第三章:非対称な二人

「圭吾君」


 唐突に名前を呼ばれ、そして、それが聞き知った声であることに二重に驚いて、顔を上げる。


 そこには、白い夏物のセーラー服にポニーテールを揺らした少女が立っていた。

 小さな顔いっぱいに人懐こい笑いを浮かべて、しかし、瞳にはどこか思い詰めた光を宿して、歩み寄ってくる。


 僕は思わずスケッチブックを閉じて、鉛筆をペンケースに投げ入れた。

 これじゃ、まるで女の子のヌードとか恥ずかしいものを描いてたみたいだ。

 自分の挙動に舌打ちしたくなる。


「実香ちゃんか」


 極力、さりげない風に声を掛ける。

 今、紫陽花を描いていたと説明するべきだろうか。

 スケッチブックを見せれば嘘でないと分かってもらえるけど、それは避けたい気がした。

 握り締めたてのひらにギュッとスケッチブックの留め具が食い込んでくる。


「邪魔しちゃってごめんね」


 双子の妹は黒い瞳は張り詰めたまま、照れた感じに白い歯並びを覗かせる。

 白い歯と常より更に赤く光る唇の対比で、グロスとか正式名称は分からないが、とにかく化粧品の類を塗っていると分かった。


 この子は自分が可愛いと知っている。

 どこか冷めた、意地の悪い目線が頭をもたげたが、必死で打ち消す。

 それでも、基本は素直ないい子であることに変わりはない。

 少なくとも、こちらに悪意は持っていないだろう。


 僕の思いをよそに、相手は声を潜めて続けた。


「せっかく、紫陽花のスケッチ取ってるとこだったのに」


 どうやら弁解する必要はないようだ。

 というより、この子が来た方向から僕の描いていた中身は丸見えだったらしい。

 そう思い当たると、慌ててスケッチブックを閉じた自分がいっそう迂闊に感じられて、苦々しくなった。


「怒ってる?」


 こちらを捉える切れ長の黒い目が不安げに潤んだ。

 これは問い掛けではなく「怒らないで」と頼み込む眼差しだ。


「怒ってないよ」


 僕は笑って少し大げさなくらい首を横に振った。

 この子を傷付けてはいけない。

 開いた掌にガラス細工を載せている気分だった。


 しかし、その一方で、頭の中には新たな疑問が浮上する。


 この子たちの家は、こっちじゃないはずだ。

 それに、どうして僕がここにいると分かったんだろう?


 もしかして、公園に入る前から、ずっと跡をつけて様子を窺っていたのかな?

 ビニルのペンケースを持つ手が汗でぬめる。


「話があるから来たの」


 こちらの腹を見透かしたように、相手は呼び掛けた時と同じ人懐こい笑顔に戻って切り出す。


「でも、絵を描いてるから、話し掛けられなくて」


 話す内に、実香は潤んだ目を伏せた。

 長い睫が上向きにカールした様で、そちらにも普段と違う装いを施したと知れる。


「気にしなくていいのに」


 どうせ自己満足の遊びなんだから。

 胸の中で付け加えると、妙にこの場にいる自分が後ろめたくなった。


「圭吾君はさ」


 唐突に、実香は差し迫った声を出した。

 いよいよだ。

 彼女の声の響きにこちらも胃がギュッと締め付けられる感じに襲われた。


「付き合ってる人はいるの?」


 大きな切れ長の瞳には、声と同様、抜き差しならない力がこもっている。

 これは探り入れではなく、完全に「いないと答えて」と懇願する目だ。


「いないよ」


 嘘を吐いているわけでもないのに、僕は目線を実香から傍らの紫陽花に移した。

 湿った土の匂いが微かに流れてくる。

 今日は朝からずっと晴れていたはずだけど、紫陽花の株の下には雨露がたっぷり滲み込んでいるのだろうか。


「それなら」


 ふわりと人工的な花の香りが土の匂いを駆逐して、小さな象牙色の顔が正面からこちらを覗き込んだ。


「私と付き合って下さい」


 一瞬、耳の中から全ての物音が消えた。

 背中にジュッと汗が滲むのと同時に、サーッと遠くの車道を自動車が走り抜けていく音がした。

 息を吸い込むたびに、むせ返りそうな甘い香りがする。


「圭吾君が良ければ」


 先の言い方では押し付けがましいと感じたのか、相手は控えめな声で付け加えて目を落とした。

 必要なことを全て言い終えたからなのか、少しほっとした気配が白いセーラー服の骨細な肩の辺りに早くも漂い始めている。


「あのね」


 自分でも迷いながら始めたのだが、こちらを見上げた小さな顔に走った表情に、僕は言い淀む。


「悪いけど」


 まだ言葉の途中なのに、人工的に丸めた長い睫の奥にはもう痛ましい光が震えていた。

 そこには、単純な失望というより、信頼を裏切られた驚愕も確かに認められた。

 怯みそうな自分に鞭打って、最後まで言い切る。


「そういう目では見られないんだよ」


 多分、僕はこの子を断ったことをいつかどこかで後悔するんだろうな。

 というより、今も瞳に涙を宿したシンメトリーな顔を眺めていると胸が締め付けられる。


 こんなに可愛くていい子なのに。

 付き合えば、この夏休みも普通に楽しくデートして、素直に受け入れてくれるであろう相手なのに。


 きっと、他の男なら喜んで承諾するだろう。

 それに、この子なら今は泣いていても半年もしない内に自分に合う相手を見つけるはずだ。


 田中だって、狙っているみたいだし。


 そして、この子は別の男と相思相愛になって、他人にわざわざ触れ回りはしなくても、僕のことを「別にあの人でなくても良かった」と捉えるのだろう。


 そこまで思い及ぶと、少しだけ気が軽くなった。


「実香ちゃんなら、もっといい相手がいるよ」


 念のため、こう言っておけば、「酷い断り方をして傷付けた」とかいう非難も避けられるはずだ。

 すると、滑らかな象牙色の面がふっと寂しく微笑んで、静かに横に振れた。

 ワンテンポ遅れるようにして、艶やかな黒髪のポニーテールも緩やかに揺れる。


「そんなこと言われても嬉しくない」


――あなたは偽善者。


 暗にそう罵られた気がした。

 目の前に立つ相手は寂しい笑顔と抑えた声で語っているにも関わらず。

 いや、むしろ、それ故に。


「じゃ、また明日ね」


 明日から、どう顔を合わせよう。


 改めて肩を落とす僕をよそに、双子の妹はこれで全ては元通り、という風に艶めいて光る唇の端をキュッと上げて白い歯並びを見せた。


 そして、その顔のまま背を向けて、今しがたやって来た道を歩き出す。


 案外、平気なものだ。

 磨かれて黒光りする実香のローファー靴の、ごく平静な足取りを目にして思う。


 サラサラした長い黒髪のポニーテールを規則正しく揺らしながら、真っ白なセーラー服の後ろ姿が、紫陽花の咲き誇る植え込みの脇を通り過ぎていく。

 まるで、普段の通学路を疑問なく進んでいくように。

 そして、同じ調子で入り口の車止めの間を通り抜け、狭い路地に出る。


 と、そこで、鞄を持たない華奢な右腕が折れ曲がって、双子の妹は口許を押さえる格好になった。


 タッタッタッタッタッタッ……。


 馬のひづめさながら高々と響く足音だけを残して、実香の後ろ姿はあっという間に細い路地の向こうに消えた。


 泣かせてしまった。


 半袖シャツの脇の下にジワッと冷たい汗が滲む。

 それは、済まないというより、恐ろしいことを仕出かしてしまった感触に近かった。


 何の落ち度もない彼女を。

 こちらの身勝手で。


 見るとはなしに自分の足元に目を落とすと、ローファーの甲や縁には、濡れた葉や草がべっとり貼り付いていた。

 この公園の湿った道を歩く過程で纏い付いたのだろう。

 黒い皮の上に貼り付いて半ば乾きかけているさまが実に汚らしく映った。

 こんな土足のまま気付かずに実香と向かい合っていたのだ。


 ゴミを付けた靴の足で、のそのそベンチに向かう。

 今日は、もう帰ろう。


 ベンチの上には、鞄とミネラルウォーターのペットボトルが忘れられたように置かれている。


 鞄にスケッチブックとペンケースを放り込むと、ガシャッと中から崩れる音が聞こえた。

 この音の調子からすると、ペンケースの鉛筆の芯が何本か折れてしまったかもしれない。

 だが、そんなことはどうでも良かった。


 持ち上げた鞄の取っ手が妙に重く手の中に食い込むのを感じながら、大通りに面した出口に向かう。


 僕の住むマンションは、ここから十五分弱かかる。

 自転車で通うほどではないけれど、歩くと少し遠い距離だ。


 実香は、もういないよな?

 走り去ったのだから戻るわけはないと苦笑しつつ、念を押す気持ちで、さっき彼女がやって来て出て行ったゲートの方を見に行ってみる。


 例のゲートに面した細い路地をそっと覗き込む。

 次の瞬間、幽霊に出くわしたみたいに全身がびくりと震え上がる。


 木や花の植え込みで死角になっていたその路地には、白い夏服のセーラーを纏い、長い黒髪をポニーテールに結った少女が音もなく立っていた。


 薄暗い中だが、ほの白く浮かび上がった顔には、左の目許に小さな黒い点が確かに認められる。


 よく目を凝らさなければ見過ごしてしまいそうな一点なのに、見出した瞬間、体中の血がワッと心臓に集中して、顔全体がカッと熱くなった。


「立ち聞きか」


 自分とは思えないほどざらついた苦い声が口からこぼれ落ちる。

 双子の姉は表情のない面持ちでこちらを眺めていた。


――あなたが勝手に揉め事にしたんでしょう。


 血の気が引いて、地のべに色が乾いて浮き出た唇は固く閉じたまま、そう突き放しているかに見えた。


 路地を挟んで公園と向かい合う家の垣根から、葡萄じみた香りが漂ってくる。

 そういえば、五月頃、この家の庭には藤の花が咲いていた、と思い出す。

 その時は脱色したように真っ白な花房が連なって垂れ下がっていて、何故、この家の人は定番の紫を植えなかったのだろう、それとも、何も知らずに育てたら期せずして白藤が咲いたのだろうかとひたすら訝しかった。


「趣味わりいな」


 そう吐き棄てる自分こそ、随分、ガラの悪い口調になってしまった。

 だが、もう仕方がない。


 別に驚くような話でも何でもなかった。

 実香と智香は常に一緒にいるのだから。

 まるで本体とその影のように。

 恐らく、智香は僕に告白すると決めた双子の妹に付き添って来たのだろう。

 実香同様、断られる展開など想定せずに。


「嫌な男って思ってんだろ?」


 今更、分かりきったことだ。

 問い掛けた自分の唇が卑屈に歪むのを感じた。

 ザワザワと頭の上で植樹の木の葉がテレビの砂嵐に似た音を立てる。

 同時に、湿ったコンクリートの匂いが立ち上ってきた。

 そういえば、今朝のテレビでも夕立の恐れがあると予測していたのを思い出す。


「話し掛けても、返してくれるのはいつも隣にいる実香ちゃん」


 智香ちゃん、と直に呼び掛けたことはない。

 今、こうして向かい合っている状況ですら。


 ふと、無表情に固まった象牙色の顔の、やや吊り気味の大きな瞳に光るものが宿って震えた。

 その二つの鋭い輝きが、胸を刺す。


「君はいつも無視」


 双子だから、傷付いた表情までそっくりだ。

 だが、今、目の前にある泣き黒子の顔の方が、何故、眺めていて遥かに心を引き裂かれるのだろう。


 見詰めれば胸の奥を千切られるのに、目を逸らすことが出来ない。


「そっくりなのは上辺だけ」


 小中学生の頃から、コンクールに出すたびに、同じ地域に住む同学年の「小山智香こやまちか」という女の子がいつも僕より一歩上の賞を取っていた。


 その時は、「努力次第で追い越せるはずだ」と考えていた。

 まだ、自分の可能性を無邪気に信じていたのだ。


 しかし、高校に入って初めて小山智香本人に出会い、彼女が作品を描き上げていく過程を直に目にした。


 そして、自分がこの先、絵の分野でどんなに努力しても、部分的に追いつくことはあっても、全体としては決して追い越すことも並び立つこともない相手がいると思い知らされた。


「そんなんで、好きにはなれない」


 こちらの半分でもいいから、君も僕のせいでもっと傷付いて惨めになってくれ。

 そう念じながら、言い放つ。

 小さな焦げ目じみた一点を除けば、双子の妹と同じく、曇りなく滑らかな象牙色の面に向かって。


――あんたなんか嫌い。

――気持ち悪い。

――死ね。


 相手が罵声と共に平手打ちしてくる場面を待ち構えながら、僕は、生のままに真っ直ぐな長い睫毛の下に点じた、智香の左目の泣き黒子を凝視し続けた。


 乾いた紅色の唇は、固く閉じられたままだ。

 まるで、彼女の気持ちは、その奥で完結していて、僕に明かされることは決して有り得ないかのように。


 ふと、見詰めていた黒い一点の上に、ポッと光る粒がともった。

 次の瞬間、首筋にさっと冷たいものを感じて、体が震える。


 息を吐く間もなく、ひやりとした雫が鞄を持つ手の甲や剥き出しの腕にポツポツ落ちてくる。


 まだ、十分以上も家まであるのに、雨が降り出してしまった。


 僕と智香の間に、雨粒が次々線を引いて落ちては、地面に黒い点を作っていく。

 立ち上る路地の匂いが加速度的に濡れてきた。


「どうして」


 背を向けて早歩きに数歩進んだところで、呟く声が耳に届いた。

 まるで呪文を掛けられたように足が止まる。


 初めて、智香に話しかけられた。


 ザーッと木々の葉のざわめく音がして、蒸し暑い風が通り抜けた。

 握り締めた拳の中が汗でヌルヌルする。


「俺がずっと見ていたのは君なんだ」


 振り向けないまま自分にだけ聞こえるくらいの声で呟くと、智香の返事を待たずに夕立の路地を駆け出した。(了)

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非対称な二人 吾妻栄子 @gaoqiao412

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