第18話 雨の駅舎
夜になっても、雨は一層激しく降り続いていた。夏だというのに結構寒かった。
――まさか、こんなことになるとは……。彼女は僕に寄り添い、穏やかな寝息をたてている。どうして、こんなに安心しきった顔で眠れるのだろうか。少しは警戒しないのか……。
駅舎内のベンチで二人毛布にくるまりながら、トモは思った。眠れない……。翌日にはたどり着けるのだろうか。あの場所、
◆
その日の朝、トモは篤志に揺り起こされた。目覚めたトモは眠い目をこすりながら、枕元の端末を見た。
「……え、ま……まだ五時半じゃない……」
「この辺りの路線は雨に弱い。これほどの降雨だと列車運行を止めてしまうことはしょっちゅうだ。それに、万一土砂流れ(崩れ)が起きれば、三日ぐらい鉄道は復旧しない。依然雲は厚いままだ。念のために早く塩尻まで出た方がいい。塩尻まで行けばその先には激しい降雨にも十分耐え得る丈夫な線路が通っている」
既にゆみちと和人は出かける準備を終えていた。食事もとらずに駅に向かった。
そして、篤志と雅臣に見送られながら、三人は、辰野方面へ向かう一両編成のワンマン列車で、上諏訪駅を後にした。まだ起きていなかった美貴に別れを言えなかったのが可愛そうだったなとトモは思った。
震災が起きる前には、上諏訪駅の西の岡谷駅を経由し、北西の塩尻駅に直接繋がる塩嶺トンネルを通るルートがあった。しかし、それは震災時に崩壊し、現在も復旧工事中であった。今後の災害に備え、より堅牢なものにするため、工期が大幅に遅れていたのだ。
したがって、目的地に行くには、まずは南の辰野駅へ行ってから、折り返すように北西の塩尻駅に向かうルートしかなかった。少なくともトモ達にとっては……。
一方、横浜へ帰るはずのゆみちには、上諏訪からは南東の甲府方面に向かう線路があり、これが最短ルートだ。しかし、塩尻を通り長野駅に向かうルートもそれほど時間に違いはない。そして、どちらの方面に向かう列車も上諏訪駅を発車するのはほぼ同時刻だった。
ゆみちはトモ達と一緒に行くことを選んだ。豪雨が激しい今は一緒に行った方が不安も少ない、和人とトモはその程度に考えていた。
列車は、下諏訪、岡谷と、乗降客のない各駅に停車しながら進んだ。しかし、辰野に到着したところで駅に停車したままになった。運転手が携帯で連絡を取った後に言った。
「申し訳ございません。雨の勢いがひどく、この駅でしばらく運行を休止することになりました」
トモはさっそく周辺の路線情報を携帯で調べた。
画面には、辰野と北西の塩尻間、辰野とその南の駒ヶ根駅間、更に、辰野から北東の上諏訪を通り富士見駅まで、その全区間の運行休止が案内表示されていた。時間あたりの降雨量が基準値を越えたためだった。三方向の路線が塞がれ、どこにも動けなくなってしまった。
富士見駅から甲府方面はまだ列車運行が続いていたので、こちらの列車に乗ったのは、ゆみちにとっては不幸だったと二人は思った。申し訳なさそうにトモはゆみちに言った。
「一緒に来ない方がよかったね」
「いえ、最初っからこちらに来るつもりだったから……」とゆみちは答えた。
「甲府方面に抜ければ、簡単に帰れたのに?」
「こっちでいいんです」
一両編成の車内には、他には、運転手と、年老いた夫婦の乗客がいるのみだった。三人は、梨沙と芳恵が昨夜こしらえたサンドウィッチを頬ばりながら、運行の再開を待った。老夫婦に差し入れるととても喜ばれた。聞くと、雨が強くなり不安なので、塩尻の息子の家に向かうという話だった。
運行休止は一時間を越えた。八時を回る頃になって、車内に五十代ぐらいの男が息を弾ませながら飛び込んできた。
「はあ、はあ、さ、阪口君! ちょっと助けてくれないか」
「高田さん。何が起きたんですか?」
飛び込んできた男は、辰野駅の駅長だった。
「辰野―塩尻間で土砂流れが起きて、乗客の何人かが車両と共に土砂に埋まっているそうだ」
「何ですって! 乗客は大丈夫なんですか?」
「怪我人はいるが、幸い死者や行方知れずの人はないそうだ。消防も駆けつけて救出活動をしているのだけど、とにかく人が足らなくて……。なにしろ塩尻側から現地に行けないんだ」
「分かりました。私も行きます」
「あの、そこの方、大変言いにくいのですが、できれば力を貸しては頂けないでしょうか。燃料電池車の運転ができると助かるのですが……救出者の搬送を手伝って欲しいので……」
高田は、申し訳なさそうに言った。
「はい。大丈夫です。私は山道の運転も慣れてますから、是非お手伝いさせてください」
和人が立ち上がった。手伝えるのは彼しかいなかった。
「お父さん!」
「ご協力感謝します。正直言ってかなり危険なんですが、宜しいでしょうか」
「構いません。行きましょう。トモは、森川さんとここで待ってなさい」
「雨さえ止めば、南の駒ヶ根方面には行けます。南方面の路線は大変堅牢に造られていますから、大丈夫でしょう」
運転手の阪口が言った。しかし、トモはどうしても塩尻の方に行きたかった。
「あの、塩尻方面へは……」
トモの問いには高田が答えた。
「申し訳ないけど、塩尻方面の復旧の見通しは全く立ってない。上諏訪に戻るのもこの雨だと翌日も難しいと思う。土砂流れの確率はむしろあの辺りの方がずっと高いし……」
続いて阪口が付け加えた。
「駒ヶ根経由で飯田線を南下すれば、君達の行きたい豊橋にはちゃんと着けるよ」
「いや、それは……」
トモが言葉を濁した。
「トモ! 行けない区間はタクシーを使えばいい。大丈夫!」
「あ……うん分かった、お父さん」
「行けない区間? スタンプラリーか路線完乗か何かですか?」高田が怪訝な顔で訊ねた。
「いや、違います。もっと大切なことです。さあ、早く行きましょう。――――じゃ、トモ、頑張れよ! 森川さん、トモをお願いします」
ゆみちが「はい」と静かに答えた。
「あのー、それから、残りの皆さんは駅に降りてください」
運転手が言った。それまでずっと黙っていた年老いた男が口を開いた。
「あの、それなら私達を、車で近くの民家にでも連れて行ってくれませんか。この駅で過ごすのは私達には少々不安で……」
見ると、老いた妻の方は泣きそうだった。
「……分かりました。一緒に行きましょう」
「君達はどうする?」
「この駅に残ります。翌日までにどうしても豊橋に行かなければならないので」
ゆみちが言った。トモが言うつもりの言葉だった。
「申し訳ない。実は、今、ここにはせいぜい五人しか乗れない小さい車しかないので助かるよ。今日の運行再開は無理かもしれない。毛布は二枚残すからそれを使って……」
「私達姉弟ですから一枚でいいです。残りは救助作業に使ってください!」
ゆみちの歯切れの良い返事は、正に頼もしい姉そのものだった。
しかし、さっき少年の父親が彼女を「森川さん」と呼んだのを高田駅長は覚えていた。この二人は本当は姉弟じゃないのだろう。それなのに……。
「ご協力、本当に感謝します! ここの駅舎は土砂流れを受けない場所に建ってるから大丈夫。停電すると思うから、自動販売機で食料や飲み物を今のうちに買っておくといい。ストーブも使えるようになってる。じゃ、君達も頑張って……。一刻も早い運行再開を願ってるよ」
高田と阪口は二人に深々と頭を下げた。そして、老夫妻を含む五人は、小さい燃料電池車に乗り込み、駅を後にした。
駅舎に二人きりになった。まず自販機で食料を買った。とりあえずは冷えても大丈夫なものを中心に買った。午前九時を過ぎてもまだ寒かった。中央に暖房機らしきものがあった。
「これがストーブなの?」
「うん、これは観光用の化石燃料を使った暖房機。でも、こういう非常時にも役立ってる。しかも一酸化炭素発生防止機構付。なかなかよく考えてるね」
そう言って、ゆみちが操作表示に従って、ストーブを点火すると、中央に炎があがった。
「これはなんとも風流な……」
「あの、ごめん。森川さん。こんなことに巻き込んじゃって」
「それは全く問題ないけど、ただ、時間までに辿り着けるかが心配」
「そういえばさっきも言ってたけど、豊橋で何か約束でも?」
「約束したのは、トモの方でしょ」
「え?」
ゆみちは端末を叩いた。
「えっと、天竜峡駅周辺は観光地だから自動運転タクシーが十分配備されている。それで三河川合駅辺りに行って再び列車に乗れば大丈夫ね。ルートも決まったし、後は運行再開を待つだけか。ところで何時に行けばいいの?」
「え、な、な、何で何で!」
トモは呆気に取られた。
「トモは豊橋に行くつもりでしょ。でも、さっき、塩尻経由じゃないとまずいようなこと言ってた。行けない区間はどうとか言ってたし」
「う、うん……」
「それはつまり主争岡県との県境の問題。県境には文教特区の検問が設けられているから」
「凄いよ。そんなことだけで解っちゃうなんて……」
「文教特区は神奈川県の隣だから良く知ってる。で、豊橋には何時?」
「豊橋は単に宿泊目的で、実は、翌日十五時迄に
「ふーん、十分に時間の余裕を取ってるのね。で、さて、その今切口ってどこかなっと……」
ゆみちは携帯を軽やかに叩いた。
「ああ、これまた愛知と主争岡の県境か。浜名湾の先っちょね。で、その新居町には関所が設けられている」
そこは以前、浜名水海と呼ばれる湖だったが、遠州灘へつながる水道が、約五〇年前の震災で広がり、それ以降、浜名湾と呼ばれるようになった。
ゆみちはしばらく考えていたが、
「ははー、なるほど。それは、やっぱり、綾子か……」
と納得したように言った。
「森川さんも、やっぱりそう思いますか……って、いや、待て、聞きたいことだらけだけど、まず、何で綾子ちゃんが呼び捨てなの? そういえば、話し方も変わってるし」
「目上の人がいる場はですます調を基本としてる。綾子を呼び捨てなのは
――さだめ? やっぱり、よくわかんないやつだ。
「じゃ、何で綾子ちゃんだと思ったの? 僕だって実際にそうだとは聞いてないし」
「今切口を挟んで会うという計画じゃないかと。ここなら対岸が見えそうな距離だし」
携帯の地図を眺めながらゆみちは言った。
「そ、そうだよね。それしか考えられないよね」
「うん、実に面白いアイディア。誰? そんなこと考えたの。綾子?」
「多分、研究所の人だと思う。そこの横浜さんなら、そんなことを考えそうかと……」
沙耶葉先生って呼んでね、って本人は言ってたのだが……。
「それも異星言語科学研究所なのか……やるなあ。そして、横浜先生か……横浜住まいの私とも縁を感じるし、これはますますわくわくしてきた」
「で、おじいちゃんに頼んで、これ貰ってきた」
トモはリュックから、テレスコープを二本取り出した。
「二本? 一つは私が綾子を見るため用?」
「何でだよ! お父さんが見るためだよ!」
「いや、私、最初っから綾子に会うつもりだったし」
「え?」
「だから言ったの。甲府方面じゃなく、こっちでいいって」
――おばあちゃん、森川さんが手伝うつもりなのを最初っから知ってたんだ。
トモは一瞬そう考えたが、それはなんかおかしい、矛盾だらけだ……。もしかして、こいつって、いろんな断片的な状報を組み合わせて、結論を探すのが、とても上手いのかもしれない。
トモの脳内では、森川さんは、やつやこいつ呼ばわりに変わっていた。
「そもそも、なんで森川さんは、綾子ちゃんがそこで待ってると考えることができるんだよ。もしかして綾子ちゃんを知ってたの?」
「会ったこともない。一昨日その存在を知ったばかり……」
「それならどうして?」
「――そろそろ、綾子が何故特区なんかに幽閉されたか教えなさい! それと論文も見せて」
「えっえーっ。なんで、綾子のことだけじゃなく、論文のことまで知ってるの?」
「レンズを加工してもらってる時、壁から、あずさの論文をトモに……とか、西救光教……とか、色々声が漏れてたし、昨日は、
トモは驚きっぱなしだ。
「私、こんなぼーっとした感じだけど、俗に言う地獄耳なの」
――こいつ、ぼーっとした感じなのは一応自覚してるのか……。
「結局、どれもこれも、西救光教に繋がっている。ゆみち的には、こうなってくると、全てをはっきりさせたい。だから全部教えなさい」
こんなやつに綾子のことを教えたり、あんな大切なものを読ませるのはどうだろうかと迷った。でも、天才的な勘を持っているのは間違いない。おばあちゃんの言うように、自分を助けてくれるかもしれない。トモはゆみちの才力に賭けてみることにした。
「じゃあ、まず、綾子ちゃんの件だけど……」
トモは、東救光教信者が綾子を拉致しようとした事件など、祖父に話したのと同じことを詳しく説明した。その時間はたっぷりあった。話が終わる頃には正午を過ぎていた。
「なるほど。綾子のオヤジが毒をもって毒を制した……ということか」
「それは違う気がする」
「じゃ、次は論文!」
ヤケ気味にトモがメディアカードを渡すと、ゆみちは自販機に顔を向けた。
「あ、まだ自販機の電源点いてる」
彼女は信州そば二杯と熱いお茶を買った。そして、そばを食べながら論文を読み始めた。
「この眼鏡って湯気でも全然曇らないね。生駒研究所長は素敵なレンズを作ってくれた。でも喜多方ラーメンを眼鏡を曇らせつつ頂くのも乙だから、結露発生モードも欲しいところね」
トモも暖かい食事をとることにした。満腹になり少し落ち着いた。ゆみちは一時間ほどで読み終えて、お茶を飲み、ふーっと一息ついた。
「どうだった?」
トモはゆみちがどう思ったか早く知りたかった。それがたとえ訳が分からない答だったとしても、何かが見えてくるかもしれない……
「待って。ネットワークがまだ生きてるから、今から論文に関連することを携帯で調べる」
異常な早さで携帯を叩き、調査に約三十分費やした。
調べ終わったゆみちにトモは再び「どうだった?」と声をかけた。
「思いがけず『状報』の謎が解けた。ゆみち的に大満足。トモにも大感謝」
「で?」
「一つ確認。この論文を書いたトモのママ、七王教授は、これを書いて学会に発表しようとしたが、西救光教に阻止された。そして、その後、佐世保の遺跡発掘隊に同行し遭難――そういうあらまし?」
「そ、そうだよ……」
でもお母さんは必ず生きているけど――とトモは心の中で付け加えた。
「ふむ。やっぱり綾子を文教特区から連れ出さなきゃならないことが解った」
「そ、そうだよね、西救光教は怖くて悪い連中だもんね」
ゆみちは、それを聞いて、彼女にしては珍しく、はっきり怪訝な表情を浮かべた。
「はあ? トモったら何言ってるの?」眼鏡のフレームに手を添えながらゆみちは言った。
「え?」
「今の言葉でトモが何も解ってないことを確信したわ。私は人の気持ちはよく解らないけど、書かれた文章を理解することはできるの」
「言ってることがよく分からないのだけど……」
「これは学問的研究を
「勘違い?」
「この論文は、特定の宗教団体を糾弾するためのものじゃない。ここに書かれている西救光教の行為は確かに重大な問題を孕んでいるけど、その道義性については全く言及していない」
「それは確かに……。でも、西救光教の行為はどう考えたって悪いことだよ。過去の言葉の歴史をこっそり修正したんだから……。それは糾弾すべきことじゃないの?」
「本当のところ、教授がどう思い、どう考えたのかは解らない。私は、人の気持ちが理解できない人間だし……。ただ、私が同じ立場なら、三つの理由から、この件について、今の西救光教、即ち、宗教法人文化安寧救光教を非難することはしない」
「三つ?」
「まず一つ目の理由。それは、この教団が日本社会の中であまりにも巨大になり過ぎていること。そんな中で、ただ一人、教団の非を叫ぶことは無駄なこと」
「む、無駄ってそんな……」
「叫んだ後、一体どう片づけるの? あんな巨大な組織がどんな行動を起こすか考えてみなさい。それを考えれば『叫んでも無駄』という諦念的結論が導き出される。その点で、純粋に学術目的の発表だったにせよ、七王教授が論文を世に発表しようとした行為は迂闊過ぎた」
「そんなあ……」
「二つ目。少なくともこの論文で言及している西救光教が過去、そして、現在も、水面下で密かに続けている言葉の修正活動は、所詮、人の生き死にが関わるような罪じゃないこと」
「そうと言っても罪は罪じゃ……」
「私達は、世界やこの国の歴史について、知らないことが非常に多いけれど、それでも断片的には知ってる。その途切れ途切れに知っている歴史的事件の中でさえも、敵対する相手の過去の行為を口実に、口火が切られた戦争や紛争があまりにも多すぎる」
「た、確かに多いかもしれない……」そうは思ったが、実はトモは歴史には疎かった。
「ならば歴史を含め真実を知ることが、愚かな人類にとって果たして意義を成すのか。西救光教の所業を暴いたところで、愚民はせいぜい下らない紛争を起こすだけじゃないかしら。それは時として死を伴うかもしれない。社会の悪を糾す者には、それがもたらす結果を考える義務も生じるとゆみちは考える」
――言いたいことは理解できるけど、それはあまりにも人間を信じない考えではないのか。トモは二つ目の話にも思い悩んだ。
「そして、最後の一つ。そもそも、失われた語彙を補う行為自体は、今の日本語には必要なことよ。――トモは今自分が使っている日本語に、何か不自由さを感じたことはない?」
そう言われてトモははっとした。そうだったんだ。言われてみれば思い当たる。きっとお母さんも近いことを考えてたんだ。
ゆみちの話が、トモにはまるで母の言葉のように聞こえた。
――でも、どうしてそこに綾子が出てくるのだ? トモはさらにゆみちに訊ねた。
「三つの理由、すべてに納得してる訳じゃないけど、理解はできたと思う。そこで話を戻すけど、それじゃあどうして綾子を助け出さなきゃならないと思ったの?」
「単純よ。綾子にこの論文を見せるためよ。なんか綾子はあんたのママ同様、失われた言葉についてかなりご執心のようだけど、こんな研究ごときに満足してもらっては困る」
「な、なんで?」
トモは『こんな研究ごとき』という言い方にむっとした。
「小白川綾子――即ち、こじゃらこは、私の宿敵だからよ」
「こ、こじゃらこ?」
トモは開いた口が塞がらない。
「大体、こんな考古学もどきの研究を、言語学と呼ぶのを私は認めない。それをやつにもはっきり言ってやりたい。もう結論はとっくに出てるのだし――」
その言葉についにトモが切れた。
「ゆみちはお母さんの研究をバカにするのかよ!」
声を荒げ叫んだ。
「――――怒ってるのか?」
トモの様子にゆみちはきょとんとした。
「と、当然だろ!」
「当然? 教授はこんな湿気た研究などとっくに卒業して違うことをやってても?」
「えっ?」
「私はこう考える。佐世保の海底で発見されたのは、地球の遺跡なんかじゃなくて実は異星人から届いたメッセージカプセルだった。そこに偶々古代の日本の言葉の状報も含まれてただけ。誰かがそれを餌に七王教授を発掘チームに引き込んだ。そして、佐世保に向かった船は遭難したことにして、一行をどこかに缶詰にし、密かに研究を続けさせた。そしてついに、今回の研究所設立に漕ぎ着けた――そういう流れがゆみち的には最も収まりがいい」
彼女の結論は、思いがけないものだった。その仮説はまだまだ乱暴だと思ったけれど、それはトモにとって最も望ましいストーリーだったのだ。
母が生きていることを信じながらも、今まではそれを支える論理的根拠が何もなかった。ところが今ゆみちが提示した仮説は、その欠落を曲がりなりにも埋めることができる……。
「ちょっと強引だけど、僕もそれを信じることにするよ……。論文を見せて本当によかった」
その言葉に、ゆみちは肩をすくめ、体を震わせた。
「どうしたの?」
「――なんだか不思議な気持ち……。私は今まで自分の考えを述べて、こんなに人に認められたことがなかったので……」
トモは、彼女の心の中にほんの少し触れることができた気がした。
◆
日が暮れてネットワークも途絶した。そして、駅長の言った通り、電気の供給も止まった。非常用の最低限の照明が弱々しく点灯した。
「さて、日も落ちた。翌日に備えてしっかり寝ましょう。さあ、こっちに来て。寒いから一緒に寝るの。トモ、その火を飛び越えて来い!」
眼鏡を外し、ゆみちが手招きした。ここは鳥羽でも伊勢でもなく、信州なのだが……。
「こんなでかい暖房装置の上なんて飛び越えられるかよ! い……いや、そんなことじゃなく、僕は離れて寝るよ……。毛布はゆみちが使っていいから……」
トモは気づかぬうちに、彼女を『ゆみち』と呼んでいた。
「いけません!」
ゆみちがその日、最も強い口調で叫んだ。通常は抑揚がない話しぶりなので、時々、こういう話し方をすると、インパクトが大きい。トモは身をすくめた。
「それでは私も含め風邪をひくわ。体調を乱し、翌日のいざという時に対応できなくなっては、ここまで来た意味がない。私には今、トモの体温が必要なの。私のために一緒に寝なさい!」
ゆみちのためなら仕方がないのか……。トモがそばに横たわると、ゆみちは体を寄せた。
「ほら暖かい……」
「うわっ、そんなにくっつくと……」
「どうかなるのか? 私は別に今晩をいざという時にしても構わないのだけど……」
トモの顔が真っ赤になった。「じ、じょ、冗談はやめてください!」
そう声をかけた時には、既にゆみちは瞼を閉じていた。眠っている……ように見える。
――こんなんじゃ眠れない、きっと眠れない、絶対眠れない。よりによって最後になんて冗談を言うんだよ……。そもそも、翌日、無事に今切口にたどりつけるのか?
頭の中でそんな思いが堂々巡りをするうちに三十分が経った。
しかし、やがてトモは、何故か落ち着いてきた。まるで母か自分にはいない姉に抱かれている気持ちになっていた。彼女の微かな匂い。穏やかな寝息……。
背を向けていた体が自然と彼女に向いた。寄り添うように、トモも深い眠りについた。
◆
その日がやってきた。トモが目を覚ました六時には既にゆみちは起きてパンをかじっていた。
「昨夜、暫くの間、時々観察してたけど、結局、何もなかったね」
「当然です!」
トモはむきになりながらも、様子を窺っていたことに焦った。
依然、列車は来なかったが、十時になるとネットワークは回復した。父から、今日もまだ行けそうにないという内容のメールが届いていた。トモは更に携帯を叩いた。
「あの運転手の言った通りだ。十一時には南方面は運転再開するという案内が出ている」
その情報通り、二人が待つ辰野駅のホームに列車がやってきた。駅に足止めを食らってから約二十八時間が経過していた。
「お父さん、ついに来れなかったか……でも無事で良かった」
走り出す列車の中でトモはそう呟いた後、ゆみちに向かって言った。
「あの、森川さん、折り入って頼みが……」
「結婚の約束? それはちょっと早い。私にはまだ戦わなければなら……」
「あー、もうツッコミは省略! ゆみちさんは検問通れるんだから、先に今切口に行って欲しいんです。本当は心配だけど、仕方ない。僕がたどり着けなかった時のことを考えて」
「そう? ――解った」
列車は順調に走った。話の通り、この路線は堅牢だった。大半が高架で造られており、土砂崩れから路線を護る丈夫な塀が設置されていた。程なくして列車は天竜峡駅に到着した。
――ちゃんとタクシーが駅のロータリーに一台待機している……。大丈夫だ。あとはとにかく急ぐだけ……。そう呟いて、トモは開いた扉から飛び出すように走り出した。
そして、左のウイングドアを開け、タクシーに滑り込み、行き先を言った。
「三河川合駅まで、急いでください!」
すると、予想しなかった返答が合成音声と表示パネルに返ってきた。
「三河川合駅へ行くには、途中、自動運転制御のない非電磁化道路を経由します。したがって、その区間は自動運転では進めません」
しまった……と思った。音声はさらに続いた。
「但し、この車両は山間地向けハイブリッド仕様車です。搭載電池と回転モーターで非電磁化道路の走行ができます。非電磁化区間はおよそ十九キロです。免許所持者は、その区間を自分で運転できます。照合手続きを開始してください。免許のない方、運転を拒絶される方は、天竜峡駅から列車に乗車し、目的地に向かってください。それでは指示をどうぞ」
トモは、あわてて携帯でタクシーの管理会社に連絡した。
「え、天竜峡駅に運転手付き一台? ちょっとダメだなあ。昨日の大雨で、今、全然人が足りなくて……。急病とか、緊急のことだったら話は別だけど……」
トモはがっくり肩を落とした。とりあえず、行けるとこまで行って、走るしかないか。でも、十九キロも残ってる……。しかもその先でタクシーが呼べるかどうかも分からない。とても時間までにたどり着けそうにない。綾子は少しは待つことができるのだろうか。ゆみちはうまいこと対応してくれるのだろうか。綾子を『宿敵』などと言ってたし……。
考えれば考えるほどトモは不安になった。
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