逆光の男(一)

 陽の光が、朝の爽やかさから昼の激しさに転じつつある。


「それでは、始め!」


 中庭で試合の開始を告げる声が響いた。

 二人の男が互いに手にした棒を叩き合わせ始める。


 庭に面した廂(ひさし)の下、横一列に座した越(えつ)の臣下たちはその様子を見守った。

 日陰とはいえ、正装した男たちにはこの南方の地の蒸し暑さは本来、耐え難い。

 列臣たちはいずれも退屈さを儀礼的な無表情に紛らした面持ちで、時折額の汗を拭っていた。


 しかし、ただ一人、末席に座した男だけは、まるで涼やかな風にでも吹かれている様に、手にした白い羽作りの扇子を膝に持ったまま、遠方を眺める目をしていた。

 これといって際立つ美点などはない、平凡な顔立ちの男である。

 否(いな)、平凡というより、極めて特徴に乏しい貌形をしていた。


 男の視線の先にある梨の枝には、勢いを増す葉の緑に埋もれる様に、梨の花が転々と白く残っている。

 梨花の右隣では柳が葉を揺らす。

 梨の樹の左には辛夷(こぶし)が植えられていたが、迎春花(げいしゅんか)はとうに姿を消していた。


 男の眼差しは元より冷たく見据える性質のものではないが、さりとて風に散りゆく花やそよぐ枝葉に感じ入って眺める風でもない。

 その視線を特定の事物や目的に結び付けようと試みると、必ず新たな疑問が生じてしまう。

 ――わけのわからん奴だ。

 男の目線を追う者は、大概そう結論づけて匙(さじ)を投げるしかない。


 試合は最初の突つき合いから、互いの出方を窺って佇立する状態に入っている。


「陛下もよく飽かれもせず鍛錬なさる事だ」


 縁側で見守る臣下の一人がぽつりと言った。


 陛下と呼ばれた青年は、自ら治める領地に降り注ぐ強い陽光を映した様な、蜜(みつ)色の肌をしていた。

 異様なまでに長い眉と目が、小さな面(おもて)の中で一際大きな位置を占める。

 切れ上がった眦(まなじり)は墨を捌けた様に黒く、正面から臨むと、双眸(そうぼう)には幾らか斜視のきらいがある。

 肉薄の鼻は尖り、唇は厚みに乏しいが突き出て黒ずんだ赤褐色を呈している。

 頸(くび)は太く、常より長かった。

 越王(えつおう)勾践(こうせん)に相見(あいまみ)える者の多くが、その容貌から鳥、殊に若い鷹(たか)を連想する。

 今、鍛錬に没頭するその影は、長身の後ろに引かれた尾(お)の様に、細く長く形作られていた。

 そして、燦燦(さんさん)たる日差しを浴びたその表情は、日陰に座して見守る臣下たちの目には覇気溢れるというよりも、幾らか凶相じみて映った。


「お若いからな」


 また、誰かが呟いた。


「儂(わし)もこの前ご相手したら、明くる日は痣(あざ)だらけだった」

「加減をご存知ない」


 糸が解けた様に臣下たちの口から呟きがこぼれる。

 古参の臣下は暑さに耐え兼ねるとばかりに襟元を緩め始めた。

 末端の男は、口を閉ざしたまま身じろぎ一つしない。

 いずれの様子も、離れて試合に没頭する主従二人には届かない。


「大夫(たいふ)殿は、半月前も手合わせしたばかりではないか」


 縁側の列で、また一人が訝(いぶか)る。


「陛下のご気性を知らんのか」

「負かすまで諦めぬ」


 列の処々(しょしょ)で嘯(うそぶ)く声が続いた。


 大夫の文種(ぶんしゅ)は、齢(よわい)三十を大きく出ない男である。

 中背の小太りだが、棒を構えた姿勢に鈍なものはない。

 豹虎(ひょうこ)の如く丸い顔は赤く焼け、油を引いた様に汗で光る。

 濃く短い眉の下、小さく円らな両眼がぎょろりと見開き、対手の動静を窺う。


「はっ」


 勾践から声と共に飛んで来た棒の先を、文種は肩先で止め跳ね返す。

 反動で勾践は少しよろめいた。


「ほっ」


 そこに文種の鋭い突きが入る。棒は主君の首筋すれすれの位置を通り抜けたが、勾践の面には現実に刺し貫かれた様な苦痛が浮かんだ。

 若い主君は勝ち気らしく平静な面持ちに戻そうとするが、苦みは完全には消えない。

 事実、間近に向かい合う文種の目には、勾践の項が剥けた李(すもも)の如(ごと)く薄紅く滲むのが認められる。


「構うな」


 構えを解き掛けた文種の先を制して勾践の口から声が飛ぶ。言い切った唇が歪んで閉じる。


「文種が勝つか」


 日陰に座す老輩の一人が言った。

 直接口には出さないが、何となく同意する空気が広がった。


「陛下も大夫殿には勝てぬ」


 また別の若い声が小さく笑うと、憫笑めいた忍び笑いが老若の顔に張り付く。


「いや」


 列の末端から異質な声がこぼれ落ちた。

 一座の耳目が一斉に声の源を向く。


「大夫殿は、勝ちますまい」


 今日はよく晴れましたな、と空を見上げて漏らす様な語調である。

 声の主は、庭の一角を望んだまま面を動かさない。

 中庭では、若い主君が文種の猛攻に後ずさっている。


「まあ、確かに」


 傍らの老臣が鷹揚に笑って緩めた懐から扇子を取り出す。


「勝負ごとは最後まで分からぬものじゃ」


 呵々(かか)たる笑声と共に老臣の扇子がはたはたと揺れる。

 それを皮切りに、他の臣下たちも暑さに耐えかねるといった風情で、顔を拭ったり、忙しく手で扇いだりし始めた。


「陛下が三分で文種が七分といったところかな」


 件の老臣はそれでも甘く評価してみた、といった風に首を傾げた。

 不意に、末席の男の顔が振り向く。


「水を盥(たらい)一杯用意せよ」


 末席の男の目と声が、居並ぶ同僚たちを擦り抜けて、陰の様に奥に控えていた侍従に届く。


「はっ」


 呼びかけられた侍従はぴくりと身を起こした。

 張り詰めた声音といい、面差しといい、まだ少年と呼んでも良い年頃の者である。


 その様を顧みる男の顔は、鼻を境に半分は影に浸されている。

 だが、明るみに出た半面は安んぜよと相手に微笑むかに見える。


「それから酒も。こちらは杯(さかずき)一杯もあれば良い」


 男の声は飽くまで平らかで威圧や誇示の色を帯びていない。


「承知(しょうち)仕(つかまつ)りました」


 少年が勢い良く走り去るのを、末席の男は軽く頷いて見守った。


 ――一体、どうする気だ。


 口には出さないが、他の臣下たちは不可解な苛立ちを込めて末席の男を睨む。

 江南生え抜きの人々の中にあって、薄日が炙り出す男の肌は幾分白く、蒸し暑さとはどこか無縁に見える。


「仰る通り、試合は決まるまで分からぬものです」


 笑みを含む声で語ると、末席の男はまた顔を中庭で相打つ主従に向けた。

 勾践の守勢は変わっていない。


「ですが、愚見(ぐけん)では」


 静かだが、柔らかに刺す声が続く。

 この男は、江南特有の訛りを殆ど持たない。


「陛下が九分で、残りが大夫殿です」


 筆者注:迎春花(げいしゅんか)とはは、辛夷(こぶし)の花のことです。読んで字の如く、「春を迎える頃に咲く花」ですが、この場面では初夏に差し掛かった季節なので、既に散っています。

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