第16話 失われた湖

「お兄ちゃん。早く起きてよお。霧ヶ峰、霧ヶ峰よお!」

「え……き、霧がどうしたって? 外に……深い霧でも出てるのか?」

 トモが眠そうに目を開けると、真上に逆向きの美貴の顔があった。

「その霧じゃなくて、霧ヶ峰! 今日はハイキングに行くんだからあ」

 そんな話になったのか。昨晩は何も聞いていなかったが……。約束の日は二日後だ。美貴とも久々に会ったんだし、それもいいだろう。

 目をこすり体を起こすと、美貴の後に立つジーンズにTシャツ姿のゆみちと目が合った。トモは思わず目を逸らしてしまった。

 みんなで一緒に朝食をとりながらも、頭の中は昨夜の夢のことで一杯だった。

 ――とんでもない夢を見てしまった。彼女と目が合わせられない……。

 落ち着きのないトモの様子を見て、篤志は言った。

「トモ。今日は何も考えず、めいっぱい遊びなさい」

 篤志は論文のことで悩んでいると思っていた。トモにもそれが分かった。しかしそうじゃない。また彼女と目が合った。今度は味噌汁をこぼしてしまった。


   ◆


「燃料電池車ですか。私はこういうのは運転したことがないですけど大丈夫ですかねえ」

 今日の運転を買って出た和人が言った。

「どっちにしたって回転モーター駆動ですから、運転操作も走行感も充電バッテリー車とほぼ同じですよ。アクセルを踏んだ時の加速感がちょっと違う程度ですね」

 篤志の(リニアモーターと回転モーターの)ハイブリットワゴンは、大容量バッテリー搭載車だ。山道を走るにも十分のパワーを持っている。

 しかし、今日向かう先は、全く充電ができない道ばかりが続く。リニアモーターが埋められている所謂整備された道路では走行中にも充電が可能だが、この地域にはそのような道路は全くない。まだ復興は始まったばかりなのだ。山への道は舗装すらない。目的地の霧ヶ峰にも充電スタンドはないという。

 そういう事情から、霧ヶ峰までのルートを走るのは少々心配だろうと、宿の主人が、燃料電池車を貸してくれた。これなら霧ヶ峰までの運転も大丈夫だ。

 美貴が「おじさん、運転できるの?」と和人に訊ねた。

「ははは、免許を取った頃はあんまり得意じゃなかったけど、特訓を受けたから大丈夫」

 和人は、これは根本からやり直さなきゃだめね――とあずさに言われたことを思い出した。

「ところで、今日の美貴ちゃんのその三つ編み、とっても可愛いね」

「わーい、おじさんに可愛いって言われちゃった。これ、お姉ちゃんが編んでくれたの。似合ってるでしょ。ねえ、お兄ちゃん!」

 少女はクルクル回りながら言った。編んだ髪が遠心力で持ち上がった。

「あ、ああ……似合ってるよ」

 一方、今日のゆみちは髪をシンプルに後で纏め、ポニーテールにしていた。

 ――昨日の前髪を三つ編みにした姿は、何だかわざとらしい感じがしたが、こういうのはなかなか……いや、僕は一体何を考えて……。

 そんなトモの苦悶は続いたが、その様子を一人優しく見つめる眼差しには気がつかなかった。


   ◆


 ゴールの車山は、標高が二千メートル近いが、駐車場からは一時間もあれば辿り着ける気楽なコースだ。名物の霧はこの日はなく、快適なハイキング日和だった。

 美貴は、トモやゆみちと三人で手を繋いで登りたいところだが、それができるほどなだらかな道でもなく、結局、先頭を一人美貴が進んだ。とにかくペースが早く、後続が追いつくのを時々待ちながらの山登りになった。さすがは山の子だとすぐ後を追うトモは感心した。

 その後に、芳恵とゆみちと篤志の三人の集団。更に遅れて和人が続いた。一番体力がないのは和人だった。二十分も歩くと間隔はさらに広がった。篤志が後を見ると姿が見えなかった。

「ちょっと和人君にハッパかけてくる!」

 そう言って篤志は、来た道を引き返していった。

 芳恵とゆみちが二人きりになった。その時ゆみちが口を開いた。

「あの……相談がしたいことが……」

「なあに?」

 芳恵は豊かな笑みをたたえながら答えた。

「トモ君、十早(朝)からずっと、目も合わせてくれません。昨日のことを、まだ怒っているようですけど、私はどうしたらいいのでしょうか……」

 その言葉に、芳恵はにっこり笑った。

「ゆみちさん。あなた、一日でちょっと変わったわね」

 娘は少し驚いた表情を見せた。

「そうでしょうか?」

「何か面持ちが豊かになってるわ。話し方も昨日より少し穏やかな感じがするし……」

「確かに十早から、何だか変な感じなんです……」

「それは美貴やトモに抱きつかれたせいかもね」

「どういうことですか?」

「聞いた話だけど、特に女性の場合は、触れ合った時にその匂いを嗅いで、時にはその人を受け容れようと、ホルモンの分泌が増えるとか体が色々と変化を起こすそうよ。その影響かもしれないわね。美貴に対しては、姉としての気持ちかしら。それから、トモに対しては……」

「愛してしまったということですか?」

 芳恵は、一瞬きょとんとしてから、少し笑った。

「それは違うと私は思いたいわ。まあ、恋とは呼べるかもしれないけど、今、あなたが感じているのは、少し乱暴な言い方になるけど、まだ野性動物としてのメカニズム。人が人を本当に愛するというのはそれとは違う。もっと強い気持ちが必要」

「メカニズム。なるほどそう言われると良く解ります。では、愛するとは相手を理解するということですか? それは私には難しい概念です。私は身近な弟や両親の気持ちすら理解できないのです。みんな私の日々の行動を受け容れてくれてるようですが」

「うーん。でも、例えば、あなたはその弟をどう思ってる?」

「どう……と言われてもうまく形容できません」

「嫌いなの?」

「いえ全然。とても安定した関係です」

「安定した関係? ふふふ、面白い言い方をするのね。で、その気持ちは、例えば単なる知り合いの人とは違う感覚でしょ」

「ええ、はい」

「それがきっとあなたにとっての愛の感覚。つまり姉弟愛ね。そういう関係を培うことが大切。体や気持ちの野生動物的変化に囚われてばかりいてはだめだと私は思うの」

「でも、トモ君は私を嫌っています。既に修復不可な状況です」

「そうかしら? ところでゆみちさんはトモのことをどう思っているの? もちろん嫌いじゃないのでしょ?」

「よく分からず、少し心理学の知識を参考に、客観的に考えてみました。どうも、私は彼と友好的関係を築きたいと強く思っているようです。私は今まで、クラスメートなど、周囲の人達に敬遠される状況に何度か遭遇しましたが、それは諦めることができました。でも、今回はどうしても、トモ君の私への関心が、離れて欲しくないようなのです。しかし、やっぱり私はトモ君のことを理解することはできないのです」

「離れたくないという気持ちだけで十分かもしれないわ。お互いを理解しあうことによって生まれる愛も少なくないとは思うけど、そういう愛ばかりでもない」

 芳恵は足を止め、麓の方に振り返った。遠くに緑の盆地が広がっていた。

「昔、諏訪の名がついた豊かな大沼()がこの眼下に広がっていたのは知ってる?」

「はい。私が小学生の頃、信州で起きた震災の時に無くなったそうですね」

「そう……。実はその諏訪大沼は、篤志さんに初めて出会った思い出の場所なの。正直言うと、私はあの人のことが今でもよく解らない。例えば、どうしてあれほど熱心に研究に没頭するのか理解できないの。まるで子供のようで……。それでも……いや、そんな人だからこそ、私はあの人を愛しているのかも……」

 そう言った後、それは相手がゆみちだったからこそ言えたのだと芳恵は気づいた。ずっと思っていても、恥ずかしくて決して口には出せない言葉だった。ゆみちは、芳恵の言葉をじっくり吸収するように目を閉じた。そして、再びゆっくり目を開けて静かに言った。

「――必ずしも理解する必要はないのですね。感謝します。何かを獲得した気がします」

「ゆみちさんは本当に素直なのね。美貴ちゃんがたちまち好きになったのも分かるわ。でも、トモはね、美貴ちゃんとは違うの」

「どう違うのですか?」

「あの子は本当に真面目な子だけど、だからこそ、素直じゃない面も持ってるのよ」

「何かを隠しているのですか?」

「ふふふ、さあね。行きましょうか」

 芳恵が歩き始めた時、「あ……そうか!」とゆみちが声をあげた。

「どうしたの?」

 芳恵が再びゆみちに顔を向けた。

「そうです。まずは綾子なんです!」

「え?」

「私、早起きなんで、お二人の話を聞いてしまいました。文教特区にいる綾子のこと」

 何故、綾子ちゃんは呼び捨てなのかしら? 芳恵は少し訝しく思った。

「今、解りました。順番が違うのです。まず、私にとっては、綾子が先なのです。とにかく綾子と会わないと、この先何も進まない……」

 それまで、芳恵はゆみちのことをすっかり理解したつもりになっていた。人の気持ちを受け取ることと、伝えること、それがちょっとだけ苦手な娘として……。

 でも、森川ゆみちはそんなに単純ではなかった。

「そうです。そうだったんです! さあ、行きましょう!」

 ゆみちの強い言葉に促され、少し唖然としていた芳恵も再び登り始めた。しばらくして、ゴールへの中間地点となる小さな山小屋が見えてきた。ベンチにトモと美貴が座っていた。

 美貴はゆみちの姿を見つけると立ち上がり、大きく手を振りながら笑顔で走ってきた。坂道を下るのもお手のものだ。そしてそのままゆみちに飛びついた。

 その勢いに少しよろめきつつも、慣れない手つきで、ゆみちは美貴の両肩をそっと抱いた。

 芳恵はにっこり笑った。――私はあの子のことも分からなくてもいいんだわ……。


   ◆


「じゃ、今度はお姉ちゃんと山頂まで競争よ!」

「その戦い、姉の役割を演じる私の義務として受けようぞ!」

 二人は山頂を目指し、駆け登っていった。

 トモは父を待つからと言って、芳恵と共にその場にとどまった。二人の姿が見えなくなると、トモが重い口を開いた。

「あの……僕……」

 その言葉を遮るように、芳恵は言った。

「綾子ちゃんのことはおじいさんから聞いたわ。でも、それはそれ、これはこれ」

「えっ?」

「トモは一体いつの時代の子供なのかしらね。あのね、男の子ってのはね。あんなことに遭遇したら、ラッキーだと思って、あわよくばと二度目のチャンスを窺うのが普通なの。相手にはそんな気持ち、露も見せずにね。まあ、ばればれのことも多いけど」

 ――おばあちゃんは何もかもお見通しだ。トモは真っ赤になった。

「でも、僕は森川さんと分かりあってるわけでもなく、今の気持ちはやはり性欲でしか……」

 もっとましな言葉はなかったのかと言ってから後悔した。芳恵は少し呆れたような顔をした。

「はあ、本当にトモは真面目なんだから……。和人さんの影響かしらね。でも、一つだけ、約束して欲しいの」

「な、何?」

 トモは、森川さんとは最後の一線を越えてはいけない、と言われるかと思った。

「綾子ちゃんは絶対に取り返して欲しい。トモの大切な友達でしょ。絶対、西救光教になんか渡してはダメ。難しいことだとは私も分かっているけど、あの場所から救いだして! きっとみんなも助けてくれるから」

 祖母の強い気持ちがひしひし伝わってきた。それは、娘あずさを失った親としての想いも含まれているのだろうとトモは思った。

「ゆみちさんも、きっとあなたを助けてくれる……」

 その言葉に驚いた。

 ――森川さんが綾子を? なぜおばあちゃんは、そんなことを思ったのか……。

 ようやく、和人と篤志が山小屋に到着した。

 和人は僅か三十分ぐらいの道のりに、早くも疲れの色を見せていた。帰りの運転は大丈夫なのか、トモはちょっと不安になった。少し、父に休憩時間を与えてから出発した。

 山頂に着くと、待ちかねた表情の美貴と、そして、ゆみちが待っていた。トモは勇気を振り絞り、ゆみちに話しかけた。

「も、森川さん、お疲れ……」

「いえ、私は全く疲れていません。休憩時間が十分取れたので」

 こりゃダメだ……と思った。でも、声をかけられただけでもましかなとトモが思っていると、

「でも、感謝します。意図的に無視されている様子だったから」

とゆみちは言った。何やら他の星の知的生命体とのコンタクトを取っている気すらしてきたが、今の言葉は彼女なりに嬉しさを表現しているのかもしれない。そう思うことにした。

「わーい、二人は、結婚、結婚だあ!」

 いきなり囃したてる美貴だったが、珍しく芳恵がきつい視線を向けたので、ぺろっと舌を出して、それ以上、囃したてるのをやめた。

 ――頂上に立った時のこの爽快感……。昔、こんな体験をしたような……。そうだ。思い出した。ここには、父と母との三人で来たんだった。五歳か六歳の頃だったか……。

 そんなことを思いながら、トモが大きく深呼吸をしている時、ゆみちが言った。

「私の名は森川……」

 突然何を言い出すんだと思いつつも、トモは彼女の話を黙って聞くことにした。

「私は喧騒渦巻く横浜を住処としているけど、祖先は森や川に囲まれた豊かな自然の中にでも住んでいたのかも。遺伝子がこの空間に高い親和性を持っている。そんな感じがする」

「名字が森山だったらもっと親和性が高かったかもね」

「ああ、そうね。確かに森山さんはもっと羨ましい……」

 何とか会話が繋がっているようだった。


   ◆


 記念写真を撮り、山頂から降りた一行は、山小屋の横の広場にシートを広げ、和気あいあいと昼食を楽しんだ。トモがおにぎりを頬ばろうとした瞬間、

「それはゆみちお姉ちゃんが握ったのよ」と美貴が言った。

「げ! まさかこの中にすずめ蜂でも入ってるんじゃないだろうな!」

というトモのリアクションに皆が笑った。

「皆が食べることを配慮して入れませんでした」と答えたゆみちだけは笑わなかったが、でも、トモには、何となく優しげで穏やかな顔つきに見えた。この子とはこんな感じでいいのかなと思いながら、そのおにぎりを頬ばった。

 楽しい昼食が終わる頃になって篤志が言った。

「急に天候が変わってきたな。早く家に戻った方が良さそうだ」

 美貴は残念がったが、わがままも天候にだけは勝てないことを山育ちの少女は知っていた。

 車を借りた民宿に辿り着き、篤志のワゴンに乗り換えて、走り始めた頃には、雨が激しく降り始めた。幸い運転に支障が出る前に無事帰ることができた。

 日が落ちてから、雨は更に激しさを増した。結局、ゆみちも生駒家に泊まることになった。 その夜、雨は止むことなく降り続いた。

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