二人の傾城ーー西施と鄭旦

吾妻栄子

姐妹花

 花盛りの海棠かいどうの木々が取り巻く湖のほとり、小魚を獲る娘が二人いる。

 一人は緑衣で、いま一人は青衣をまとっていた。


 遠目には手足のすんなり伸びた華奢な体つきは二つながらに見分けがつかず、近づいて見てもいずれも肌白く尋常ならぬ目鼻立ちは姉妹かと思わせる。


 だが仔細しさいに見れば、緑衣の娘の顔は白いながらも頬はうっすらと赤みが差し、小さいがやや厚めの唇は白絹に朱を点じた様に鮮やかであった。

 細身ながらも、緑の木綿もめんが濡れて張り付いた胸や臀部は豊かに肉付いている。

 黒目の勝った大きな目は、湖面の光を反射しつつ、微かに笑っているかに見える。


 これに対し青衣の娘の顔は、肌が衣の色を映した様に全体に青白く、水気を含んだ青の木綿が覆う体つきは若木わかぎの様に一直線で、年頃の娘というより少年のそれに近かった。

 湖面を一心に覗き込む端のやや釣り上がった目といい、小さく引き締まった薄桃色の口元といい、端正ながらもどこかきかん気で幼いものを感じさせた。


「あんた」


 不意に、緑衣の娘が青衣の娘に振り向いて言った。

 笑いを含んだ甘く優しげな声である。


「それじゃ逃げちゃうわよ」


 緑衣の娘が話す内にも、青衣の娘のか細い両腕からすいすい魚は逃れていく。

 青衣の娘は細いがくっきりと濃い眉を吊り上げた。


「そんなにバシャバシャやったら魚が驚くわ」


 話しながらも緑衣の娘はしなやかな手つきで水中に布網を広げ、小魚を二匹ほど絡め取ると、腰に巻きつけた壺に収める。


 壺の重さで垂れ下がった帯紐をきつく締め直すと、腰高い体つきがいっそう明らかになった。


「あたしは姉さんみたいにはいかないもん」


 青衣の娘は自分の布網を広げると溜め息をつく。

 また、空振りだ。

 網目から水滴だけが、ポトポトと元の湖面にこぼれ落ちていく。


 青衣の娘が舌打ちして萎んだ布を丸ごと水中に放り込むと、布網は広がりながら沈んでいった。

 見詰める青白い眉根に自ずと皺が寄る。


「そのくらいでふてくされないの」


 姉さんと呼ばれた緑衣は、呆れたとも諭すともつかぬ口調で言うと目を細めた。

 細めると、長い睫毛に縁取られた双眸から元より少ない白目がほとんど消え、黒目だけが柔らかな光を放つかの様である。


 青衣の娘は背を向けたまま何も答えない。


「私はもう終わりにするけど、あんたはまだやる?」


 捕らえた魚たちがピチピチひしめく壺の口に栓をすると、緑衣の娘は自分の布網を絞った。


 夕暮れにはまだ間があるが、日は南中をとうに過ぎている。


「魚!」


 突如として背後に上がった声に緑衣の娘が振り返ると、しぶきが音を立てて飛び散るところであった。


 水面すれすれに銀色のひれがチラッと日の光を反射する。

 次の瞬間、鰭は姿を消し、次いで青衣の娘の黒髪が墨を落とした様に湖面に広がって吸い込まれていくのが確かめられた。


小旦しょうたん!」


 魚と泳ぎを競って捕らえようというのか。

 緑衣が呼び掛ける頃には、潜っていく青衣の色は深まっていく湖の色に紛れて、みるみる見分けがつかなくなった。


「馬鹿ね」


 緑衣の娘は、苦笑する。

 水しぶきが上がった辺りには、先ほど投げ捨てられた布網がふわふわ漂っていた。

 緑衣の娘は水の中を進んでいくとそれを拾い上げて絞る。


 一瞥した鰭の大きさから、青衣の娘が見つけたのはかなり大きな魚だと推察できた。

 むろん、人が泳いで追いかけて捕まえられる類のものではない。

 幼子でも分かりそうな話である。


 それをあの子は見つけるが早いか飛び込むんだから。

 緑衣の娘は苦笑いする。

 あの子はいくら教えても漁は不得手なのに、泳ぎの方は初めから達者だ。

 生まれつきの素質もあるが、余分な肉が体についていないせいもあろう。


 私も二、三年前ならもっと速く泳げた。

 緑衣の娘はそこまで考えると、頬を赤らめる。

 一人なのに、誰かが自分の様子を窺っている気がした。


「小旦」


 緑衣の娘は、青衣の娘が泳いで行った方角に知らず知らずやや上ずった声で呼び掛ける。

 そろそろ上がってきてもいいはずだ。


 だが、どんなに目を凝らしても静かに波打つ湖面には何の変化も現われない。


 見つめる水面の一角に白桃色の花びらが新たに一枚落ちてゆらゆら揺れた。


 濡れた衣の張り付いた腹の辺りが妙に冷たく感じる。

 そろそろ風が冷たくなってきたと思うと、緑衣の下で肌が粟立った。

 腰から下が浸かる水の中の方が温かい。

 だが、その生温かさも奇妙に胸をどきつかせた。


「小旦、小旦」


 遠浅とおあさの湖とはいえ、溺れる可能性は皆無ではない。

 広いだけに、人や魚が一度吸い込まれたら二度と出られない深い穴がどこかにあるのかもしれない。

 慣れ親しんだ人間にもそんな畏怖を抱かせる湖である。


「小旦ったら」


 消えた相手の名を呼ばわりつつ、岸から遠ざかる一歩を踏み出していくと、

 緑衣の娘は自分がその未知の穴に吸い寄せられている錯覚に囚われて、呼び声を強めた。


「小旦!  どこ?」


 湖面は飽くまでも静謐せいひつを保ち、一歩進む度に、緑衣から小さな波動が生じては広い平面に呑まれていく。


 緑衣の娘の両眼からは笑いが完全に消え、青みが勝った白目に囲まれた黒目が張り詰めて忙しなく動いた。


 やっぱり、あの子は溺れたのかもしれない。

 泳ぐ内に引き付けでも起こしてすぐ近くに沈んでいるのだろう。

 だとしたらぼやぼや歩いている場合じゃない。

 急いで潜って助けに行かないと。


 そこで突如、水底から恐ろしい力で両の足首を掴まれるのを感じ、緑衣の娘は全身をこわばらせた。

 大きく見開いた目の前で激しくしぶきが吹き上がり、滑らかな面を雫が一斉に襲う。


「ここよ、姉さん」


 肩で息を吐きながらそれだけ言うと、湖面から顔を出した青衣の娘は声を上げて笑った。


 緑衣の娘は顔からポツポツ水滴がこぼれ落ちるのと、水の中で熱を帯びた指が両の足首からするりと離れ、ひやりとした感触が走るのを同時に感じた。


「驚かすんじゃないの」


 袖で顔を拭きながら、緑衣の娘は、水の中で相手の膝を軽く蹴る。


 やはり、水の中の方が温かい。


「魚、逃げちゃった」


 小旦は挑発に乗る様子も無く、不意に笑うのを止めて呟いた。

 伏せた眼差しは、既に姉さんの顔から降りて眼下の水面を漂っている。


「当たり前じゃないの」


 答えながらも、小旦の寂しげな眼差しと青衣に巻きついた魚籠を見下ろして、緑衣の娘はやり切れなくなる。

 栓の開いた小旦の魚籠は、水中で微かに揺れながら、水面の模様を底に映し出すだけである。

 緑衣に縛り付けられた魚籠の中で魚たちのピチピチ撥ねる音が二人の耳に響いた。


「凄く大きな魚だった。名前も分からない」


 水面から顔だけ出した小旦の濡れた髪に、海棠の花が一つ舞い降りた。

 髪に触れた淡紅色の花びらは黒を映して透き通る。


 岸から遠ざかって深い所に来たつもりでいたが、別の岸には存外近い地点にいる事に、緑衣の娘は気付いた。


 最寄の岸には海棠の木々に混ざって桃の木も花をつけていた。

 既に花の散った梅の木も木々の列に加わっており、心なしか青臭さを含んだ梅の匂いが漂ってくる。


 誰かが意図して植えたのだろうかと緑衣の娘が思いを馳せると、

 自分の濡れた袖にも桃の花びらがはらりと一枚舞い落ちて張り付いた。

 海棠のそれよりも一回り大きく、白味の勝った紅色である。


「逃がした魚は大きいのよ」


 緑衣の娘は破顔一笑すると、流れてきた海棠の枝で相手の頭をポンと叩いた。


「逃がしたからじゃないもん」


 青衣の小旦は口を尖らせてはいるものの、凛々しげに切れ上がった両眼は伏せると寂しげに映る。

 青黒い湖面に散り、ほの白く浮かび上がりながら漂っていく海棠の花びらを小旦は見つめていた。

 白目は青みを帯びていたが、渺茫びょうぼうたる湖の一角に注がれた黒目はどこか虚ろな光をともしている。


 緑衣の娘は、枝を手にした腕を下ろしたきり何も言わない。


「今度現われたらきっと捕まえるわ」


 囁く様に言いながら、小旦の青い袖から抜き出た小さな手は、水面を緩やかに近づいてくる花の枝に伸びていた。

 索漠さくばくな目が、急にちかりと光る。


「姉上、勝負!」


 芝居の台詞を大げさに真似して桃の枝をかざしてみせると、立ち上がった青衣の娘は相手に踊りかかった。

 緑衣の娘の艶やかな頬を、桃の花がしたたかに打つ。

 飛び散る花弁と雫の中で緑衣の娘は思わず瞳を閉じた。水滴が目に入ったらしい。

 軽く沁みる目の奥で、一瞬桃の果実を嗅いだ気がした。


 小旦のけたけた笑う声が響く。


「やったわね」


 緑衣の娘が側に漂ってきた海棠の枝を掴んで大きく弧を描く。

 しかし、青衣の腰を叩くすれすれのところで小旦はひょいと身をかわした。


 本当に、この子は身が軽い。

 そう胸の内で呟くと何故か緑衣の娘からも笑い声がこぼれた。


 二本の刀がぶつかり合うと、似ていながらも色合いと大きさの微妙に異なる淡紅色の花弁が四方に散った。

 二種の花びらは空で混ざり合い、はらはらと落ちて水面を飾る白い破片と化す。

 ふわふわと漂っていく花のかけらは、夕闇の中では海棠なのか桃なのかさえ判じがたい。


 緑衣の娘は自らに問いかける。


 この花びらたちはどこに流れていくのだろう。

 漂う内に枯れて散じてしまうのだろうか。

 それとも段々と沈んでいって土と化すのだろうか。


 青衣の小旦が笑い声を上げて身を翻し首を動かす度に、長い黒髪が雫と花弁を撒き散らして広がりながらその後を追う。

 その髪が項(うなじ)に落とす影は襟元の色を吸い込んでか、はたまた、湖の色を吸い上げてか冴え冴えと青い。


 一人前の女にはまだ遠いが、しかし確実に子供の域を脱した何かが青い襟足の辺りに漂っている様に緑衣の娘の目には映る。

 この子も子供ではなくなってきている。

 それは少し先を歩いている自分についても当てはまる事実である。

 そう思うと、娘は緑の木綿の下に息づく肉体が自分であって自分でない様な感覚に襲われるのだった。 


 近頃、その居心地の悪い感触が、時と所を構わず、例えば朝、一人で井戸水を汲む瞬間でさえも、ふと立ち上ってきて、そうなると一瞬前まで体に奥深く溶け込んでいた自らの心さえ怪しく思えてくるのだった。


 自らの笑い声をも高く耳に響かせながら、こんな日がいつまで続くのか、迫り来る夕闇の中で緑衣の娘は淡い悲しみに似た胸の高まりをふと覚える。


小施しょうし! 小旦!」


 飛んできた声に娘たちが振り向くと、遠くから数人のきこりたちが歩いてくるところであった。

 いずれもおのを手にしてたきぎを背負い、歩みには安らいだ疲労が滲んでいる。


「いつまで遊んでおるか」


 言葉とは裏腹に、周囲より頭一つほど丈の高い樵は日焼けた顔を綻ばせた。


「父さん!」


 緑衣の面に笑顔が咲いた。

 八方に光が飛び散るかの様である。

 手にした海棠の枝を湖面に放り、いそいそと帯紐を解く。


「頼むわ」


 緑衣の娘が投げた魚籠は、青衣の娘の前で小さなしぶきを立てると、半ば沈みつつ黒い湖面を漂った。

 青衣の娘は、良いとも悪いとも答えずに片頬笑みして目を伏せる。

 花咲く桃の連枝を未だ手にしたまま、俯いた顔に睫毛が青く長い陰を落とした。


「いやあ、西せいさんとこの娘っ子は揃って別嬪べっぴんさんだねえ」

「どこぞのお姫様みたいだ」


 樵たちの中で年老いた者は、父親に向かって口々に褒めそやす。

 幾分若い者はこちらに息急き駆けてくる緑衣や、魚籠を抱いて岸へそろそろ歩んでくる青衣にそれぞれ見入っていた。


「いやいや、片親のせいですかとんだ甘ったれで」


 訛りの少ない口調でそう返すと、図抜けた長身の樵は走ってくる緑衣に向き直る。


「そんなにいてはつまずくぞ」


 声を掛けた目尻に深い皺が寄る。

 もう、若くはない男である。

 間近に見れば、豊かな黒髪の鬢に白い筋さえ微細に織り込まれていると気付く。

 赤黒く焼けた肌も、洗い晒した着物も、節くれ立った手足も周囲の仲間と大きく変わらない。

 だが、幅の広い肩や中高の堅固な顔立ち、低く澄んだ声には、温和ながらも崩れ切らぬ張りが漂っていた。


「持つわ」


 緑衣の袖から伸びた華奢な白い手に、斧が渡された。

 男の手にさえずしりと重い斧だが、娘は一向平気である。


「小施(しょうし)、気を付けろ」


 父親は半ば独り言の様に小声で告げる。

 眼差しが小施の緑衣の肩に注がれた。


「大丈夫よ」


 小施は飽くまで笑顔である。

 青衣が走ってきて緑衣の後ろに立った。


「お帰りなさい」


 小旦はか細い声で告げる。


「それでは、今日はこれで」


 父親が長身を屈めて挨拶する。


「じゃあ、また明日」

「お疲れ様」


 樵たちは三三五五さんさんごごに散っていく。

 老若の樵たちの足はめいめいの家に向かいながらも、顔はちらちら、父娘三人の方を振り返って噂し合うのだった。


 父娘三人も家路に就く。

 樵姿の父の脇に緑衣の小施が立ち、二人のすぐ後ろを、魚籠を抱いた青衣の小旦が歩いていく。


 二人の娘の衣からは水が滴り落ち、玲瓏玉れいろうぎょくがごとき白肌にも衣が濡れて張り付いていた。


 湿り気を含んだ春の空気は夜が迫って少し肌寒い。


 そんな中、小施のふくよかな唇は微笑んでおり、触れればほのかな朱色の熱を与えるかと思わせる。

 だが、小旦の方は魚籠を抱きしめた格好で肉の薄い自らの体を暖めようとしているかに見えた。

 あるいは、そんな風にして体の内にある熱を少しでも押し留めている様にも見える。

 噛み締めた小旦の唇は黒い湖面をさまよう花弁と同じ色を呈していた。


「ねえ父さん、湖の向こう岸に、梅や桃の木も海棠と一緒に植えてあるの」


 小施は答えを急かす様に続けて問う。


「誰かが植えたのかしら」


 父親は声を低く落ち着けたまま、目尻に笑いを滲ませる。


「そうかもしれんな」


 藍色の闇の中で、父の顔に刻まれた皺や日焼けで赤茶けた肌の色は消し飛び、本来の顔立ちが浮き彫りになる。

 骨太く端然たる面差しである。

 長い睫毛に縁取られた黒目勝ちな目は、隣を歩く小施との濃密な血の繋がりを示していた。

 その眼光は穏やかに揺れつつも、微かな苦味を含んでいた。


「風流な人がいたのね」


 宝物でも発見した様に、隣を歩く小施は嬉しげである。

 上向いた滑らかな面の中で、円らな瞳がきらめいた。

 黒紫の空に点じ始めた星と光を分かち合う様である。


 ふと、父親は小旦を振り返った。


「魚、いっぱい採れたかい?」


 柔和に細められた目も、温かな声音も、小施に向けるものと何ら変わらなかった。


「ええ」


 小旦の青白い頬に消え入りそうな笑いが漂った。

 魚籠を抱いて伏せた目は自らの爪先に止まる。


伯父おじさんも、お疲れ様」

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