第3話 イヤよイヤよもスキのうちとは限らない
「……いいわよ」
閉ざされた扉の奥からぶっきらぼうな声が聞こえてきます。ようやくお許しが出たようです。わたしは一つ深呼吸をしてから扉を開きました。
コンビニ『えびちゃんマート』で働くことになった初日の夕方。人生ではじめてのアルバイトをするために、事務所でユニフォームに着替えようとしたわたしがアクシデントに見舞われたのが三分前のことです。事務所の扉を開けると、そこにはピンク色の下着で大切なところを隠している女の子がいて、その子が中に入ろうとしたわたしを締め出したのでした。下着の女の子の気持ちは痛いほどわかります。いくら同性同士であろうと、見ず知らずの人に半裸を見られたいと望む人はいないでしょう。
あれ? 見ず知らず?
わたしの中にそのような疑問が生まれたのは半裸の女の子がわたしの名前を知っていたからです。どうしてでしょう。気になります。とはいえ、まずは先にやらなければならないことがあります。
「し、失礼します」
わずかな緊張を抱えながら部屋に入ると、ユニフォームに着替え終えた女の子がパイプ椅子に座っていました。彼女はわたしを睨み付けていました。故意ではないとはいえ、着替えを覗いてしまったのですから相手がわたしを怨むのも仕方がありません。誠心誠意、謝罪をします。
「申し訳ありませんでしたっ」
深々と――具体的には九十度ほど腰を折って頭を下げます。事務所に入る前は土下座をしようかと思っていたのですが、さすがにそれはやりすぎでしょう。相手の女の子が引いてしまう可能性があります。彼女はこれから同じお店のスタッフとして苦楽を共にするパートナー。初日から変な子だという印象を与えたくはありません。あの子と一緒にシフトに入りたくはない。そんなことを店長であるマイカさんに相談されてしまったら、わたしは哀しくて腹を切りたくなってしまうでしょう。
頭を下げていたわたしは女の子の口から出る言葉を待っていました。
許す、あるいは、許さない。
どちらの答えが出ても混乱しないようこころの準備を行います。
備えても憂いはあるかもしれませんが、何もしないよりはマシでしょう。
そんなわたしに下着の女の子は口を開きます。
「何のこと? 意味がわからないんだけど」
わたしはポカンとしてしまいました。下着の女の子が予想外の返答をしたからです。意味がわからないのはわたしの方でした。さすがにこの答の準備はしていません。頭が混乱してしまいます。
「え、えっと……」
言葉を探すわたしに、女の子は言います。
「どうして謝っているわけ? 何か悪いことでもしたの?」
どうやら女の子は自分が数分前にどんな目に遭ったのかを覚えていないようでした。これはアレです。俗にいう記憶喪失というやつです。よほど着替えを覗かれたのがショックだったのでしょう。人間が持つ防衛本能は生きて行く上で障害になる辛い経験を忘れさせることがあると聞いたことがあります。その機能が発動してしまったのかもしれません。
どうしようか。わたしは悩みました。このまま着替えを覗いてしまうというアクシデントをなかったことにするべきかどうかを。もしもあのアクシデントがなかったことになれば、わたしは女の子との関係をマイナスからスタートさせなくてもいいかもしれない。頭上で悪魔が微笑みかけます。
「何もなかったわよね? ね?」
女の子は言います。
「何もなかったって言ってよ。ねえ」
まるでわたしの頭上にいる悪魔に操られているかのように。
すべてなかったことにしちゃえよ、と。
都合の悪いことは忘れちまえよ、と。
そんな女の子にわたしは言います。声を大にして。
「何もなかったわけがありませんよっ。あなたはわたしに下着姿を見られてしまったんですからっ」
わたしは己が犯した過ちをなかったことになんてできませんでした。過ちは認めなければなりません。そして繰り返さぬよう努力をするべきなのです。
「フロントの中央に赤いリボンが付いているピンクのブラジャーとピンクのショーツ。わたしはそれを一生涯、忘れることができませんっ」
そう叫び、再び謝罪をしようとしたわたしでしたが、その行為が実行されることはありませんでした。
「忘れろおおおおっ」
パイプ椅子に座っていた女の子がいきなりわたしの元へ飛び出してきたのです。体感的には音速の速さです。握りしめた両こぶしでわたしの頭を殴り続けます。痛いほどに。いや、リアルに痛いです。わたしは両手で自分の頭をガードしながら言います。
「ちょ、ちょっとっ。やめてくださいっ」
「忘れろっ。忘れたかっ」
「昔のゲームじゃないんですから、衝撃を与えただけで記憶が消えるわけないじゃないですかっ」
「いいから、忘れろっ。忘れたって、言えっ」
「無理ですっ。わたしはこの罪を一生背負って生きて行かなればならないんですっ。楽な道は選びませんっ」
「いいよ、背負わなくてっ」
「ダメですっ。この罪を忘れてしまったら、被害者の方がかわいそうじゃないですかっ。被害者が望む限り、わたしは罪を背負って生きて行かなければならないんですっ」
「だから、忘れないことを被害者が望んでないのっ。忘れろって、言ってるのっ」
女の子のその言葉を聞いた瞬間、わたしの身体に不思議な力が溢れてきました。わたしの頭に振り下ろされる女の子の両手首をわたしの両手でがっちりと掴みます。
「よかったっ。記憶が戻ったんですねっ」
わたしは嬉しかったのです。辛い体験を防衛本能で忘れてしまった女の子。そんな彼女が記憶を取り戻し、着替えを覗かれた被害者であることを実感し、それにもかかわらずこんなにも元気な姿になっているということは、彼女が忘れてしまいたいほどのトラウマを乗り越えたということなのですから。なぜ、どのタイミングで、記憶が戻ったのかはわかりません。でも、そんな過程はどうでもいいのです。
わたしは女の子の両手首から手を離し、そのまま離した手を彼女の背中に回します。
「よかったですっ。本当にっ」
「よくないっ。てか、記憶なんて元々、失ってないしっ。察しろっ」
女の子は何やら大声でわめいていましたが、わたしにはその言葉がまったく頭の中に入ってきませんでした。それほどわたしは嬉しさで興奮していたのです。
「あらあら。もう、仲良くなったのね。嬉しいわ」
事務所に入ってきたのはマイカさんでした。マイカさんは仲良し姉妹を見る母親のように微笑んでいます。
「はい。仲良くなりましたっ」
わたしの言葉に、女の子がするどく反応します。
「なってないっ」
よほど恥ずかしいのでしょうか。女の子の顔は真っ赤でした。女の子はマイカさんに言います。
「店長、わざとやりましたねっ」
「なんのことかしら?」
「わたしが事務所で着替えてるのをわかっていたじゃないですかっ。それなのにアスミを事務所に入れるなんてっ」
「記憶にございません」
「そんな政治家みたいな言い訳が通用するとでも思っているんですかっ」
「そんなこと言われても、実際に忘れていただけなんだし」
納得がいかない様子の女の子にわたしは言います。
「仕方ありませんよ。どんなに頭のいい人だって忘れることはありますから。あなただってしばらく記憶をなくしていたじゃないですか」
「だから忘れてないっ。忘れたフリをしていただけっ」
「え? どうして?」
「察しろっ」
そう叫んだ女の子は、勢いに任せてわたしの腕の中から脱出します。はあはあ、と切らした息を整えてからわたしをつり上がった瞳で見据えました。
「だいたい、あんただって店長に遊ばれたのよっ」
「どういうことですか?」
「あんた、店に入って来るとき、自動ドアにぶつかったでしょ」
「はい。自動ドアの開閉スイッチがオフになっていたみたいで」
「その自動ドアの開閉スイッチをオフにしたのは店長よっ」
「え? 店長がわざとわたしが自動ドアとぶつかるように仕組んだって言うんですか?」
「そうよっ」
「またまた。そんなわけないじゃないですか。たしかにスイッチを切ったのは店長かもしれませんが、それはわざとじゃなくてミスですよ。ちょっと肩がスイッチにぶつかっちゃっただけ、みたいな感じです。ミスは誰にでもあります」
「じゃあ、あんたがわたしの着替え中に事務所の扉を開けたのは、わたしが着替えていることを伝えなかった店長のミスだって言うの?」
「ミスっていうか、忘れていただけですよ。さっき、店長が言っていたじゃないですか」
「だから、忘れるわけないでしょっ」
「誰だって忘れることはありますよ。あなただって――」
「だから忘れてないっ。忘れたフリをしていただけっ」
「え? どうして?」
「察しろっ」
うう。どうも女の子との会話がかみ合いません。きっと、初対面だからでしょう。仕方がありませんね。
「まあまあ、落ち着いて、キリ。そんな状態じゃ、お願いもできないわ」
マイカさんがわたしの肩を叩いてそう言います。なぜ、わたしの肩なんでしょうか。よくわかりません。それよりも、どうやら女の子の名前はキリちゃんというらしいです。記憶にありません。故に、どうしてキリちゃんがわたしの名前を知っていたのかが謎です。
「お願いって、何ですか?」
時間のせいか精神力のせいかわかりませんが、とにかく落ち着きを見せたキリちゃんにマイカさんは言いました。
「キリ。あなたに、この子、アスミちゃんの教育係をやって欲しいのだけれど。同い年だし、ちょうどいいじゃない」
「嫌です」
即答でした。少し傷つきます。同い年だった、ということは嬉しいのですが。
「キリ。勘違いしないで欲しいの。これは店長命令よ」
「さっき、お願いって言ったじゃないですか」
「そうだっけ? 忘れちゃったわ」
「うう……」
悔しそうに顔を歪めるキリちゃん。小さいとはいえ、ここも立派な会社です。雇用主の命令は絶対なのです。故に、
「……わかりました」
雇われ店員であるキリちゃんはイエス以外の選択はできないのでした。
「ありがとうございますっ。これからよろしくお願いしますっ」
わたしはキリちゃんに感謝の気持ちを込めて頭を下げました。無理矢理だろうが何だろうが、わたしの教育を引き受けてくれたことが嬉しかったのです。
「べ、別にあなたのためじゃないわよ。仕事だし」
「あ、それ、知ってます。ツンデレってやつですね」
「違うっ」
とにもかくにも、わたしに学校以外ではじめての先輩ができました。これから一緒に頑張っていけたらと思います。
「あ、そう言えば」
わたしはきっちりと姿勢を正して言います。
「はじめまして。アスミです。今日からこの『えびちゃんマート』で働かせてもらいます。ふつつかものですが、よろしくお願いします」
「キリよ。……よろしく」
わたしを見ずにぶっきらぼうに言うキリちゃん。その姿はまさにツンデレでした。そんな彼女にわたしは言います。
「あ、あの……ちょっと言いにくいんですけど」
「何よ?」
「チャック……空いてますよ」
「え……っ」
顔を紅潮させ、慌ててチノパンのチャックを閉じるキリちゃん。その姿を見て、わたしはいい先輩に出逢えたのだと確信したのでした。
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