第10話 天門霊送機関戦闘課第66班第8部隊

 騒がしい。

 状況は詳しくは分からないが、数人がその辺りを駆け回っているらしかった。

 

 目を開け、身体を起こす。が、背中に多少の痛みが走った。思わず呻き声が漏れる。

 そして気付いた。左のカーテンの隙間から差し込む太陽。陽は既に登り始めていた。時計を探し、今が朝の八時半だということが分かった。


「唐司さん…!」

 慌てて辺りを見渡す。どうやら此処は六人一部屋の病室の様だった。自分と同じ病衣を着ている人がちらほらと見受けられる。だが、唐司の姿は確認出来ない。

 だが、あのまま堕人の餌食になったとは考えにくい。そう、気を失う前に視界に現れた蒼髪の少女。見間違いで無ければ、彼女は確かに堕人の顔面を蹴り飛ばしていた。それ以降のことは全く分からないが、そしてただの直感でしか無いが、唐司は無事に保護され何処か別の病棟に運び込まれたのだろう。


「––––––…」

 

 心配だが、周りを見る限りこの状況では個人を特定するのは困難だろう。家族や親類ならば優先されるだろうが、全くの無関係である自分がとある女性のベッドの場所を聞くなど、スタッフ側はそんな時間は無いだろうし、逆に不審がられても不思議では無い。


「––––––ねぇ…」


 あの時、確かに脈も呼吸もあった。目立った出血も見られなかった。無事だと信じるしか無い。今自分に出来ることはそれくらいの様に思えた。


「聞いてるの⁉︎」

 突然近くで声がした。

 見上げると、女性が目の前に立ち此方の顔を覗き込んでいた。長い黒髪がわずかに頬に触れる。驚きを隠せず思わず後ずさった。


「もう。何よ、ぼうっとして」

 顔に少し笑みを浮かべながら話しかける女性。それは、今まさに探し求めていた唐司夏帆だった。


「と…唐司さん」

 まさかこんなに近くに居るとは思いもしなかった。ベッドで寝込んでいる姿を想像していたが、それは全くの取り越し苦労だったらしく、先程と変わらない白衣を身に纏い精力的に仕事に励んでいた。


「もう動いて大丈夫なんですか?怪我してたんじゃ––––––」

「いえ。この通りピンピンしてるわ。上司にはまだ休めって言われたんだけど、まぁこの状況じゃ一人寝てるのもねぇ」

 あっけらかんと答えた。堕人の襲来に巻き込まれたのは僅か四、五時間前。にも関わらず、それを物ともせず日常に復帰してるとは心底驚かされた。


「敵は…?」

 一つの心配が無くなり、だがまた別の心配が浮かび上がってきた。そして案の定、此方の問いかけに唐司は明らかに顔色を悪くした。

 左のカーテンをゆっくりとめくる。強い日差しが差し込み目を瞑る。だが普段と変わらない空模様とは裏腹に、人々の住む地上の光景は悲惨なものだった。



 少し陽に当たろう。––––––唐司のその一言で、大門に続く12番地に赴くこととなった。今日1日は歩かない方がいいと、唐司に車椅子を押してもらう。


 まるで大地震の後の風景だった。

 瓦礫が辺りに散乱し、建物はその殆どが半壊、全壊。未だに火の手が昇っている所もある。

 家の前で泣き崩れる母子、暗い面持ちでその後ろを歩く男性、泥だらけになりながらスコップで瓦礫を撤去する子ども。


「…唐司さんのご家族やご友人は無事なんですか?」

「…ええ。両親も妹2人も、みんな無事だってついさっき連絡があったわ。友達は分からないけど…、みんな無事だって信じてる」

 唐司は顔に僅かに笑みを浮かべながらそう言った。

「そうですか…」

 そこでふと、自分の身内のことが頭をよぎった。早く連絡を取らなければと。だが、再びすぐに思い直した。––––––自分には家族の記憶が無い。こうして人として生を受けた以上は誰かの息子として産まれたのだろうが、両親の顔と名前も、自分に果たして兄弟は居るのか、いつどこで産まれたのか、全く分からなかった。


 それどころか、自分には約4年前の1994年以前の記憶が一切無い。今思い出せる最初の記憶は約4年前、ここ天門霊送機関の隔離施設で目を覚ましたことだ。最初はパニックになった。自分が何者なのかさえハッキリと分からない状態で周りを白衣の研究者らしき人物達に囲まれ、その間には真っ白な壁と窓ガラスしか無かった。だだっ広い一室に監禁されること約1カ月、何が理由かは分からないが、ある日突然拘束を解かれた。後は言われるがままに年相応に高校に編入し、日常の生活を送ってきた。右も左も分からない自分だったが、そこに自分を受け容れてくれる温かい同級生が居たことは何よりも心の支えになった。

 彼––––––梁村楽斗は無事だろうか。昨日授業終わりに会話を交わして以来何をしているのか分からない。いや、そう言えば適正者検診を受診しに行くと言っていたはずだ。だが堕人の襲撃があったのは深夜になってから。順調に検診を終えていれば襲撃時は12番地の自宅に帰宅していることになる。


 一瞬会いに行くという選択が頭をよぎる。だが主治医から言い渡された様に、外出時間は限られている。体調を鑑みてのことだろうが、この後何か話があるとも伝えられた。時間に遅れるべきでは無いが、どうしても楽斗の今の様子を知っておきたいという気持ちは大きかった。だが何より、無理をして自分に付き添ってくれる唐司にこれ以上負担を強いることなど出来なかった。ここから楽斗の家までは30分以上ある。自分一人で会いに行ける様になるまでは我慢すべきだ。


「なーに考えてるの」

 と言いながら、唐司はその綺麗に整った顔を寄せてきた。––––––先程といい、無意識なのだろうがこの女性は安易に異性に対して、顔というかその距離を近づけ過ぎだ。ただでさえ唐司は美人なのだから、こういう行為に男性が勘違いを起こすということも知っておくべきでは無いだろうか。


「いえ…。自分は、堕人と遭遇するのはあの橋が初めてで…。それまで直接見たことが無いって周りに言うと、信じてもらえなくて…」

 動揺からか、自分でも何が言いたいのか分からなくなってきたが、唐司は何も口を挟むことなくじっと耳を傾けてくれている。

「“堕人”って、なんなんでしょうね。…どうして、こんな罪も無い人達の幸せを奪うのか…––––––。今じゃ当たり前の様に人類と敵対してますけど、何処から来て、一体何をしたいのか…」

 今では世間は彼らを当たり前の存在として扱っているが、堕人が表沙汰にされない時代も過去にはあったという。当たり前では無い存在が、気付けば当たり前の存在になっている。そのことに少し恐怖じみたものを感じずにはいられなかった。


 その時、唐司の端末が着信を知らせた。唐司は端末を白衣のポケットから取り出し耳に当てた。

「はい」

 唐司は相槌を打つだけで、何の会話をしているのかは此方まで伝わってこない。しばらくすると端末を切り、再び同じポケットにしまった。


「貴方の学園の理事長が、貴方に逢いたいそうよ。––––––どうする?」

 恐らく主治医の言っていた話とはこのことだろう。その相手が天門学園の理事長だとは思いもしなかったが。

「え…えぇ。分かりました」


 再び唐司に車椅子を押されて、来た道を戻り、管理棟へと向かう。

 

 



◆◇◆◇◆◇◆





 小さな会議室のドアを開けると、目に入ったのは二人の女性だった。一人は自分と同じく車椅子に腰掛ける女性。長い黒髪に翠色の瞳、白のブラウスと朱色のロングスカートが清楚な雰囲気を醸し出している。

 その左に目を遣ると、黒スーツの女性が手を前に交差させて立っていた。一見穏やかな表情を見せる車椅子の女性とは逆に、鋭くさせた目つきでこちらを見ている。お付きの人なのだろうか、まだよくわからなかった。


「理事長、義足はどうですか」

 突然後ろの唐司が笑顔で声を発した。

「だいぶマシになったわ。ごめんなさいね、わがまま言って」

「とんでもありません。またご用命があれば、いつでも」

 和やかに談笑する二人。どうやら知り合いの様だった。少し緊張の糸がほぐれたところで、車椅子の女性はこちらに目を合わせた。

「こうして顔を合わせて話をするのは初めてね。––––––初めまして、天門学園理事長、彌永美春(いよながみはる)と申します。出来ればゆっくりお話ししたいところなんだけど、そうも行きません。お聞きしたいことが幾つかあります。まず一つ––––––」


 ならば何もこの状況下でこうして顔を合わせずとも良かったのでは無いかと思ったが、一先ず彌永の言葉に耳を傾けることにした。彌永は数枚のA4用紙を取り出す。

「記録によれば、コード14227––––––つまり貴方のことですが、4年前、実家が堕人の強襲を受け気を失っているところをヴェフパークに保護されたとあります」

「えぇ…。確かにそう聞きました」

「聞いたとは?いつ、誰から?」

 隣に立っていたスーツの女性が間髪入れずに聞いてくる。車椅子の女性といい、この二人からは何か圧迫感の様なものが感じられる。


「え…、…アメリカの諜報員の方ですが…」

 天門霊送機関は此処日本だけで無く、海外にも幾つか拠点がある。日本は世界的には支部だ。その時の彼は天門霊送機関の本部からやってきたと言っていた記憶がある。

 事実を言ったまでなのだが、目の前の二人はお互いの顔を見合わせた。


「諜報課?本当にそう言ったの?名前は?」

 名刺は渡された。だがその頃の自分は状況の整理に手一杯で、とても人一人の名前と顔さえ記憶できる余裕は無かった。首を横に振るが、二人は意外に落胆の色は見せなかった。

「分かったわ…。––––––もう一つ、昨日のことだけれど、貴方の行動記録には誓の丘へ行ったとあります。それは何故?」


 先程からどうも質問が不自然な様な気がする。気のせいだろうか。

「何故って…。それは––––––」

 晩崎鮮陽と出逢ったあの丘。あそこへ行く理由はと言えば、大きな爆発が教室から見えたからだ。だがありもしなかったことを此処で述べたとしても、信じられるとは到底思えない。

「…特に理由は」

「その後堕人と遭遇したのよね?同伴の彼女は無事だったけれど、貴方自身は重傷を負った。駆けつけたヴェフパークが証言しています」


 その辺りのことは鮮明に覚えている。あれは死んでもおかしく無い状況だった。スーツ姿女性の言うヴェフパークというのは、おそらくそこに駆けつけてくれた女性のことだろう。そして、二人が何を言いたいのか当初の予想から外れることは無かった。

「普通ならば、そうして座って話をすることさえ不可能です。––––––ですね、唐司」


「ええ。普通ならば、こうして動ける様になるまで一ヶ月はかかる怪我だった筈です」

 普通ならば、という両者の言葉の使い方に違和感を覚える。まるで自分が普通では無いと言われている様な。

「つまり––––––何が言いたいんです?」

 声を強くする。

「そもそもこれは、今この場で、この状況下で、話さなければいけないことなんですか」

 今、天門霊送機関は非常事態宣言を発令している。住民は心身共に疲れ切った状態で瓦礫の撤去作業に取り組み、ヴェフパークと呼ばれる戦闘員は次なる襲撃に備えるべく傷の完治もままならないまま作戦立案の真っ最中だという。にも関わらず、ここに居る自分達は何をしているのか。自分に出来ることなどそう多くは無いが、誰かの助けになることはできる筈だ。

「––––––そうよ」


 だが、彌永の口から発せられたのは耳を疑う言葉だった。

「それどころか、今この場で話しておくべき事項です。…もはや連中の動きも頭に入れて、これからは行動していかなくてはなりません」

「…連中––––––って、今回の襲撃犯のことですか?」

 だが彌永は首を縦に振らなかった。

「それは言えません」

「言えない…?…何故」

「奴らは、天門霊送機関の中でもかなり権力を有している派閥です。情報漏れは出来る限り抑えたい」

「じゃあ何故このことを俺に––––––」

「“そういう烏合の衆”もこの天門霊送機関には存在しているということを貴方に知っておいてほしいからです」

「…詳しく教えて貰えば、何か思い出すことも––––––」

「拷問を受けた際、貴方が漏らす可能性もある。そのことも考慮して、このラインがギリギリなんです」


 あっさり言われたひとことに、ことの重大さの一片を垣間見た気がした。拷問とは––––––。この自分が受ける、という文脈で言葉にしているのだろうか。


「…俺は––––––命を狙われているんですか…?」

 出来るなら笑い飛ばして欲しかった。何を言っているんだ、そんな大袈裟な話をしているのでは無い、と。だがそこにいる自分以外の誰もが、神妙な面持ちを崩さなかった。


「連中は、貴方に執拗に接触を図ろうとして来ています。理由もその目的も私達には分かりません。––––––ですが」

 スーツの女性は車椅子のグリップに手をかける。

「気を付けなさい。連中は闇に通じている可能性がある。貴方が連中の手に渡れば、とてもよく無いことが起きるかもしれない。––––––この世界にとっても。貴方にとっても」

 ここで、ではどうしたらいいのか、と愚直に聞き返しそうになったが、それは止めた。学園で口うるさく言われている教育方針の一つ、“自分で考えろ”だ。


「…まさかとは思いますが、ヴェフパークになれ…と?」

 ここでも馬鹿にして笑って欲しかった。いや、一端の口を利くなと罵って欲しかった。ヴェフパーク––––––対堕人戦闘員とは、普通の一般市民がなりたくてなれるようなものでは無い。一部の才能に秀でた者が長い時間を訓練に費やし、ようやく辿り着ける人智を超えた地位だ。––––––だが、これまでの話から導き出される結論は、それしか無かった。


「そうよ」

 そして、対する彌永はとても冗談で言ったようには見えない。顔は真剣そのものだ。

「貴方にはそれしか残されていないわ。…いいえ、そうなるべきだったのよ」


「い…いやいや、なれって言われて––––––、…無理ですよそんな」

「ひかり」

 彌永がそう口にした途端、彌永の真後ろに立っていたスーツの女性がこちらとの距離を瞬きの間に詰め、顔めがけて右足を繰り出してきた。

 反射的に首を横に倒し、その間に右手を滑り込ませる。目にも留まらぬ蹴りを奇跡的に防いだことに、後方に控える唐司は言うまでもなく、自分は勿論のこと仕掛けた女性本人も驚きの様子を隠せずにいた。


「ひかりの蹴りを防いでおいて、無理、なんて言葉は使わせないわよ」


 こんなことを言うのも変だが、自分でもそう思う。回避出来ない、いや、出来るかどうかを判断する余裕も無かった。一連の動きは自分の意思ではなく、殆ど身体が勝手に動いたという方が正しいだろう。気付けばその体勢になっていた。


「その動き、常人には不可能よ。努力というのなら、貴方はそれ相応の時間を費やしたのかしら?」

「……持って生まれたもの…だと…?」

 そう言うと、彌永は僅かに微笑んだ。


「貴方はヴェフパークになる素質がある。––––––来なさい、見せたいものがあるの」











 ◆◇◆◇◆◇◆










 

 真那ひかりという黒スーツの女性が彌永美春の座る車椅子を押していくその後に、自分は続いた。引き続き、唐司に車椅子を押してもらう。

「適正者検診、する必要無くなったね」

 後ろの唐司がボソッと呟く。怒っているのかと思いきや、その表情はどこか優しげというか、切なげだった。

「ごめんなさい…。散々連絡を無視して…」

「あ、いやっ…、違うの。そんな意味で言ったんじゃなくて…。––––––でも、彌永さんがああ言ってるんだもの。君に素質があるのは、間違い無いと思うよ」


 だが、そのことについてはどうなのだろう。さっきの蹴り––––––確かに常人の技術では無い気がしたが、あれを防いだからといって、イコール堕人と闘えるとなるとは思えない。それに、次同じ蹴りを受けたとしても同じように防げる自信は無い。同じことが何回も出来ないようであれば、それは出来ないことと同義だ。


 車椅子が止まり、目の前には何の変哲も無い扉があった。しばらくすると扉は開き、慣れたように真那は車椅子を押し中へ入っていく。自分も唐司に押されながら、扉の上に書かれた文字を見つめる。そこには「第8」と書かれていた。



 かなり大広間だった。一面に敷かれた紅い絨毯。入ってすぐ左には、この時期には恋しい大きな暖炉がパチパチと静かに音を立てて部屋を暖めている。暖炉前に配置された真っ白なソファは見るからに高級そうだ。既に見知らぬ二、三人が独占していた。木製の机はどれもレトロな造りがしてあり、暖炉とは反対方向に目を遣ると部屋はまだ奥に続いていた。面積はざっと見ておよそ200平方メートル。その他にも何人かの人間がいた。


「来たか」

 最奥に深く腰掛けていた蒼髪の女性がおもむろに立ち上がった。女性にしてはかなり長身だ。自分の背の高さを優に超えている。

「ごめんなさい。こんな時に」

 彌永が申し訳なさそうに、蒼髪の女性と対面する。


「––––––まったくだ。他の隊の奴等は寝てるってのによ」

 だが彌永の陳謝に真っ先に反応したのはソファに腰掛けたうちの一人だった。何よりもその金に染めた髪が、上下を黒に染めた衣服と相まって目立つ。必要以上にその手をソファの後ろにまで持っていき、右足を左膝の上に乗せている。

「執印。無礼が過ぎるぞ」

 その態度が癇に障ったのか、蒼髪の女性の後ろに控えていた大男が口を挟む。こちらは女性よりも更に背丈、というよりガタイがかなり大きい。浅黒い肌が印象的だ。短い茶髪をオールバックに整え、元々そういうデザインなのか、黒いズボンの裾がギザギザな形をしている。裾合わせが面倒臭かったのだろうか。

 執印と呼ばれた男は肩をすくめ、黙りこくった。想像でしか無いが、この二人の間にはこういうやり取りが日常の様に行われている様な気がした。


「––––––で、そちらの彼が」

 こういったことに慣れているのか、蒼髪の女性は何事もなかったかの様にこちらに目を向けた。


「––––––…ん?…本当か…?」

 誰と話しているのだろうか。蒼髪の女性は自分の肩に目を遣る様にして何か小さく言葉を発しているが、そこには勿論誰もいなかった。しばらくこちらに目を向けたまま、何かを思案している様に見える。


 彌永が先程のA4用紙を差し出し、それに気付いた女性が手に取る。


 その間にもう一度周りを見渡し、見知った顔が無いがよく確認しようとしたが、そこにいる六、七名が全員こちらに目を向けていた。まあ当然といえば当然かもしれない。恐らく此処は隊の控え室か何かなのだろう。普段はヴェフパークしか出入りしない様な場所に、突然車椅子に乗った一般市民が来たとなれば奇異の眼差しを向けられても不思議では無い。

 

「何故うちの隊なんだ」

 唐突に女性が口を開いた。今度は独り言の様な言い方では無く、彌永の顔を見て。

「貴方が居るからです。眞堂桐依(まどうきりえ)」

 至極簡潔した答えだった。だが対して眞堂と呼ばれた女性は、

「第8は今フルで活動している。奇跡的にな。だが他は違う。新人を入れたい班はうち以外に沢山ある」

 堕人とまともに闘える人間、つまりヴェフパークだが、14年前に起こった戦争で人員全体の約6割の損失が記録されている。そして今回の襲撃だ。更にその人員を削ったに違い無い。市民に加え、そう少なく無い戦闘員が命を落としたと聞いている。いくら14年経ったとはいえ、一人前のヴェフパークが育つのには相応の時間と労力がかかる。

 だが今はそんなことより、眞堂の言葉に耳を疑った。間違いでなければ、彌永はどうやら自分をこの女性の隊に入隊させようとしている様に聞こえた。

「フルだと?馬鹿を抜かすな。紅村(こうむら)は現在欠員扱いだと聞いているぞ」

「紅村?」

 それまで静寂を保っていた真那が口を開き、それに対し彌永が聞き返す。


 天門霊送機関のヴェフパークが所属する班は全部で100。その1班の中に10の部隊が存在しており、1部隊の構成員は基本10人とされている。つまり1班は100人、全てを合わせれば1万にも上る大規模集団ということになる。だが、それはあくまでこの天門霊送機関が磐石の体制を保っていた時の話であり、現在もその班数と隊数に変わりは無いが、その人数は数千人程度と人員不足が懸念されている状態になっている。

 彌永、真那、唐司、そして自分を除けば、今この部屋にいるヴェフパークは全部で6人だった。––––––6人。眞堂は先程隊員は10人揃っているような言い方をしていた。


「えぇ。1人欠員が出ていた筈です。––––––そうだな、眞堂」

 詳しい事情は分かりかねるが、恐らく本来この場にいるべきヴェフパークの数は9人ということになるのだろうが、そのうち何人かの姿が見当たらない。が、その疑問はすぐに晴れた。

「だから何だ。除名した覚えは無い」

 一瞬で空気が重くなった気がした。

 初見で思ったことだが、2人とも目つきが鋭い。というか悪い。もしかすると、内面も手に負えない性格をしているのだろうか。

 


 そんな中、隣の唐司がゆっくりと手を挙げた。

「あの…士峰稑炉が見当たらないのですが…」

「床に伏せってるよ。あの馬鹿は」

 すかさず吐き捨てる様に答えたのは、またしても執印と呼ばれた男だった。人の好き嫌いの判断は第一印象で凡そ決まると聞いたことがあるが、そのことを今身をもって実感した。こういう、人をいちいち小馬鹿にする様な態度を取る輩は自分は嫌いだ。


「しかもあいつだけじゃねぇ。他に2人も負傷しやがったんだ、ったく––––––」

 再びガタイのいい男が戒めに入るが、それに対し執印は右手を軽く上げ「分かった分かった」と呟くだけだった。

 つまり、今ここに居ないのは今回の襲撃で負傷した隊員ということだった。欠員の1人と既にいる6人を合わせれば丁度10名になる。


「お知り合いの方がいらっしゃるんですか?」

 傷付いたのでは無いかと心配したが、すぐにそれは浅はかなことだったと痛感した。唐突は何事もなかったかの様に顔色一つ変えず、にこやかに「ええ」と答えた。

「学園の頃からの知り合いなの。今日久し振りに会えるかと思ったんだけどね。––––––後で様子見に行かなきゃ」

 そこで思い出す。

 彼女は堕人と遭遇し命の危機に瀕したにも関わらず、それを言い訳にせず他の同僚に交じり自分の本来の責務を全うする様な強い人間だった。柔らかそうな物腰とは想像もつかないような意志の強さが垣間見えた気がした。

 

「その––––––紅村という人は、今何をしているのかしら」

 再び彌永が切り出したが、答えを求められた眞堂は溜息を大きくつき、そしてこちらを一瞬睨み付けた。

 そしてその時何故か、眞堂の対応は180度変わった。

「––––––いや…。…そうだな、それも悪くは無い…か」

 眞堂は先程と同じ様に、自分の左肩を見る様にして呟いて見せた。この動作はわざとなのか、それとも癖なのか。


「––––––来い少年。二、三質問がある。––––––仲霧、後は頼む」

 そう言って、眞堂はそそくさと部屋を後にした。

 

 



◆◇◆◇◆◇◆





 部屋は半壊。裏目に出たこともあり、集合していた42名の班長の内8名が死亡、17名が重軽傷を負ったという。更に正体不明の3人の人間が姿を現し、その内1人が手傷を負ったことが皮切りとなりその場はそれで収まったというが。

 さぞ凄まじい戦闘が繰り広げられたのだろう。この眞堂桐依もその場に居たのだ。傷一つ被っていないことから、かなりの実力者であることが伺えた。

「一般市民が堕人に遭遇した時の生存率は何パーセントか。––––––君は知っているか?」

 

 何度も聞き覚えのある文章を眞堂桐依は口にした。教科書などでも散々目にしてきたから、その数字は頭によく染み付いている。

「3パーセントです」

 これはかなり低い数値と言えるだろう。100人遭遇して3人しか助からない計算だ。

 政府が毎年発表する白書によると、この数値はここ10数年で見ると減少傾向にある。1年間で堕人の餌食になる一般市民は毎年約1000人と少し。この数自体も年々減少傾向にあるのだが、戦闘可能人員の減少がこの割合をもたらしていた。


「ただそれは、ヴェフパークが介入した時の数値だ」

 その言葉に、俺は動揺を隠せなかった。

 今眞堂桐依は何と言った。対堕人戦闘員がその場に居た場合での数値が3パーセントと言ったのか?


「…え…?––––––いや…、ヴェフパークが介入した場合は…、確か生存率は35パーセントだったと昨年の––––––」

 確かに俺は、年末に政府から発行される「堕人被害者白書」でその事実を確かめた。この結果から、夜間の時間帯や過疎地への外出を控える内容が含まれた条例が施行された。そしてヴェフパークの必要性を強調すると共に、天門霊送機関への多大な援助を今でも続けている。


 だが、眞堂はどうやら洒落や冗談で言葉を述べている様子では無いように思えた。もし眞堂の言うことが真実ならば、昨日の天流橋での堕人遭遇がそれに当たるのだろう。まさに止めを刺されようとした時ヴェフパークは現れた。––––––あれが100回に3回の割合で起きる出来事だったと…?ならば––––––。


「待って下さい。なら––––––…、ヴェフパークの介入が無ければ…?」

 その確率が35パーセントだと思っていた。だんだん嫌な予感が増大していく。


「ヴェフパークの戦闘介入無しに遭遇した堕人から逃れる確率は––––––、––––––0.02パーセントだ」

 

 

 


 



 

 ◆◇◆◇◆◇◆







 全てを覆された気持ちだった。


 過去、これまで自分が生きて来れたことがどれだけ奇跡的なことだったのか。現在、立て続けに堕人の脅威に遭遇しながら今息をしていることがどれだけの確率のことなのか。

 ––––––そして、未来。もう、自分はいつ死んでもおかしく無いということ。思っていたよりも死は側にあるらしいということ。


 眞堂の言うことが本当に正しいことならば––––––。そう考えるだけで、自分のあらゆる可能性が全て否定された気がした。

 俺だって、何も考えずに生きてきたわけじゃ無い。四年前以前の記憶は今も戻らないが、そこから必死に生きてきた。––––––将来の為に。

 

 最初、天門霊送機関の隔離施設で目覚めた時には、周りにあるもの全てを理解出来なかった。自分が誰で此処はどこかなどと、そんな考えを持つ余裕すら無かった。ただ、自分に飛び込んでくる全ての光景が自分を脅かすものでしか無かった。見たことが無いもの、経験したことが無いものに対しては、それだけで恐怖の念を抱く。

 人間誰しも、産まれた時の記憶など無いというが、自分の産まれた瞬間というのはまさにその時だった。普通ならば、その時に感じる恐怖じみたものを永遠に覚えておくことは出来ない。だが自分は覚えている。初めてこの目で見たもの。それら全てが「恐怖」そのものであり、その時の光景がイコール「恐怖」なのだ。

 後から修正は効かなかった。その「恐怖」に感じた「経験」自体を他のものに変えることは出来ないのだ。他の人間にとっては、物心付いた頃の記憶が一番古いものだろう。この世に産まれ落ち、母親から引き離された時に感じた恐怖など覚えているはずも無い。同じ様な記憶が過去にあったとしても、十数年後の自分は同じ様な感情は抱くまい。


 自分は違う。

 その時のことを思い出そうとするとそれを懐かしむどころか、二度と味わいたく無いことだとハッキリ感じる。同じ光景を目の当たりにすると、無条件に心が萎縮してしまうのだ。


 だが、今の自分の原動力はその時点にあると言っても過言では無かった。

 少し時間が経ち周りを見渡す余裕が出来た頃、感じたのは「無力な自分」だった。最初に目にした白衣の医師、看護師、外に出てすれ違った一般市民、編入先の学園の生徒達。それら全てを無意識に自分と比較する。


 その時は具体的には口にできなかったが、それらを眺めているだけで自分と他人は違うということが感覚的に解った。違って当然。だがそれは常人の感じる他者との違いとはおそらく一線を画する。

 同級生と日々を過ごす様になってから、その感覚は一層増した。その頃には最低限の生活ができる様になっていたから、一般的な常識などは頭に入っていた。だから思った。––––––周りの人間は皆、これ以上無い幸せを謳歌してきたのだろうと。


 人の子としてこの世に生を受け、自分を産んだ両親の顔と名前も知っていて、その両親から自分の名前を授かり、その名前を決して忘れることなく、誕生日には家族から祝福を受け、喧嘩をした時は慰めてもらい、学校を次々に進学し、当たり前の様に大人になっていく。

 彼等のスタートは10年20年前にある。だが自分は4年前だ。実際は違うのかもしれないが、そんなことは関係無い。

 だが、妬みは抱いてもそこに誰かに対する恨みなどは存在しなかった。恐らく記憶の無い12年間は二度と自分の中に戻らない。戻らないものは考えるだけ無駄だ。これ以上は、先を見つめて生きて行くことが最善だと考えた。


 堕人に関しては、社会学や生物学の授業で大きく取り扱われていた。堕人の歴史、世界にもたらす影響、その特性等、堕人について学ばない日は殆ど無かった。始めはぼうっとしていた自分でも、今や世界の何を語るにしても堕人を除いては不十分だと気付かされた。

 すると、不思議なことに自分の中で堕人に対する興味が沸々と湧いてきた。いつか本で見た、「なぜその職業を目指す様になったのか」という質問に対し「見てしまったから」という単純な答えが自分の感覚に一番近いのかもしれない。

 興味が湧くよう無理矢理努力したわけでも無い。何か惹かれるものがあったと言えば語弊があるが、自分はこれから先、この堕人などという生き物と何かしらの関係を密にして生きて行くのだろうと、この時思った。


 あまりにも無知が過ぎる自分は、とにかく何かしらを学ぶ姿勢を崩さないようにしていた。そうでなければ不安で仕方なかったかし、ブランクを埋める為には躊躇している場合では無かった。

 天門霊送機関からの支援金を書店に持って行き、四則演算から勉強を始めた。徐々に難易度は高くなっていったが、不思議と、16の頭では理解することは容易かった。


 そんな中、いつもの様に学園で社会学の授業を受けている時、何気なく目を通した教科書に書かれていた数値がとても印象に残っている。左ページの右下に、堕人の被害が原因で死に至った人数がその年毎に棒グラフで記されていた。過去10年間でその数は右肩下がり。1年間で1000人を切るとは昔に比べて平和になったと、佐伯が呟いていたことを覚えている。––––––だが、その時違和感を覚えたのは1000人を切る犠牲者が果たして多いのか少ないのか、ということではない。隣に書かれてある数値に誰も触れなかったことだ。その数値とは、堕人に遭遇した人間が死に至る確率だった。


 堕人に遭遇した市民には、警察をはじめとする国家機関への通達義務が課せられている。それにより遭遇致死確率がおおよそはじき出される。目を見張ったのは、堕人に遭遇した場合の生存確率が35パーセントと記されていたこと。これはもう、堕人と遭遇した人間はほぼほぼ死ぬと言っても過言ではないかもしれないと、その時思った。それだけでも堕人の恐ろしさが十分伝わってきたのだが、グラフの右下に「 対堕人戦闘員ヴェフパークの戦闘介入のケースを除く」と書かれてあった。ならば戦闘介入時は何パーセントなのか、普通なら疑問を持つだろう。そこでいつものように一人図書室に籠り、堕人に関する文献を読み漁った。

 余談だが、編入初日からクラスで浮いていた自分はそのほとんどの同級生から遠巻きに見つめられることが多く、また人によっては聞こえるか聞こえないかの声の大きさで嫌味を含んだ言葉を浴びせてくる者もいた。がり勉だの、意識が高いだの、友達がいないだの。仕方がないじゃないか、お前らには解らないだろうと。


 計18時間。新聞のバックナンバーに小さく書かれていた、「70パーセント」という新しい答えをようやく見つけた。どうやら国の査問委員会の天門霊送機関への立ち入り調査が行われたことがあるらしく、記事はそのことについて書かれていた。日付は4年前の1994年12月22日。晚崎鮮陽に聞いた「オアス・ヒルの悪夢」の起こったちょうど二週間後、そして現時点で自分の記憶がギリギリ思い出せる時期でもあった。



「あの情報は嘘だったと?」

 俺は声を大にして眞堂に問いかける。だが眞堂は何も答えない。先程の大部屋の隣に設置されてある此処、班長執務室に入ってから窓の外に広がる新市街の風景を黙って眺めているだけだった。


「国民全員を騙してるんですか…⁉︎」

 立場を忘れ、食ってかかる自分がいた。まだ完全に自由の利かない体だが、車椅子に下半身を預けたまま気付けばテーブル越しに前のめりになっていた。

「…眞堂さんに言っても…------」

 唐司が横からコーヒーカップを差し出しながら耳打ちしてくる。それは分かってはいるつもりだが、先ほど部屋で眞堂は周りのヴェフパークを従えるような振る舞いをしていた。見た目の年齢からもして、恐らく重職についているのは間違いない。天門霊送機関全体の方針についてここで彼女を問い正すのはお門違いだというのは分かっていたが、言わずにはいられなかった。


「------彌永も、珍しいもんを拾ってきたな…」

 独り言だろうが、はっきりこっちにも聞こえた。

「詳しい数値などは私も知らん」

 そっけなく答えた。ならば内政には疎いのだろうか。真実を隠匿するために嘘をついている可能性もあるが、この話題を持ち掛けてきたのは眞堂だ。何か意図があるように見える。

「だが、今の君のような話を私も何度か耳にしたことがある」

 そう言いながら、唐司から受け取ったコーヒーカップを口につける。

 今更だが、わざわざ場所を移す理由があったのだろうかと不思議に思う。あの場にいる隊員達に聞かれてはまずい話なのだろうか。


「彌永とはどこで会った」

 いきなり何の話だろうか。少し不満が高まったが、素直に答えることにする。

「…会ったというか…。彌永さんは天門学園の理事長で…、顔は何度か拝見したことがあります。------ですが、面と向かって話をしたのはさっきが初めてで」

「そうか。------だが、向こうは君のことを前の戦争の頃から知っているそうだ」

 ------この人はいったい何を言っているのだろうか。前の戦争とは14年前のあの「堕天戦争」のことを言っているのだろうか。

「なぜだと思う」

 なぜとは------。判るわけがない。14年前とは、俺はまだ2歳だぞ。記憶があるのは4年前よりこちら側だ。思い出しようがないじゃないか。…そもそも、彌永さんといいこの女性といい、なぜここまで執着してくるのか。


「知りたいのなら、君自身が戦いに身を投じる必要がある」

「だからなんでそうなるんだ‼」

 俺は机を力いっぱいに叩きつける。コーヒーの水面が激しく揺れ、こぼれる。唐司は驚いた様子を見せたが、眞堂はなんら動揺を見せなかった。


「彌永さんも言ってたよ。素質があるとか、勝手に決めんな!」

 この眞堂という人物が天門霊送機関でどのような立場にいるのかはわからない。ただの一市民がヴェフパークに逆らうことなど、馬鹿しかしない。最悪の場合拘束されて相応の刑に処される。その危機感が薄まったのは、自分が正体不明の人物から命を狙われているということを聞かされたからなのか、昨日からの非日常が自分の冷静さを欠いた結果なのかは分からない。ただ、これ以上他人に自分を委ねた姿勢ではろくな結果にならないと踏んだ。それは確かだ。


「決定権は君にはない」

「あんたにだって無い筈だ」

「そうかもな。------だが」

 眞堂は間髪入れることなく、一瞬の動きでこちらに覆いかぶさってきた。


「------⁉」

 見えなかった。眞堂は長さ3メートルもある長机を予備動作なしで飛び越え、次の瞬間には右足でこちらのどてっぱらを踏みつけた。床に倒され、その強力すぎる圧迫から逃れることはできないと判断できた。そしてどこに隠していたのか、小刀を取り出しこちらの右肩を一突きにした。

「う…!ぐぁっ!」

 そう、警告で突き付けたのではない。実際に肉を抉ってきた。信じられなかった。

「…⁉眞堂さん⁉」

 少し遅れて唐司もことの状況を理解したようだ。驚きに満ちた表情でこちらを見つめている。


「その程度で済むのか。普通ならば、もっと叫び声をあげるか泣きっ面を見せるぐらいのことはするもんだがな」

 眞堂はそう言いながら、小刀を左手に持ち替え右手でこちらの頭を押さえつける。

「これからは、私の目の届く場所にいてもらうぞ。14227」

 身体はびくともしない。右肩に刺さっている小刀はいつこちらの喉元をかき切るか分からなかった。

「く…そっ…!…っ------」

 めちゃくちゃだ、こんなの。俺が一体何したっていうんだ。それに、ついさっきまでこの眞堂は俺を隊の一員に迎えるという彌永さんの提案を渋っていたように見えた。何が彼女の考えををここまで変えたというのか。

「先程の質問で確信したよ。君は野放しにはしておけない。------おい、唐司といったか」

 自分に振られるという予想外の展開に、唐司はあからさまに怯んだ。

「資料には、14227は一度も適正者検診を受けていないとあったが本当か」

「…は…はい…」

「ならば早急に受診させろ。奴らが来てからでは厄介なことになるかもしれん」

 二言三言交わしたのち、眞堂は再びこちらに向き直った。顔は真剣そのものだ。

「さぁどうする。死ぬか、 対堕人戦闘員として生きていくか、どちらか選べ」


「あんた––––––…どうかしてるよ…」

 右肩の痛みが容赦なく襲ってくる。動かそうとしても、刃先が床にめり込んでいるらしかった。

「時間が無い。早く決めろ。今一番避けねばならないのは、ここままお前を自由の身にさせることだ」

 あまりの身勝手さに、俺は自我を持って初めて憎しみを覚えた。

「こんなことをして…、タダで済むと思うのか…?」

 この女性が一体何者か詳しいことは分からないが、どの様な立場にあるとしても一般市民を傷つける事は犯罪だ。それが例え人類の希望の象徴であるヴェフパークであったとしても。しかもさらっと、ここで死ぬ可能性があることまで提示してきた。これは明らかにハッタリだ。人を殺せばその本人はどうなるか、子どもでも分かる。


「えらく強気じゃないか。まだ私を甘く見ているな」

 すると眞堂は垂直に突き刺した小刀を捻り、体の中心方向へと倒してきた。身の肉を抉るように。

「あぐっ…!ぐ…––––––ぁッ…ああぁ‼︎」

 四肢を目一杯動かそうとしてもビクともしない。体験したことのない激痛に声をあげることしかできなかった。

「どうやら貴様は常軌を逸した回復能力がその身に宿っているようだが、一体どういう原理だ…?こうして傷を付けても、またすぐに治るんだろう?」


「何…言ってる…ッ…」

 意識が飛びそうだった。いや、いっそのこと気を失った方がこれ以上痛みを味わなくて済んだかもしれない。自分の中途半端な防衛本能を呪った。

「––––––奴らに捕まれば、この程度などでは到底済まされんぞ…?貴様がそれでいいのならば話は別だが、その後の奴等の行動を考えればこちらとしてそうはいかない」

 彌永と同じことを口にする眞堂だった。自分が一体誰に捕まると?この何処にでもいるような、いや記憶を欠除しているという点ではその言葉は当てはまらないかもしれないが、それ以外は特に変わった生活を送ってきたつもりはない。それに記憶喪失の話など、ノンフィクションでもよくあることじゃないか。––––––そう、あの戦争を超拡大させた要因としても––––––。


「ARGも攻勢に出た。この天門霊送機関の混乱を利用しない手は奴等には無い。必ず貴様に接触を図ろうとする。もし貴様がが奴等の傀儡で無いのであれば––––––これが最後のチャンスだ」


 ARG––––––。恐らく今回天門霊送機関を襲撃してきた組織の略称だろう。これから先、天門霊送機関はARGとの全面対決を避けられない。ヴェフパークは戦いの前線に送り込まれることになるだろう。あの大部屋にいた人々、そしてこの女性も例外では無い。

 そしてどういう訳か、俺の身柄を確保したがっている連中とやらがほぼ空っぽになった天門霊送機関に押入ろうと画策。向こうは俺をただの一般市民として認識している。だがヴェフパークとなり連中の手をかいくぐることができれば、連中を出し抜き、その目的を掴むことが出来るかもしれない。恐らく眞堂はそう言いたいのだろう。向こうからこちらの保身を申し出てくれる。こちら一方的の好条件。一見そう見えるし、実際そうなのだろう。––––––だが、


「俺は…、あんた達の仲間になる気は無い」

 その俺の言葉に、眞堂はかすかに目を見開いた。同時に小刀を握る左手の力が抜ける。俺がここで提案に反るとは思いもしなかったのだろう。眞堂の左手をこちらの左手で上から掴み、無理矢理引き抜こうと試みる。


 だがこの時、自分の中で葛藤があったのも事実だ。彌永や眞堂の何の証拠も無い話を真に受けるつもりはないが、もし自分の身を案じてのことであるならば今の自分の行動は自ら退路を絶ったも同然だ。米国から連中とやらがやって来て、自分は囚われの身となる。そうなれば、もう誰も助けてはくれないだろう。

「––––––理解した上での行動か?」

 眞堂はそう言いたげだ。「貴様がそれでいいのなら」とはそういうことだろう。

 お互いの視線がぶつかり合う。眞堂は蒼い瞳を微動だにさせず、こちらの真意を見抜こうと眼球を覗く。が、ついに溜息をつき、荒々しく小刀を抜き取った。こちらが呻き声を漏らすのも構わず、舌打ちをした。


「––––––時間の無駄だったな。…どうやら貴様は望んで奴等のモルモットにされたいようだ」

 そのような何の裏付けも無い話を黙って受け入れる方がどうかしている。心の中でそう思いながら、真っ白な天井を無感情に見上げた。


「殺すんじゃなかったんですか」

 自分でも不思議に思う程声に震えはなく、思考はハッキリとしていた。

「せいぜいその気勢を保っていることだな、小僧」

 眞堂は身体を震わす唐司を横切り、ドアノブに手をかけ、わずかに引く。

「拷問を受けながらも保っていられるか、非常に見ものだがな…––––––」


 最後に顔が合った。終始見せていた強気な態度はその時には無く、何か哀れなものを見る目つきに変わっていた。


 扉が閉まり、部屋に静寂が訪れる。

 息を吐く。

 思い返す。俺は間違ったことはしていない。人々を騙すヴェフパークに用は無い。関わりたく無い。差し伸べられた手を掴む気など起こらない。不必要に、脅すためだけに人を刺す者の言うことなど信じる価値も無い。

 だが、天流橋で自分を助けてくれたヴェフパークには御礼を言わなくてはなるまい。彼女が居なければ、俺は死んでいたのだから。



 

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霊風 @s1231008

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