第19話 今切口
「これをつけて……」
綾子の左肘にブレスレットのようなものが取り付けられた。
「それがチップの発信をガードする。そしてこれが沙耶葉特製、疑似信号の発生装置だ」
そう言って早川は取り出した装置の操作盤を叩いた。ディスプレーが光り、動作し始めた。
「でも、ま、沙耶葉の話によれば、これでごまかせるのは最小で約四十五分だそうだ。室内に入ると、プライバシーへの配慮から、座標チェックの間隔が五分と長くなる。しかし、その一方で、最大で約一時間、最小で約四十五分ごとに発信装置の綿密なチェックが行われる仕掛けになっていて、それがたった今終わったばかり。そのチェックを偽物の装置で騙すことは残念ながらできないそうだ。そんな訳で、ま、一応安全を見て、タイムリミットは四十分だ」
「私、県境を越えるんですか?」
「いや、越えない。そんな遮蔽ブレスレットをつけて検問を通ったら大変だ。ただ、県境に極めて近い所に行くので、位置が記録されるのはちょっとまずいだろ。教団はまだ君に深い関心を持っているとは思わないが、君のお父さんには知られてしまう。ま、それへの対策だ」
「もしかして、私……」
「時間がない。詳しいことは大野木さんに聞いてくれ。じゃ、後は任せた」
「はい……」大野木は静かに返事をして立ち上がり、綾子の手をとって外に出ていった。
軽やかな鐘の音を響かせ、扉がゆっくり閉まっていくところで、綾子は振り向き、みんなに向かって深くお辞儀をした。外には無人のタクシーが待機していた。
◆
車内に向かい合わせに座った二人は、しばらくの間黙っていたが、加速が終わり、速度が安定すると、大野木が口を開いた。
「小白川さんは今の状況にそれなりに満足しているようですが、友達と突然離ればなれになって、悲しくはなかったのですか」
「悲しかったけど、そういうことは慣れているから……転校も今度が二回目。お父さんはいつも突然決断するの……」
「あなたはそんなお父さんのことをどう思ってるの?」
「分からない……もしかして、あの人に対して、具体的な思いなど何もないのかもしれない」
綾子がそう言うと、大野木は目を伏せて言った。
「――親に賢さと愛がないのなら、西救光教の環境は子供を檻に閉じこめ、東救光教は子供を荒野に置き去りにする……」
「…………」
「今のあなたには『嫌』という気持ちが足りなさ過ぎる……」
「――さあ、どうなんでしょう……」
綾子は時速一二〇キロで景色が流れる窓の外を見た。
「本当に、大野木さんが言うように、私は現状を『嫌』と思うべきなのでしょうか」
呟くように綾子は言った。
「えっ?」
「文教特区は、確かに『檻』という言葉が相応しい場所かもしれません。文化安寧救光教は、一部の人が言うように悪い団体なのかもしれません。でも、西救光教は、私に新しい発見を幾つももたらしてくれてます。もしかしたら、あの図書館に出会うために、言葉の歴史を書き換えるために、この私は生まれてきたのではないか。今はそんなことすら思うのです。
一方で、研究所の皆さんから、私はたくさんの贈り物を頂きました。楽しい昼食会や、あの本、そして今、どうやら、私の一番大切な友達に会わせるために心を砕いてくださっている。文教特区にいるのは駄目なんだ、『嫌』なことなんだ、と私に思って貰いたい。そんな皆さんの一生懸命な気持ちがひしひしと伝わってきます……」
窓に映る綾子の顔は微笑しているようにも見えた。
「――大野木さんは『嫌』だったのですね」
過去を思い出し、大野木は体を少し震わせた。そして、まだ中学生の娘に恐れを抱いた。
「ごめんなさい。気持ちを覗き込むようなことを言ってしまって……」
窓の外を見ていた綾子が、大野木の方を向いた。
「でも、申し訳ないのですが、少なくとも、私は異星の言語などには興味はないのです」
返す言葉が見つからなかった。綾子は肘のブレスレットに目を向けた。
「しかし、今回のことの恩返しは是非させてください。先程の話のように、試験を受けることが世界のためになるというのなら、私は喜んで受けます。でも……」
綾子は一旦瞼を閉じ、そしてその円らな瞳を強く見開いて言った。
「そのあと進む道は、私自身に決めさせてください」
沈黙の時間が流れた。見つめる瞳には強い意志が感じられた。
「――気持ちはよく分かりました。しかし、あなたがどういう考えを持っているにせよ、試験を受けてくれるというのなら、私達はその言葉に甘えることにします」
大野木は両手を綾子の両肩にのせた。
「今から暗示をかけます。催眠術と言った方がいいかもしれません。何の暗示かは言いません。その時になれば判ります。あなたが誰かに話してしまうのを避けるためです。それと、この先、あなたには少々危険が伴うことが起きます。もし、嫌なら言ってください」
「いいえ、お願いします!」
大野木は綾子の横に座り直した。そして、耳に口を寄せ、小さな声で何かを呟き始めた。
不思議な感覚だった。言葉は聞こえるが、その意味が何か分からない。でも、自分は覚醒したままで、周りのものもはっきり見えている。その視界に入るものは、まるでスローモーションのようだ……。綾子の虚ろな目に流れる景色が映りこむ。
――歩道に人が立っている……たった今、通り過ぎた。あの人はたしか……。
その時、手を叩く音がした。
「――終わりました」
綾子に現実の世界が戻ってきた。
――私が今見たものは、大野木さんの暗示による幻だったのか……。私はあの人を知っている……。あれはタカトさん……私を助けてくれた一ノ瀬タカトさんだ!。
◆
トモは、タクシーの中ですっかり落胆し、頭を垂れていた。
――もう間に合わない……そう諦めかけた時、突然窓を叩く音がした。トモは顔を上げた。
「ここを開けなさい!」
ゆみちだった。驚いたトモは「開けて!」と叫んた。ガルウイングの片側が開いた。
「なんで来たの!」
体を乗り出し、怒りの表情をゆみちに向け、叫んだ。
ゆみちは「嫌な予感がしたから……」と動じることなく返した。
「嫌な予感がしたなら、むしろ、列車に乗ってるべきだろう! なんで降りたんだよ。君まで間に合わなくなるじゃないか!」
これがお父さんだったらどんなに助かっただろう。それにしても、ゆみちってこんなにバカなヤツだったのか……。トモは泣きそうだった。
「大丈夫よ」
そう言ってゆみちは車両に乗り込んできた。
「な、なにを……」
「三河川合駅まで。運転免許、鶴見NX一三四五二
「森川ゆみち様、回転モーター車運転免許
翼を閉じタクシーは走り出した。
「め、免許、持ってたの? 高校生なのに?」
「何かの役に立つかも知れないと思い、この夏休み中に免許を取ったの」
トモは驚きを隠せなかった。確かに高校生でも二年になれば免許が取れるという話は聞いていたが、学校の許可が要るし、よりによって……。
「私がぼーっとしてるから、運転など到底でき得ないとでも推測してたの?」
「いや、べ、別に……」
図星だった。こいつ、人の気持ち、ちゃんと分かるじゃないか――と思った。
確かに心配だ。しかし、こんな状況では、どんなに危険な運転でも走れるだけましだ。
「か、感謝するよ……」
ゆみちの頬に赤みが差した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます