第5話 そんな文字が書けるわけがない
「レジ打ちをなめないでよね」
元々つり上がっている目をさらに吊り上げて、我が子を馬鹿にされた母親のごとくわたしを睨み付けたのは、先輩アルバイトスタッフであるキリちゃんでした。拳をぎゅっと握りしめ、隙あらば――いや、隙なんてものがなくても、わたしの頬に致命的なダメージを与えてきそうな勢いが感じられます。
「勉強ができるからって、仕事もできるとは限らないんだからね」
「す、すみません」
とりあえず謝ります。きっと、わたしが悪いことをしたのでしょう。そうに決まっています。理由はわかりませんが。
「調子に乗ると痛い目を見るのよ。ここは学校とは違うんだから」
「まるで、経験者みたいな言い方ですね」
「ち、違うわよっ。と、友達の話よっ」
「な、なるほど、そうですか」
「そうよっ。勘違いしないでよねっ」
わたしは少々、戸惑ってしまいます。なぜなら、わたしはレジ打ちを簡単だとは思ってはいませんし、馬鹿にするような発言をした覚えもないのですから。
事件が起きたのは、先輩スタッフであるキリちゃんにご教授頂いて、いらっしゃいませ、ありがとうございました、などの入退店時挨拶の練習を終えたあと、事務所のパソコンを使って簡単にレジのオペレーションを学んでいる時でした。この店のオペレーションマニュアルは紙ではなく電子化されているので、パソコンを使ってレジの使用方法を学ぶのですが、その途中で、わたしはこんな一言を口にしてしまったのです。
――とりあえず、お客さんが商品を持ってきたら、バーコードをレジで読み取ればいいんですよね。
口は禍の元、と言いますが、まさかその一言がキリちゃんの逆鱗に触れるとは思いませんでした。
「言っておくけどね、バーコードを通さないでレジを打たなきゃいけない場合もあるんだから。すべてがバーコード任せってわけじゃないのよ」
顔を紅潮させて憤るキリちゃん。そんなキリちゃんにわたしは言います。
「バーコードの番号をレジに打ち込むんですよね。バーコードが上手く読み取れない時とか、バーコード部分が破れちゃってる場合とか」
「な――っ」
わたしがそう言うと、キリちゃんは数秒ほど目と口を開いて固まった後、その時間を取り戻すかのように慌ててまくし立ててきます。
「な、なんでそれを知ってんのよっ」
「え、えっと……そこに書いてありますから」
わたしが指さす先、そこにはパソコンがあり、その画面にはレジ操作のオペレーションが載っています。丁度、キリちゃんが説明しようとしていたレジ操作が画面に表示されていました。
「く……っ、で、でも、違うわよっ。わたしが言いたいのはそのことじゃないんだからっ」
下唇を噛み、悔しそうにそう言ったキリちゃん。どうして悔しがるのかわからないわたしをキリッと睨み、名誉挽回、汚名返上だと宣言するがごとく、リベンジを誓ったスポーツ選手のような表情を浮かべながら事務所の在庫置き場へと向かい、そこからある商品を持ってきます。
「この商品は売り物だけど、バーコードスキャンができないのよ。だから単純にバーコードのスキャンだけしか知らない無能なスタッフには扱えない商品ってわけ。もちろんバーコードの番号を入力しても無駄よ。すごいでしょ」
わたしはキリちゃんの手に目を向けます。キリちゃんが手にしているのはカレーのルーでした。カレーを作る際に、使用するブロック状のアレです。料理をまったくしないわたしでも、何度もテレビコマーシャルや家の台所で見たことのある商品でした。リンゴと蜂蜜が隠し味ですね。
まるで選ばれしものにしか抜けない聖剣を手にしたかのごとく、どや顔を浮かべるキリちゃん。そんなキリちゃんにわたしは言います。
「すごいですっ。店にはいろんな商品があるんですねっ」
「でしょっ」
「でも、バーコードが使えないんだったら、どうやって商品を販売すればいいんでしょうか。困っちゃいますね」
わたしが唸りながら両腕を組むと、キリちゃんはニヤリと静かな笑みを浮かべてから言います。
「直接金額を手で打ち込むのよ」
「直接?」
「詳しいやり方は、今度、教えてあげるわ」
「なるほど、そういうやり方もあるんですね」
「そうよ。色々、あるんだから。言っておくけど、覚えることはたくさんあるから、覚悟しておいた方がいいわよ」
「わかりましたっ」
「まったく。なんで嬉しそうなのよ。これから仕事の厳しさを味わうっていうのに」
「わかりません。もしかしたら、キリちゃんに教えてもらうのが嬉しいのかもしれませんね」
「ば、ばっかじゃないのっ。おだてたって何も出てこないんだからっ」
「え? 別におだててるつもりはありませんよ。素直な気持ちです」
「う、うるさいっ」
顔を赤らめ、何かを言おうとしているけれど何も言葉が出てこない、と言った風のキリちゃん。もしかしたら褒められることに慣れていないのかもしれません。そんな様子のキリちゃんをかわいいと思いながら、わたしは言います。
「でも、どうしてバーコードがスキャンできなくなっちゃうんですか? 店に置いてある商品なのに。村八分、じゃないですか」
わたしが訊くと、それまで照れていたキリちゃんが態度を急変し、嬉しそうに頬を緩めます。
「ふふん、教えて欲しい?」
「もちろんですっ」
「まったく。しょうがないわね」
わざとらしく、ごほん、と咳ばらいをしたキリちゃんは得意げな表情で言います。
「古い商品だからよ。古いものはバーコードが打てなくなっちゃうの」
「なるほど、そういうことなんですね。じゃあ、そのカレールーはもう捨てるしかないってことですか?」
「違うわ。さっき、言ったじゃない。直接、金額をレジで入力するって」
「ああ、失念していました」
「バーコードが通らなくなったといっても、賞味期限が切れたわけじゃないから販売しても問題はないのよ。ただ、店側としては古い商品はさっさと売っちゃいたいから、定価じゃなくて半額くらいで売ることが多いわね。さすがに賞味期限が切れたら販売できないわけだし。家電量販店でも型落ち品は安いでしょ。それと同じよ。実際に、このカレーのルーも半額」
「おお、それはお得ですね」
何気なくわたしがそんな感想を漏らした瞬間、それは起こりました。
場を包む空気が変化したのです。
「ダメよ」
キリちゃんは慌てて、持っていたカレーのルーを背後に隠しました。
突然の出来事に、わたしは動揺してしまいます。
「ど、どうしたんですか?」
キリちゃんは、カレーのルーを背後に隠したままこう言います。
「このカレーのルーはわたしのだから」
「え?」
「渡さないから、絶対に」
まるで悪党に核爆弾のスイッチを渡すまいと奮闘している映画の主人公のように、キリちゃんはわたしを見ます。どうやらキリちゃんはわたしが半額のカレーのルーを狙っていると勘違いしたみたいです。完全に誤解です。わたしは料理はしませんし、まして、自分で食材を調達することなんて考えたこともないので、いくら半額とはいえ、そのまま食べることのできないカレーのルーを欲しいと思ったわけではないのですから。カレーの既製品ならば、話は別ですけど。
「だ、大丈夫ですよ。いりませんって、カレーのルーなんて」
キリちゃんを安心させるために放ったわたしの言葉。
しかし、それがまたもや禍の元になってしまいます。
「なんて、ですって?」
「え?」
まるで、恋人を殺された直後の主人公のような瞳。
わたしは決定的に何かを間違えてしまったことを感じます。
「馬鹿にしてんの、カレーのルーをっ。わたしがこのカレーのルーを使って作るカレーを楽しみにしている家族だっているのよっ」
「い、いえいえ、違いますよっ」
「半額のカレーのルーは美味しくないって言う気っ。これだから、ブルジョワはっ」
「だから、違いますってっ」
「半額だって、わたしが作れば美味しいんだからっ」
またもやキリちゃんを怒らせてしまいました。そもそもどうして怒っているのかがわからないのですが、その理由がわからないことが原因なのかもしれません。まだまだ、わたしも未熟ということでしょう。
「まあまあ、落ち着いて」
わたしではどうしようもない状況を救うべく、颯爽と登場したのは、この店の長――マイカさんでした。マイカさんはキリちゃんの肩を叩きながら怒りをなだめます。
「先輩なんだから、もう少し余裕を見せないと、ね」
「す、すみません。食べ物のことになると、つい……」
すぐにキリちゃんの怒りが収まります。さすがは店長です。部下の扱いを心得ています。
「心配しなくても大丈夫よ。ちゃんと、約束通りそのカレーのルーはキリに売ってあげるから。そうだ、裏に名前を書いておけばいいじゃない。それで誰にも取られないわ」
「そ、そんな子供みたいなこと……恥ずかしいです」
「大丈夫よ。すでに恥の多い人生を送っているじゃない」
「えっと……、大部分は誰かさんのせいだと思うんですけど」
「ふふ。それに子供みたいな子が好きな大人もいるから、そのことも気にしなくていいわ」
「あの……何を言っているんですか?」
「冗談よ、冗談。そんなに殺気をまき散らさないで。怖いわ」
「誰のせいですか」
ははは、と受け流すように笑ってから、マイカさんは言います。
「とにかく、そのカレーのルーは店に並べるわけじゃないんだから、名前を書いたって大丈夫よ。うちの関係者以外、見ないんだから。それに、名前を書いておけば他のスタッフが間違えて買っちゃうこともないだろうし」
「で、でも……」
「書くは一瞬の恥、書かぬは一生の恥、よ」
「い、いや……書かなくても一生の恥にはならないと思いますけど」
「そういうツッコミはいいから、早く書いちゃいなさいよ、ね。わたしが代わりに書いてあげましょうか? 間違えてアスミちゃんの名前を書いちゃうかもしれないけど」
「い、いいですっ。自分で書きますからっ」
「え? 書けるの?」
「当たり前じゃないですかっ」
「アラビア語で書かないとダメなんだけど」
「ええっ」
「もしかして、書けないの?」
「当たり前じゃないですかっ。わたしは日本の高校に通う、普通の女子高生ですよっ。アラビア語を習得してるわけないですよっ」
「そんなことないわよ。アスミちゃんは書けるわよね、アラビア語」
話を振られたわたしもキリちゃんと同じように日本の高校に通う普通の女子高生です。もちろんアラビア語を習得しているわけがありません。故に、首を振ってからこう答えます。
「いえいえ、とんでもないです。書けませんよ。わたしも普通の女子高生ですから」
「あら、そう。残念ね」
「ソヨンボ文字なら少しはわかるんですけど」
「じゃあ、それでもいいわ」
「何それっ」
驚きの声を上げるキリちゃんに、わたしは言います。
「モンゴルの辺りで使われている文字です。知りませんか?」
「あんた、普通の女子高生じゃないでしょっ」
「普通の女子高生ですよ」
「普通の女子高生は、ソヨンボン文字なんてものは知らないわよっ」
「ソヨンボンじゃありません。ソヨンボです」
「どっちでもいいしっ」
もう日本語でいいですよね、と声高に叫んでから、半額のカレーのルーをデスクに置き、キリちゃんは油性ペンを持って商品の裏側に自分の名前を書き込んでいきます。その様子を見ながらわたしはマイカさんに質問をします。
「店長。どうして古い商品はバーコードが使えなくなっちゃうんですか? まだ、賞味期限が切れているわけじゃないみたいですけど」
「コンビニって毎週のように新商品が登録されるでしょ。お菓子とかじジュースとか。でも、そうやって永遠に商品が増え続けたら管理しきれなくなっちゃうじゃない。だから、古いものをリストラしないといけないのよ」
「なるほど」
「もちろん、古いものでもずっとリストラされないで残っているものもあるわ。でも、やっぱり新商品の方が売れるから、どうしても古いものは淘汰されちゃうのよね」
そう言ったマイカさんは悪戯っぽい笑みを浮かべてキリちゃんを見ました。半額のカレーのルーに名前を書き終えたキリちゃんは、嫌なものでも見るようにマイカさんに視線を向けます。
「な、なんですか?」
「別に。なんでもないわ」
「わ、わたしは負けませんからっ」
「何のこと? よくわからないわ」
そう言って、マイカさんは再び売り場へと戻って行きます。その姿はどこか楽しそうに見えたのはわたしだけでしょうか。
「と、とにかく」
店長を見送ったキリちゃんはわたしに強い視線を送ってきました。
「レジはバーコードだけで済ませられるような甘いものじゃないから」
「わ、わかりましたっ。カレーだけに、辛いってわけですねっ」
「いや、そういうボケはいらないから」
「す、すみませんっ。調子に乗りました」
「べ、別に謝らなくてもいいわよ。それに、まあ……、そういうボケは嫌いじゃないし」
「ツンデレ、ですねっ」
「違うっ」
「す、すみませんっ」
土下座をする勢いで頭を下げるわたしに、キリちゃんはぴしっと人差し指を向けます。
「それに、古いものが新しいものに負けるわけでもないからっ。覚えておいてよねっ」
「わ、わかりましたっ」
どうしてわたしは宣戦布告をされてしまったのでしょうか。
うーん。
よくわかりません。
なってしまいました。コンビニ店員に。 未知比呂 @michihiro
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