最終話

「今日も終電だめかなあ」

 椅子から立ち上がり、両腕を伸ばして振り向くと、無防備な顔が暗い窓に映った。酷い顔だ。垂れた頬がブルドッグのしわのようで、思わずくちを歪める。

「直子さん、お腹空いた。ピッツァとろうよ、ピッツァ」

 背中を向けて作業に勤しんでいた若い女が、窓に映る直子に言った。

「ああ、そうしよっか。冷蔵庫にビールもあったし」

 直子は、伸ばした手を頭のてっぺんで組んだ。

「ダメですよお。飲みながら仕事なんてえ……へへへ」

「あたしは飲めないの。彩夏ちゃんが飲みたそうな顔してるからじゃん」

「だってえ、下のおっさんたち、結構やってますよお」

 彩夏は一階を指差すように、とんとんと机を叩いた。机の上に散らばった金粉が細かく跳ねる。

「まあね。連日深夜まで仕事してんじゃ、ちょっとくらい飲まないと、やってらんないんじゃないの」

 直子が両手を組んだまま首を左右に傾けると、ぼきぼきっと大きな音がした。ついでに「うええ」なんて、まったく、おばさんくさい呻き声が漏れる。彩夏の反応が気になり窓を見ると、鋭い眼差しを受けた。

 同じような眼をどこかで見たことがあった。大きく黒い猫のような眼だった。

「直子さん、変わった時計してますね」

「へ? 時計? ああ、これ?」

 直子は、下ろした手首に絡まる蔦の形をしたバングルを眺めた。ああ、彩夏は時計を見ていたのか。

「ずいぶん前にフリーマーケットで買ったの。手巻き式なんだけどね」

 窓に映る互いの顔を見て会話をする。

「直子さんって、いつも個性的な時計してますよね」

「うん、変な時計集めるの好きなんだよね」

 いつから集めるようになったのだろう。気づいたときには、服に合わせて時計も着替えるようになっていた。大抵がフリマや骨董屋で見つける。

 若い頃は一生懸命おしゃれもした。けれども、常に絵の具で汚れている手に指輪は着けられないし、肩こりが酷くてピアスやネックレスも無理だと判った。携帯電話を持つようになってからは正確さも求めなくなってしまい、腕時計はただのアクセサリーになったみたいだ。

 そういえば、高校の入学祝いに買ってもらった腕時計は、結局、失くしたまま見つからなかったんだっけ。どうやって、両親を誤魔化してきたんだろうな。

「あたしなんか始終スマホいじってるせいか、時計が欲しいって思えないんですよね」

 彩夏がくりくりした瞳で直子を見る。

 もしかしたら…………

 直子は、遠い昔に銭湯の鏡越しに見た、挑むような眼差しを思い出した。

 あの長屋住宅の少女は、わたしではなく、脱衣所のロッカーを見つめていたのではないかしら。ロッカーの中で無警戒に放られた、茶色い革ベルトの時計を……。

 今となっては、存在していたのかも定かでない幻の少女を疑ってみてもしょうがないけれど、それならそれでいいような気がする。盗まれたとしても、悪いのはわたしだったのだから。

「彩夏ちゃん上手いじゃない。日本画専攻だったの?」

 窓から離れた直子は、頭上から覗き込むように、彩夏の手元を見て言った。

「ううん、デザイン科。仕上げにポスターカラーの金粉を水で溶かずに手で擦り込んだんですよ」

「へええ、いいアイデアね。うん、いい感じよ。言われなきゃ本物だと思っちゃう」

 郷土博物館に代用展示される予定の、出土品のレプリカをまじまじと眺める直子に、椅子の背に腕をもたれた彩夏は、

「直子さんも時間がかかりそうですねえ」

 後ろに首をねじって言った。直子の机には、数十体の人形が整然と並んでいた。

 今でこそ「ゆるキャラ」だの「キモカワ」だの言われているけれど、どう見ても不細工な人形たち。デパートやスーパーの贈答品コーナーに飾られるソーセージのキャラクターは、着色される前の真っ白い状態だと、一層、気味が悪い。毎年、中元の季節が近づくとやってくる仕事だ。

「そうねえ」

 溜め息交じりに彩夏を見ると、窓に映っていたときよりも、実体はきれいで愛らしい。ふと、Ⅴネックの隙間から覗く胸の谷間に眼がいった。

「それ、どうしたの? 前から、あったっけ?」

 直子は彩夏の胸を指差した。

「えへ、これですかあ」

 彩夏は勿体つけるようにシャツの襟をつまむと、くいっと胸を見せつけた。紅い薔薇が一輪、白い肌に浮かんでいる。

「タトゥーシールです」

「はあ……なんだ、シールか」

 妙にほっとした。

「デート用です。一週間くらいは持つんですよ。手軽にパソコンでも作れるんです。直子さんもどうです?」

「いい、見せる人いないもん」

 直子は、そう言って腰に手を当てた。慈しむように、その手で腰を撫で、ふとももまで滑らせる。それを何度か繰り返していると、

「マッサージしましょうかあ?」

 彩夏がけらけらと笑った。


 都会で暮らした年数が、郷里で過ごした日々を追い越していた。知らないうちに歳をとっていく。

 三年に一回くらいは戻るけれど、帰る度に町は変化していた。子供たちが風のように通り抜けていた路地も、通っていた銭湯も、今は無い。広い駐車場を備えたコンビニエンスストアーが建ち、知らない顔ばかりとすれ違った。川沿いのお屋敷は、今でも立派に存在感を見せつけていたけれど、向かいに在ったはずの古い長屋住宅は、流行りのメゾネット型賃貸マンションに姿を変えていた。

 わたしは、本当に、あそこで生まれて育ったのかしら。追憶に耽ってみても、すべてが夢の中での出来事のようだった。

 結婚、結婚とうるさかった両親も、いつの間にか何も言わなくなった。家族が増える楽しみをプレゼントすることは、この先もできそうにない。わたしは、わたしを育てるのに精一杯で、他の誰も育てることができなかった。

 窓に映る自分に大きく溜め息をつきカーテンを閉める。

 建付けの悪いドアをがたがたとゆらしながら閉め、鍵を掛け、外階段を下りる。一階のドアを開けると、ひとりの男性が、まだ居残っていた。歳を訊ねたことはないが、白髪頭のわりに顔の色艶がいい。

「あと三十分ほど待っていれば、途中まで送ってくけど」

 何を作っているのか、まったく判らないのだけれど、男性は机に並べたアクリル板をカットしながら、ちらりともこちらを見ずに言った。

「うん、大丈夫。終電に間に合いそうだから」

 机の端に鍵を置き、「おさきに」と工房を後にした。

 初夏とはいえ夜は冷える。薄手のジャケットに腕を通しながら急ぎ足で駐車場に出ると、プップッとクラクションが鳴った。ヘッドライトがわたしを照らし、見慣れた車がゆっくり近づいてくる。

「久しぶり。三日ぶり? 四日ぶりだっけ?」

 当たり前のように助手席に乗り込み、ちょっと嫌味を言ってみる。

「え、そんなに?」

 誠は挨拶をするようにくちびるを寄せた。暗くて、うわくちびるをかすっただけ。汗と塗料の交じった臭いが嫌で、わたしは思わず背中を引いた。

「いつから待ってたの?」

「二時間くらい前かな。電気が点いていたから、まだ仕事してんのかと思って駐車場に入ったら、二階の窓から直子の顔が見えた」

「電話してくれてもよかったのに」

「うーん、なんか、それも面倒だった」

 この男も自分のことで精一杯なのだろう。結局、獅子の彫り物はどこにもない。

「はああ、疲れた。どっかで飯食っていかない?」

「夜中に食べるとデブるよ」

「腹減ってんだよ。付き合え」

 国道沿いに並ぶファミリーレストランは、時間など関係なく明かりを放つ。信号待ちの間、誠は、どこに入ろうか迷っているように首を前に出していた。

「しょうがないな。付き合ってやるよ」

 わたしが応えると、色あせて延びたTシャツの袖に手を突っ込んだ誠は、ぽりぽりと肩を引っ掻きながら言う。

「夜中に食うとデブるよ」

 めくれた袖の下から小さな蝶が翅を広げる。

 まだ若かったわたしが、「彫るのなら、青い蝶がいい」と言ったから。

 あの時、誠は、特に理由を訊かなかった。わたしのセンスでいいと思っていたのか、デザインがよければ何でもいいと思っていたのか……。

 わたしの秘密の場所に、青い蝶がたった一頭佇んでいるのは、この上なく気持ちいいのだけれど、どうせ死ぬときはひとりだ。

 わたしは、わたしに出会った瞬間、直感したのだ。十六歳の、あの夜、一緒に死んでくれる相手が、紅く、艶やかなわたしなのだ、と。

「ここでいっか?」

 誠は、わたしの返事も聞かずにファミリーレストランの駐車場に入った。

 車を降りて大きく明るい窓を見る。窓際に向かい合う若い男女は、それぞれがスマートフォンの操作に夢中で、下を向いたまま眼を合わせる様子もなかった。

 誠は、わたしの手を取ると、店の入り口へと歩き出した。

                                                                      (了)   

                                                               

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

花王の眼 吉浦 海 @uominoyama

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ