第2話 扉には意味がある
わたしにとって悲劇のようなアクシデント――コンビニエンスストア『えびちゃんマート』で店舗の備品である発注機を壊してしまう――が起こり、喜劇のような契約――壊れたと勘違いしていた発注機の賠償額であるお父さんのお給料一ヶ月分を稼ぐためにお店のスタッフになる――が結ばれた次の日の放課後、わたしは店長であるマイカさんの指示に従って『えびちゃんマート』までやってきました。
店舗の前で立ち止まったわたしは、店全体を見回します。客観的に見ればその出で立ちは今までとまったく同じもののはずなのに、主観的な映像はまるで違います。これがお客様目線とスタッフ目線の違いなのでしょうか。世界が変わるのではない。自分が変わるんだ。そんな台詞を映画か小説で目にしたことがありますが、まさにその通りでした。
よし、がんばろう!
こころの中でそう叫び、頬を両手でぱちんと叩いて気合を入れたわたしは、店舗の中へ足を踏み入れるために歩を進めます。
仕事を始めるにあたり、お父さんとお母さんの説得は予想通り簡単にできました。
コンビニでアルバイトをしてもいい?
オッケー。
こんな感じです。
基本的に二人とも子供の自主性を重んじる教育方針なので、非人道的なことや反社会的なことを行おうとしない限り娘の意向に反対はしないのです。お姉ちゃんにはまだ説得どころか話しすらしていません。反対を恐れて、あるいは一緒にお風呂に入るのが嫌で、という理由で説得を猶予しているわけではありません。お姉ちゃんは今、日本にいないのです。故に、話すことができないのでした。仕方がありません。アルバイトを始めることは事後報告になってしまいますが、日本に帰ってきた時に話すしかないようです。
コンビニ『えびちゃんマート』の自動ドアが近づいてます。緊張が高まり、鼓動が激しくなってきました。この先にはどのような世界が待っているのだろう。ワクワクがとまりません。
そんなわたしにふいに訪れた現実。それは、
ごんっ!
予想外の衝撃でした。まずはじめに感じたのは驚きでした。やがて、痛みが襲ってきます。辛い食べ物を食べたとき、それを口に入れた直後はまったく辛くないのに、時間が経つと急に辛さが襲ってくることがありますが、わたしが受けた衝撃はまさにそのような感じだったのです。
解説しましょう。店舗内へ足を踏み入れようとしたわたしのおでこは本来あるはずのない壁にぶち当たってしまったのです。痛い思いをするかもしれないという覚悟を持たずにその壁とぶつかってしまったわたしは、通常の三倍以上のダメージを受けてしまったのではないでしょうか。麻酔を打つから痛くないと言われて安心していた虫歯の治療がものすごく痛かった時のような感じです。それとも怖くないと思っていた映画や小説が想定外の恐ろしさをもたらしてきた時のような感じでしょうか。まあ、その答えはどちらでもいいです。とにかくわたしが主張したかったことは、哀しい時や嬉しい時以外にも涙は出るのだな、ということなのです。
う、ううう。
そう唸りながら諸悪の根源を睨み付けます。
わたしの行く手を遮ったもの。それは文明の利器である透明の扉――自動ドアでした。本来、自動であるはずの扉が自動で開かなかったのです。自動詐欺です。誇大広告です。自動と名乗ることを今すぐやめて、手動からやりなおすべきだとわたしはドアに向かって説教をしてやりたい気分でした。説教。それはつまり釈迦の教え。釈迦は言いました。生きることは苦行だと。あれ、それって今のわたしの状態なのでは……。まさか説教をしたのは自動ドア……。わたしは考えるのをやめました。
わたしが負傷したおでこを抑えながら身もだえてから数秒後、自動ドアが何食わぬ顔で開きはじめました。今さら開いても遅いのですよ。そう、こころの中で文句を垂れます。でも、それは何の意味もありません。わたしのこころが清々しくなることもなければ、おでこの痛みが治まることもありませんでした。
ままならない気持ちを抱えつつ、わたしは店内に足を踏み入れました。そんなわたしに向かって駆け寄ってきたのは店長のマイカさんでした。昨日と変わらぬ女神さまのような笑み。後光さえ見えてしまう神々しい出で立ち。わたしは思わず両手をマイカさんへ伸ばしてしまいます。
「大丈夫? アスミちゃん」
「て、てんちょう……」
マイカさんは傷ついたわたしを優しく抱きしめてくれました。マイカさんの身長は一七〇センチくらいと大変大きいので、一五〇センチのわたしの身体は抱き枕のようにすっかり覆われてしまいます。マイカさんの腕の中は心地の良い場所でした。わたしが社会の荒波にもまれて疲れ切ったとき、帰る場所は家ではなく、マイカさんの腕の中なのではないかと本気で思ってしまうほどです。人間版カナンの地です。いい匂いがします。甘い匂いです。香水ではないと思います。おそらくお菓子、あるいはフレーバーの類だと想像できました。嗅覚と食欲が密接に関係している証拠なのかどうかわかりませんが、甘いにおいをかいだ途端、急にお腹が減ってきました。この時のわたしがもしも寝ぼけていたとしたら、マイカさんが着ている店のユニフォームにかぶりついていたかもしれません。
「てんちょう。ドアが……ドアが……」
「うん。わかっているわ。ちゃんと見てたから。録画だってしてあるし」
「痛い、痛いんです」
「よし、よし。痛いの痛いの飛んでけー」
わたしのおでこをさするマイカさんの指先から不思議な力が流れ込んでくる気がします。その不思議な力はみるみるうちにわたしの身体から痛みを取り除いていきました。さすが女神さまです。だてに神を名乗ってはいません。痛みがなくなったせいでしょうか。わたしのメンタルが平静を取り戻します。マイカさんの身体から離れ、最後の涙を拭ったわたしは言います。
「店長、どうしてドアがわたしの行方を遮ったんですか? 自動のくせに自動じゃないんですよ、あの子。店長の権限で自動の名前を返上させてくださいっ」
わたしの訴えに、マイカさんは申し訳なさそうに首を振ります。
「ごめんね。時々、あんなふうになるのよ。壊れているから」
「え、直さないんですか? 危ないですよ。お客さんが怪我をしちゃったらクレームが来ちゃうんじゃないんですか?」
「そうなんだけどね、簡単には直せないのよ。普通の故障だったら業者さんを呼べばいいんだけど、うちの場合はそういうのじゃないから」
「え?」
どういうことでしょう、と首を傾げるわたしにマイカさんは言います。
「実はね、壊れているのは自動ドアじゃないの。それを扱う人間なのよ」
「に、人間?」
「道具に罪はないわ。いつだって罪を背負うのは道具を扱う人間。ほら、あそこを見て」
そう言ったマイカさんはレジカウンターの方を指さしました。
「あそこに自動ドアのスイッチがあるの。オンにしていれば自動ドアが自動で開閉するんだけど、オフにしていると自動で開閉しなくなっちゃうから手動ドアになっちゃうのよ。さっき、アスミちゃんが店に入ろうしたとき、スイッチがオフになっちゃってたみたいね。さっき、わたしが慌ててオンにしたの」
「それって、誰かがスイッチをオフにしていたってことですか?」
「ええ、そうね。残念ながら」
「なるほど。だったらよかったです」
「え? どうして?」
「だって、自動ドアが壊れていたわけじゃなかったんですから。壊れていたら修理費とかがかかって大変ですよ。決して安い金額ではないと思いますし。スイッチの問題だったら、誰かが間違えてオフにしてしまっただけでしょうし、仕方がありませんよ。神様だってミスをするんですから、人間がミスをするのは当然です」
事の真相を知り、自動ドアへの怒りが霧散したわたしにマイカさんは訊ねます。
「誰かが故意にスイッチを切ったとは考えないの? アスミちゃんが罠に引っかかる姿を監視カメラで録画して、その映像を動画サイトにアップして一稼ぎしたいと考えていた人間が目の前にいるとは思わないの?」
「そんなことあるわけないじゃないですか。考えすぎですよ」
ははは、と声を出して笑うわたし。
そんなわたしにマイカさんは言います。
「やっぱり正解だったわ。アスミちゃんを採用して」
「そうですか? まだ、何のお役にも立っていませんけど」
「そんなことないわ。十分、役に立ってくれているわよ」
にこりと微笑んだマイカさんは、よしよし、とわたしの頭を撫でてくれます。どうして褒められているのかわたしにはよくわかりませんが、頭を撫でられるのは気持ちがいいので難しいことは考えられません。
「それじゃ、アスミちゃん。事務所で制服にきがえましょうか」
わたしの頭から手を離したマイカさんがそう言いました。当たり前です。わたしはこのお店に遊びに来たのではありません。お買い物をしに来たわけでもありません。お仕事をしに来たのですから。
「わかりました。じゃあ、着替えてきますね」
「制服は事務所のデスクの上に置いてあるからそれを使ってね」
「はいっ」
レジカウンターの奥。そこにはオフィスと書かれた扉があります。昨日、わたしがマイカさんに引きずり込まれ、契約書にサインをさせられた場所です。
罪の意識を抱いていた昨日とは違い、緊張と期待を胸に秘めながらレジカウンターの中に入り、その奥にあるオフィスの扉を目指します。普通のお客さんには立ち入ることが許されないレジカウンターの中。そこに堂々と入り込めることに、『えびちゃんマート』の一員になったのだという実感がわいてきます。
失礼します。
そう呟き、オフィスの扉を開けます。すると、
「え……」
という小さな声がわたしの耳に入ってきた後、
「きゃああああああっ」
悲鳴が鳴り響きます。その悲鳴はわたしの身体を吹き飛ばすほどの勢いでした。
「きゃああああああっ」
わたしも悲鳴を上げてしまいます。パブロフの犬です。
事務所の扉を開けたわたしの目に入ってきたもの、それはフロントの中央に赤いリボンのついたピンクのブラジャーでした。視線を下降させると同じようにフロントの中央に赤いリボンのついたピンクのショーツが見えます。太ももの中央部分までを覆っているソックスはブラック。片方の足はベージュのチノパンに吸い込まれていました。もちろんそれらを身に纏っているのは女の子です。
「あわわわ、あわわわ」
そう声にならない声を漏らしながら、艶のある綺麗な栗色の髪を揺らしているその子には見覚えがありました。この店の夕勤で働いている女の子です。何度か見たことがあります。
「アア、アスミっ! なんで、あんたがここにいるのよっ!」
「え、えっと。今日からここで働くことになりまして。よ、よろしく――」
「挨拶なんていいから、早く閉めてっ」
「閉めるって、何をですか? 首?」
「首なわけないでしょっ。扉よ、扉っ」
「あ、ああ、そうですね。死にたくなるほど恥ずかしいのかと思いました」
失礼しました、と言ってわたしは扉を閉めます。でも、またすぐに扉を開きます。
「あ、あの――」
「だから、閉めろってのっ」
「あああ、すみませんっ」
言われた通り扉を閉めます。扉の奥から、わたしがいいって言うまで絶対に扉を開けないでよね、という叫び声が聞こえてきたような気がしましたが、わたしの好奇心が再び扉を開かせます。
「え、えっと―—」
「閉めろおおおおおっ」
今度はわたしが扉を閉める前に、彼女が体当たりをして扉を強引に閉めてしまいました。ここでようやくわたしは気がつきます。人が着替えている時に扉を開けてはいけないのだと。
ところで、あの子はなぜわたしの名前を知っていたのでしょうか。
謎です。
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