なってしまいました。コンビニ店員に。
未知比呂
第1話 採用させられました
たた、大変ですっ!
どれくらい大変かというと、図書館で借りようと思っていた本、あるいはレンタル屋さんで観たいと思っていた映画が、貸し出し中だった時のように大変なことが起こってしまいました。
わたしの目の前には丸やら三角やら四角やらの形をしたふんわりとした立体的な食べもの、俗にいうパンが並べられています。その中に、目当てのもの――メロンパンがなかったのです。もう一度言います。メロンパンがなかったのです!
がっかりです。お弁当やお菓子やお茶などの食品や飲料、それ以外にもティッシュやケータイの充電器や雑誌などの各種日用品まで取り揃えているこの店に、なぜかメロンパンがないなんて。運が悪いとしか思えません。厄日ですか、今日は。
雨に濡れた案山子みたいに売り場の前で立ちすくむわたしは、おうちに帰って温泉の素を入れた三十九度のお風呂にゆっくりと身を沈めた後、去年お父さんに買ってもらったリクライ二ングチェアに身体をうずめてオレンジジュースとチョコレートをお供にアクション映画を観たい気分でした。筋骨隆々の正義の味方が大勢の悪を殴っては蹴り、殴られては蹴り返す。その応酬をこの目に取り込む。わたしの地中深くまでぐっと下がってしまったテンションが成層圏までばっと上昇するにはそれしか方法がないように思われました。だけど、それはできません。はかない夢です。夢を阻むのはいつだって現実です。わたしは今、現実という壁に跳ね返されそうになっているのでした。
負けたくない。でも……。
わたしの前に立ちはだかる現実という壁。それはヨーロッパでは今から二千三百年くらい前からあったと言われているシステム――学校でした。現在通っている高校に入学してから一年と一ヶ月。今まで雨にも負けず風にも負けず、雪にも嵐にもウイルスや細菌にも負けることなく皆勤賞を記録しているわたしの辞書に欠席、あるいは遅刻、という文字は載ってはいないのです。まじめか、とツッコミを入れたい人もいるでしょう。そんな方にわたしは言いたい。まじめで何が悪い、と。小学生の頃、わたしは身体が弱くて学校を休みがちでした。当然、欠席すると友達に会えません。その寂しさ哀しさを血液と一緒に身体の中で循環させながら成長してきたわたしは、普通に学校へ通うということを大切なことだと思っているのです。
現在の時刻は午前八時。学校までは自転車で十五分。とてもお風呂に入ってから映画を観る余裕はありません。お手洗いすら怪しい状況です。わかっています。わかっているのですが……。
わたしは地元のコンビニにいました。その名も『えびちゃんマート』。数年前にわたしのうちの近所にオープンしたフランチャイズのお店です。全国に何店舗くらい存在しているのでしょうか。よくわかりませんが、この辺ではよく見かけるし、テレビをつければたまにコマーシャルも流れているので、わりと大手のコンビニなのでしょう。わたしの勘では業界三位くらい。店長さんは女性。その他のスタッフさんもみんな女性。お客さんもみんな女性。まさか男子禁制というわけでもあるまいし、なぜその店には女性ばかりが吸い込まれてしまうのか。それは神のみぞ知るという感じです。
メロンパンがない。それは数時間後に訪れるお昼休みの時間がわたしの身体の一部分のように貧相なものになってしまうことを意味していました。わたしはメロンパンが好きなわけではありません。でも、今朝の情報番組で特集されていたメロンパンを脳にインプットしてしまったせいで、頭の中がメロンパン一色になってしまっているのです。メロンパン以外、考えられない頭になっていました。口を開いたらきっとメロンパンと言ってしまうでしょう。まるで頭の中にある脳味噌の席がメロンパンに奪われてしまったかのようです。満たされないこの気持ちに折り合いをつけること。もしかしたら、それが大人になるということなのかもしれません。
仕方がない。他の店に行こう。遅刻ぎりぎりになっちゃうかもしれないけど、いつもより力いっぱいペダルを漕げばなんとなるだろう。考え抜いたわたしはプランBへと作戦を切り替えることを決断します。満たされない気持ちに折り合いをつけることよりも、あがくことを選んだのです。もちろんプランBが生まれたのはたった今です。背水の陣という状況が思考の速度を加速させたのでした。今は昔と違って、人生五十年、というほど短いわけではありませんが、たった一度のものであることに変わりありません。そのたった一度の人生の中で立てた目的を簡単に諦めるわけにはいかないのです。諦めないこころ。それが勝利を呼ぶ。わたしはアクション映画と小説でそれを学びました。
事件が起きたのは――そんなわたしがパン売り場から移動を開始した直後のことでした。
どんっ。
出口へ向おうとしたわたしは背後にいた店員さんとぶつかってしまったのです。
「す、すみましぇんっ」
焦ったわたしは思わず噛んでしまいました。メロンパンという言葉が出なかっただけマシだったかもしれません。
「こちらこそ申し訳ありませんでした。お怪我はありませんか?」
わたしがぶつかってしまったのはお仕事中の店長さんでした。わたしは一日一回はこの店に立ち寄る常連なので店長さんの顔を覚えているのです。もしかしたら店長さんもわたしの顔を覚えているかもしれません。いつもカウンターで売られているチキンに羨望の眼差しを送るだけで決して注文はしない女の子だと認識されている可能性すらあります。それを考えるとちょっと恥ずかしいです。
噛んでしまったわたしを馬鹿にすることはせず、店長さんは真摯な対応をしてくださいました。よかった、いい人そうで。怒られる懸念も少しだけあったので安心しました。背はモデルさんみたいにシュッと高くて、顔も女優さんみたいに整っている店長さんは、まるで子供と会話をする遊園地のスタッフさんのようにわたしに笑みをくれたのです。そんな店長さんが、
「あ」
と、少し間の抜けたような声を出したのは突然でした。わたしはそんな店長さんに問いかけます。
「ど、どうかしましたか?」
「壊れちゃった。発注機」
「え? 殺虫機?」
「虫を殺す機械じゃないわよ。発注機。さっき、あなたとぶつかったじゃない。それが原因で壊れちゃったみたいなの」
店長さんは相変わらず優しい笑みを浮かべていました。でも、笑っている場合じゃない気がします。だって、機械が壊れちゃったんですから。発注機というくらいなのだから、商品を発注をする機械なのでしょう。発注機が壊れたままだと、メロンパンどころかアンパンやカレーパンまで店に並ばなくなってしまう可能性があります。一大事じゃないですか。
「す、すみません。ど、どうしましょう。直りそうですか?」
わたしの言葉に、店員さんは首を振ります。
「ダメみたい。ただの屍ね、これじゃ」
店長さんはわたしに発注機の画面を見せてきました。画面は電源を落としたケータイのように真っ黒です。店長さんが機械の右上にある電源ボタンを何度も押します。反応はありませんでした。
「え、えっと。わたしのせい……ですよね」
「そうね。残念だけど」
あっさりと認められてしまいました。確認するまでもなくわたしが悪いのですから仕方がありません。
「あの、参考までに訊きたいんですけど、その機械はおいくらでしょうか?」
わたしの問いに、店長さんは少し言いにくそうに口を開きます。
「訊きたい?」
「はい」
「とても残酷なことを話さなくちゃいけないけど、耐えられる覚悟はある?」
「か、覚悟ですか? わ、わかりました今します。ちょっと、待っててくださ――」
「ズバリ、あなたのお父さんのお給料一ヶ月分くらいかしら」
「早すぎですっ。ま、まだ覚悟が決め切れていませんよっ。てか、お父さんのお給料一ヶ月分っ。ちょ、ええっ。本当ですかっ」
「そうよ」
「あああっ。すみませんっ」
わたしは何度も何度も頭を下げました。下げすぎて頭がくらくらしてきます。
お父さんのお給料一ヶ月分。それってもの凄い額です。高校生のわたしが一日、お皿洗いをする程度ではどうにもなりません。
わたしは謝罪を続けました。お父さんのお給料一ヶ月分のお金がお財布に入っていない以上、今のわたしには謝ることしかできないのです。
「顔を上げて」
そんな優しい言葉をかけられてもわたしは顔を上げませんでした。
「何でもしますっ。わたしにできることなら何でもっ」
「そんな。悪いわよ。わざとじゃないんだし」
「いいんです。何でもしますっ。させてくださいっ」
「でも……」
「いいんですっ。お気になさらないでくださいっ」
「そう……わかったわ。じゃあ、ちょっと腹を切ってくれるかしら?」
「わ、わかりま――せんっ」
危なかったです。つい了承してしまうところでした。腹を切ったら死んでしまいますよ。
「できれば、痛くないやつでお願いしますっ。命もなくならない方向のやつでっ」
「うーん、わがままね」
「す、すみませんっ」
「いいわ。じゃあ、こうしましょう」
頭を下げているわたしの肩に何かが触れました。店長さんの細い指先です。わたしはゆっくりと顔を上げました。店長さんはにこりと微笑んでいます。わたしの正体は女神です。そう告げられたとしたら間違いなく信じてしまうような笑みでした。目が合ったら最後、一瞬で信者の仲間入りです。
「何をすればいいでしょうか?」
恐る恐るわたしが訊くと、店長さんは黒くてたっぷりと潤いのある大きな瞳でじっくりとわたしを撫でるように見てからこう言いました。
「身体で払ってもらうかしら」
「えええっ」
「大丈夫。命はなくならいないし、痛くもないと思うから。たぶん」
「たぶんってっ」
大変です。これはメロンパンがないどころの騒ぎではありません。わたしの身体を差し出さなければならないのですから。人身売買なんて遠い異国のことだと思っていましたが、まさかおうちから徒歩十分圏内の場所でそれが行われているなんて。店長さんの副業。恐るべし。
「何でもやってくれるんでしょ?」
店長さんの笑顔がものすごく怖いです。美しいままなのに怖い。
「じゃあ、ちょっとこっちに来て」
「ど、どうしても……ですか?」
「ええ。どうしても」
「ま、まだこころの準備が……」
「そんなものに意味はないわ。さあ、行きましょ」
そう言った店長さんはわたしの手を掴み、事務所へと引きずり込んでいきます。抵抗しましたが、無理でした。この店長さん、綱引きの世界チャンピオンチームに所属しているのではないかと思ってしまうほど引く力が強かったのです。店長さんは事務所に拉致してきたわたしをパイプ椅子に座らせ、デスクに一枚の紙を広げます。
「さあ、サインして」
相変わらず笑みを浮かべたままの店長さんに、わたしは震える声で言います。もちろんデスクに広げられた紙の中身を読む勇気はありません。
「あ、あの。わたし、こういうのははじめてで」
「大丈夫。未経験者大歓迎だから」
「で、でも」
「安心して。基礎からしっかりと教えてあげるから、ね」
ね、とかウインクされても困ります。
「そ、そういう問題じゃないと……」
「一ヶ月分」
「え?」
「お父さんのお給料一ヶ月分」
この店長さん、ものすごく痛いところをついてきます。隠したい過去を知っている幼馴染のようです。
仕方ない。わたしは覚悟を決めました。奥歯にぐっと力を入れます。結局、お父さんのお給料一ヶ月分なんてわたしに払えるわけがないのです。だとしたら店長さんの言うようにこの身体で払うしかないのでしょう。人間、自分が犯した罪の責任は取らなければなりません。今の時代に免罪符はないのです。まあ、免罪符があったとしてもわたしのお小遣いでは買えないのでしょうが。
これからわたしの身体がどうなってしまうのかわかりません。いろんなものを奪われてしまうのでしょう。大切なものもそうでないものも。でも、わたしは誓います。こころまでは奪わせないと。
わたしは書類にサインをしました。してしまいました。そしてサインをしてしまったあとに、家族にはどう説明しようかと悩みました。身体を売るなんて正直に言えるはずがありません。しばらくは内緒にしておくしかないようです。こころが痛みます。
「あの」わたしは言います。「きちんと家には帰してもらえるんでしょうか。出稼ぎ系だと困るんですけど」
「大丈夫よ。決められたシフトの時間だけ働いてくれればいいから」
不幸中の幸いというやつにわたしは安堵します。もしもおうちに帰れない状況になってしまったら親不孝を隠すことは、ベストセラー小説を生み出すよりも難しいでしょう。
時間と共に冷静さが生まれてきたのでしょうか。わたしの目にデスクに広げられた紙に印字された文字が入ってきます。
雇用契約書。
なるほど。わたしは店長さんに斡旋されて顧客の元へ向うのですね。
不安な気持ちを思いっきり出しながらわたしは言います。
「あの……わたしなんかでお役に立てるでしょうか。料理も洗濯も掃除も得意ではないんですけど。美人ではありませんし、体型だって貧相ですし」
「大丈夫よ。需要はあるわ。ここにはいろいろな人が来るんだから」
「え、大勢の人を相手にしなくちゃいけないんですかっ」
「当たり前じゃない」
「うう……、そうですよね。一人の人を相手にしたくらいじゃお父さんのお給料一ヶ月分を稼ぐことはできませんよね」
「多い時は、一日で千人くらいは相手してもらうわよ」
「せ、千人っ」
「驚くことはないわ。普通よ、普通。それくらい相手にしなきゃこの業界では生き残っていけないんだから」
何と言う事でしょう。闇が深すぎます。
「ハンコは持ってる?」
わたしは首を振ります。学校へ行くだけなのでハンコなんて持っていません。
「じゃあ、今度でいいわ」
「わかりました」
わたしがサインをした契約書を眺め、店長さんは数回うなずき、わたしに視線を向けてきます。
「アスミちゃん。高校二年生。スリーサイズは上から八十――」
「うわあああっ。なんで知って――って、そんなサイズ的なものは書いてないですよねっ」
「冗談よ、冗談。なんかちょっと元気がないみたいだから」
「うう」
「わたしは店長のマイカよ。これからよろしくね、アスミちゃん」
「……は、はい」
これから訪れるであろう暗黒時代を憂いて涙を流しそうになっているわたし。お父さん、お母さん、お姉ちゃん。ごめんなさい。親不孝な娘は秘密の二重生活を送ることになりそうです。そんなことを考えていたわたしに店長さんは言います。
「よかったわ。こんなにかわいい子がお店のスタッフになってくれて」
「そ、そんな。かわいいだなんて……って、え?」
え、えっと……。聞き間違いでしょうか。リピートをお願いします、という視線を送ります。
「だから、こんなにかわいい子がこの店のスタッフになってくれて嬉しいって言ったのよ」
「え? この店のスタッフ?」
どゆこと、と口を半開きにしているわたしに店長さんは説明をしてくれます。
「アスミちゃんはこれからこの『えびちゃんマート』の一員になるの。お父さんのお給料一ヶ月分を稼ぐまでね」
「そ、そうだったんですかっ」
あまりにも大きな声を出してしまったせいで、店長さんは驚いた様子で訊いてきます。
「どうしたの?」
恥を承知でわたしは言います。
「てっきりどこかのお金持ちの家に奉公へ行くのかと思っていました」
「なにそれ。映画やドラマの見すぎよ。まあ、そっちがいいならそっち側でもいいんだけど」
「いやいやいやっ。大丈夫ですっ。こっち側がいいですっ」
店長さんは声を出して笑います。その声がなぜかわたしにほっとした気持ちを与えてくれました。今の店長さんの微笑みは女神のものに戻っています。
よかった。うん。よかった。
胸と目蓋の奥に熱いものがこみ上げてきます。これが安心の実感というやつなのでしょう。
これからコンビニで働く。人身売買よりはマシだとしてもやはり不安はあります。わたくしことアスミ十六歳。アルバイト経験はゼロなのですから。お父さんとお母さんは働くことを許してくれると思いますが、お姉ちゃんは反対しそうです。説得する材料をそろえなければなりません。一回くらい、一緒にお風呂に入ってあげれば大丈夫だと思いますが、お姉ちゃんに身体を売るのは気が乗りません。それでも頑張るしかありません。お父さんの給料一ヶ月分を稼ぐまでは。
こうしてわたしのアルバイト生活は唐突にはじまることになりました。
なってしまいました。コンビニ店員に。
実を言うと、アルバイトに少し憧れを抱いていたのでこころがウキウキしていたりします。
「あ、なおったわ。でも、契約しちゃったから、ね」
発注機を操作していた店長さんが両手をぱちんとさせてそう言ったのは五分後。
「ち、遅刻ですよっ」
わたしがそう叫んだのは十分後のことでした。
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