第9話 Awakening

 





 これが夢だということは、すぐに分かった。




 普段は夢か現実かの区別も付かないような映像が頭の中に流れるが、この時ばかりは違った。自分が今眠りの中にいるということも自覚しているし、その中で見ている夢だということもハッキリと分かった。


 真っ白な空間。辺り一面雪化粧のようだ。どこからどこまでが床で、壁で、天井なのか、全く見当がつかなかった。だから遠くで微かに見える、上方から吊り下げられている二本のロープが、果たして天井に接着しているのかどうかは分からない。

 それを見た途端、身体が勝手に動いた。一歩一歩進んでいく、そのロープがある方へ。




 

 三十メートルほど近くまで来て分かったのだが、見えていたのはロープと言うよりブランコだった。そこに一人の少女が腰掛けている。白い髪、白い眉、白いまつ毛。白いワンピースに身を包み、白い瞳でじっとこちらを見つめている。綺麗な顔立ちをしており、座っている状態でもかなり身長が低いということが分かる。


「こんにちは」

 何気無い言葉。微笑みながら語りかける少女はなんだか可愛らしく感じた。


「…君は––––––」

 意図せずこちらの口が開く。が、その後に言葉が続かない。頭に何も思い浮かばない。

 それを見越してか、少女は「どうして此処へ?」と呟いた。

「––––––どうして?…分からない…。此処がどこなのかさえも。君が誰であるかも。分からないんだ」

 口は勝手に開く。思考の必要は無い。

 少女はクスッと笑って見せた。


「此処に来る人はね。皆、その胸の内に強い想いを秘めた人達ばかりなの。……理不尽な運命に抗いたいと真に願う人。他の何を犠牲にしてでも成し遂げたいと強く思う人。そういう強い意志を持ち合わせた人がごく稀に此処に迷い込む。…でも貴方の心の中には––––––」

 姿が消えたかと思うと、少女は既にこちらの胸に手を当て、その口を耳元に近付けていた。そして囁くように続ける。


「微塵もそういうものが感じられない」

 少女の華奢な身体は宙に浮いていた。が、そのようなことは夢の中では気にも留まらなかった。


「––––––貴方のような人は初めてだわ」

 少女は背後に回り、両手を肩に回し、自分の頭をこちらの頭に寄せてくる。


「聴かせて––––––貴方の望みを」


 身体が密着し、背中に少女の体温を感じる。少女はその手でこちらの顔に優しく触れ、額、瞼、鼻、そして口をゆっくり撫で回していく。

 徐々に眠気に負けそうになる。少女がもたらす不思議な暖かさに包まれて、目を閉じようとしたその時、首元に届こうとしていたその手を少女は再び目の位置にまで持って行き、力強く押さえつけた。


「…‼︎」

 突然感じる激痛。危機を悟るには十分だった。


「うぁ…っ…くっ…!––––––や…止め…!」

 

 視界のほとんどを遮られているため、先程まで端に捉えていた少女の姿を確認することが出来ない。が、身体に接触する感覚は鮮明だった。

 恐らく少女の左手でこちらの右眼を力一杯押え付け、その腕で覆われた左眼の視界はゼロ。こちらの頭を左手と自分の胸で圧迫し、右手は後ろから左肩に回され固定しているようだ。––––––直感で分かった。このまま五秒も続けていれば自分の肩より上は粉々に砕け肉片になると。


 だが自分の四肢は全く動かなかった。まるで金縛りにあったように。神経が行き届いていないかのように。


 華奢な見た目からは想像出来ないほど、その力は圧倒的だった。

 

「さあ。貴方の望みは何?貴方が今欲する物は?どんな力が欲しい?誰を守りたい?誰を殺したい?」


 刹那、胸を貫く激痛が走った。

 悶絶。叫び声を上げようとしても、声にならない。のたうち回りたくても身体は固定され、身動き一つ出来ない。


 右眼を何とか下に向けると、紫色をした何かが自分の胸板から生えていた。結晶のようなものが三角錐の形をしている。


 大量の血が口から流れ落ちる。真っ白な床だと思っていたが、どういう訳か、赤い血は底のない空間をどこまでも落下していった。

 気付けば自分の足裏に、床と接触している感覚がいつの間にか消えていた。


 貫通と圧迫による激痛で、自分の意識がついに終わりを迎えた。


 完全に気を失う直前、少女がこちらの左耳に優しく息を吹きかけてくるのが分かった。









 ◆◇◆◇◆◇◆











 飛び起きる。

 すぐに自分の胸に手を当てて確認する。が、どうやら目立った外傷は見当たらない。薄いグリーンの病衣の上からまさぐるが、結果は同じだった。


「…此処は…」


 息を切らしながら呟いた。

 身体中が汗だくだ。病衣がベットリ肌に張り付き気持ちが悪い。

 

 どうやら自分は簡易式のベッドに寝かされていたようだった。まるで学園の保健室のような内装をした小さな部屋に居るようだが、此処が学園では無いということは直感出来た。


 ベッドから降り立ち上がる。が、すぐに眩暈に襲われた。よろめき、堪らず近くの机に手をつく。

 部屋は暗い。唯一の灯りはこの机に設置されてある小さな電灯だけだ。幾つかのノートやら本やらが綺麗に整頓されてある。その中に、他とは種類の違う雑誌が目に入り手に取る。パラパラとページをめくってみると、バイクに関する記載がされてあるものだった。


 その時、何かの破壊音と共に強烈な地響きに襲われた。今度こそ床に尻餅をつく。締め切られたカーテンが大きく揺れ、外の景色らしきものが偶然目に入る。月が見えた。机の上にある小さな時計に目を遣ると長針短針共に3を指していた。

 真夜中だった。自分が眠りに落ちるまで何をしていたのか思い出せない。身体の疲労から夢か何かを見ていたようだがそれも鮮明には思い出せない。

 気怠さを残した身体を何とか奮い立たせ、外へ続く扉を開ける。




 信じがたい光景だった。

 あらゆる白い建物から火が立ち上り、半壊、全壊している所も少なくない。猛獣のような唸り声と人々の悲鳴が辺りにこだましている。天門霊送機関は何者かの襲撃を受けていた。


 自分が今いる場所を把握する。

 居住区が眼下に広がっているが、どれも米粒のような大きさだ。ということは、かなり高い階にいるということになる。ここ天門霊送機関新市街と旧市街とを繋ぐ大門が遠くに見えているが、視界の左に位置している。新市街を周りに囲まれた天門霊送機関、通称零地区。その中でも医療棟や研究棟が建ち並ぶ二、三番街あたりにどうやら自分が居るらしいということが分かった。


 学園でいつか教わった緊急時の避難用マニュアルを反芻する。

 警報が鳴れば即座に各自指定されたシェルターに逃げ込む筈。だが自分は警報など耳にしてはいない。そこで、すぐに眠っていた所為だと思い直す。

 シェルターは全部で二十。その中で自分に指定されていたシェルターは零地区だった筈だ。今いる場所と重なり、ホッと胸をなで下ろす。だが安心はまだ出来ない。シェルターはどこも地下にある。いくら同じ零地区にいるとはいえ、四十階相当の高さから向かうとなればそれなりの時間は要する。

 だからと言って、ずっとここに留まっておくのも得策とは言えない。命を落とす可能性は充分にある。


 駆け出そうとしたその時、上方で大きな爆発音が鳴り響いた。慌てて振り向き手摺から顔を覗かせると、爆発したのは天門霊送機関の中でも中心に位置する管理棟のほぼ最上階だと分かった。窓ガラスや金属の破片が粉々に砕け散り、地上へと落下していく。


「上級会議室––––––!」


 見たことも訪れたことも無いが、円盤型の様に突き出した形状には覚えがあった。

「おかしいだろ…!何で此処が––––––」


 この辺りは新市街のど真ん中。敵の手に落ちる可能性が一番低い地区だ。だがそこまで言いかけ、ようやく気付いた。

 マニュアルの記載では、敵の襲撃を察知次第ヴェフパークが外縁部に急行し、敵を鎮圧する間に市民がシェルターに避難するとあった。だが、初動に関してはそれ以外の可能性を考慮に入れたマニュアルは用意されていない。––––––それ以上の策を取りようが無かったのだ。

 現在戦闘可能な人員は多くは無い。その防御網を破られれば、無力な市民を守るものは無い。至極簡単な話だ。そして、どうやら今がまさにその状況らしかった。


 一番攻め入られないことを考え位置した場所が破られた。この天門霊送機関、新市街に安全な場所は一つも無いということだった。



「危ないじゃない!何してるの!」

 左から声が響いた。振り返ると、そこには白衣を身に纏った女性が息を切らして立っていた。女性はこちらに近づき、

「…え…貴方…。どうして––––––立っていられるの…?」

 その時、再び近くで爆音が鳴り響いた。今度は周りの壁や床が大きく振動するほどの。さっきよりも近い。今の爆音でそれどころでは無いと感じたのか、女性はこちらの手を乱暴に取り、走り出した。気怠さの残るこの身体では、彼女に付いていくのは容易では無かった。

「ちょ…!どこ行くんですか‼︎」

 此処にいても仕方がないのは分かっていたが、口が勝手に動いた。女性は乱れた長い黒髪を揺らし、右に折れ、エレベーターのボタンを連打する。


「シェルターよ。…貴方を送り届ける」

 幸い二本あるうち一本のエレベーターは稼働しており、矢印を点滅させながらこの階に近付いているようだった。

 左胸の名札が目に入る。それは偶然か必然か、何度も見たことのある名前だった。


「唐司(とうのす)…さん––––––」

 そして暗闇の中、顔をしっかりと確認する。そう言えば声も聞き覚えのある声だった。


「そうよ。貴方の適正者検診専任担当の唐司夏帆です。よくもまぁ私の連絡を無視してくれたわね」

 そこでようやく思い出した。あの墓場で出逢った少女––––––晩崎鮮陽と共に新市街へ戻ろうとしたその時、堕人に襲われ気を失ったことを。物凄い激痛に襲われたことを覚えている。死ぬのでは無いかと錯覚する程だったが、今自分の身体には傷一つどころか痛みさえ感じなかった。

 それ以来––––––ということになる。


「つまり俺は––––––、九時間近く眠ってただけなのか…」

 話をズラしてしまったのは意図してでは無いが、唐司は大きくため息をつき、開いた扉の先へ入っていく。

「九時間眠っただけであれだけの傷が完治するとは普通じゃ無いわ」

 こちらも唐司に続き、籠の中に入る。唐司はボタンを人差し指で押し、扉を閉めた。


「でも、あまり驚いてない様に見えますが」

「貴方には色々と聞きたいことがあるの。その異常なまでの回復力のことも含めてね。…だけど今はそれどころじゃ無い。わかる?」

 その質問に俺は頷く。

 此処を誰が攻めてきたのかなど詳しい状況は分からないが、かなり窮地の状態にあるのは見て取れた。


「今被害が確認されていないのはこの零地区。––––––さっきの爆発には驚いたけどね…。あと、六、七、八と九地区。それ以外は被害の大小は様々だけれど、建物は崩壊、火災も起きて、死傷者多数。とても今の管理体制で全地域を把握して統制出来る状態じゃない。ヴェフパークは各地で辛うじて応戦しているみたいだけど、敵はただの堕人じゃ無いみたい」


「どういうことですか?」

 聞き返しながら思い出す。

 堕人という化物と人間が闘ったという記録は何度かある。

 映像で見たことがあるが、堕人は力を持たない普通の人間を殺して回る。それに対抗するために、対堕人戦闘員(ヴェフパーク)が存在する。その力量の差は拮抗か、僅かにヴェフパークが上回るらしい。一人で何百という堕人と同等に渡り合うヴェフパークも中にはいるという話だが、本当かどうかは分からない。ただ、一般的な力を持つヴェフパークでは数体の堕人に囲まれれば勝ち目は無いという統計も出ている。

 だが唐司の口から出たのは、今迄に聞いたことの無い情報だった。


「戦闘中の数人のヴェフパークから、言葉を発する堕人と遭遇したって報告があったらしいの。それだけじゃ無い。一般市民を殺害していく堕人の集団の中に、人間らしき姿をした者もいたって」


「––––––人間が…人間を殺した…?」

 

 その話が本当であれば人間と堕人が手を組んでいるということになる。堕人とは人間に牙をむくもの。人間の天敵として認識されている筈だが––––––。


「今迄に無いケースよ。只でさえ人員を欠いてるのに、こうも想定外の事態が続くと…」


 エレベーターの動きが止まる。右上の電光掲示板は1と表示されていた。

 扉が開き、医療棟と玄関を開くとそこはいつもの風景では無かった。そこら中に瓦礫が散乱し、何人かの死体が横たわっていた。身体中血だらけになり、周りに飛び散っているのが肉片や内蔵だと分かった時、強烈な吐き気に見舞われた。思わずうずくまり、口を押さえる。

 だが唐司はその表情を険しくしただけで、それ以外に特に反応は見せなかった。こちらの手を無理やり握り、再び駆け出した。


「じっとしてたら駄目!何処にいるか分からないのよ!」


  唐司の言うことは最もだったが、方向は一番近くのシェルターとは真逆だった。だが唐司は「バイクで向かう!」と必要以上の大声で叫んだ。そしてその約五秒後、後方で尋常では無い叫び声が上がり、同時に物が壊れる様な音が鳴り響いた。振り返ると、丁字路を背に尻餅をつきながら後ずさる二十歳かそこらの男性が目に入った。何かに怯えている様子であるのは遠目からでも分かった。男性が見ているものは、こちらからでは建物の死角となり確認することは出来ない。が、この状況下では容易に予想は出来た。


「唐司さん!彼…!助けないと!」

 引き返そうと体重を後ろにかけたつもりだったが、唐司は更に腕を強く引っ張った。

「駄目!––––––私達じゃ会っただけで死ぬわ!」


 それは武器を携帯していれば話は別、という言い方でも無かった。恐らく堕人と闘うヴェフパークという存在は身体の構造が根本から違うのだろうと思った。


 突然、その叫び声が消えた。

 再び振り返ると、先程の男性の身体はそこには無かった。


「––––––。……え」

 代わりにそこにあったのは、およそ半日前に遭遇した獣の身体をした化物。人間を捕まえ、爪で内蔵を抉り出し、顎で首を捻り取り、足で踏み潰す––––––堕人だった。


「走って‼︎」

 更にスピードを上げる唐司。その顔は蒼白だった。それはこちらも同じだろうが。


 後方では堕人の唸り声なのか叫び声なのか、聞いたことも無い奇声が鳴り響く。––––––まるで獣そのものだと思った。いや、如何に人間を除いた食物連鎖の頂点に立つ動物達でさえ、この様な街中で人間を圧倒する光景など想像が付かなかった。だが、今まさに目の前で、人間とはまた別の生き物が銃も刀も持った人間を圧倒している。


 天流橋で遭遇した堕人を思い出す。が、目の前の堕人とは何かが決定的に違っていた。

 堕人は顔こちらに向け、地面を蹴り、物凄いスピードで迫ってきた。


「やばいやばいやばい!」

 この時初めて死の恐怖を目の当たりにした。この目の前の状況以外何も考えられなくなる。が、思考が空回りして余計に焦りが増すばかりだ。当然足に力が入るが、力むばかりで効率よく地面を蹴ることが出来ない。そのことを自覚してはいるが、体勢を整え直す余裕も時間も皆無だった。

 あのままシェルターに真っ直ぐ向かっていれば、今頃は確実に死んでいただろう。あの男性を手助け出来たかもしれないが、それも恐らくは叶わなかっただろう。


「バイクは何処に!」

「こっちよ!」

 唐司は叫び、研究棟と管理棟の境目で左折し路地裏に入った。すると研究棟の裏口と思われる小さな扉の前に中型の赤いバイクが傾けられてあった。

 唐司はバイクに跨り、黒いフルフェイスのヘルメットを被る。自分もその後ろの座席に腰掛ける。

 先程までの堕人との距離はおよそ四十メートル。もう五、六秒は持つかと思ったが、後ろを振り返ると同時に堕人が姿を現した。その距離はおよそ五メートル––––––。


「捕まって‼︎」

 振り落とされまいと躊躇無く彼女の腰に腕を回す。前輪が浮くほどの急発進。唐司はペダルやレバーを何度か操作し、更にスピードを上げていく。

 すぐ背後に堕人の気配を感じた。荒い呼吸音が耳元に届く。

 暫くすると視界は開け、唐司は右折。六番地と隣接する天門霊送機関の裏側に出る。



 こちら側はあまり被害が拡大していない様だった。右の高くそびえる管理棟、左の一戸建ての住宅街に挟まれながら、公道をひた走る。だが予想以上に人の気配が無かった。

「誰も居ませんが!」

 エンジン音に負けない様声を張る。

「殆どの住民はシェルターに隠れてるわ!」

「この方向だと、僕らは十六番シェルターに向かうんですか⁉︎」

「隣の十七番でもいい!あいつを引き離してからバイクを停めて、その隙に入る!––––––くそっ…マズイ!」


 とすれば、問題は後方の堕人との距離だった。今でもかなりのスピードだ。だが確認しようと右に首を回し後ろを振り向いたその時、視界の真ん中に大きな黒ずんだ掌があった。それはバイクごと自分の身体に直撃し、軽く三十メートルは吹っ飛ばされた。


「が……はっ…––––––」


 突然のことだった。何が起きたのかも理解出来ないまま、ブロック塀に背中を叩きつけ、それを貫通し、民家の窓ガラスを突き破った。




 背中に激痛が走る。

 吐血を何度かし、だが必死にその足を奮い立たせようとする。恐らく脳震盪だろうか、その影響かは分からないが、平衡感覚を失ったままよろける。不思議なことに何度か立ち上がることができ、すぐに辺りを見渡す。

 

 どうやらリビングのようだった。木製の床、額縁、時計、ホワイトボード、テレビ、そして机と椅子に目が留まり––––––


「え…」

 信じがたいことに、人が四人机の下にうずくまっていた。

 恐らく家族だろう。男女の小さい兄妹を護るように二人の夫婦が身を潜めあっていた。


「何––––––やってんですか…」

 こちらの問いかけに、男性目を虚ろにしたまま、他三人は目を瞑ったまま答えようとしない。

「早くシェルターへ––––––」

 地響きが鳴り、この家の敷地に堕人が侵入してきた様だった。

 唐司のことは心配だったが、此処からではその姿を確認することが出来ない。それに真っ先にこちらへ向かってきたということは、唐司には手を掛けていないということだろう。バイクが横転したとはいえ、打ち所が悪くなければ大きな傷は負っていない筈だ。


 天井で大きな物音がした。連続して等間隔に鳴る様子から、どこか打ち破れる場所はないか探している様子だった。


「早く逃げて!此処にいても時間の––––––」

 そこまで言い掛け、思い直す。そして、その父親の目は此方を物凄い形相で睨みつけていた。何を言いたいのかは分かる。––––––堕人の狙いは俺自身。この家族では無い。


 恐らくこの家族はこのまま家に篭っていても、何の被害も被らなければ、命の危険だって無かっただろう。不可抗力とは言え、今自分がここに居ること自体が、直接この家族を危険に晒していることの原因になっていた。


「くそっ…」

 出て行くべきは此方の方だった。だが、今外に出た所で自分の命の危険には変わり無かった。唐司が気を失ったままならば尚更だ。自分はバイクなど運転出来ない。出来たとしても、気を失っている唐司を置いて行くなど論外だ。

 ここに居れば少しの時間は稼げる。だが同時に、無関係のこの家族を危険に晒すことになる。


「何やってんだ––––––」

 そう呟いたのは父親らしき男だった。

「お前ヴェフパークだろ。あれで死なないんだ。堕人と闘えるんだろ。突っ立ってないで早く行けよ。俺たちを危険に晒すな!ヴェフパークは堕人と闘うために居るんだろ⁉︎なら早く闘えよ‼︎」


 完全に目が泳ぎ、その身体は震えていた。


「ちっ…違う…。俺は…そんなんじゃ…」

「うるさいっ!––––––さっき見たぞ…。あれだけ壁を破って…!普通なら死んでるのに!あんたヴェフパークなんだろ!」


 何を言っているのか、まるで分からなかった。だが確かに、吹き飛ばされた自分はブロック塀を突き破ったにもかかわらず、こうして普通に立てている。自分でも信じられなかった。


「助けろ…!市民を助けるのがお前らの仕事だろうがァ‼︎」

 父親は叫ぶ。

 だが天井から再び大きな物音がしたかと思うと、体を縮こまらせ下を向いて震えだした。


 とにかく、このままでは死ぬだけだ。いつまでも籠城戦を続けても、この堕人は逃がしてくれそうにも無い。ヴェフパークの援護を待つというのもアリだが、必ず駆け付けるという保障は無い。何よりも外にいる唐司が心配だ。出来るだけ早く合流し、シェルターへ向かわなければならない。


 ならば今出来ることをするだけ。歯を食いしばり、深呼吸。この際だ、室内を物色しても大きな問題にはならないだろう。武器になりそうなものを捜す。するとキッチンのまな板の上に包丁が転がっているのが目に入った。それを手に取り、廊下に出る。十メートル先に玄関が見えた。だがそれを無視し、二階へ続く階段を上る。時々耳に入る堕人の唸り声が怖くてたまらない。「くそっ…くそっ」と誰に対する苛立ちなのか自分でも分からない愚痴をこぼし続ける。


 だが普通の家だ。武器になりそうなものが一般家庭に早々ある筈は無い。この包丁くらいのものだろう。銃などあるわけも無い。もしかしたら物置の中にそれなりの物があるかも知れないが、その物置がこの無駄に広い家の何処にあるのか見当がつかない。外という可能性もある。だが堕人の視界に入る場所で悠々と武器になる物を捜すことなど出来はしない。

 考えた挙句、あと出来ることといえば、この家からの逃げ方を工夫することぐらいのように思えた。恐らく堕人は物音に敏感だろう。窓を開ける僅かな音でさえ、この閑静な住宅街では耳を澄まさずともよく聞こえるだろう。

 あまり時間も無い。この手で死ねば仕方無いと、妙に諦めがついた。


 


 ベッドの横にある目覚まし時計のタイマーを十五秒にセットする。その時計を開閉可能な窓ガラスとは正反対の位置に置く。

 僅かな物音でも立てようものなら、自分は一瞬で堕人の餌食。忍足一つにも最新の注意を払った。

 

 壁を背に窓越しに外の様子を伺う。

 さっき走ってきた公道が目の前に広がっている。唐司の姿を探したが、街路樹が視界を遮っているからか確認することは出来ない。


 あと五秒。

 堕人らしき気配はすぐ上の天井から今でも感じる。アラートに反応さえしてくれれば、その隙に窓から脱出し、唐司を見つけて物陰に隠れることが出来る。

 もうそろそか––––––。

 窓中央の鍵を半回転させ、施錠を解除する。その時、


 すぐ後方で爆裂音が鳴り響いた。振り返ると何が起こったのか確認するまでもなく、窓とは反対側の壁が粉々になって飛散し、此方に降りかかってきた。体の数カ所に痛みを感じたが、ひるんでいる暇は無いことは分かりきっていた。急いで窓を開けようとするがその必要はなく、瓦礫が窓ガラスを運良く打ち破っていた。飛び降りる瞬間、堕人の大きな口が部屋の半分にまで入り込んで来ているのが見えた。



 左半身を受け身にして、素早く立ち上がる。自分の身体で破ったブロック塀をそのまま潜り抜け、唐司が倒れていると予想した方向へ左折する。そして、案の定。

 唐司はガードレールにその身を預けるように気を失っている様子だった。近くにバイクも横倒しになっている。


 あの時堕人の横殴りをもろに受けたのは自分だ。唐司は直接には受けていない筈。打ち所さえ悪くなければすぐに目を覚ますと思われた。


「唐司さん!」

 駆け寄り、身体を揺すりながら呼び掛ける。手首と首筋辺りに手を当ててみたが、脈は心配無いようだった。呼吸も問題無い。


 唐司を背負い、逃げ場所を考えたものの、やはり周りには先程と同じような一戸建ての居住施設しか見当たらなかった。身を隠せば堕人の追跡をやり過ごせるかも知れないが、万が一見つかった時は、その住民にも被害が及ぶことになる。

 反対側の管理棟に目を遣る。公道の幅は約五十メートル。見つからずに渡り切ったとしても、管理棟内は一本道。身を隠せる場所は無いように思えた。

 ––––––苦渋の決断だった。やはり再び居住施設の中に逃げ込む他無い。窓から飛び降りる瞬間、堕人は此方の姿をしっかり確認している。直ぐに追ってくるだろう。後ろを振り返る。


「––––––!」

 迂闊だった。

 既に堕人は公道に出、しっかりと此方の姿を睨み付けていた。その距離僅か三十五メートル。目が合うや否や、堕人は全速力で此方に向かってきた。

 この唐司を背負った状態では、逃げ切ることすら絶対に不可能。バイクを使えない状況では尚更だった。


 ならば、ただこのまま死を待つのか。この様な想像したことすら無い絶望的な状況下で、自分の思考は案外クリアだった。


 今自分にできること。

 二人で逃げる?不可能だ。

 唐司を置いて逃げる?逃げたところで最終的に二人とも殺される。それに何より、其処まで落ちぶれたつもりも無い。

 もう分かりきっている。

 唐司を地面に下ろし、持ってきた包丁を今一度強く握り直す。この時ばかりは、自分の力を過信してもいいと思った。根拠などは不要だ。一歩でも引けば、それは死んだも同然。いや、過信こそが死に繋がるのかも知れない。が、身体は勝手に前に出た。この握り方も合っているのかどうかも分からないが、身体は勝手に動く。

 包丁を持つ右手を顔の側まで持って行き、肘を出来るだけ後ろに。何も無い左手を前方に押し出す。

 気恥ずかしさなど要らない。理論など要らない。今、この身体の動くままに。


 堕人は四足で突進しながら、その右鉤爪をこちらに差し向けた。眼前に迫り来るその手に対し反射的に包丁を突き出す。それと同時に足は駆け出し、堕人の懐へと向かっていく。

 包丁を突き出しただけではその衝撃をもろに受けていたに違い無い。鉤爪を自分の背後に流しながら、包丁をそのまま振りかざす。堕人の右手から緑色の体液が飛散する。数滴身体に降りかかった様だが、気にしてはいられない。そのまま突進し、再び顔の側に持ってきた右手の包丁を今度は両手で握り締め、堕人の右眼に突き立てた。

 

 勿論、この程度で倒れるなどとは思ってもいない。だが叫び声を上げるか、怯むかくらいのことはあってもいいと思った。だが堕人は此方の攻撃に対し微動だにせず、そして息が耐えた訳でもなく、残っていた左手を此方の胴体に物凄い速度で突き出してきた。


 吹き飛ばされ、唐司の身体を優に超え、地面に五、六回叩きつけられた後、ようやく街路樹に背中を打ち付け動きが止まった。

 

 包丁を右眼に突き立てられたまま、堕人は何事もなかったかの様に立ち上がった。ゆっくりと前進し、唐司には見向きもせず、意識が朦朧とする眼前に立ちはだかった。

 身体が動かない。動かそうとするどころか、動けと強く思う自分ですら無かった。何も考えられない。

 今堕人が自分の首を握り締め、宙に浮かし、左手で身体を貫こうとしていることは見て分かった。だがそれに対する危機感すら無かった。

 微動だにしない唐司が目に入った。せめて彼女には手を出すなと、堕人に反抗する意思と言えばそれくらいのものだった。


 後はこの鉤爪をこの身に受け容れるだけ。そう思ったその時だった。瞬きの瞬間に、目の前に人らしき者が現れ、堕人の顔面をその右脚で蹴り飛ばした。

 それは蒼い髪を長く伸ばし、着物––––––小紋を身に纏っている。自分の身体は地面に落下し、樹木の根に背中を打ち付けた。


 少女はその髪の色と同じ瞳を此方に向け、優しげに微笑む。


 自分の意識は、遂にそこで途絶えた。

 

 


 

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