第20話 混乱の水平線
タクシーは扉を両翼とも広げ、ハザードを点滅させながら、路側帯に停止していた。この車種では、対面シートの片方を転換させ、運転席として利用することができる。
「免許を取って初めての公道運転なので、不安だから隣に座って」
シートの背もたれを押して向きを転換し、運転席に座ったゆみちに言われ、こいつにも不安という気持ちが存在するのか――と思いつつ、トモは助手席側に座った。
ゆみちは慣れた手つきでダッシュボードからハンドルを取り出し、運転操作を始めた。ガルウイングをゆっくり閉じながら、車は走り出した。
車載ナビに従うだけだから楽だろうとトモはタカをくくっていたが、そうもいかなかった。
冠水や土砂崩れで、通行止になった道路が多数あり、なかなか思うように進めなかったのだ。結局、何度もUターンを繰り返すはめになった。なにしろ、車両の安全装置のせいで、先に膝ほどの冠水があるだけでも進んでくれない。車載ナビの情報は全然当てにならず、トモが、自分の携帯を叩いて、川の位置や、標高などを調べながら、ましな迂回路を探した。
結局、当初考えていた三河川合駅には辿り着けないことが判り、迂回を繰り返し、更に南の湯谷湯駅にようやく到着した。ゆみちが運転を始めてから約一時間が経過していた。
湯谷湯駅のホームで列車を待ちながら、トモはゆみちに礼を言った。
「大変だったけど助かったよ。運転もうまくて全然恐くなかった。ゆみ……いや森川さん」
「ゆみちでいいわ。昨夜もそう呼んだじゃない」
「いや、森川さんで……」
「駄目。その呼び方では、私と私の弟を区別することができないし」
何言ってるんだか――とトモは呆れた。
「僕は君の弟を知らないし、この先会うこともきっとないから、心配無用だよ」
「そうとも言えない。何故か、ユズキは研究所の受験案内を取り寄せていた。受ける意思を持ってるらしい。合格する確率は低いと思うけど」
「じゃ、彼が合格した場合は、森川ゆみちさんと呼ぶよ」
「何を言ってるの。これからもお互い第一名称のみの呼び捨てで行きましょう。なぜなら、二人の恋人的確率は高い。なにしろ状況証拠が多い。全裸で抱き合ったし、昨夜は同じ毛布の中で眠った」
トモは耳まで真っ赤になり、
「な、何を馬鹿なこと言ってるんだよ!」
と叫んだ。
「馬鹿なことか……解ったわ……だけど、私はこれからもがんがん攻めていくから」
「あのね、そんなこと言ってもね、僕は……」
「列車が来た」
◆
その日の今切口は見渡す限りの青い空。風は強かった。
「潮風が心地いいわ……」
海辺に横浜沙耶葉が立っていた。長い髪を束ねた背中の藍色のリボンが揺れていた。
東には浜名湾を挟んで対岸が見える。北には新浜名大橋と呼ばれる巨大な斜張橋が対岸まで延びている。その橋の西端には通称『
沙耶葉は、太い三脚で固定された一見するとビデオカメラのような装置を操作していた。
「よし、準備万端整ったわ!」
沙耶葉は対岸に向かって両手を大きく振った。約一キロ離れる西岸には渉が立っていた。今切口を県境に、沙耶葉の立つ西の新居町側が愛知県、渉の立つ東の舞阪町側は主争岡県だ。
渉の傍らにも同じ装置が設置してあった。その受光板に光の点が射した。
沙耶葉が手を振るのを確認した渉が、装置のパネルを軽やかに叩くと、装置の投影装置から、等身大の沙耶葉の立体映像が浮かび上がった。
「どう? ちゃんと写ってる?」
立体映像と共に届いた音声に向かって、渉は答えた。
「パーフェクトです。沙耶葉先生!」
「こっちも完璧!」
この鮮やかな立体映像にすがりつきたいな……。渉は少々不謹慎なことを思った。
その視線を感じた訳ではないが、沙耶葉は再び装置を操作し、映像を消した。
「特に怪しげな人影も見えないし……、さて、後はトモ君が来るのを待つだけか。おっ!」
タクシー車両が堤防道路から下へ降りてきて停止し、キャノピー型のドアが開いた。
「あら、隣に女の子……」
ちょっと驚いた沙耶葉に、車から降りてきた一人が駆け寄ってきた。
「お久しぶりです。やっぱり沙耶葉先生でしたか……」
元気そうな声に、沙耶葉も「久しぶり!」と嬉しそうに言葉を返した。
「――で、渉君は?」
「対岸よ。ところでその女の子は? 確か、君にはお姉さんはいなかったはずだし、タクシーの運転手って感じじゃないし、まさか彼女?」
「はい、私がトモの彼女です」
後から歩み寄ってきた娘はあっさり肯定した。
「げ!」
トモはのけぞった。
「あの……この人の言ってることはでたらめですから……」
大焦りでトモが言うと、ちょっと笑みを含んだ怪訝な顔で、沙耶葉は娘に訊いた。
「ふーん。で、じゃあ、どういった訳でご一緒なのかしら?」
「――貴方が、異星言語科学研究所助手の横浜さんですね」
その言葉に沙耶葉はなんとなくカチンと来た。
――そうですよ! どうせあたしはまだ助教授ではなくて助手ですよ――と思ったが、それはさすがに飲み込んで、単に「ええ、そうですけど……」とそっけなく返した。
「ご挨拶が遅れ失礼しました。私は森川ゆみちと申します」
「こ、こいつかあ! あの森川ゆみちってのは!」は思わず口から出てしまった。
「嬉しい……私のことをご存じとは……」
弟の話からすると、この言葉は皮肉で言ってるんじゃなく、天然なのかな。結構手強い変人だな、と沙耶葉は思いながら話を続けた。
「で、どういった目的でお嬢さんはこんな所に?」
「全てを話せば長くなりますが、そこにはまるで恋愛ドラマのような運命的出会いが……」
トモが大あわてで遮った。
「ままま、全く偶然なんですが、母の田舎に、と、突然この人がやって来まして……」
「うーん、よく話が見えないけど、結局、その娘がトモに一目惚れしたというところかしら」
「はい。概ねそんなとこです」ゆみちがさらりと答えた。
「あのねえ! それは違うってば!」
「いや、本人がそうだと言ってるんだから、君は否定しようがないと思うけど……」
「違うんですって!」トモは激しく否定した。
「ま、それは置いといて、向こうもそろそろ到着するかな。現場の渉くーん、聞こえてる?」
「はい、聞こえてます。トモ君、お久しぶりです。えっと、たった今、大野木さんから連絡が入りまして、あと三分で到着するということです」
「了解! 対岸の方も順調ね。こっちは、ちょっと予定外の人がいるけど、どうやらうまく会えそ……え、何?」
その時、突然、霧でもかかったように対岸が見えなくなっていった。
「ちょ、ちょっと、何、これ……? 渉君! 今、そっちでも何か起きてる?」
「はい、渉です。やはりそちらでも同じですか。突然擦りガラスのようにそち……」
「もしもし、渉君! 渉君!」
通信が途切れた。
「――駄目か。そりゃそうだ。こんな状況じゃ、レーザー通らないもんな」
「無線通信じゃないんですか?」トモが訊ねた。
「県境には電波を通さない層が作られてるの。でも、この場所は対岸までの視界がクリアだから、可視レーザーを使って通信しようと思ったんだけどね。これじゃあ駄目だわ」
その時、突然、沙耶葉の携帯が鳴った。
「はい、沙耶葉です。あの、今、県境で大変なことが……え……非常警戒?」
それは寒河江からの通信だった。
「そうだ。教区内で爆弾テロを起こすという犯行予告が教団に送られてきたそうだ。それで今、主争岡全域に緊急非常戒厳令が発令されている。今、対岸が見えなくなっていると思うが、それはすべての状報を封鎖するための光学バリアだ」
「なな、なんで、よりによってこんなタイミングで……」
沙耶葉はその場にへたりこんだ。その時、ゆみちが「あの……」と声をかけた。
「何?」
「変な歪みや虹のようなノイズを含んでますが、対岸はしっかり見えてますけど……」
「はあ? あんた何言ってるの? 見ての通り、向こうは完全に擦りガラス状でしょうに。何一つ見えないわよ。もしかしてあんたエスパー?」
呆れた顔で沙耶葉は言った。変人だとは聞いたが、超才力者だとは聞いていない。
「あ、そうか。あの、ちょっと、この眼鏡を掛けてください」
ゆみちは自分の眼鏡を外し、渡した。怪訝な顔をしながらも、沙耶葉はその眼鏡を掛けた。
その瞬間「え――――っ!」という沙耶葉の絶叫が海岸に轟いた。
「な、な、何? なんだこれ? 確かに向こうが見える……」
びっくりした沙耶葉は、ゆみちに飛びついて叫んだ。
「こ、こ、これって一体どういう眼鏡なの? こんなこと、で、で、でき得ないわ!」
「偏向振動光同調レンズと呼ぶそうです」
「えーっ、そんなものが存在するの? ……てゆーかなんでなんで?」
沙耶葉は興奮して完全に我を失っている。
「沙耶葉先生!」
叫ぶ声に沙耶葉が振り向くと、トモは望遠鏡を持っていた。
「これで、見えますか?」
「あ、ああ、ええ、うん。見てみる……」
沙耶葉は渡された望遠鏡で対岸を見た。
「うん、見える見える! 色とか形とか少し歪んでるし、変な残像も見えてるけど、はっきり向こうが見える。あっ、今、車が入ってきた。きっと綾子ちゃんの車ね!」
「やっぱり綾子が……」
「よし来たか!」
とゆみちも叫んだ。
「だけど、こちらから相手が見えても、これじゃ、連絡もつけられないな。どうしたらいいかしら……時間もないし……」
トモは突然はっと思いついた。
「ゆみち! さっき売店の横を通ったよね。そこで包装用の紐とテープ、それから鋏と太字のマーカーを買ってきて欲しい。それと、大きめの包装箱も貰ってきて欲しいんだけど……」
「はい。旦那様!」
アホな返事をしているがここは無視だ。今はそれどころじゃない。ゆみちもさっさと車に向かっている。アホなこと言いつつ、あいつもちゃんと状況を把握している……。
「鋏というか工具なら持ってるわよ!」
沙耶葉が叫びながら、車から工具箱を持ってきた。
「助かりました! これですぐ組み立てられる。ペンチも貸してください」
トモが鞄から黒いものを取り出した。
「それって…………なるほど! それは名案ね!」
◆
「どうしよう……沙耶葉先生と連絡がつかない……」
対岸の渉はすっかり弱り切っていた。大野木が提案した。
「どうやら、戒厳令が出ているようです。この状況では、綾子さんに埋め込まれたチップのチェックもいつ始まるか分からない。今すぐ戻るべきです」
「そんなのダメだよ。せっかくトモ君も来たのに!」
「いいんです! みんな、私のために頑張ってくれて本当に嬉しいです。その気持ちだけで、もう十分です!」
綾子は精一杯心を込めて言った。涙がこぼれそうだった。
「ちょっと待って! あれ!」
渉が指差す先を、綾子と大野木が見上げると、白く濁った空の高くに、赤い紐に結ばれた、黒い箱状のものが突如現れていた。箱には筒のようなものがぶらさがっている。
「立体凧か!」
そう叫んだ大野木が走り出して、何かを空に投げた。
「え、シュリケン?」
放った二枚の十字手裏剣が、まず凧の紐を切断した。
紐を失い風に乗り舞い上がる凧を、今度は棒手裏剣が正確に貫いた。側面に大きな風穴を開けた凧は、見上げる三人の頭上を越え、背後の第二防波堤の向こうへ一気に落ちていった。
女は疾風のようにその凧を追い、堤防壁を駆け上り、堤防道路を走る車の間をすり抜け、そこから身の丈の倍ほどの高さへ飛翔。懐刀を抜き、凧と筒を繋ぐ紐を一太刀で切り離し、離れた筒を左手でしっかり掴んだ。そのまま堤防の向こう側に降下し、姿が見えなくなった。
この人、一体何者? 渉は驚きながら「ナイスキャッチ!」と叫んだ。
対岸でも沙耶葉が望遠鏡で一部始終を見ながら、同じ言葉を叫んだ。
「ニンジャ大野木って呼ばれてるけど、まさか本当に手裏剣を持ってるとは驚いたな。それにしてもトモ君。雨傘を分解して凧を作るなんてよく思いついたわね」
右眼だけレンズの入った眼鏡を掛けた沙耶葉は言った。
「遠州浜松と言えば、凧あげ祭がよく知られているので、ふと思いつきました」
望遠鏡を掴み戻ってきた大野木は、
「こんなもので見える筈はないのだが……」
と呟きながらも、それを通して対岸を見た。
――み、見える。何故?
沙耶葉同様、仕掛け物には詳しい大野木だが、この遠眼鏡の仕掛けについては全く分からなかった。先端に付いてるレンズが何かの働きを持ってるのだろうか。とにかく……。
「綾子さん、これを!」
渡された望遠鏡を綾子が持って覗くと、その先には確かにトモの姿が見えた。
――大きく手を振っている! トモも遠眼鏡でこっちを見ている。
綾子も精一杯手を振った。沙耶葉先生が持つボードに何かメッセージが……。
《大好きな綾子――絶対君を取り戻す!》
トモ……とっても嬉しい…………でも、もう一人の女性は誰?
何……そんなにトモに寄り添って、どうするつもり……あっ!
その瞬間、少女は無意識に、望遠鏡を震度八強にも耐え得る護岸壁に叩きつけていた。
先端に光る三十七万九千円が粉々に砕け散った。
◆
両岸で混乱が起きていた。
東岸の舞阪側では、望遠鏡を投げつけた後、その場に倒れこんだ綾子を、大野木と渉がタクシーまで運びこみ、急ぎ袋井への帰路についた。二人には状況が全くのみ込めなかった。
一方、西岸の新居側では、トモが自失呆然状態だった。
「こんなの……あんまりだよゆみち……」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
ゆみちも自分の行為を深く反省しているようだった。
「戦士としての衝動が抑え切れませんでした。ごめんなさい。本当にごめんなさい」
その場にしゃがみこみ小さな声で泣いた。それは親や弟にすら見せたことのない姿だった。
沙耶葉は一人呆れていた。呆れ果てていた。ユズキがどうして姉のことをそんなに不安に思っていたのかがよく分かった。
――本当にこの子には変人改善の対策とか訓練とかが必要なのかしら……。
泣き崩れる二人を見ながら、沙耶葉はそんなことをぼんやり考えていた。
しばらくして、ゆみちはトモの涙顔から眼鏡をゆっくり外し、自分の涙顔に戻した。そして、一人タクシーで帰ろうと、ふらりと立ち上がった。
その時、右目の視界に、対岸の景色に重なり、何か光るものが飛び込んできた。
「こ、これは……何?」
今まで経験したことのない強い感覚だった。ゆみちにはそれが何か全く理解できなかった。強い衝撃に気を失い、その場に倒れた。
その数秒後、突然、対岸を覆う霧に透明な点が次々現れ、あっという間に、遮蔽バリアが消えていった。その様子を沙耶葉だけが見た。
「え、あれ? もう戒厳令が解除された? でも早すぎる。あまりにも早すぎる……」
◆
走るタクシーの中、車内には時々アナウンスが流れた。
「緊急戒厳令発令のため、現在、県境を封鎖し、主争岡県内全域で検問を行っております。ご協力ください」
その鳴り響く音声に綾子は意識を取り戻した。
「綾子さん。一体、何が見えたの?」
「……ごめんなさい。何でもない。目眩がしただけ……」
綾子は渉にはそう答えた。しかし、脳裏にはあの時の映像がしっかり焼き付いていた。奴はトモに抱きつき口づけしたのだ。しかもディープに吸っていた! 私に見せつけるために……。
その瞬間、脳の言語野の片隅から、一つの単語が転がり出た。
――メ・ス・ブ・タ・め!
彼女が今まで抱いたことがなかった情念だった。
いつも、どんな嫌なことが起きても、それを受け容れることや許すことができたのに、何故か、あのメスブタだけはどうしても許せない。あんなこと、別に大したことじゃな……いえ、大したことだわ! あの畜生体が、皆の努力を、好意を、全てふいにしたのよ!
大野木は、綾子の意識が戻ったのを確認すると、運転席に移動し、表示パネル横に小さなカードを置いた。すると、車内にアナウンスが流れた。
「リニアモーター設備の動作が確認できません。以降、手動で運転してください」
それはタクシーの自動運転制御と安全制御を解除する違法装置だった。大野木はハンドルをダッシュボードから素早く取り出し、車を猛スピードで加速させた。
――一刻も早く! このままだと、間に合わない……。
その時、進行方向からやや左の遠くに、光が見えた。
あれは何?――大野木がそう思った瞬間、爆発音が轟き、薄紫のきのこ雲が立ち上った。
「な、何、どうしたの?」
と後部座席の渉が叫んだ。
「――どうやら爆弾テロのようです。さっき対岸が見えなくなったのは、テロに対する警戒のためだったようです。あの場所は恐らく総合競技場……」
険しい表情で大野木は言った。
その時、再び車内アナウンスが流れた。
「緊急警報! タクシーネットワークがオフラインです。この車両のナビは動作しません。安全装置も一部動作しません。至急路側帯に停車し、周囲の安全を確認後、降車してください」
「そういう訳にはいかないのよ!」
大野木はそう叫んで、路肩に停止していく車両を次々と避けながら、車を先に進めた。
――どうやらネットワーク基地設備が狙われたようだが、バックアップも存在する筈。完全にネットがオフラインになるなんて通常考えられない。一体誰がこんなことを……。
大野木にもその犯人に心当たりがなかった。
煙が立ちのぼる競技場に車が最接近した時、綾子は歩道に再びあの少年を見つけた。
――タカトさんだ! あれは幻じゃなかったんだわ。でも、どうしてこんな所に……。
ハンドルを叩き、大野木が再び叫んだ。
「クソ! 駄目か。この先で検問をしている!」
遠くに車列が長く並んでいるのが見えた。その緩やかな流れに従うしかない。
「綾子さん、ここで降りてください。ここからは走りましょう!」
路肩に完全に止まるのを待たずに開いたスライドドアから、三人は飛び出した。
横を走る大野木が綾子の腰を支えると、綾子は今まで経験したことのない早さで走ることができた。あっという間に渉は離されてしまった。
「はあはあ……こんなとこで取り残されたら……はあはあ……帰れないよ。携帯のネットワークも全く機能しないし……」
突然、渉の足が止まった。
「あ、そうか。僕は別にあわてる必要ないんだ。ま、道路標識でも見ながら、ゆっくり帰り道を探すことにしよう。そのうちネットワークも回復するだろうし」
一方、大野木と綾子は走り続けていた。
「この先の川は飛び越える!」
正面には対岸まで五メートルはあると思われる川が立ちふさがっていた。
「ええっ!」
「あなたは見かけによらず運動神経がいいようだ。私は特殊靴を履いている。だから一緒に全力でジャンプすれば越えられる。誰か憎い奴の顔でも思って跳びなさい!」
とっさにあの女の姿が脳裏に浮かんだ。力が入った。
二人は川を楽々と跳び越えた。そして、さらに百メートルほど走ると、早川の姿が見えた。
「よかった! どうやらネットワーク回復までに間に合ったようだ。念のため保護ブレスレットに埋め込んでおいた発信機が役に立ったよ」
早川が駆け寄ってきた。
「助かりました。そろそろこの子が限界でした」
少し息の荒い大野木の隣で、綾子がその場にうずくまった。
「大丈夫か?」と訊ねる早川に、綾子は息を切らしながら答えた。
「はあ、はあ、はあ、だい……じょうぶ……です」
懸命に走ったことで何かが吹っ切れた。それに加えて、まるで血が沸き立つような感覚……熱い、身体も心も熱い――――それも綾子が今まで経験したことのない情念だった。
「しかし、何が起きたんだ? ネットワークが全部不通になるなんて……」
「あれを見てください」
と大野木は西の空を指差した。
早川がその方角を見ると、風に大きくたなびく紫煙が立ちのぼっていた。
「な、なにっ! あれは一体……」
「浜松市総合競技場が爆破されました。どうやら、地下がネットワークの基幹基地だったようです。バックアップ用の基地局も同時攻撃を受けている筈です」
「だ、誰がそんなことを!」
「分からない……全く分からない…………」
ようやくネットワークが回復した。街には緊急車両のサイレンが鳴り響いていた。
◆
強風が吹くビルの屋上に、少年は立っていた。風にたなびく総合競技場からの煙と、周囲を取り巻く緊急車両の赤い光が良く見渡せる場所だった。遠くには太平洋も見えた。
少年の腕は、あのホログラム写真の額縁をしっかりと抱えていた。
「――ご覧よ先生……。救光教の闇に、楔を打ち込む日がついに訪れたよ。先生も一緒に喜んでくれるだろ……」
――この人が本当に自分の教師だったら……母だったら……どんなに嬉しいことか……。
一ノ瀬タカトは、高く立ちのぼり大きく風になびく紫の煙に祈りを捧げた。
ホログラム写真の女性は、七王あずさ――その人だった。
〈了〉
異星言語科学研究所 しんめいかい @shinmk
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