第2話 言葉のくず

「よう、傘も持たずに何やってんだ?」

 話しかけてきたのは学生時代の友人、陸人りくとだった。陸人は大学時代の友人で、住んでいるところも近く、休みともなればしょっちゅう遊びに行く仲だった。しかし今日はそんな予定は無い筈だった。陸人は、コンビニの茶色い袋を提げて、ちゃっかり菓子をつまみ食いしている。

「別に」

 僕が素っ気なく答えると、陸人は別段気にした風もなく、僕の傍に寄った。

「また女か?」

 ほれ、と手に持った棒状の菓子を押しつけてくるが、丁重に断っておく。

 頼子は僕の何かが気に入らなかったのだろうが、その発端となる「ことば」が見あたらない。何か喋ったはずなのに。僕の口から滑り出て、どこかへ飛んでいってしまったようだ。空を見上げると、曇天が重たく体を横たえていた。それはみっしりと空を覆い、まるで世界の蓋のようだ。僕の「ことば」は、あの天蓋にまで届いただろうか。僕も覚えていないくらいだからきっと、中途で消えてしまっているに違いないと思う。そう考えると言葉というものは形もないし、色もないし、それでいて他人が失望して走り去ってしまうくらいは強力な魔物なのだろう。不思議だが、僕にはもう、それに対する執着はなくなっていた。

「別に」

 二度めの「別に」を吐くと、陸人はため息をついた。いいよなあ、モテ男君は。そんな内容のことを語るが、僕は笑っていた。

 僕がそんな態度をとるので、陸人は濁りのない黒目で僕を覗いて、

「まだ引きずってんの?」

と訊いた。

 一瞬で意味を理解する。美桜みおのことだ。僕は、寒気が血管の隅から隅まで走って、ふると震えた。濡れた腕をさするが、薄い布越しからでもその冷たさが伝わる。

「ごめん」

 そういって、陸人は、コンビニまで戻って温かい缶コーヒーを買ってきてくれた。まだ熱し切れていない、生ぬるいそれを掌で転がすと、僕はまだ生きているのだと、そう思えた。


 陸人の部屋はきれいに整頓されていた。床は塵ひとつ落ちていないし、きっと陸人のことだから、休日となると、床を綺麗にワイパーで拭いているらしい。お好みのロックかなにかを、イヤフォンで聴いているのだ。コンポで再生すればいいのに、近所のことを気にして、イヤフォンで聴くあたり、結構、気にしいなのかなとふと脳裏をよぎった。それなら僕のあの雑な態度では傷ついたのだろうか。でもそれならもっと早くに僕から手を引くはずで、大学時代から未だに仲がいいのは、やっぱり、気にはするけど傷ついてはいないのだろうと予測する。

 瓶と缶がぶつかる音がして、冷蔵庫からぴかぴかした銀のパッケージの飲み物を、取り出した。くいと持ち上げて、飲む? と訊いてきた。

 どうせ帰りは電車だし、頼子は逃げてしまったし、いいかと思って僕は指で小さく「少し」と合図した。

 まだ明るい部屋に、缶ビールの息を吐く音がする。ようやく、僕が曇天まで呪いのように吐き出した言葉の塵くずみたいな雨が止んで、今度はうっすらと日差しが覗いた。

「それじゃ、乾杯」

「乾杯」

 何に乾杯だよ、と僕がつっこむと、陸人は、だらしなく笑った。それにつられて僕も笑った。

「デート中じゃなかったの?」

「デートなんてもんじゃないよ。愚痴聞き」

 そういうと、陸人は不満そうにテーブルに肘を突いて、「あっそ」と言ってビールを一口煽った。

「そういうのデートの一環って言わないか?」

「さあ」

 僕は万年こんな調子だった。美桜の一件があって以来すべてが投げやりで、どうでもよくて、適当だった。

「そんなんじゃさあ、おまえダメになるよ。新しい女見つけろよな」

「よけいなお世話だよ」

 よほど僕は、懲り懲りといった表情をしていたのか、陸人が一瞬、驚いた鶏みたいな目をしてこっちを見た。

「そんな顔するなよ。おれが紹介してやるから」

「いいよ、もう」

「良くないよ。おまえ、まだギリギリ二十代じゃん。まだこれからだぜ」

 そういって、ビール片手に、陸人はどこかに電話をし始めた。僕は、いやな予感が全身に満ち満ちてゆくのを感じて、陸人の電話を妨害しようとした。けれども時遅く、電話は相手につながってしまった。

 電話の向こうからは明らかに軽薄そうな、甲高い声。もしもしィ? リクトォ?

 頭の中でどんな妖怪がくるのかと、僕は怖くなった。陸人は呼び出す気だ。

「あっ、ミレイ? おひさー。あのさー、一人紹介したいヤツがいてさ」

「や、やめろよ」

「えーなにそれ、誰誰~?」

「ほら、俺の大学時代の友達がいるっていったじゃんーー」

 陸人が何かを喋っている。それは確かに日本語である筈なのに、何も頭に入ってこない。入ってくるのは細切れに、切り刻まれたただの音。

 それらはいびつな形をしていて、大きい欠片もあれば、小さいものもある。薄くて、元の形は分からない。止めようもない音。僕は、陸人を止めるのをやめて、窓の外に目を移した。

 夜を待つ、夕方の日差しは弱くて、それらは夜の為に輝いているように思えた。夜をより一番美しく見せるために、精一杯異質の輝きを放つ。やがてその光に疲れた生き物は夜に沈む。

 闇になりたくて闇のように振る舞うけれど、決してそれにはなれない僕は、夕陽の心許ない光をただずっと見つめているしか方法がなかった。



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凍る塵の雨 春葉つづり @erision

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