第10話 「偶像と知恵蛇の夜想曲 5」


 ――マーシャ・エイワスが見せた精神世界の第一層は、薄暗い建物の中だった。

 長い長い回廊が続いてる、冷たいコンクリートに覆われた灰色の空間。

「……幻像空間イリュージョンか」

 それは、真夏の陽炎のような無意識の残滓。

 夢や願望の断片が、精神世界の中に作りかけのダンジョンみたいに散らばっていることがあるのだ。

 その名の通り複雑に入り組んでいることもあり、ときに踏み込んだスイーパーが、そのまま出られなくなることもある。

「……行くか」

 俺たちは、そんな中を用心しながら進む。

 だが、幸いこの“マーシャの世界”は、迷宮みたいなタイプではないようだった。

 ただただ、長い回廊が、どこまでも螺旋を描いて続いているのだ。

 あたりは、静寂が取り巻いていた。

 コツコツコツ……歩いていく俺たち2人の靴音が、やけに大きく響く。

 回廊の通路には奇妙な形の窓が並んでいる。

 外には終始、真っ暗な夜の帳が下りていた。

 見渡す限り平坦な地平線が、まるで夜の砂漠のように黒々と伸びている。

 やがて行く先に、無機的な鉄の扉が現れる。

 回廊は相変わらず静まり返っていたが、その扉に近づくにつれ、小さな振動が伝わってくるようになった。

 耳を澄ますと、それは、轟く人間の声らしい。それも、一人や二人じゃない。怒号のような、遠く響く声。

「……」

 目を見合わせた後、決意を固めた俺とアリグラは、その扉を力任せに開いた。



 たちまち、光と音の津波が俺たちを飲み込む。

 あふれ出す熱気と興奮。揺れるサイリウムの光。数百、数千人の観客の歓声が轟く。

 そこは閉じられた、古代の円形劇場みたいな場所だった。

 ずらりと並んだ客席に、数百、数千の顔のない群衆の影。

 あるものは立ち上がり、あるものはサイリウムを振りまわし、手を叩き、興奮と熱狂に身をゆだねている。

 そして、その注目の集まるところ……ステージの中心にあるのは、小さなお立ち台とその上で歌い踊る誰かの姿。

 そこに届けられるのは、熱狂的な声援と、色とりどりのスポットライトの渦。

「……まさに、夢のステージってわけか」

 まるで本物みたいな存在感を持った人ごみと熱気の中、俺はつぶやく。

 たいていの幻像空間は、その存在を脅かすもの、外の世界からの侵入者を良しとしない。

 幻像自体、空間自体が、異物を受け入れることに抵抗するのだ。

 それに違わず、その幻影のコンサートホールでは、まるで空気が柔らかいゴムの壁にでもなったかのようだった。

 それらはやんわりと、文字通り“場の空気”そのものとなって、俺たちの侵入を拒もうとする。

 だが、止まってはいられない。

 大河の流れに逆らう小舟のように、独特の粘つく空気や群衆の幻影をかき分け、俺たちは進んでいく。

 俺たちがステージの中央に向かって歩を進めるたび、次第にスポットライトは消え、観客たちの姿も薄まって消えていった。

 やがて中央の舞台に足がかかったころには、あたりはすっかり静まり返っていた。



 光に満ちたステージはいつしか、邪教の祭壇のような禍々しい雰囲気の場所と化していた。

 その中に、ほとんど裸身に近い姿のアバターが一人。

 マーシャの生き写しの姿をしたその哀れな身体には、赤黒い鱗を持つ、巨大な蛇のようなものが巻きついている。

 棘の付いた鋭い鱗が、哀れなアバターの体中の肉に食い込み、とぐろを巻いて締め付けているのだ。

 ぎろりと持ち上げた鎌首には、まるで蝙蝠のような一対の翼があった。

「……タイプは邪知の蛇・ボティスか。僕も実物は、初めて見ましたよ」

 アリグラがつぶやいた。

 俺はバジュラ、アリグラはアガーテを構え、じりじりと近づく。

 マーシャの裸身に巻き付いたボティス――B級の狡猾なガルキゲニマは、すぐに鎌首をもたげ、こちらを威嚇する。

 がばりと開いた青い口からは、びっしり生えた小さな牙と先端が二又に割れた、青黒い舌がちらちらと覗く。

 同時に、目を閉じていたマーシャのアバターの瞳が、ゆっくりと開いた。

 だがその赤い瞳には、俺たちの姿はまるで映っていないようだった。

 半分ガルキに取り込まれたマーシャのアバターは、夢うつつの状態で、小さくつぶやき続けている。

「私は白い馬車……白い馬車に乗った……だから……だから……ごめんなさい、ごめんなさい」

 赤い大粒の涙が、血色の抜けた青い頬に、朱色の具で塗ったような一筋の河をつけていく。

 傷つき、憔悴しきった魂。彼女はいったい、誰に対して謝っているんだろうか。

「こおおおお……」

 再び、ボティス・タイプが小さな鳴き声を上げ、反吐が出そうな匂いのする息を吐いた。

「行くぜ」

 俺は、アリグラの方を振り返りもせず、言う。アリグラも無言で、ガチャリとアガーテの弾倉を回す音で、それに応えた。


※※※


 数日後。俺は第七総合精神保全病院の、ミドルクラスの病室にいた。

 そこには、ベッドが一つきり。真っ白いカーテンの外には、のどかな春の午後の日差しが揺れている。

 メリヤの身柄を預けたアリカ先生から、彼女が目を覚ましたとの連絡を受けて、すぐに駆けつけたんだ。

 だが……

「マーシャ……どうしてあんなことに」

 少し前に意識を取り戻したメリヤは、ベッドの上で、呆然としながらつぶやいた。

 もう、何度目かのそんな台詞。身体の傷は治っても、彼女の精神はまだ、すべてを受け入れられてはいないようだった。

 俺はそんな彼女に、できるだけ優しい口調で言う。

「マーシャはうまくいってなかった、いろいろとね。でも、お前は……」

「あたしが……近々、単独ライブができそうで、大きな役ももらえそうだったから? でも、そんな……」

「特保警察の担当官が、俺の飲み仲間でね。彼女の部屋からは、大量の違法薬物が見つかったってさ……

 最近、心のシェルを薄くするとかで、ガルキ憑きとの関連性が疑われてたヤツだ」

「……」

 がけっぷちの焦燥と嫉妬はいつでも、事件にまで発展する対人トラブルの根強い原因だ。

 薬物が作った心の裂け目に喰らいつかれたマーシャは、少し前からガルキゲニマの侵入による、急激な混成症状を発症していたらしい。

 マーシャが心に秘めていたほの暗い想念をガルキゲニマは受け止め、彼女と同調することで、いざという時、意のままに操れる人形にしたのだろう。

 通常時は何気ないマーシャの意識のままで生活させ、必要な時は、己の隠れ家兼生贄となるように。

 あの盗撮野郎に“仕事”を依頼した人間のメールアドレスが、マーシャのPCに残されていたフリー取得のメールアドレスと一致したことで、すべてはほぼ確定した。

 最初に遭遇した夜は、俺がレッド・ゲイズ状態のマーシャを取り逃がした直後、彼女は混成状態のままで、パーカーを脱ぎ捨てて着替えた。

 意識がどれくらいはっきりしてたのかは分からないが、マヌケな俺がちょっとボヤボヤしてる間に、彼女はどこかに隠れて追跡をやり過ごした。

 それから、その異常な脚力でメリヤのマンションの前に舞い戻ったのだ。

 そこで、ガルキは彼女の心の手綱を開放。

 あとはごく普通に、素のままのマーシャ・エイワスとして、俺と「初対面」を果たしたってわけだ。


 そして、メリヤが拉致された日。

 俺はメリヤを見失った後、わざわざその犯人に、特保警察への通報を頼んでいたことになる。

 当然そんな通報はされるはずもなく、特保の動きを待っていたら、事態は完全に手遅れになっていただろう。


 今回の場合、今後の事件処理の焦点となるのは、ガルキゲニマがどれ程度マーシャの意思に介入していたのか、という点だ。

 彼女自身の悪意と、ガルキゲニマの心理操作の影響の配分……

 それ次第で、今後のマーシャへの法的対応は変わってくる。

 それらはこれから、特保警察とそのバックアップをしてる研究ラボ、そして法務聴取官が明らかにしていくことになるはずだった。

 結局、マーシャ自身に聞かなければ分からないところも多いのだが、これもすぐには難しいようだ。

 彼女については、俺たちがガルキゲニマは駆除したものの、すでに存在自体がリ・ボーンしかけていた。

 だから、すぐさま万事元通りってわけにはいかないらしかった。

 目は覚ましたものの、意識は空ろなまま。薬物で心のシェルやコアが弱りきってたこともあり、精神の完全再生はかなり難しそうだという。

 俺のたっての頼みで、マーシャとメリヤ、両方の事後治療を担当してくれたアリカ先生は、気の毒そうにそう言った。

 そして、事件のことを無理に思い出させるのは、文字通り「精神衛生上」あまり良くないらしい。

 だからメリヤと彼女を引き合わせるのは、できればマーシャの精神が安定するまで、避けたほうがいいのだとか。

 けれど、彼女の精神が完全に安定するかどうかは、さっき先生が説明してくれた通り――


「……今は、身体と心を休めるのに専念しろよ。ほら、リンゴ、食うか?」

 見舞いに持ってきたフルーツバスケット。それから取り出し、ナイフでしゃりしゃりと剥いてやった高級リンゴを、皿に載せてそっと差し出してやる。

 右腕は少々痛むが、なに、たいしたことはねえ。

 だが、メリヤは力なく首を振っただけだった。

「ごめんね……でも、今は、どうしてもそんな気になれなくて」

「そっか……いいよ、気にすんな」

 やがて、遠慮がちにドアがノックされ、アリカ先生が顔を出す。

 悪いけれどもう面会許容時間が過ぎている、と気の毒そうに言われて、

 俺はメリヤに小さく手を振ると、そっと病室を後にした。


 数分後。俺とアリカ先生は、病院の屋上で風に吹かれていた。

「やりきれないわね、ああいうのは……でも、彼女、まだ若いからさ。すぐに心の傷も消えるでしょう」

「時間が解決してくれるってわけですか」

「まあね。だいたい、彼女自身はもう週末にでも退院できるし。これについては、あのマーシャって子が混成発症だったのが幸いだったわね」

 被寄生者にある程度の理性が残されていたから、悪意と理性の間で、マーシャの内面はひどく不安定になっていた。

 結局、ガルキゲニマにそそのかされるようにしてメリヤを狙い、薬物で昏倒させたものの、そこでためらいが生じた。

 マーシャを利用してたボティス・タイプも、わずかに残った理性に邪魔されて、彼女の奥に潜むメリヤへの攻撃衝動を、完全に引き出すことができなかった。

 それで、まずはターゲットを人目に付かないところへ移動させた可能性が高い、という。

「結果として、すぐには最悪の事態には至らず、ジギー君たちが間に合ったわけね」

 先生の静かな声が、俺に告げる。

「それはそうスね。でも……」

 心の傷は治るかもしれないが、メリヤは親友を一人、失ったことになる。たぶん、永遠に。

 俺が浮かない顔をしていたせいだろうか。

 先生はふと、何かに気づいたようだった。

 意味ありげに笑って、からかうように言う。

「あれ、なに? ジギー君 ちょっとイイ感じなの、あのメリヤさんと?」

「え? いや、別にそういうわけじゃ……いやあ、ただのハイスクール時代の同級生ですよ」

 俺はそれとなくごまかそうとしたが、アリカ先生はさすがにお見通しらしかった。

「ふぅん……結構美人さんだもんね。気になるか、やっぱり」

「いや、はは、は……」

「ふふ。そういえばアリグラくんは、どうしたの? 今日は一緒じゃないみたいだけど?」

「あ、あいつは“当面の彼女”とデートの約束があるとかで……もう、事件のことなんてすっかり忘れたみたいなツラですよ。

 いや、まったく軽薄で薄情な野郎ですからね! マジでマジで!」

 俺は仏頂面で言った。この隙に将来を見据えて、アリカ先生の中の「アリグラ株」を暴落させておきたいという目論見もあるが、半分は本気だ。

 だが、アリカ先生はふと、真顔になって言う。

「でも、彼はクールだわね……そう、これ以上はあまり、深入りしないほうがいいかもね」

「え?」

「何となく、ね。……ま、余計なお世話か。

 まあキミも、まだまだいろいろあっていいトシだもんね。ふふ」

「なんスか、そりゃ」

 俺は頭を掻いて、苦笑いした。


 だが結局は、アリカ先生の言った通りだった。

 この一連の出来事は、これで全然、終わりじゃなかったのだ。

 万事が綺麗に終わらないことだって、世の中にはある。

 そして、ややこしいところにわざわざ首を突っ込んじまうのが、俺の哀しい気質さがってわけだ。

 ガルキを駆除した時点でビジネスは終了、面倒にならないうちにとっとと全部を切り上げたアリグラは、

 やっぱりある意味、冴えてたってことなんだろう。

 だが、俺はそうじゃない。あいつと違って、そんなにスマートな生き方じゃないんだ。


 数週間後。とあるマンションの前で、夜の八時ごろ。俺は女を一人、待っていた。

 やがて、俺の“待ち人”が現れる。

「よう」

「ジギー……君? なんで……」

 メリヤ・エグバルトのおびえたような瞳が俺を見つめる。

 今日の彼女の化粧は少し、派手な感じ。

「ちょっと聞きたいことがあってな。このマンション、お前んとこの事務所の社長が住んでるんだって?」

「う、うん……これから、ちょっと相談したいことがあって」

「こんな夜遅くに、ずいぶん仲良しじゃねえか、ええ?」

「……なに? なんなの?」

「でもよ、お前の事務所……ヴェガ・プロモーションっつったっけ。そこの社長、ずいぶんネット上で評判悪いな」

 途端に、メリヤの目つきが変わる。

 ……調べたんだ、とでもいいたげな、ちょっぴり非難がましい視線。

 俺は、一瞬だけ目をそらす。

 やっぱりまだ、迷いがあったんだ。

 だが……やっぱり痛みは、一瞬のほうがいい。

 それでもできるだけ、短いほうが……

 メリヤのためにも。


 そして、俺は、不意にその言葉を突きつけた。

 まるで、罪人の首に斧を突きつける処刑執行人みたいに。

「マーシャ、妊娠してたぜ。で、子供を堕ろしてた」

 どういうこと、とでもいうように、メリヤは目を丸くする。

「ガルキを呼び込んだ精神のほつれ、禁止薬剤を使ってまで忘れたかったことは……それだ。親友へのやっかみと葛藤なんて、ただのオマケでな」

 精神世界で、ボティス・タイプの刃の鱗に絡み付かれながら、メリヤのアバターが謝っていた相手……

 それはきっと、世に生まれ落ちることがなかった小さな生命。

 何か言いたげに、メリヤの唇が動く。

 だが、言葉は出なかった。俺は冷徹に続ける。

「そんで、相手は分からない…って、ありふれたパターンでもないんだよな」

「……!」

「“白い馬車”ってな。ちょっと調べてみたのさ。ネットの裏情報サイトってのは便利なもんだね」

 あの世界の中で、マーシャのエゴがつぶやいていた言葉。

 それが気になっていた俺は、関連検索で特定のキーワードをいくつか打ち込んだ。

「白い馬車」「ヴェガ・プロモーション」、「マーシャ・エイワス」etc。

 その結果、分かったことがある。

「なあ、お前、近々単独ライブと、大きな役がもらえそうっていってたよな」

「それは……社長の取引先の人が、私のことを気に入ってくれて……」

「あくまで実力で、ってか。そう言い張りたいのは分かるけどな」

「……」

「前もって、振りがあったはずだ。なあ……」

「やめて!」

 俺が言わんとするところを察したらしく、メリヤは激しくその先をさえぎろうとする。

 だが、俺はやめなかった。

「お前、今日、駅からここまで歩いてきたろ? 

 ちょっと“約束の時間”より遅れたのはそのせいだな?」

「……」

「マネージャーのラズロが運転してる事務所のクルマ、車種は白のランスロットだっけ? 

 結局、駅まで迎えにこなかったろ? そりゃまあ、俺がシメあげてたからな。

 すぐにゲロったぜ。

 ここのマンション、社長の家じゃなくて、ホントはその知り合いのゲスな業界プロデューサーの“別宅”なんだってな?」

 俺は、一気に畳み掛ける。

「で、“白馬車”ってのは、社長のコレクションの白い高級車……ランスロットZEXのこと。

 そして、そいつに乗って女の子がそこに行くことが何を意味してんのか」

「……!!」

 マーシャの目が、一層大きく見開かれる。

「“初めてのご招待”の時は、いつもそれ。カボチャの馬車のつもりか知らねえが、下卑た趣味だな。

 ネットの掲示板で話題になってるようなネタ、事務所の子なら、知らないはずがねえだろ。

 で、マーシャは“処理”に失敗した。

 それが分かった瞬間、社長はマーシャに対する態度を一変させてるな……仕事を減らして遠まわしに引退を示唆。

 自分のスネにつきそうな傷には、早々に消えてもらいたいってわけだ」

 ふと、メリヤの目の色が変わった。冷徹で、ガラス玉のように無機質な目。

「……ここで、会いたくなかったな」

 その声は静かだった。

「俺もだよ」

「はは。そうだね。ジギー君、あの頃からいつでも自由だったよね。

 今も気ままで気楽そうでさ、ホントにいいよね。

 でももう……あたしも覚悟、決めたんだ」

 そう言うと、メリヤはまっすぐに俺を見つめてくる。

 瞳が、興奮で濡れたように光っている。その視線の強さに、一瞬気おされた。

「私は、もっと大きな役を獲りたかった。もっと大きなステージに立ちたかった。

 ジギーくんには分からないでしょ……私みたいな田舎のフツーの子がさ、この世界でやってくって、どれほど大変なことか。

 有名人の娘だってだけで大きな仕事が決まって、どんどんチャンスが与えられる人もいる。でも、私には何もなかった。何もね」

「……けどよ」

 俺はしばらく黙ってから、次の言葉をつむぐ。

「そりゃあ、そういうこともあるかもだけどさ。でもな……俺は、最初に会った時にさ」

 ちぇっ……ガラじゃないけどな。でもまあ、こういうシチュエーションじゃあ仕方ない。

「お前のこと、十分に綺麗だし魅力的だと思ったぜ。コネなんてなくても、自分だけの力で……頑張っていけるんじゃねえかって。バカみてえだけどな」

 俺ができるだけ真剣な表情で言葉をつむぐと、メリヤはかすかに笑った。

「ありがと。でも……」

「ん?」

「でも、だったら君があたしに大きな仕事、メジャーになれる仕事をくれるの? ねえ、この仕事ってね、何の保障もないの。

 いつ仕事がなくなるかって……才能なんてないんじゃないかって、不安ばかりでさ。

 なる前は、本当にアイドルや歌手になんてなれるのかって不安になって……

 なったらなったで、いつまで続けられるのかって不安になって……はは、バカみたい。不安ばっか」

 言ってるうちに、また、気分が高ぶってきたようだ。

「そういうの、ジギー君にはどうせ分からないでしょ!?」

 どこかで聞いたような台詞。

「だったら……よ」

 俺はぶすっとした表情で言った。

「そんなに辛けりゃ、やめればいいだろ」

 メリヤの目が再び、大きく見開かれる。

「やめればいい? ナニいってんの。やめたらあたし、もう“ただの人”なんだよ?」

「じゃあ、最後まで頑張れよ……精一杯、根性張ってな」

「!! 分かってないよ、やっぱ分かってない……

 なによそれ、くだらない精神論! 世の中って、奇麗事だけじゃダメなんだよ!」

 ふぅ……

 俺は一つ、大きく息をつく。

「当たり前……だろ!?」

 さっきまでとうって変わった俺の語気の強さに、メリヤはびくりと一瞬、肩を震わせたようだった。

「知らねえよ。お前が好きでやってることなんかな!」

 こんな時、あのクソメガネ……アリグラなら、もう少しうまく言うんだろうがな。

 つくづく俺は無骨・無粋な人間だ。

「……夢を叶えんのはしんどいよ、そんなの当たり前だろ。やっても上手くいかねえってこともあるだろ、そりゃ……

 みんなが夢を叶えられりゃ、“平凡な勤め人”はこの世界に誰もいなくなっからな。

 でも、自分のために、自分が好きで選んだ道だろ?

 そしてお前は実際に、その夢に手が届く場所までこれたんだろ?」

「……それは」

「それだけでも幸運だ。誰も分かってくれないとか、そんなの当たり前じゃねーか。

 ギャアギャアわめけば、誰かがお前の痛みを分かってくれて当然か?

 ……なあ、甘えた奇麗事言ってるのはどっちだよ?」

「な、何よ……ジギー君なんかにお説教されたくないよ……

 頑張ってもないくせに。やっぱりサイテー」

「まあ、それは認めるよ。悪かったな。

 この前はカッコつけたけど、スイーパー稼業なんて、たいしたもんでもないんだよ、ホントはな。

 典型的な自由業で、浮き草稼業さ。

 3Kだってのもマジな話だし。でもな、これでも、けっこう毎日楽しいぜ」

「……」

「なんつーか、そんなに、生きてくのって不自由なもんか? 

 毎日毎日、気張って神経すり減らし続けて、”誰にも真似できない特別な存在”であるだけが、正しいあり方か? 

 それ以外に価値はないか?」

「……そんなの」

 メリヤはちょっと押し黙ったあと、ぽつりと言った。

「……そんなの、特別になれない人の言い訳だよ……」

 だが、その言葉はどこか弱々しい。

「もうひとつだけ、な。あのよ……“ただの人”がそんなに悪いか?」

「え?」

「この前、ちょいと仕事で芽が出るまで、ずっと仕送りもらってたって言ってたよな? 

 それ、こっちに出てきて、チョイ売れする直前までずっと、ってことだよな? 

 お前の親父さん、普通の役所勤めだって言ってたよな?」

「お、お父さんはカンケーないでしょ……」

「いいや、関係なくないね」

 ここで、弱気にはなれない。

 俺はまっすぐに、力のこもった視線でメリヤの瞳を覗き込んで言う。

 伝わればいい。伝わってほしい。

「たいした稼ぎもねえ親父さんが、必死の仕送りと一緒に、娘をオクタ・カテドラルまで送り出してくれてたんだろ? 

 娘の夢を叶えるために働く普通の人生が、そんなにくだらねえか?

 俺は確かに、お前のことをどうこう言える立場じゃねえ。

 でも、今のお前見て、親父さんがどう思うか、くらいはな……」

「そ……それは……」

 メリヤはそれきり、うつむいてしまった。

 大きな瞳から、真珠みたいな大粒の涙がひとつ。

 俺はちょっと空を仰いで、ため息をついた。あ~あ、また泣かせちまった。

 女の子の扱いはやっぱり苦手だ。


※※※


 その後、ヴェガ・プロモーションの社長は、枕営業とは別の容疑で警察にパクられ(罪状は一つじゃない、やるヤツはどうせいろいろやってるものだ)、

事件は新聞記事になり、ニュースでも小さく報じられた。

 メリヤは結局、退院すると同時に、俺の前から消えた。

 携帯も解約されており、連絡手段は途絶えた。

 地元のコミュを通じてっていうのも、ヤボってもんだろう。

 下手すりゃ事件の傷跡を広げることになる。

 そもそも、これは向こうが連絡を取りたくないってことなんだから。

 だから俺は、それ以上彼女に連絡を取ろうとはしなかった。

 去る者は追わず、来たる者は拒まず……それがバランスのいい対人関係のコツだって、親父も昔言ってたしね。

 ……正直、そこまでキレイに割り切れたわけでもないんだが。


 一ヶ月ほど経った時、俺はふと思い立って、かつてメリヤが出ていたという、アングラ・ネットアニメの動画データを落として、TV携帯で観てみた。

「ユメを見るのもタダじゃない! 恐喝・心中・暴行傷害、サギにタタキに親族殺人! まったくせちがらい世の中ですが、それでもメルティア、頑張りまぁ~~すぅぅ!」

 薄桃色のコスチュームに身を包んだメルティア・サード、ベリアン・ラズベリー。

 彼女は演じてる“中身”とは似ても似つかぬ天然ボケキャラだったが、澄んだ声だけは確かにメリヤのもので、俺は思わず笑ってしまった。

 まあ、大変なことも多いんだろう。事件の顛末は、ネットでもずいぶん噂になったようだし。


 だが、ホントのことを言えば、俺はメリヤのことについて、あまり心配はしていない。

 駆除作業のギャラは後日きちんとメリヤ本人らしい口座から振り込まれてきたし、

 実を言うとだな、今日、俺が事務所の帳簿をつけてる今さっき、封筒が届いたんだ。


 まずは、唐突に姿を消した非礼を詫びる文章。

 丁寧な文面からも、当時、彼女が本当に傷つき、混乱のただ中にあったことが伝わってきた。

 それから、これは思い切ったように、芸名を変えたことと、所属事務所を変更したという知らせ。


「新しい事務所は、規模は小さいけれどすごく熱意がある感じで、みんな一丸となって頑張っています。

 今度、まだ小さなハコだけれど、グループを組んで、オリジナル曲でライブをやることになりました。

 どこまでやれるかはわからないけれど……頑張ってみようと思います。

 よろしければご来場の上、楽しんでいただければ幸いです」


 直筆の手紙に加え、ライブのチケットがご丁寧に2枚、同封されていた。

 アリグラの分まで用意されていたのはちょいと気に入らなかったが、まあ応援ぐらい、いくらでもしてやるさ。

 それにいろいろあったとはいえ、ルックスはいいんだから、ひょっとしたらメジャーになれるかもしれない。

 もちろん、そう上手くはいかないかもしれないけど。


 だが、もし仮に何かをやってみて、上手くいかなかったとして……別に、片手や片足を失ったわけじゃない。

 それで全てが終わりってわけじゃないんだ。

 できるとこまでやってみて、それでもダメだったら……

 そしたら、ただただ、普通に、まっとうに生きていけばいいだけの話だろ。

 誰もそれを笑いはしない。

 そもそも、人の人生をああだこうだいうのは、自分では決して舞台に上がれないか、上がったことのないヤツだけだしな。

 叶うかもしれない、叶わないかもしれない……未来はいつだって、曖昧なものだ。

 だが多分、そういう曖昧さをぐっと飲み込んで、それでも努力できるのが本当の強さってものなんだろう。

 結局のところ、誰だってこの世界じゃ、持ってる手札で勝負するしかない。

 そう、だいたいこの万年不況でロクでもない、ややっこしい世界に生まれてきたこと自体が、狂った博打なのかもしれないんだ。


 面倒な帳簿打ち込み作業の合間に、冷蔵庫から取り出したエナジードリンクを一気に飲み干し、俺は部屋の片隅のゴミ箱に狙いを定める。

 このビンが入ったら、きっとそのうちいいことがある。外れたら……そんときはそんとき。

 ぽん、と放物線を描いて飛んだ空ビンは、ゴミ箱のふちに当たってコン、と跳ね返り……空中でくるりと回って、ゴミ箱の中に収まった。

「おっし」

 小さくガッツポーズを取ったところに、ノックの音と同時にドアが開く。顔を出したのはアリグラ。

「ジギー、仕事の依頼ですよ。シルヴァレイン地区のあのマダムから、直接指名です。

 今度は、マダムの息子さんではなくお嬢さんが、大学受験のストレスでガルキに侵入されたらしい。

 先日の君の仕事ぶりが気に入ったらしくて、明日、一度見積もりがてら打ち合わせをぜひにってコトです」

 ……ちぇ、ビア樽みたいなオバハンにモテてもしょうがねえんだがな。

(お兄サン、たくましいわネェ。しかも若いのにしっかりしてるわァ……)

 ねっとり絡みつくようなマダムの声がフラッシュバックし、思わず背筋がブルッと震えた。

「実は俺、あいにくちょっと風邪引いちまったみたいでな……そうだ、アリグラ、お前が行ってこいよ」

「は? 僕が単独で受けるんですか? この案件を?」

 いぶかしげな表情をした色ボケメガネに、俺は声を潜めてささやいてやる。

「ここだけの話さ……あの依頼人、旦那が留守がちな有閑マダムでね。

 そう、いわゆるオトナ的に、アダルティな意味で、ちょっと美味しいコトがあってさ。

 実は俺、その……すごく“イイ思い”をさせてもらったんだよね」

「ほう……?」

 露骨に興味を示した素振りこそ見せないが、手応えあり。

 この色ボケ野郎、見事に針を食らい込みやがった。

 そのへんの気配は、やっぱり隠せやしないんだ。俺だって、伊達にお前の相棒、やってねえんだからな。

 ま、イイ思いって言っても、ちょっとアダルティな、ブランデー入りの高級フルーツケーキをごちそうになったってだけだけどさ。

「ああ、マジだぜ。その味わいたるや、まさに極上。

 それに、本当は俺みたいなワイルド系より、知的なハンサム面がお好みだってさ」

 これは嘘。でもまあ、きっとワイルド系だろうとインテリ系だろうと、若い男なら気にしないんじゃないかな。

「ふぅん、それは考える余地があるかも、ですね……」

 端正な顔を少し緩めて、ちょっと考え込むアリグラ。

 せっかくの切れる頭も、邪心で曇らせてしまえば何の役にも立たない。

 顔と頭のスペックは特上だが、人間的には本当にアホだな、コイツ。

世間知らずのお坊ちゃんには、少々ハードな社会勉強が必要だろう。

「なんていうか、実に肉感的なマダムなんだ、そう、実に」

 俺はニヤニヤしながらテキトーなことを吹き込つつ、無味乾燥な帳簿の打ち込み作業を中断する。

 面白いことになってきた、とばかりに内心でほくそ笑み、俺はそのままセーブキーを押し、PCをシャットダウンした。


【「偶像と知恵蛇の夜想曲」了】 

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ジグザとアリグラの心魔狩猟~ラックスマイル・カンパニー事件簿~ @rintyuu

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