ふたりの空模様

朝海拓歩

前編

 顔をあげて、生きていたい。

 別に人生とか自己啓発みたいな堅苦しい意味ではなく、日常生活の中でのことだ。

 電車を待つ駅のホームや、待ち合わせ場所、ちょっとした待ち時間でも、みんな下を向いてスマートフォンとにらめっこだ。もちろん私もスマホは持っているし、退屈だと手を伸ばすことも多い。

 だけど私は、出来るだけ顔をあげていたい。

 今、目の前の現実を大切にしたい。

「みんながみんな、同じように下向いてばっかだ。まるで興味があるのはスマホだけ、今この場この瞬間には興味ありませんって感じがして嫌なんだよ」

 みんながスマホを覗き込んでいる光景を目にするたびに、彼の言葉を思い出す。八年前、クラスメイトだった朝井士郎は、いつも一人で空を見上げていた。

 始まりは、あのバス停。小さな待合室、三人も座れば満員で、壁には落書き、椅子はきしむ。どこにでもあるような、古びたローカル路線の停留所だった。

 あそこで彼と過ごした時間は、ほんの短い間だったけれど今も私のなかに居座り続けている。



                 *



「よし、おーわりっ」

 私は職員室のパソコンを前に座り、今度の体育祭で使う書類作りを手伝っていた。中学最後の学校行事はもうすぐそこに迫っている。

 担任の萩野先生は定年間近のおじいちゃんでパソコンは苦手なのだ。それでも去年までの古いパソコンならばなんとか使えていたらしいのだが、今年から導入された新型にはもうお手上げらしい。だから少し複雑な書類を作るときは私に頼ることが多い。

「南雲さん、ありがとう。いつも助かるよ」

「いえいえ、これでも学級委員なので。行事の運営関係は仕事のうちですから」

 すまなそうにしている萩野先生を笑顔でかわし、職員室の外に出る。

 もう九月だというのに校舎の中は蒸し暑い。職員室がある二階の廊下からはグランドで練習中の野球部の姿が見える。どこからか吹奏楽部の演奏も聞こえる。そのメロディはどこか懐かしいけど曲名が思い出せない。

「この曲なんだっけか」

 そんなとりとめもない事を考えながら校舎を出ると、もう日が傾きかけていた。暑さは相変わらずだけど、なんだか日が短くなってきた。遠くでかすかに蝉が鳴いている。

 残暑のじめっとした空気にうんざりしながら、私はいつものバス亭に向かう。この気温のなかでは少しの距離でも背中に汗がつたう。


 バス亭に着くと、そこにはもう数人の乗客が並んでいた。ひい、ふう、みい、今日は六人か。これなら座れるかな。

 さり気なく並ぶ人たちを観察すると、その中に一人だけ見知った顔があった。

 少し天パ気味の髪に銀縁メガネの大人しそうな男子、クラスメイトの朝井だった。他の乗客がみんなスマホをいじって下を向いている中で、朝井だけがぼーっと空を見上げているものだからやけに目立つ。何か珍しいものでも飛んでいるのかと私も空を見るけれど、まばらに雲が浮かんでいるだけの、いたって普通の空だった。

 今まで気づかなかったけれど、同じ路線なのだろうか。時間通りにバスがやって来た。乗客たちはスマホをしまって定期を取り出し、乗り込む準備をする。

 そこで、先頭に並んでいたはずの朝井が列から外れていることに気がついた。

 乗らないのだろうか?この方面の路線はひとつだけのはずだけど。

 そう訝しんでいると、朝井と目があう。向こうも私に気づき、あからさまに目線をそらされた。私は他の乗客と一緒にバスに乗り込んだけれど、結局朝井はひとりバス亭に残ったままだった。



                 *



「ねぇ、昨日なんでバスに乗らなかったの?誰かと待ち合わせ?」

 パラパラと生徒が増えて行く朝の教室。朝井が入ってくるのを見かけた私は昨日の疑問をぶつけてみた。不意に話しかけられた朝井は不自然なほどしどろもどろになる。

「べ、別に待ち合わせじゃないし!関係ないだろっ」

 朝井は目を合わせないで、さっさと席についてしまう。途中、他のクラスメイトの机に足をぶつけて謝っていた。

 そこまで動揺させるようなこと聞いたかな、私。

 あまり深く考えずに、言葉が口をついて出るのは私の悪い癖だ。一応自覚はあるので直したいとは思っている。

 少し反省していたところで、担任の萩野先生と副担任の小野先生が入ってきた。同時に始業のベルが響く。萩野先生はいつも時間に正確だ。

 いつも通り、とつとつとした喋り方でホームルームを始める。副担任の小野先生は教室の隅で、私たちを静かに眺めている。

 小野先生は今年の春からこの学校に来た新人教師だ。ショートカットで切れ長の目をしたそこそこの美人で、男子たちには「小野ちゃん」と囃し立てられている。それで調子に乗るような先生なら女子達から反感を買っただろうけど、小野先生は性格が男前だった。

 サバサバした物言いに、口を大きく開けて豪快に笑う。生徒に壁を感じさせない接し方から、女子にも人気がある。みんなの頼れるお姉さん、それが小野先生だ。

 定年間近の萩野先生と並ぶと、優しいおじいちゃんとしっかり者の孫のようでなんだか微笑ましい。

 ふと、朝井の方を見てみる。朝井は前を向きつつも、ちらちらと小野先生の方を気にしているようだった。



                 *



 またバス停で朝井を見かけた。

 今日も乗らないつもりなのか、バスが来ても列の脇にどいて乗客を見送る。また空を見上げている朝井に声をかけようか迷ったけれど、朝のやりとりを思い出してやめておいた。

 私としてもそこまで興味はない。

 しばらくすると、定刻より少し遅れたバスがやってきた。私を含む乗客が順番にバスに乗り込む。私が乗りかけたところで、賑やかな声がバス停に響く。

「はぁ、はぁ、間に合ったーっ」

 必死に走ってきたらしい小野先生が息を切らして列に加わった。先生なのにその落ち着きのない振る舞いからか、車内の生徒たちかがくすくすと笑っている。

「あれ?朝井くんは乗らないの?」

 バス停の脇につっ立っていた朝井にも屈託なく話しかける。今朝の私と同じような質問だ。ところが、その先は違う展開を見せた。

「あ、の、乗りますっ。先生も、おつかれさまです」

「ホント疲れたわー。貧血になりそう」

 うそだー、小野ちゃん絶対血の気多いでしょー、なんていう野次がバスの中から飛んでくる。

「うるさい、ほっとけ!」

 小野先生も笑いながら軽口を返しつつ、車中に入る。朝井もあとに続くが、うつむきがちでほのかに耳が赤い。

 あぁ、なるほどね。



                 *



「朝井ってさ、小野先生のこと好きでしょ」

 その後、バス停で再び朝井を見かけたので、単刀直入に聞いてみた。一応、ほかの乗客が居なくなってから声をかける程度の気は使っている。

「は!?なんだよ急に」

 朝井は瞬時に赤くなりながら否定するけど、その慌てっぷりと顔色が正解だと告げていた。

 私に弟はいないけど、なんだか出来の悪い弟の初恋を見抜いてしまったような、くすぐったい気持ちになる。そんなわかりやすい態度と表情を見せられたら、もっとからかいたくなってしまう。

「あ!小野先生が走ってくる」

 すごい勢いで朝井が振り返る。あまりにも狙い通りの反応で思わず笑ってしまう。

「いったい何がしたいんだよっ」

 ひとしきり笑ったあとで、ようやく申し訳なさが追いついてきた。普段からあまり感情を見せないクラスメイトの意外な一面を見つけて愉快な気持ちになる。

「ごめんごめん、別に誰にも言わないから安心してよ。ちょっと推理が合ってるか答え合わせしたくなっただけだからさ」

 変態でも見るかのような目で睨まれたあと、朝井は視線を空に向ける。

「……誰にも言うなよ」

 その小さな肯定に、私はまたいたずら心を刺激される。余計な質問を重ねてみた。

「小野先生、結構美人だよね。年上が好みなんだ?」

「別に年上とかは関係ない。ただ……ってなんでそんなこと南雲さんに説明しなきゃならないんだっ」

 そのリアクションに私はまた爆笑する。朝井、面白いやつじゃん。

 たぶん朝井の気持ちは、小野先生には伝わることも、伝えることもないだろうけど、私はこの恋を応援したくなってきた。頑張りたまえ青少年。でも先生が来るまでバス停で待ち続けるのはちょっとストーカーっぽいぞ。

 にやにやと朝井を眺めていたところに、今度は私も不意打ちを食らう。

「南雲と朝井って仲よかったんだなぁ」

 いつの間にか、小野先生がバス停の近くまで歩いてきていた。当の本人から急に声をかけられて、私は心臓が飛び出るかと思った。朝井に至っては、完璧にフリーズしている。

「仲いいっていうか、クラスメイトですから。立ち話くらいしますよー」

「ふーん、そっかそっか」

 さも意味ありげな「ふーん」だ。これは、まずい気がする。私は良いけど朝井には非常にまずい。なんとかしないと。

「先生、無意味なからかいはやめてください。思春期の少年少女を弄ぶなんてっ」

「南雲知ってるか、思春期の少年少女をからかえるのは教師の特権なんだぞ」

 真面目な顔でそう言ってわははと笑う小野先生を、恨めしい目で見ているうちにバスが来る。朝井は無言のまま、素早く一番後ろの席に行ってしまう。少し迷ったけど、追いかけて隣に座る。

「……なんか、ごめん」

 ちらりと前の方で立っている小野先生に目をやると、向こうも視線に気づいてにやりと笑う。

 あぁ、本当にごめん……。

 朝井は頑としてこっちを見ずに外の景色を見つめていたが、低い声でぼそりと呟く。

「謝るなら、なんでまた隣に来るわけ。もうちょっと考えろよ」

「ホントごめん……」

 車内はそれなりに満員になり、もう移動することもできない。気まずい沈黙に耐え切れずに口を開こうとしたが、朝井の方から話しかけてきた。

「南雲さんは、好きなやつとかいないの?誤解とか大丈夫なわけ」

 唐突な質問の意図がわからずにきょとんとしていると、朝井が早口で付け足す。

「俺ばっかり不公平じゃん」

 先ほどの負い目もあったので私は素直に答える。

「いないよ。ていうか、恋愛とかってホントはよくわかんない」

「いつも女子たちでそんな話ばっかしてるのに?」

「まあ、その場の雰囲気に合わせて誰それがカッコイイとかは言うけどさー。多分、ちゃんと恋したことはないんだよね。今のところ」

「まじで?」

「残念ながら」

 まごうことない本音だった。あまり人に話したことはないけれど、映画やドラマの主人公が見せるような感情で、誰かを想ったことはない。みんな本当にそんな恋を経験しているのか、常々疑問に思っている。

 でも、隣の冴えない男子はきっとそういう恋なんだろうな。端から見ていて良くわかる。

 それだけに今の状況に罪悪感を覚える。まさか自分が他人の恋路を邪魔してしまうなんて。どうにかならないかな……。

「あ、そうだ」

 急に声を出した私に、朝井がようやくこっちを向いた。

「こういうのはどう?お詫びのしるしに、ささやかながら朝井の恋を応援しようと思います」

 真面目さが伝わるように、敬語で言ってみた。

「な、何するつもりだよ。頼むからやめてくれ!」

 思いのほか大きな声で、一瞬車内の注目を集めてしまう。朝井が小声で言いなおす。

「もういいから、ほっといてくれよ」

「目立つようなことはしないからさ。機会があれば、さり気なく応援するだけ。てことで、ラインかメアド教えてよ。良い情報あったら教えたげるから」

「なんだよこの展開……」

 朝井は文句を垂れながらも、しぶしぶスマホを取り出した。



                 *



 そうして、放課後のバス停はふたりの時間になった。

 初めは嫌がっていた朝井も、私が思ったよりも上手くやるのを認めてくれたようで、今では何も言わない。まあ、先生の食べ物や音楽の好み教えたり、職員会議のスケジュール教えたり程度では邪魔にはならないだろう。

 その過程で、小野先生への気持ちもだいぶ聞き出した。朝井の憧れなのか恋なのかわからない気持ちは、聞いているこっちが照れるような純粋なものだった。すっかり弟を見守る姉の心境だ。

 バス停での恋愛相談は少しずつ増えていった。特に待ち合わせることはなかったけれど、お互いバス停で見かけたときは何となくベンチに座って話すようになった。もちろん、先生の接近には最新の注意を払ってだ。

 バスを一本見送る程度の少しの時間。私は先生の情報や、話しかけるためのアイディアを朝井に伝授する。

 話しているときの朝井は無愛想に見えても、次の日の教室では朝井なりに実践しようと努力している。その健気な姿には思わず頭を撫でてあげたくなる。実際にやったら怒るからやらないけど。

「朝井はもう少し、笑顔を見せた方がいいと思うんだよね。その方が先生にも好印象だよ」

「何もないのに笑ってたら気持ち悪いだろ……」

「そうかなぁ、私だったら年下の男の子から笑顔向けられたらかわいーって思うけどなぁ」

「俺は可愛いって思われたいわけじゃないんだよ!」

「バカなプライドー。年下の特権は活かせば良いのに」

「うるっさいなぁ」

 そう言いながら朝井はまた空を見上げる。その横顔が赤く染まっている。夕日のせいだけではないだろう。本当に、男子ってわかりやすい。

「ねぇ、よくそうやって空見てるけどさ、何か見えるの?夕日は綺麗だけど」

「別に、空見るのが好きなだけ。明日は晴れかなーとかも考えるけど」

「え、見ただけでわかるの?」

「なんとなくは。例えば、明日は多分晴れる。夕陽が見えて、太陽の方角に雲がないときは次の日晴れることが多いんだ。なぜかというと、天気っていうのは大体西から東に流れていくらしくて……」

 解説にあっけに取られている私を見ると、ばつが悪そうに頭をかく。

「親父が気象予報士で、小さい頃からいろいろ教えてもらってたから」

「すごいじゃん!変な特技持ってるんだねぇ」

「別に、今どき天気予報なんてスマホで直ぐに見れるだろ……」

 朝井はため息をついてまた空を見あげたまま言う。

「このバス停で並んでる人たち見てるとさ、みんながみんな、同じように下向いてばっかでたまに怖くなるんだよな。まるで興味があるのはスマホだけ、今、この場この瞬間には興味ありませんって感じがしてさ。さっき南雲さんが言ったみたいに夕日だって綺麗なのに…。ってごめん、俺変なこと語ってるな……」

 つい熱弁してしまった自分が恥ずかしいのか、最後の方はだいぶ声が小さくなっていた。

「ううん、そんなことない。確かに、下向いてばっかじゃもったいないかも」

 同意されるとは思わなかったのか、朝井は目を丸くして私を見る。

「初めて人にわかってもらえた」

 ホントに?と問い返すと、嬉しそうな、子犬のような笑顔で頷かれる。

 全く、なんでその笑顔を小野先生の前で出せないのかなぁ。


 次の日は朝井の言った通り、よく晴れた良い天気だった。

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