凍る塵の雨

春葉つづり

第1話 置き去りの忘れ物

 頼子が体を寄せてきた。雨に濡れないようにというのは、嘘も方便だと思う。頼子の岩を思わせる指が僕の腕に絡みついてきた。バーコードみたいに横長な爪には、薄桃色のネイルが塗られているが、ところどころが禿げている。

「それでね、同僚のコがね」

 と、淀みなく、バスタブに溜まってゆく水みたいに頼子は喋り続けている。僕はそれに相槌を打って答えている。正直何を話しているかは興味がないが、僕の受け答えは、男の中では真摯な態度のように見えるらしく、頼子は僕の放った「それは、休み過ぎだね。頼子ちゃんは、どう思っているの?」という、やや長めの答えに頼子は、「私はどう思っているとかないんだけど」と前置きをつけておいてから、今度は蛇口の勢いを増して喋り続けた。

 彼女が何をしゃべっても、過行く車のエンジン音が、頼子の声をかき消しても、僕はいっこうに構わなかった。僕の頭には何もない。空っぽなのだ。

 右肩がひどく濡れて衣服が皮膚に張り付いた。僕の体は傘の三分の一しか占めていない。傘の下の面積をほぼ頼子が占めている。

 一生懸命頼子は喋っている。このまま駅まで喋り続けるだろうか。それとも、僕の家まで上がり込んで、まだその呼吸ともいうべき話を止めないつもりかもしれなかった。

 雨粒が一粒、目に入った。

 車のテールライトが雨ににじんでぼんやりと、水彩絵の具を水に溶かしたみたいに広がっていった。茶色の混じった、冴えない赤色が瞼に焼き付いた。

 僕は、美桜みおのことを思い出した。ちょうど三年前の雨の日、彼女は赤い靴を履いていた。他にも思い出すべき部位はあるはずなのに、赤い靴だけ脳裏に残っている。

 呪いの言葉が口を突いて出そうになったのを、僕は思いとどまった。そうして、ばらばらになったガラス片をかき集めるみたいに理性を総動員させて、僕は喋った。

「どうしたの? 何があったの」

 美桜は、うつむいた。視線が泳いでいる。その様子にとまどいがにじみ出ていて僕はめまいがした。思いつく限りの罵声を浴びせる事が出来たら楽だろうか。僕の視線は、美桜ではなく、彼女の履いている靴にくぎ付けになった。これ以上美桜を直視することはできなかった。これは靴だ。靴が今喋ろうとしているのだ。

「何も、ないわ」

 幸い彼女の表情は見えなかった。長い髪がはらりと肩から滑り落ちた。視界を汚す黒い塊だった。僕はきれいな赤い靴だけ見て居たかった。美桜は邪魔だった。

「そう」

 と、風が吹いたら、飛んで消えそうな声で僕は言った。美桜が、目を見開いて上を向いた。美しい美桜を初めて恐ろしいと思った。

「どうして、どうしてなの? どうして自分の気持ちを言わないの? なに選んでるの? あの男は誰って言いなさいよ。浮気は駄目っていえばいいじゃない」

 美桜はひたすら延々と僕を罵り続けた。目だけが、狂気を孕んでいる。僕の愛した黒目がちな瞳は、赤く充血して、白目の部分が多い。髪がふり乱れて、額から顎にかけて毛束が落ちている。僕がかわいいと言った、口紅は彼女の口から発する言葉で汚れて、ふるびて何百年もたった朱色を思わせる色に変化したかのように思えた。僕の前で美桜は色あせた。それは、だいぶ前から理解っていた事実だったはずなのに、僕の理性は積み上げられたレンガみたいに規則正しく、行儀よく並んでいて、本心など、とおい壁の向こうにあるのだから、僕にはわかりっこないものだった。それを今更、おまえのものなのに、なぜ持ち出さないと言われて、僕はとまどいを通り越して、もはやただ、ほうける事しかできなかった。

 美桜が笑った。

髪と、髪の間から、色あせたと思った、とびきりきれいな朱色の唇が覗いた。

僕は逃げ出した。美桜は追いかけてきた。傘が地面に転がって、僕のジーンズを撥ねっかえりの雨が濡らす。不快感は、消しゴムで消したように徐々になくなっていって、ぱっと振りかえると美桜が追いかけてきていて、不快感は、上書きされた。

彼女はなにか僕を罵倒していたが、聞き取ることを拒否した。

 路地を曲がり、雨で全身びしょ濡れになりながら、雑居ビルとビルの間に体を滑り込ませた。卑猥な雑誌がたっぷり水を含んで転がっていたが、僕は気にすることもなく、そこに尻をつけた。

 足音がする。ぼくは耳を塞いだ。

 脳裏を追ってくるのは、あの赤い靴。

 ただひたすら、寒くて、怖くて、何もかもが醜いと思った。

「ねえ、聞いてる?」

 その声が美桜のものに聞こえて、僕は我に返った。視界に入った靴は、プロレスラーみたいな、ムートンブーツ。僕は安堵した。

「うん、聞いてるよ」

 頼子は何か僕の家に行きたそうにしている。彼女はそういう言葉もいくつか吐いたのだが、あまり記憶に残らない。ただ条件反射のように受け答えだけは出てくる。けれどもそれはあの赤い靴の恐怖からであり、僕の本心ではないように思えた。路地に転がっていた暗闇に身を寄せた時に、僕は闇を得た。ことばは空虚で、どんなに吟味しても相手に届くとは限らない。それを知った時に何もかもが、もう、投げやりになってしまっていて、僕はもうずっと、愛とか、ことばとか、そんなものを大事に選んだり、いとおしんだりすることを忘れることにした。

 頼子が家に行きたがっている。僕は、いいよと答えたつもりなのだが、頼子は怒ってどこかへ行ってしまった。体格の良い頼子が肩を怒らせて去ってゆくのを僕は黙って見ていた。

 雨が頬を打つ。傘は頼子が持って行ってしまった。

 僕が途方に暮れていると、背後から声がした。

 僕は音がしたことに体を震わせた。雨の寒さのせいだけじゃない。

 




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