間がかかった。
「え、なんで。どうしたの急に」
「結構話せるようになってきたし、もうすぐ受験もあるしさ。ダメかもしれないけど、気持ちにケリ付けたいんだ」
こんなに真剣に話す朝井を見るのは初めてだった。照れてるわけでも、不機嫌なわけでもない。その横顔に、私は衝撃を受ける。なぜか、焦りが湧き上がる。
「かもじゃなくて、ダメだよ絶対。先生は朝井のことなんて生徒のひとりとしか見てない」
「わかってるよ。ダメもとでも、ちゃんと伝えたいんだ」
朝井の目や言葉に宿る熱が、私を混乱させる。
「もうちょっと、様子を見たら?そんなに急ぐこと……」
「今しか無い気がして。早く、伝えたいんだ」
淡々と話す様子が、そのまま決意の固さを表していた。
「でも、わざわざ傷つきに行かなくても」
「たまにはかっこつけさせてよ。勇気持てたのは南雲さんのおかげなんだから」
また、そんな顔をして笑う。朝井は勝手だ。散々人にアドバイスさせといて、決めるときは一人で決めちゃうの?望みもないのに。わざわざ傷つきに。どうして、わからないよ。
「じゃあもう好きにしたらっ。思いっきりフられてくればいい」
「え、なんでそんな機嫌悪いの。俺、南雲さんにはお礼のつもりで話してるのに」
訳がわからないという表情の朝井を置いて、バス停から駆け出す。
わからない。わからない。自分の気持ちが、わからない。
*
昨日の自分はどうかしていた。
一晩経っても、よくわからない焦りは収まらない。それでも、昨日の自分が酷く理不尽だったのがわかるくらいには頭が冷えた。
やっぱり、謝らなきゃな…。
教室での朝井はいつも通りだった。私と目が合うと、何か言いたそうな顔をするが話しかけてはこない。バス停限定の関係は、今でも変わらない。
今日も朝井はバス停で先生を待っているだろうか。いつ、告白するつもりなんだろう。告白したら私の役目も終わりなのかな……。
「こら、南雲。私の授業はつまらないか?」
小野先生の声で物思いから引き戻される。今は数学の授業中だ。クラスの視線が、一瞬私に集まる。
「すみません」
口では謝るけど、釈然としない。誰のせいで身が入らないと思ってるんだろう。完璧な八つ当たりだと頭ではわかってるけど、感情がこぼれてしまう。
「まったく、じゃあ次の問題は……」
先生が次の問題の解説を始めようとしたとき、クラスメイトから声があがった。
「あれ?先生指輪してる!」
その一言で、クラス中の注目が先生の手元に集まる。全員の視線を受けても先生は動じることはなく飄々と言い放つ。
「あぁ、私この前結婚したから」
教室が騒然となる。きゃーきゃー叫ぶ女子、からかい半分の悲鳴をあげる男子、反応は様々だがみんな面白がっているのがわかる。当の先生も皆の反応を面白がっており、にやにやしながら生徒たちを眺めていた。
日常のちょっとしたスキャンダル、浮き足立つ教室の中で朝井だけが別の意味で浮いている。
微動だにせず、ただただ先生を見つめていた。
*
それからはいつも通り授業をして、放課後になった。朝井はずっと心ここにあらずな雰囲気だったけれど、普段から物静かで目立つタイプではないので気づいたのは私だけだったと思う。
何度も声をかけようと思ったのに、なんて声をかけたらいいかわからず下校時間になってしまった。
職員室で学級委員の雑用を終わらせて教室に戻ると、そこにはもう誰もいなかった。当然、朝井も帰ってしまったらしい。
「朝井、大丈夫かな…」
夕日に染まる教室でひとり、ため息をつく。
朝井の気持ちは、私が一番よく知っている。羨ましいほどに、朝井は先生のことを一途に想っていた。それなのに、こんな形で終わってしまうなんてあんまりだ。
昨日のことがあって少し気まずいけれど、そうも言ってられない。誰もいない廊下を駆け足で抜けて、玄関で外靴に履き換える。
もう帰ってるかもしれないけど、一応という気持ちでバス停に向かう。早足で校門を出ようとしたところで、ぎょっとして立ち止まってしまった。
小野先生がすぐ前を歩いていた。すらっとした立ち姿は見間違えようがない。このままではバス停に行ってしまう。
朝井がいるかもしれないのに。今、先生を会わせるのは、絶対にダメだと心が叫んでいる。
「先生!」
咄嗟のことだった。深い考えがあったわけではない。気づいたら呼び止めていた。先生が振り返り、いつもと同じにやっとした笑顔を向ける。髪をかきあげた左手の指輪が光る。
「おー、南雲も今帰りか?」
いつも通り親しげに話しかけられて一瞬言葉に詰まる。今から私は、嘘をつく。
「あ、あの、荻野先生が小野先生のこと探してましたよ。ちょうど校舎から、先生が帰るのを見かけたから追いかけてきたんですけど…」
先生はきょとんとしながらも、お礼を言って出たばかりの校門をくぐって校舎へ戻っていく。
先生から見えない位置まで歩いて、私は走りだす。急げ、急げ、朝井が居るなら、直ぐバス停から離れなきゃ。そして、こう言うんだ。
今日はもう帰って家でゆっくりしてさ、落ち着いたらまた私が話を聞いてあげるよって。告白する前でよかったじゃん。気まずい思いしなくて済んだよ。大丈夫、人生長いって。失恋のひとつやふたつ誰にだってあるよ。そのうち、新しい恋もできるかもしれないし。なんなら……。
*
「朝井っ」
朝井はいつも通りバス停に居た。だけど、ベンチに座って下を向いている。いつも空を、上を向いていた朝井が俯いている。のろのろとした動きで私の方を見るけれど、何も言わない。
「……大丈夫?」
下を向いたまま、ぼそりと答える声はひどく卑屈だった。
「別に。最初から望み無いのなんてわかってたし」
暗い表情のまま立ち上がり、私の前に立つ。場違いだけど、朝井って意外と背高いんだな、なんて発見が頭をよぎる。
私はひどく無表情な朝井の顔を見上げている。
「南雲さんが言ってたとおりだよ。どうせ俺はただの生徒で、先生には他に特別な人がいた。無理なら無理で、吹っ切るつもりで告白しようと思ったけど……。これじゃ、今さら告白したところで迷惑になるだけだ」
胸が、痛い。声をかける言葉が見つからない。
昨日までの、きらきらした想いが今は真っ暗闇だ。
ここに来る途中で用意した慰めな言葉なんて、なんの役にも立たないことを理解する。恋をしたことがない私は、失恋のことを何もわかっていなかった。
「でも、いいんだ」
朝井はやせ我慢をして無理やり笑顔を作る。
「これで先生が幸せになるなら俺は嬉しいよ」
泣き顔のような微笑みだった。
どうしてこんな時にかっこつけるの。泣いて叫んで、辛いって言えばいい。私の前でくらい、別にいいじゃない。私にくらい、本音を言ってほしい。
「うそつき」
虚ろな目が私をとらえる。そのからっぽな視線に負けないよう、拳を握り締める。
「朝井、全然嬉しいなんて思ってないよね。辛いなら辛いって言えばいいのに。どうせとか迷惑になるとか、言い訳ばっかり。今しかないんじゃなかったの!」
「昨日まではね」
朝井は反応しない。
「先生にまだ何も伝えてないよ。このままでいいの?」
「あんな話を聞いたあとで、何言えって言うんだよ!困らせるだけだろ!」
こんな大声を出す朝井を初めて見た。怒鳴り声なのか、悲鳴なのか、もうよくわからない。
「それでも、ちゃんと伝えたほうがいい。伝えなきゃダメだよ」
「南雲さんは、恋をした事がないから、わからないんだ」
言い返してしまいそうになるのをぐっと耐える。ここで退いちゃダメだ。
「そんなこと言ってる間に、もうすぐ先生が来るよ。さっき校門のところで会ったから」
「それを先に言えよっ」
朝井は慌てて逃げようとするけど、腕を掴んで止める。
逃げないで、朝井。
「私は!朝井が羨ましかった。相談を受けて、恋っていいな、すごいなって思ったんだよ。これが、本物なんだって感動した」
そして私にも少しだけ恋がわかるようになったんだよ。
夏の終わり。吹き抜ける秋の気配。突然の夕立。びしょ濡れになって、二人で笑った記憶。
「告白に意味がないって言うなら、私が意味になる。こんな結末、許さない」
先生に恋するクラスメイト。地味で、不器用で、手のかかる、弟のような男の子。
「このままじゃ、昨日までの朝井がかわいそう」
思わず、涙がこぼれた。それを見た朝井が動揺するのがわかる。
「ここで何もしなかったら、先生にとっての朝井はただの生徒だよ。でも、ちゃんと告白すれば、きっと一生忘れられない生徒になる。特別になれる」
泣いているせいか、顔が熱い。涙をぬぐって、畳み掛ける。
「特別になってきなよ」
私は朝井の後ろに回って、背中を押す。
「学校に行く途中で、きっと先生に会えるよ」
込み上げてくる涙をこらえながら、精一杯の笑顔を作る。
「いつもみたいに、顔を上げて、空を見て。綺麗な夕焼け。朝井はの明日もきっと晴れるよ」
私につられて、朝井も空を見上げる。少し霞みがかった優しい夕日が街を包んでいる。
逆光と涙のせいで、朝井の表情はよく見えない。
「ありがとう、南雲さん」
その一言で、朝井は走り出す。どんどん遠くなる背中を見送りながら、涙が次々と頬をつたう。
「私、何やってんだろ」
*
次の日、朝井は昨日のことなど噓だったかのように、普通に授業を受けていた。いや、小野先生の授業だけは終始顔を上げずに、教科書とにらめっこしていたから普通とは言えないかもしれない。
ただ、それは照れや恥ずかしさから来るもののようで、結婚を知ったときのような悲壮感は感じられなかった。
どんな告白になったのか、本当のところを私は知らない。
「予想通り、フラれたよ」
朝井からは一言だけそう聞いた。
ものすごく気になったけれど、それ以上は聞かなかった。その表情を見ればもう心配はいらないのがわかったから。
そうして、バス停での時間はなくなった。
もう二人並んで、空を見上げることもない。
当然、教室では毎日顔を合わせたけれど、挨拶程度しかしなかった。私たちの間には、もう共通の話題がなかったから。
そのことに寂しさを感じる間もなく本格的な受験シーズンを迎え、朝井とはほとんど話さないまま卒業式を迎えた。クラスでの打ち上げにも参加しなかった朝井とは、教室で交わした「元気でね」とか「いろいろありがとう」とか、そんな当たり障りない挨拶でお別れになった。
正直、卒業式のことはあまり覚えていない。私にとっての朝井との別れは、あの優しい夕陽の中で終わっていたんだと思う。
*
今でも不思議に思う。
朝井と過ごした時間は、長い高校生活のなかではほんの一瞬の出来事だった。それなのに、社会人になった今でも遠ざかる朝井の背中を鮮明に覚えている。
下を向きながら並んでいる人たちを見かけたり、見上げた空が綺麗だったり、そんな日常の些細なことが、あの日の思い出に繋がっている。
そう、もう全部思い出だ。あれから数年、つい空を見上げる癖も、夕陽を見ると切なくなる気持ちも、すっかり慣れ親しんで私の一部になっている。
私はもう、あの頃の無邪気で不器用な私ではない。
通勤に使っている最寄り駅から出て直ぐの歩道に、小さなポストがある。バッグの中から、そこに投函すべき葉書を取り出す。
同窓会の招待状。
出席に丸をつけてある。幹事の子に聞いた話では、朝井も来るらしい。
あれから彼は、何か変わっただろうか。今の私は、彼の目にどう映るだろうか。少し怖い気もするけれど、楽しみな気持ちの方が大きい。
葉書をポストに滑り込ませる。来月かぁ、着ていく服を買わなきゃな。
ふと空を見上げると、やわらかな日差しが町をオレンジ色で包み始めている。
きっと、明日は晴れるのだろう。
fin.
ふたりの空模様 朝海拓歩 @takuho
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