第4話 ぼくらはみんな生きている

 コンビニ『えびちゃんマート』で働くことになった初日のことです。店に入ろうとしたら自動ドアにぶつかったり、事務所の扉を開けたら女の子が着替えていたりと、はじめからトラブル続きだったわたしですが、ようやく制服に袖を通す段階にまでこぎつけました。千里の道も一歩より、というよりは、三歩進んで二歩下がると言った感じでしょうか。いくつもの障害がわたしの行く手を遮ったのですから。それでもしっかりと前に進めているのですから、人生とはなるほど、上手くできているものです。


 制服に袖を通したわたしは、事務所の壁に貼り付けてある鏡の前に立ちました。そこに映っている出で立ちにはこじゃれない感がオーラのように漂っています。そのせいでしょうか、制服をまとったわたしの身には、違和感が添付されています。落ち着かないというか、心許ないというか。ビニールがかけられたままの新車の座席や、液晶に保護シールが貼られたままのケータイのような感じです。


 店の制服はピンク色の上着とベージュのチノパンです。ピンク色はエビをイメージしているらしいのですが、今のわたしにはピンクと言えばやっぱりあれです。キリちゃんの下着です。


 わたしに下着を見られたキリちゃんは報復措置としてわたしの着替えをずっと覗いていました。とは言っても、わたしは学校の制服の上着である赤いジャケットを脱いで、下に着ていた白いワイシャツの上から店の制服を着ただけなのでブラジャーを人目にさらすことはありません。それに下だって白いプリーツスカートを脱がずにチノパンを履いたのでショーツを見られることもありませんでした。


「く――っ」


 わたしが店の制服に着替えている様子をキリちゃんは悔しそうに見ていました。そんなにわたしの下着姿が見たかったのでしょうか。一緒に、銭湯かプールにでも行く機会があれば見せてあげてもいいのですけど、さすがに何の必然性もないのに下着をさらしたいとは思えません。誠に遺憾ですが、今回は我慢してもらうことにしましょう。


「すみません。お待たせしました」


 着替え終わったわたしはキリちゃんに言いました。キリちゃんは何も言わずに制服姿になったわたしをじっと見ていました。その視線、気になります。


「え、えっと。どこかおかしいでしょうか?」

「……別に。おかしくないわよ」


 わたしから視線を外したキリちゃんはぼそりとそう言いました。その様子はどこか不満げです。もしかしたら、と思いわたしは言います。


「あの、そんなにわたしの下着を見たかったんですか?」

「そんなわなけないでしょっ」

「どうしてもって言うのなら、わたしは――」

「だから、下着のことは忘れろっ」


 ばん、とデスクを叩いてキリちゃんは否定します。どうやら下着の件は尾を引いていないみたいです。安心しました。


「あの、だったらどうして不満げなんですか?」

「どうしてそう思うのよ?」

「だって、じっとわたしのことを見ていましたし。ちょっと機嫌が悪いみたいですし。何か思うところがあるなら言ってください」

「何でもないわよ」

「隠さないでくださいっ。わたしに悪いところがあるなら直しますからっ」

「別に、悪いところなんてないわよ」

「子供っぽい顔ですかっ。それとも年齢の割に幼い体型ですかっ」

「だから、悪いところなんてないって言ってるでしょっ。そこが悪いのよっ」

「えええっ。どういうことですか?」

「うるさいっ。黙れっ」


 キリちゃんがそう叫んだ瞬間でした。

 パシャッ、という効果音と共に光が発生します。

 いつの間にか、キリちゃんはケータイを持っていました。そのケータイでわたしの写真を撮ったのです。


「な、なぜパパラッチ?」


 ぽかん、とするわたしにキリちゃんは言います。


「ネームプレートに使うのよ」

「ああ、なるほど」


 わたしは目の前にいるキリちゃんの胸元に目を向けます。そこにはピンクの下着——ではなく、お店のネームプレートがついていました。ネームプレートにはスタッフの名前以外に顔写真が添付されれています。写真のキリちゃんは顔を真っ赤にして視線を斜め下に向けていました。なんだか笑顔よりも好感が持てるような気がしました。わたしもそんな写真をネームプレートに載せたいと思います――って、


「ちょ、ちょっと、待ってくださいっ」


 わたしはぐっとキリちゃんに近づきました。


「わたしのネームプレートに載せる写真って、さっき撮ったやつですかっ」

「そうだけど」

「異議あり、ですっ」


 わたしはキリちゃんが持っていたケータイを奪い取りました。そして保存されていたわたしの写真を確認します。


「ああああっ」


 予想通りです。何の予告もなしに撮られた写真。そこに写っているわたしの顔は酷いものでした。口は半開きになり、目は白目。鼻孔は大きく膨らみ、顔はテカテカと輝いていました。こんなものをお客様に見せるわけにはいきません。恥ずかしいのではありません。申し訳ないのです。


「裁判長、撮り直しを要求しますっ」

「嫌よ。めんどい」

「人権侵害っ」

「おおげさな」

「人間失格っ」

「そ、そこまでっ」

「お願いしますっ。このままじゃ、人様に迷惑がっ」

「わ、わかったわよっ。痛いから、肩を掴まないでっ」

「はああっ。すみませんっ」


 わたしは興奮のあまり、無意識にキリちゃんの肩に指を食い込ませていました。すぐに粗相をした手を離し、もう一度、謝罪をします。頭を下げたわたしに、キリちゃんはため息交じりに言いました。


「別にいいわよ。じゃあ、そこに立って。撮りなおすから」

「は、はい」


 キリちゃんが指定した場所は、事務所の入り口付近にあるホワイトボードの前でした。ホワイトボードには何も書かれていません。真っ白です。まさにホワイトボード。そんなホワイトボードの前に立ったわたしのすぐ前で、キリちゃんはケータイを前後、上下左右に動かしています。どうやら今度はきちんと写真を撮ってくれそうです。構図を決めているキリちゃんを見ながら、わたしはふと思ったことを口にします。


「ところで、キリちゃんの写真は誰が撮ったんですか?」


 キリちゃんの答えはこうでした。


「――キリちゃん、言わないで」


 意外な言葉にちょっと傷つきつつも、たしかになれなれしかったな、と反省します。わたしたちは同い年とはいえ初対面です。せめてこう呼ばなければいけません。


「すみません。キリさん」


 これで大丈夫だ、と思ったのですが、


「なんかそれも、嫌」


 ダメ出しをくらってしまいました。


「ええっと、じゃあ……キリちゃんさん?」

「何よ、それ。長すぎ」

「キリちょん?」

「馬鹿にされてるみたい」

「キリえもん?」

「それだけは、嫌」

「ああ、もうっ。何て呼べばいいんですかっ」


 パシャッ。


「撮らないでくださいっ」

「痛いっ、痛いってっ」

「はああ、すみませんっ」


 わたしはまたもやキリちゃんの肩に指を食い込ませてしまいました。でも、今回はキリちゃんにも責任があると思います。九割九分はわたしが悪いと思いますけど。


 それよりも、わたしはキリちゃんのことをなんて呼べばいいのでしょうか。まったくわかりません。そんなわたしにキリちゃんは言います。


「ったく。もういいわよ、キリちゃんで」

「え、いいんですか?」

「いいわよ。……ばか」


 何だかよくわかりませんが、とりあえずキリちゃんはわたしがキリちゃんと呼ぶことを許してくれたようです。これで会話を進めることができます。わたしはもう一度、先ほどの質問をしました。


「で、キリちゃんの写真を撮った人は誰なんですか?」

「店長よ」

「なるほど。さすが店長ですね。いい写真を撮ります」

「どこがいい写真なのよ?」

「え、かわいいじゃないですか」

「か、かわいくなんてないわよ。こんなの。いいから、さっさと撮るわよっ」


 そう言うキリちゃんは写真と同じように視線を外して顔を赤く染めていました。やっぱり、かわいいです。


 さっさと撮る。そう言ったキリちゃんですが、なかなかシャッターを切りません。ケータイを前後や上下左右に動かすことはやめているので、準備は整っているはずなのですが。


「どうかしましたか?」


 首を傾げるわたしに、キリちゃんは言います。


「表情が硬いのよ。もっと柔らかくならないの?」

「す、すみません。緊張するとこうなっちゃって」


 シャッターを切らない原因はわたしの顔でした。顔というかメンタルでしょうか。みんなで写真を撮る時は大丈夫なのですが、一人になると顔がこわばっちゃうのがわたしの癖であることを失念していました。中学の卒業アルバムや高校受験の願書の写真を撮る際にもカメラマンに気を遣わせてしまったのを覚えています。十分くらいは世間話をしないと顔のこわばりが解けないのです。そのことをキリちゃんに話すと、露骨に嫌な顔をされてしまいます。


「十分も話すの? 写真にそこまで時間はかけられないわよ。仕事だってあるんだし」

「で、ですよね」


 どうしよう、と悩むわたしに名案が閃きました。


「あ、あの。キリちゃんにお願いがあります」

「何よ?」

「自分をプロのカメラマンだと思ってくれませんか? わたしはグラビアアイドルになった気持ちになりますから。プロのカメラマンは被写体に気持ちよくなってもらうための術を持っています。そして、グラビアアドルは自分をかわいく撮ってもらうための術を持っています。わたしたちでその二人を演じるんです」

「は?」

「馬鹿なことだっていうのはわかっています。でも、もうこれしか方法がありません。劇薬ですが、試してみる価値はあるはずです」

「ないでしょ。ギャグマンガのテンプレみたいだし」

「テンプレの何がいけないんですかっ」

「いや、いけなくはないけど……」

「お願いしますっ」

「痛いっ、痛いってっ。わかった。わかったわよ。やればいいんでしょ」

「はああ、すみませんっ。そして、ありがとうございますっ」


 ほとんど力技ながらも、キリちゃんを説得することができました。あとは実行するだけです。


「ハイ。ワラッテ」


 完全にやる気なしの棒読みで台詞を言うキリちゃん。さすがにそれではわたしの女優魂に火はつきません。


「キャメラマンさん。やる気、あるんですか?」

「ないわよ」

「出してくださいっ。溢れんばかりにっ」

「あのね。こんなの真面目にできるわけないでしょ。グラビアアイドルとプロカメラマンごっこなんて」

「時間がないんですから。お願いします」

「そんなこと言ったって」

「仕事ですから、ね」

「ああ、もう。わ、わかたわよ」


 一度、深呼吸してわたしを見るキリちゃん。彼女の口から出てくるセリフは先ほどのテンションとは別物でした。仕事、という言葉が効いたようです。


「ご、ごほんっ。え、えっと、はーい。じゃあ、い、一枚いってみよっかー。か、かわいい顔、よろしくー……」


 お世辞にもプロのカメラマンになりきっているとは言えない演技でした。思いっきり恥ずかしがっています。耳から首元まで真っ赤にしています。もしかしたら、服を脱ぎ捨てたら全身が真っ赤に変色しているのかもしれません。まるで罰ゲームを受けているみたいです。だけど、その必死さがわたしのこころに火をつけます。


「はーいっ。お願いしまーすっ」


 パシャッ。


 シャッター音が聞こえます。きっといい顔をしていたのでしょう、わたしは。


「い、いい感じだよーっ。か、かわいい、よーっ。最高だ、よー……」


 何だかラップみたいな感じですが、乗ってくれているキリちゃんの上げ足を取るようなマネはしません。


「ありがとうございまーすっ」


 その後もシャッター音が続きます。撮影が順調に進んでいる証拠です。

 なんだか身体が熱くなってきました。テンションが上がってきたせいでしょう。そんなわたしの心情を察したのか、キリちゃんはこんなことを言います。


「じゃあ、上着を脱いでみようかー」

「はーい」


 わたしはピンク色のユニフォームを脱ぎます。


「思い切って、ワイシャツも脱いじゃおー」

「はーい」


 指示に従ってワイシャツのボタンに手をかけます。一番上のボタンを外し、二番目のボタンも外しにかかります。

 

 と、その時でした。


「馬鹿か、あんたは」

「痛いっ」


 突然、頭に衝撃が走りました。キリちゃんがチョップをしたのです。


「な、何をするんですかっ」


 涙目で訴えるわたしに、キリちゃんは冷めた声で言います。


「あんたが調子に乗って脱ぎだすからでしょ」

「だって、キリちゃんが脱げって言ったんじゃないですか。だから、つい――」

「何、言ってんの。わたしじゃないわよ」

「え?」


 キリちゃんの視線は事務所の扉に向けらています。わたしもそちらへ視線を送りました。少しだけ開いていた扉が、静かに閉まりました。


「幽霊?」

「んなわけあるかっ」

「だって、扉が勝手に――っ」

「店長に決まってるでしょ」

「店長を殺さないでくださいっ。生きてますからっ」

「そういうことを言ってんじゃないっ。扉を開けたのも、閉めたのも店長ってことよ」

「だから、店長は死んでませんからっ」

「生きてる店長よっ。幽霊じゃない方のっ」

「なるほど。その発想はなかったです」

「幽霊の発想の方がおかしいでしょっ」


 息を切らしながらため息を吐いた後、キリちゃんは呆れながら言いました。


「これでわかったでしょ。あんたが店長に遊ばれているってことが。あの人は、そういう人なんだから」


 閉じられた扉をチラリと見てからキリちゃんはもう一度、ため息を吐きました。まるであの人は悪い人だから絶対に信じるな、とでも言わんばかりに。そんなキリちゃんにわたしは言います。


「きっと、羨ましかったんですよ」

「は?」

「わたしたちが楽しそうにしていたから、混ざりたかっただけですよ」

「そんなわけないでしょ。いい大人なんだから」

「大人だって、子供みたいにはしゃぎたい時があるんですよ。きっと」


 キリちゃんは何かを諦めるように首を振りました。それから少し口元を緩めてこう言います。


「もう、いいわよ。それで」

「はいっ」


 なんとなくですが、キリちゃんとこころを通じ合わせることができたような気がして嬉しくなりました。マイカさんについての印象は一致しているとは言えませんが、人が人をどう思うのかなんて人の数だけあるのですから問題はありません。それが当たり前なのです。


「まあ、いいわ。わたしもおもしろいものが撮れたし」

「え? なんか言いました?」

「別に、何も言ってないわよ。てか、さっさとユニフォームを着なさいよ」

「ああ、そうでしたっ」


 脱いでしまったユニフォームに再び袖を通します。

 不思議です。

 その姿はこじゃれないままなのに、違和感だけが消えていました。

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