狩りする少年

 ゆっくりと弓を引くと、少年は二、三歩踏み出した。

 円らな二皮目ふたかわめが三白眼に変じ、やや肉厚な唇がきつく締め上げられる。併せて小鼻が小さく膨らむ。

 草いきれの中、浅黒い肌は汗ばんで鞣革なめしがわのごとく滑らかに光った。

 二頭の若い牝鹿めじかが三白眼の中心に映じている。

 さやかな泉に爪先を踏み入れる二頭を青葉の陰から望みつつ、定められたやじりから獲物までの見えない一直線を少年は頭の中で描いた。

 春の柔らかな陽光に、つややかな牝鹿の毛皮が映える。

 触れれば滑らかに違いないとその手触りを思い描き、少年は奇妙に胸が昂ぶるのを感じた。

 胸の高鳴りを抑える様に静かに息を吐き出し、対象を見極める。

 手前の鹿にしよう。遠い方の鹿は速やかに真っ直ぐ深みに入っていくが、手前の方は折り良く緩やかに進んでいく。

 捕らえたら、誰にも触れさせない。祖父上にも見せまい。頑なに少年は自分に誓った。

 弦が広がり張り詰めていく音が、耳内で拡大する。

 その瞬間、標的がこちらに顔を向けた。少し離れたもう一つの顔も振り返る。四個の漆黒の光が一時に凍りついた。

 居竦(いすく)まれた様に少年は身を固くした。

 騒がしい水音を響かせた後、緑が茂る奥へ獣たちが姿を消していくのを少年は物も言わず見送る。

 弓と矢をそれぞれ手にしたまま両腕は下げられていた。

 形は消えても、牝鹿の足音だけは少年の耳内を叩き続けている。

「なぜ射ないのです」

 高く耳に飛び込んで来た声に少年は振り向く。

 こめかみに汗を点じた面は露骨な苛立ちを含んでいた。

「あ、いえ」

 顔を向けられた声の主は急にたじろぐ。

 少年よりは年嵩としかさだが、これもまだ若い男で、人中まで隠していた鴉羽からすばの扇子を目の下まで引き上げている。

 黒い羽と接しているせいか、男の肌は奇妙に生白く見える。

「見逃してやったのだ」

 少年は顔のしかめを解きつつ告げる。

「牝鹿など射てもさして役立たん」

 そう言い放つと、半ば言い聞かす様に少年は問うた。

「そうだろう、子敬しけい?」

然様さようでございますな」

 鴉羽の男は曖昧に同意する。

「それに今のはどちらも小娘だ」

 少年は悪戯いたずらっぽく歯を覗かせる。琥珀こはくを焦がした様な肌の為か、歯が白く見える。

「母鹿にしてから射た方が得だろう?」

「御意」

 扇の上で切れ長の双眸も細まった。鴉羽から現れる鼻から上だけで判断すれば、男の眉目は秀麗な部類に属す。

 微笑みかける目元には嫣然えんぜんたる趣さえ備えている。

 少年の着物ほど上質ではないが、男も一見して高級と知れる衣装をほっそりした長身に纏っていた。

「あれでは当たりませぬ」

 を鳴らす様な野太い声に、綻びかけた少年の顔が苦くなる。

 だが、声をかけた老人は臆するところなく扇を持つ青年と少年の間に進み出た。

 質素な身なりに固めた体躯たいくは、「長身」というより「巨大」という形容が相応しい。

「手前の鹿を狙っておいででしたね」

 老人とは言い条、その面構えにも弓を握る腕にも尋常の老人らしい萎びた諦めは微塵みじんもない。

 少年は手にした弓に渋面を向けた。

「太子様の構えでは、遠い方の背中に当たるか当たらぬかというところでしたな」

 そう語る老人の背は、弓に張られた弦の如く強靭きょうじんに伸ばされていた。

 黒い扇を手にした若い男は、老人の背を白けた目で眺めている。

 そんな風に興ざめた目つきをすると、蛇に似た顔になると若い男本人が自覚しているかは明らかでない。

 縦にも横にも大きな老人の後方に立つと、鴉羽の扇子を手にした若者は本来もっと小柄であるべき体を無理に引き伸ばした様に見える。

「そうか。次は気を付ける」

 少年は言葉だけは素直に返した。

 言いながら、矢を持つ指先で弓の弦を弾く。

「だが、最初から当てるつもりは無かった」

 少年の語る口調には既に完成された形と独特の重みを備えていたが、話す声音は大人になる一歩手前でたじろぐ色を多分に帯びていた。

「その様な事は聞いておりません」

 鼓を打つ様な老人の声が飛ぶ。

「つい先だっても私めが正しい構えをお教えしましたのにまだ悪い癖が……」

「承知したと言っておるだろう」

 最後まで言わせず、少年はさえぎった。

 尚も言いかける老人を打ち切る様に、少年は背を向けて歩き出す。

 鴉羽の若者もそれに続く。

 老人の脇を通り過ぎる際、黒羽をはためかせながら若者は横目でにいっと笑うが、老人は目もくれない。

 茂みから泉の岸辺に下りると、少年は初めて歩調を緩める。

 歩みにまで苛立ちを露にして、老人の叱責を気に懸けていると示すのが業腹ごうはらであった。

 また、経験的にそうした振る舞いはたちまち見咎められ、新たな指弾の種になるとも少年には思われたのである。

 全く、子胥ししょはどうしてこうも小うるさいのだろう。

 この前、弓の練習をした時だって、二言目には「違います」と四方に響き渡る様な声でまくし立てるものだから、わしはすっかり嫌になり早く終われとばかり思っていた。

 子敬の言う通り、あいつは他人に教えるには適さぬ性質たちなのだ。

 儂自身が分かり切っていて敢えて口に出さぬだけの事にまで、いちいちあげつらってはこちらが無知であるかのごとく扱う。

 今だって、まるで幼子おさなご痴愚ちぐに対するがごとき物言いではないか。

 そこまで考えて、少年の中では遠い過去に属す幼時の記憶が蘇る。

――初めてあの老爺ろうやを見た時、自分は恐怖のあまり火が点いた様に泣き出した。

「怖い者ではありませんよ」

 記憶の中の、まだ幾分若いその頃の子胥が笑って高く抱き上げる。

 いかつい手が幼児の柔らかな腹を潰さんばかりに掴み、一瞬前まですぐ目の下に接していた地面は今や遥か遠方に広がっていた。

 幼い自分はますます声を高くして泣いた。

 赤黒い岩石がごとき子胥の顔が間近に白い歯を覗かせている。

 当時は黒く豊かだったそのびんは、幼子の目にはまるで漆黒の針山の様に映った。

「子胥殿、危ないですから、お気を付けて」

「そろそろ下ろして差し上げたら良かろう」

「むずがっておいでだ」

 周囲の笑う声が下から湧き上がってくる。

――背後に足音を二つ耳にしながら、少年はカッと頬に血が上るのを感じた。

「案外、ちっぽけだな」

 鹿の足音が点々と残る泉を見渡し、少年は後ろの二人に聞こえるよううそぶいた。

 獣の足跡の点いたみぎわは、その箇所だけ水が土色に濁っている。

 しかし、水が少し深まる辺りからは清涼に澄んだ泉である。

 奥まった深みは、心なしか紫がかって見える。

 水の質が常と少し異なるのだろうか。

 だが、鹿が平気なら人にもさして害はあるまい。

 水面から吹き付ける風は青葉の香りを含んで、少年の熱い頬をひんやりと撫ぜる。

 顔の汗がすっと退いて濡れて肌に張り付いていた衣の脇下が徐々に剥がれるのを少年は感じた。

 泳ぎたい。

 降って沸いた様に少年は欲した。弓矢を放り衣を脱ぎ捨てて泉の水に体を浸す快楽が心を捉える。

 早朝から無駄に流した汗もこびり付いた塵埃じんあいも何もかも洗い流したかった。

 だが、あいつはそんな逸脱いつだつを許さんだろうな。

 少年は言い出さぬ内から老人の反対の言を予測する。

「まだ、狩りは終わっておりませぬのにもう怠け心が出ましたか」

「獣が出入りした水など不浄です」

 反対する理由は幾らでもある。

 背後で土を踏みしめる重い方の足音に、少年はまたも腹に力を込めた。

 茂みのがさつく音がして、背後の足音が賑やかになる。

 他の臣下たちが追いついたと少年が察する前に、一匹のいぬが足元に駆け寄ってきて纏わりついた。

「いやあ、やっと追いつきました」

「太子様はお足が速い事で」

「おや、うさぎですか」

「先刻儂らが通りかかった際にちょうど巣から出てきましてな」

「後で煮たら美味そうだ」

「しかし大きな兎ですな。小ぶりの狗程はある」

「この辺りは餌が良いのでしょう」

 いよいよ泳ぐのは無理になった。

 少年は振り向かずに小さく舌打ちする。

 こうなっては、儂も何か捉えねばなるまい。

 臣下が獲物を得た以上、自らが空身で逍遥しょうようする事は少年の自負心が許さなかった。

「帰りましたら、早速これを煮込んで汁にしましょう」

「これこれ、お気が早いですよ」

 後ろで尚も続く談笑が耳をつつく。

 兎の一羽や二羽、仕留めたから、それがどうだと言うのだ。兎の肉など、儂は嫌いだ。

 気付かずに爪先で蹴ったこいしが水に入り、滴が僅かに裾を濡らす。

 両の沓底くつぞこにも湿り気がじわじわと迫りくる。

 少年は沓の中で足指を擦り合わせた。この沓もそろそろきつくなってきた。

 沓に押し込められた足ばかりでなく、脚の節々も引っ張られる様に痛む。

 無心に感じていた事を頭の中で言葉にすると、少年には急速に沓の窮屈さが堪え難く思えてきた。

 このまま山野を巡り、城に帰り着くまでこれを足にめていなければならないのだ。

 一刻も早く、終わらせて帰ろう。

 先刻は、迷わずに射れば良かった。

 少年はそう認めないわけにいかない。

 老爺はああ言ったが、一方を狙った矢が他方に当たろうと、獲物が手に入れば同じ事だ。

 顧みれば、従者の腕には形容通り仔狗程の兎がだらりと垂れ下がっている。

 赤黒くこびりついた血や土くれを洗い流せば綿の様に白くふくよかな毛皮が得られるだろう。

 膝に狗の荒い呼吸を感じつつ、沓先を淵から遠ざける。

 しかし、少年の足を泉から遠ざける理由は狩りに戻るからだけではない。

 迂闊うかつに自分なり家臣なりが足を踏み入れて、清澄な水が忽ち汚泥おでいに犯されるのが厭だった。

 そうでなくとも、自らの体にこびり付くけがれをこの水に落とすのが躊躇ためらわれてきたのだった。

 再びくさむらに分け入りながら、少年は紫のしゃが透き通った水一面に広がって、あたかも泉の色そのものであるかの如く見る者の目を欺く様を連想した。

蟷螂かまきりか」

 みぎわを歩く臣下たちに、一足先の叢から太子の声が届く。

「草の先がおかしいと思ったら、これだった」

 小走りに草の中に入ってきた鴉羽の若者に、少年は指先に摘んだ獲物を示した。

「お目が利きますね」

 とっさに近寄っては来たものの、若者は虫が少し苦手らしく、身を竦める様に扇子を目下まで引き上げた。

「子敬、蟷螂くらいで怖じ気づくな」

 少年はくすぐられた様に笑うと、相手の手にした鴉羽すれすれに蟷螂を近付けたり遠ざけたりした。

 相手の若者も合わせて大袈裟に身を退いたり戻したりするが、黒羽の上の目は笑ってはいない。

「生意気な顔をしているだろう」

 少年は、傍らの若者に聞かすともなく呟くと、葉脈に似た手足をばたつかせている生き物の顔つきを改めて眺めた。

 逆三角形の面はかやの葉の端を切り落とした様に鋭い。

 その輪郭を半ば飛び出す形で両の目が点じている。

 黄緑色の両眼は、あたかも葉先に生じた朝露がそのまま零れ落ちずに凝固した様に映る。

 生意気な顔とは言ってみたものの、今手にした一匹に固有の何かを見出した訳ではない。

 種族一般に共通する特徴を述べたのである。

 常日頃から、葉や茎の緑に身を紛らす蟷螂が、意思を持ち動く力を備えた草木の変化へんげに少年には思えていた。

 すばしこく飛び跳ねる飛蝗ばったや艶やかに舞い飛ぶ胡蝶こちょうを蟷螂が捉えて喰らうのは、きっと動けない時に食い物にされた草木の復讐なのだ。

 そう思うと、今自分を取り巻く緑の息吹きが、ねめ回す様に不気味に感ぜられた。

 自分たちの可憐な連枝を早く放せと囁いている様にも思えた。

「太子様」

 ぎくりとして声の方角を見やると、子胥が立っていた。

 他の老臣や侍従たちもその背後から一斉に自分を凝視している。

 獲物の白い大兎を抱えた、自分とあまり年の変わらぬ侍従だけが、俯いて毛皮のちりを摘んでいた。

 一群の中央に聳そびえ立つ子胥は、少年に呼び掛けたきり口を閉じて何も言わない。

「おっ」

 鴉羽の若者は自分に向かって飛んできた蟷螂から声を上げて飛び退く。

 少年は早くも臣下たちに背を向けて歩き出していた。

 虫捕りなど児戯じぎに属すとあいつらは思ってるんだろう。

 蟷螂を捉えて喜ぶなど稚気そのものだ、とでも。

 少年は唇を噛んだ。

 儂だって、そんな事は分かっている。

 子胥が呼び掛けたまま黙したのも気に食わなかった。勿体もったい付けずにはっきり言ったらどうなんだ。

 先を駆ける狗の尾が盛んにパタパタ振れる。

 追って進む茂みは下り坂になり、沓の爪先がますます足の指を締め付けてくる。脱ぎ捨てて、あの老爺の鹿爪らしい顔に投げつけてやりたかった。

 狗は軽やかに四肢を駆って、あるじとの距離を広げていく。

 沓の下が青草から赤土に変わったと認め、二三歩踏み出した瞬間、かかとが滑って視界が大きく揺れ動いた。

「ここは斜面が急で、ぬかるんでおりますからお気を付けて」

 低く太い弦の調べに似た声が、少年の耳内を震わせた。

 少年の薄い腹にも、がっしりと子胥の腕が巻き付き食い込んでいる。

「分かった」

 はためく狗の尾が、見詰める少年の視野の中でどんどん小さくなる。

 滑った拍子に右の沓が半ば脱げ、汗に蒸れた踵がぬめった土と触れ合っていた。

 汗ばんだ背中に接する子胥の胸も腹も平静で、あたかも平坦へいたん小径こみちを歩き出したばかりの人に抱き止められたかの様であった。

「注意する」

 脱げた沓を直すべく少年が屈むと、老人は同時に腕を離した。

 薄皮の向けた踵を再び沓の中に入れ直すと、琥珀色の眉間に瞬間深く皺が刻まれたが、少年は努めて平生へいぜいの面持ちに戻した。

「うわっ」

 甲高い声に少年が振り向くと、鴉羽の若者が赤土に尻餅をついていた。

「大丈夫か、子敬」

 声を懸けながら、少年は笑わずにいられない。

 相手の転んだ様が滑稽だったからではなく、自らの失態を打ち消す者の出現に安堵を覚えたのである。

「ご心配無く」

 女の如く優しげな声で若者は返したが、腰を強く打ったらしく、赤土に腰を下ろしたままその辺りを撫でさすっている。

「言ってるそばから」

 伍子胥が半ば呟く様に顧みるが、伯子敬は目を合わせずに立ち上がって衣の土くれを落とした。

 汚れた生地に生じた小さなれ目を発見すると、一瞬癇癖かんぺきじみた引きつりが子敬の端麗な眉目を襲う。

 しかし、それは飽くまで一瞬で、主君たる少年に向き直る頃に、青年は笑みを湛えた顔つきに戻っていた。

 その転変を見て取ったのは、間に立つ子胥だけである。

 他の臣下たちが三人に追いついて合流した。

 痛む踵を前へ前へと運びながら、少年は行く先から狗が小走りに戻ってくるのを認めた。

 狗は真っ直ぐ人の群れに近付くと、少年の膝に鼻面を擦り付けた。

 帰るまでに着物に狗の毛が山ほど付きそうだと思ったが、不思議に嫌ではなかった。

 飼い慣らされ、自分にすり寄ってくる畜生が奇妙にいじらしく思えた。

 湿った赤土が黒く乾いてきて、爪先の締め付けが幾らか弱まってきたと思うと、急に開けた野に出た。

 いきなりまぶしい光を注がれて、少年は思わず空を見上げる。

 細めた眼に焼き付く霞のかかった空は、薄青とも白とも言い切れぬ色彩に染め上げられている。

 少年たちの真上で、雲が刻一刻と形を変えながら青白く燃えている。

 だが、遠くの木立と接する空の周縁に向かうにつれ、連綿と続く雲は靉靆あいたいと灰色を帯びて垂れ下がっていた。

 きっと向こうは雨なのだ。頭の片隅で少年は思う。

 歩いていく野の一面に青緑の草が生えていたが、せいぜい少年のすね辺りまでしか伸びていない。

 少し離れた所に、二匹の白い胡蝶が一定の近しい距離を保ちながら飛んでいる。

 細く尖った草の端すれすれに舞い飛ぶ様は、春風に運ばれていく花弁にも似ていた。

 蟷螂や蜘蛛の巣に捕らわれなければ良いがと案じつつ、少年は我知らず胡蝶の泳いでいく方に足を運ばせていた。

 薄皮の剥けた踵が沓の中で擦れ合い、粘ついた痛みが走る以外は、特に不愉快ではない。

 だが、その痛覚こそが少年の意識の底を陣取っていた。

 それにしても、獣の姿は一向に見当たらない。いるとすれば、足元に従う狗だけだが、腹を減らしているのか、先刻に比して足取りが鈍い。

 膝丈程の叢に、狗より大きな獣が身を潜めよう筈がなかったが、ねずみ一匹姿を見せないのは不思議だった。

 何故、欲しい時には獲物が現れないのだ。そう舌打ちしたくなる一方で、見つからないのならそれでも良いという気もした。

 狙うべき対象が見当たらないのは、自分の力量とは何ら関係がない。

 しかし、このまま手ぶらで帰るのでは面子が立たないだろう。

 祖父上が何とおっしゃるか。

 沓がまた、少年の両足を強く締め付ける。

 いつの間にか、胡蝶の白い羽の青黒い縁取りや中央の黒い斑点が確かめられる距離にまで、少年は近づいていた。

 この二匹はつがっているのだ。

 自分と狗から逃げる様でもあり、また、誘う様でもある二個の生き物に少年は思う。

 即かず離れず舞い飛ぶ一対の姿は、いずれが雄とも雌とも判らない。

 少年は目の前の二匹にある種の羨望を覚えずにいられなかった。

 無論、空を飛ぶ習性に無限の自由を見出す程、少年も幼くはない。

 だが、少なくとも沓がきついとか踵の皮が剥けて痛いとかいう事由で胡蝶が苦しむ事は無いのは確かだ。

 また、番の結び付きで考えれば、心変わりしたり不和を起こしたりする事もなく、始めから終わりまで、二匹の繋がりの中で充足しているのだろう。

 そこで、少年の脳裏に幾つかの顔が浮かぶ。

 数月か前に、妃として送られてきた少女。

 侍女とも妾ともつかぬ、曖昧な形で侍る娘たち。

 好か悪か問われれば、どの女も嫌ってはいない。

 しかしながら、こうした場合に自分と対をなす片割れとして思い描ける顔は、その中にはついぞ見当たらないのだった。

 人と虫とでは違う。そうは思っても、少年は眼前の一対に自分より浄福な何かを感じずにいられない。

 未だ名も知らず、面差しも朧気おぼろげな伴侶と共に胡蝶に変じ、蒼天そうてんを飛翔する夢想が、一対を追う少年の頬を僅かに綻ばせた。

 行く手から流れてきた雲の影が、暗緑色の地に胡蝶の羽をひやりと青白く浮かび上がらせて少年と狗の上を通り過ぎる。

 陰を出た少年は思わず眩しさに目を細めた。

「太子様!」

 振り向けば、百歩程離れた地点に鴉羽を翳した子敬が立っている。

 他の臣下たちも更に数歩遠のいた位置から一様にすがめた面持ちで少年を眺めていた。

「そちらに行かれてはなりません」

 甲高かんだかな声で続ける子敬の姿が一瞬、雲の影に包まれて、再び白日はくじつの下に吐き出される。

 後方の家臣たちの群に混ざる、頭一つ高い子胥のおもてにも影が一時覆って通り抜けた。

 炯炯けいけいとしたその眸子ひとみは、陰日向に関わらず一貫して見開かれている。

「そちらに行かれますと、遠回りになります」

 瞬きの少ない両眼から今度は子胥が低い声を発した。

 鋭い眼光が「戻れ」と雄弁に告げている。

「分かった」

 この声ではあいつらに届くまいと知りつつ、少年は顔を元の方角に向ける。

 胡蝶の一対は既に二つの小さな点に変じ、蒼穹そうきゅう緑野りょくやのあわいに紛れて消えていった。

「承知した」

 雲の去った方に告げてきびすを返すと、元来た道が微妙に上り坂になった。

 行く先では子敬の黒い鴉羽の扇が招くが如くひらひらはためき、狗が少年に先立って多勢に向かう。

 だが、少年は歩みを早めない。衣の裾に貼り付いた狗の毛を取り払う手だけが忙しげに動いた。

 あるじたる少年との距離が半ば程縮まると、臣下の一団も緩やかに動き出す。

 と、一群の後尾から、先ほど捕らえられた獲物の白兎を抱いた侍従が直に吐き出された。

 肩幅広く、ずんぐりした体つきをしているものの、まだ年配としては従僕たちの中でも一番幼い少年である。

 まるで童女が人形でも抱く様に死んだ獣を両腕に納めていた。毛繕けづくろいでもする気なのか、しらみ取りでもしているのか、幼い侍従は蟷螂を捕らえた叢で目にした時と変わらず俯いたまま白い毛皮を摘んだり撫ぜたりしている。

 すぐ前を歩く幾分年嵩らしき侍従が、そのさみを顧みて何事か口を動かすのが認められた。険しい表情からして、もたもたするな、とでも言ったのだろう。

 すると、兎を更に強く抱きしめる格好で、少年の侍従は上目遣いにおたおたと足取りを早めた。

 一歩踏み出す度に兎の尻に少年の膝が当たり、死んだ獣の下肢が大きく反り返る。

 何とほうけた奴か。

 普段なら吹き出したくなる光景に、主たる少年は思わず自分と同年配に見えるその従僕を張り飛ばしたい衝動に駆られ走り寄った。

「おい」

 語気鋭く駆け寄る王太子の姿に従僕たちは一瞬固まった後、ひざまずいて目を伏せる。兎を擁した少年も同様である。

 前方の重臣たちもどうした事かと立ち止まる。

「お前だ」

 熟し切らぬよわいを滲ませた太子の声が、足元にぬかずく従僕に落ちた。最も幼い従僕は、まるで守るかの様に息絶えた兎を胸に引き寄せたまま恐る恐る顔を上げた。

「獲物を見せてくれ」

 命じる少年の声音は、ごく僅かにだが、穏やかなものに転じていた。

 狗みたいな顔だ、と自分を見上げる従僕を眺めて思う。何か言い掛ける様に口を半ば開けているのは、本人には意図せぬ所作なのだろう。

 主君たる少年は想像の中で眼下の従僕の鼻先に墨を塗る。そうするとますますその顔は狗に近付く気がした。

 儂が仮にそんな戯れを働いてもこの者は辱められたとも思わないのだろうか。

 自分を見上げるしもべの目に畏怖や鈍重な忠実を認めると、少年の中で癇癪かんしゃくじみた怒りが急に解けていく。

 何故一瞬でも激しい怒りを抱いたのか我ながら訝しく思った。

「良い兎だ」

 少年はまるで眼前の僕が獲物を仕留めたかの如く告げると、兎越しに相手に微笑みかけた。

「そちの名は?」

 薄く膜を通した様な従僕の眼光がたじろいだ。

狗児くじと申します」

 隣の従僕が代わりに答えた。先刻、叱り付けていた者である。

「狗に似ておるからか?」

 太子たる少年は肩を揺らして笑う。

「それもございますが、昔は少々懲らしめただけでもわんわん泣きましたので」

 跪いた従僕たちの間に押し殺した笑いが広がった。

 狗児と呼ばれた従僕の少年は、殺された兎を高く掲げた態勢のまま、太子の肩越しに広がる空を見ている。

 虚ろなにび色の目に、流れていく雲が映っては通り過ぎる。

 主の少年は、見下ろす相手の擦り切れた袖口から抜き出た裸の両腕に、治りかけの切り傷や痣、火傷の痕が点々と現れているのを見て取った。

「狗児、か」

 声に出して従僕の名を繰り返しながら、少年は胸中自らの名を書く。

 夫差ふさ。この名にはどんな謂われがあるのだろうか。

 字面から卑屈な意味合いは読み取れない。

 だが、この名が自分に与えられるまでには、型通り聞かされた以外の事情が含まれているのかもしれなかった。

 白兎を通して従僕の面から肩にかけて落ちた自らの影を、夫差は視野でかたどる。

 まだ字も知らない頃に自分を撫でた甘く優しい声の響きがおぼろに蘇って消えた。

 それは仮に存在したにせよ、曖昧模糊あいまいもことした過去の中に仕舞い込まれ、遂に捕らえる事が叶わないのだった。

 母上も、既に亡い。自分の影に紛れながらも、鋭く通り抜けていく微小な影の形が夫差には透いて見える気がした。

「狗児、気を付けて持て」

「畏まりました」

 そこで、従僕は初めて声を発した。

 意外にも明確な語調で、しかも、夫差の年配に特有の割れた声ではない。

 この者は、見かけよりもう少し年上なのかもしれない。

 兎を腕に抱き直す狗児を見下ろしながら夫差は改めて思う。

 この者もきっと昔は母親の腕に抱かれ、別の名で呼ばれていたのに、今はその名を忘れて侍従をしているのかもしれない。

 白兎を抱きかかえた腕に残る、無数の黒ずんだ古傷の跡を眺めると、そんな思いもぎった。

「おお!」

 背後の声が夫差の想念を打ち破る。

 夫差が振り返ると、子胥の灰色の頭が目に入った。

 少年の視線に背を向けたまま、老人は構えた弓を静かに落とすところであった。

たかですか」

 一団の前方から声が飛び出たが、甲高さで子敬と知れる。呼びかけた声は、語尾に何やら湿った笑いを含んでいた。

 今の小さい雲の影は、実は鷹だったのだと夫差は気付く。

 狗児ならぬ本物の狗が、新たな獲物を食わえて子肯の足下に駆けつける。

 その様子に夫差は急速に両足の痛覚を取り戻した。

 子胥の広い背中が息急く狗に向かって屈む。

 狗が食わえた鷹は矢を腹に刺しつつもまだ息があり、鋭い爪を剥きだして脚をばたつかせている。

 子胥の赤黒い手が体を掴むと、鳥は銅板を引っ掻く様な声を立てた。

 夫差は身震いする。

 老人はおもむろに主の少年に向き直った。

「まだ生きておるではないか」

 早く殺せ、という言葉が、言い掛けた夫差の喉元で詰まる。

 子胥は夫差の顔を見つめながら、ふところから匕首あいくちを取り出した。

 鷹は喚き続けている。矢に貫かれた腹が赤茶を滲ませつつ激しく上下した。

――殺せ。殺せ。早く殺せ。

 夫差には何故か鳥がそう自分たちを挑発しているかのごとく映った。

 子胥の双眸は相変わらず立ち尽くす少年の主君に注がれている。その一方で鳥の首を掴む赤黒い手が握り締められていくのを夫差は認めた。

 絞められた鷹がギョロリと目を剥くのが、離れた地点に立つ夫差からも確かめられた。

 子胥は突然倒れ込む様に青草に膝を着いた。草の激しくガサつく音がする。

――殺せ。殺せ。一思いに斬れ。

 きつい沓が夫差の両足を締め上げる。

――殺すな!

 子胥に釘付けられた一団の目に稲妻が走り、青草から覗く白髪頭から鮮血が散った。

 夫差は弾かれた様に子胥に走り寄る。従僕の少年も狗の如く太子の後を追った。

「往生際の悪い奴ですな」

 子胥は首と体が切り離されてもまだ僅かにわなないている鷹の爪を示した。血塗れの老人の顔は綻んでいる。

「所詮、畜生だからな」

 そう応える少年は笑わない。

「ほう、見事な羽ですな」

 いつの間にか子敬がやってきて扇子を口元に当てている。扇子の上の目が、朱に染まった鷹の羽を眺めながら、値踏みする様に細まる。

「一度で仕留めなければなりませんでしたわい」

 疲れを滲ませた顔で呟くと、子胥は袖で顔に浴びた血を拭った。

「三日前、陛下にお供した際は、くぐいを一矢でお仕留めになりました」

 だが、老人がその言葉を未だ語り終えぬ内に、夫差は無言で日の傾いた緑野を歩き出していた。

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