第17話 文京特区
「文教特区ってどんな所なんですか?」
少年の問いに少女は答えた。
「――私にとっては、それほど悪くはない所です」
◆
ニンジャ大野木は相変わらず何も話さなかったし、場を和ませようと思った早川は、得意な柔道の話題を振ったが、それには誰も興味を示さなかったので、一気に場が白けてしまった。
そんな時、ユズキはふと文教特区のことを綾子に訊いてみたくなったのだ。
悪くない所――と言った後、彼女はしばらく黙ってしまったので、まずいことを訊いちゃったかな……とユズキが反省しだした頃に、再び綾子は話し始めた。
「――『状報』という言葉の成り立ちって面白いんですよ。ここに来たお陰で、色々と知ることができました」
「え? 状報? インフォメーションの?」
きょとんとしているユズキに綾子が微笑を浮かべながら頷いた。
「西救光教は、正式には『文化
深い空と植物と煉瓦、そして色褪せた深緑の道路以外は、ほとんど白で埋め尽くされた世界。どの家もお洒落な柵で取り囲まれていて、どの建物にも三角形の線を基本とする統一的な緑色の装飾が施されています。玄関や、柵の下には色とりどりのお花がいっぱいで、庭には必ず椅子やテーブルなど何か白いものが置かれていて、まるで、それぞれの家に、可愛いお人形さんでも住んでいるんじゃないか……そう思えてくるような街なんです」
「雛菊! すばり、そこに行ってみたくなりました!」
それまでつまらなそうにしていたひなぎくが興味を示した。
「その地区の真ん中に建つのが中央文教会で、即ち教団の本部です。全ての道がこの建物に集まっています。そこは、
「ご講和を拝聴する……」
ユズキが聞こえないほどの小さな声でささやいた。紛れもなく彼女は信者なのだ。
「その中央文教会をくるりと取り囲むのが、白い大きな図書館です。白い薄い円盤が何層も重なった円筒形の塔が幾つも建っていて、それぞれが飾紐のような緑色の空中通路で結ばれています。真ん中には中央文教会のとんがり帽子が顔を覗かせています。私はその図書館に足繁く通うようになりました」
「としょかん? それってどんなところ? 本屋さんとはちがうの?」とひなぎくが訊ねた。
早川はとにかく綾子の話の続きが聞きたかった。またとんでもないことを発見している。さっき彼女は確かに『状報』と言ったんだ。
大野木は依然無表情を保っていたが、その顔にはさっきまではなかった緊張があった。
「本がいっぱい並んでるの。セラシート(シート状のセラミック複合材)やプラスチックや紙でできている本。なんでも、自然災害で失われてしまった昔の本を当時のままの色や大きさに復元し、そこに並べて、みんなが閲覧できるようにしているそうなの」
「データじゃなく、本ですか。本は子供だけのものかと思ってた」
「昔はどんな世代の人も本を読んだそうです」
その時代の日本人も、子供の頃には絵本等を読む。しかし、携帯等の操作を覚えると、読む文章が徐々にデジタルデータになっていき、中学生ともなると本は卒業するのが通例だった。
「で、どんな本が収められているんですか?」
「どんな……と言われても言い表せないです。それはあまりにも広すぎる所だから、収蔵している本もあまりにも多くて……。私はせいぜいその本の森の中から、自分の見たい本だけを探すことしかできないんです」
「じゃあ、綾子ちゃんはどんな本を読んでいるんですか?」
「とにかく昔昔の本。例えば、同じことを書いた本でも、時代によって使う言葉は変わります。私はその違いが知りたかった。私は元々、小さな手がかりを持っていたのです」
「手がかり?」
ユズキが訊いたこと……、それは早川こそが訊きたいことだった。握る掌に汗が滲んだ。
「それが『状報』という言葉なんです」
「そこで状報ですか。そういえば、それは東救光教信者が使わない言葉の一つですね。確か彼らは、代わりに『報知』という言葉を使うとか……」
「そうです。詳しいんですね。横浜には東の信者は非常に少ないと聞きますが」
「実は、昔、姉が、『状報』という言葉はおかしいと話していたのでその時知ったんです」
「お姉さんって、えっと、ご芳名は確か……」
「ゆみちです! ゆみち、森川ゆみちを、どうぞ、よろしくお願い致します!」
ユズキは、選挙カーのウグイス嬢のように、姉の名を宣伝し、深々とお辞儀した。
「いえ、こちらこそ。で、もしかして、お姉さんが不可解に思った理由って、きっと、その『状報』という言葉が昔は使われていなかったから――じゃないですか?」
それを聞いたユズキがびっくりした。
「ええその通りです! なんでも、曾祖父母の世代の人達は誰もが『状報』の代わりに『報知』を使っていたそうです。それを知って、昔、姉は珍しく驚いてました。絶対に変だと言ってました。変なのは姉の方かなと思ってたんですが……」
「東救光教の方々が使わない言葉には、一定の法則のようなものが存在します。まず、昔使われていた漢字の中に月の部首を含んでいた言葉、そして、『済』『用』『再』『角』のように、月の形が字の中に埋め込まれている言葉です。その見事な規則性には美しささえ感じます」
その時、大野木が眉間にほんの一瞬だけ皺を寄せた。
「もし『状報』が、比較的最近作られた新しい言葉だとすれば、東救光教の信者がそれを避ける理由はない筈です。だからこの言葉も、実は昔、月を含む漢字で書かれていて、それが一旦棄てられ、後に別の字として復活したと考える方が自然だと私は考えたのです。そこで、私は図書館でさらに昔の本を調べてみました」
「どうだったの?」
「なんと今の『状報』と同じ字がそのまま使われていました。それはどう考えても変です。恐らくこの部分は、後に誰かによって書き換えられたのでしょう。きっと元は違う言葉だったのです。それと、その書き換え作業の『綻』らしきものを私は見つけました」
「ほころび――ですか?」
「じょう報は元々は戦争用語だったようです。敵地側の地形や、敵の兵隊がどんな様子か、それらを示すのに『じょう報』という言葉を使っていたのです。十九世紀の
早川は鳥肌が立つ思いだった。七王先生の論文にさえもそのことは書かれていなかった。
「敵の状況を知らせる――敵状報知、つまりそれを略して『じょう報』です。それが、どういう訳か、昭和の世界大戦で日本が負けた後、当時は電子計算機と呼ばれたコンピューターが登場してから、現在使われている状報と全く同じ意味の言葉として使われるようになったようです。英語の文献の"information"という言葉を翻訳する際に、じょう報という言葉をあてがったという記述を二十世紀末の新聞記事の中に見つけました。二十世紀末から二十一世紀末までに書かれた文献や、デジタルテキストには、今以上にこの言葉が多用されています。
一方、その当時、『報知』という言葉は、今で言う『状報』の意味としては全く使われていませんでした。その時代にはそれは単に『知らせる』という意味で使われていたようなのです。火災報知器とかと同じ使い方です。それが今から三百年昔、地球が月を失う事件の後、報知という言葉を、当時の日本人は持ちだしてじょう報の代わりに使ったようなのです」
「えっと、こんがらがってきた。最初はええとええと……」
ユズキが携帯を叩いた。
「状報(日治時代)→ジョウ報(昭和以降)→ツキ喪失→報知→状報(今)」と書いて示した。
それを見て綾子は「ええ、大体そんな感じです」と同意した。
しかし、ユズキは首を捻った。
「あれれ、待って……。じゃあ、日治と昭和の間でも言葉に変化が起きたってこと?」
「確かにそれが気になりますよね。実はその件ですが、私は図書館で、一つとんでもない記述を見つけてしまったのです」
そう言った後、綾子は筆でひなぎくのメモ帳に次のように書いた。
――状報、或いは状報といふものは、
「こういう文章を、日治時代の本の中に見つけました。単なる誤文かもしれませんが、日治の頃は月を含む『じょう』と、含まない『状』の二つの『じょう報』が混在したと考えると辻褄が合います。この文章こそ、多分、作業者がうっかり修正に失敗した綻なんです。昭和以降も二つの『じょう報』が併用されていたかもしれませんが、その痕跡は見あたりませんでした」
「なるほど。それにしても、どうして一度無くなった『状報』を復活させたの?」
ユズキがそう疑問に思うのも当然だ。報知のままでも良かったはずだ。
「これは私が考えた仮説に過ぎませんが、恐らくそれは、今の世代の日本人が、月を含むじょうという字をそろそろ忘れてしまったと、誰かが判断したからではないでしょうか。言葉をできるだけ昔に近い姿に戻したいと考える人達がいて、彼らが読みの同じ言葉、それも日治の時代には使われていた言葉に書き直した――そう考えるのはどうでしょう?」
「――こ、恐くはなかったのか? それに気づいた時に……」
その早川の言葉に、綾子ははっとした。
「ああ、今そう言われて気づきました。――私って馬鹿ですね。言葉への興味ばかりが先に立ち、そんなことは何も考えていませんでした。つまり、文教特区の文化安寧中枢は、恐らく言葉の歴史を書き換えている場所――ということなんですよね」
――あの論文を書いた七王先生も当時同じ心境だったのだろうか……。早川は考えた。
「綾子ちゃん、君は西救光教の信者……なんだよね?」
ユズキが恐る恐る声をかけた。綾子が依然落ち着き払っていることに驚きを感じていた。ひなぎくは何が何だか解らず、首を動かし、一人一人の顔を覗き込んでいる。
「早川さん、いくら盗聴されていないとはいえ、これ以上、話をさせていいのでしょうか?」
無表情の大野木が突然口を開いた。
「す、済まない。興味深かったのでつい止めずにいた……。綾子さん、もうこれ以上は……」
「ごめんなさい。私も普段、話す相手が全くいない話なので調子に乗って喋り過ぎました」
綾子は頭を深く下げた。
「それにあと三分で時間です」
その大野木の言葉に、早川は自分の携帯を見た。
「そうだった。綾子さん、今から君にちょっと行ってもらいたいところが……」
「えっ? どこですか」
「今切口というところだ。四十分でここに戻ってくる」
「知ってるよ! 遠州なだのすんごい高波が見れるところ! うちからわりと近いの!」
ひなぎくがそう叫んだ。
――高波が見れる場所? どうしてそんな所に私を?
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