第二章:晴れ間の紫陽花

「あーあ」


 学校の玄関から出てきたところで、大きく伸び上がる。


 六時は回ったが、七夕たなばた前の空はまだ明るい。

 制服の白い半袖シャツの吹き抜ける風も、湿った温みを含んでいた。


「お疲れ様です」


 不意に背後でくぐもった声がした。

 振り向くと、相手はもう脇を通り抜けていくところだった。

 前を向き直る頃には、田中は制服の白シャツの背を軽く丸めて急ぎ足で遠ざかっていく。


「お疲れ」


 早足で校門を出て行く後輩は振り向かない。


――こっちはもう挨拶したんだから、いいでしょう。


 せわしいローファー靴の足取りがそう告げている。

 離れた場所から見ても、すすけて磨り減った靴のかかとが目に付いた。

 地面をるような歩き方だから、まだ新しいはずのローファーがあんな格好になるのだ。


 田中の猫背を目にするたびに、いっそこちらからも無視してやろうかという思いが頭をもたげる。


 だが、そうすれば、そうしたで、「自分は何もしていないのにいじめられた」と根に持ちそうな気配も、彼の縮めた背中からは窺えるのだ。


 中学時代はいじめられていたという噂を聞いたことがあるが、あれが他人に対する彼のデフォルトの態度ならば、率直に言って、本人にも疎まれるだけの原因があったとしか言い様がない。


 ガヤガヤと複数の話し合う声がまた背後に近づいてきて、野球部の連中が汗の臭気と共に僕を追い越していく。


 多分、集団スポーツの彼らの中でも、というより、彼らの中だからこそ、互いに嫌悪や反発を抱いている組み合わせはあるはずだが、ああして一緒に歩いている姿を見ると、嫌悪や反発といった感情すら、連帯感の変種に見えてくる。


 集団競技的な人間関係は苦手だが、それでも彼らが僕と田中ほど断絶した関係性ではないだろうと思わせる点ではちょっと羨ましい。


 遠ざかっていく坊主頭の集団の一角から、ふと笑い声が上がった。

 すると、伝染するように新たな笑い声が次々重なっていく。


 まあ、単に僕が先輩として尊敬されず嫌われているから嫌な感じに接せられているだけだとしても、あと半年もすれば実質的に部活を引退するから、そうなれば、銀縁眼鏡の彼も随分、気が楽になるはずだ。


 校門から路地に出ると、すっかり濃緑色の葉に模様替えした桜並木がアスファルトに灰黒色の影を落としていた。


 やっぱり夏至を過ぎて半月も経つと、日が短くなってくる。

 少し急ごう。


 *****


「じゃ、始めるか」


 ベンチにカバンとミネラルウォーターのペットボトルを置き、スケッチブックと鉛筆の入ったスケッチ用のペンケースを新たに手にした僕は、植え込みの紫陽花を前に一人ごちた。


 スケッチブックの真ん中より少し前のページを開くと、七割ほど描き上がった鉛筆書きの紫陽花が姿を現す。


 下校途中にあるこの公園で三十分だけスケッチをして帰るのが、この春からの日課になった。


 もっとも雨の降っていない夕方に限定されるから、梅雨入りしてからは「日課」とも言い難い頻度になった。


 もうすぐ夏休みで、そうなったら、予備校の夏期講習に通うから、そうそうこの時間帯にこの公園には来られないし、休み明けにはすっかり風景が変わっているから、この数日中にこのスケッチは仕上げなければいけない。


 もしかすると、このスケッチがここで描く最後になるかもしれない。


 ペンケースから一番短くなった2Bの鉛筆を取り出す。

 木と黒鉛の入り混じった匂いが微かに鼻に届く。

 薄過ぎず、また、濃過ぎないこの2Bが僕のスケッチでは一番良く使う画材だ。


――弟や妹の学費もあるし、現役でちゃんと国公立に入ってもらわないと困るから。


 母のあの調子では、夏期講習どころか、二学期以降も予備校に行かされるかもしれない。


――絵なんか描いたって、何の役にも立たないの。


 中学までは僕が絵の賞を取るたびに喜んでいたのに、今の母は「絵」や「美術」という単語を苦々しく吐き棄てる風に口にする。


 だから、家では部活を含めて絵の話題を極力出さないようにしているし、多分、秋に入る頃にはうっかり口に上せる機会も減るはずだ。


 夏休みから、僕も勉強に本腰を入れるつもりだから。


 もともと美大や画家を目指すなんて許される環境ではなかったけれど、自分としても普通に大学受験して美術は飽くまで趣味にしようと決めたのは、限界が分かったからだ。


 ちゃんと受験勉強して少しでも通りのいい大学に入って、またちょっとでも安定した職場に勤めるのが、一番賢明な選択なんだ。


 いや、それだって、「平凡で退屈な人生」だとか、さもたやすく成し遂げられるかのように見下せる位置に僕はいない。


――この不況だから、大学を出てまともな所に勤めるのだって、容易じゃないんだぞ。


 父もそうたしなめていた。

 叔父さんだって、去年、リストラに遭って、先月、やっと再就職先が見つかったけど、給料が前の会社の半分だとこぼしていたじゃないか。


 僕が社会に出たって、もしかしたら叔父さんより不遇な扱いを受けるかもしれないんだ。


 ふっと息を吐くと、すぐ手前に咲く赤紫の紫陽花の花弁が微かに震えた。

 同じ植え込みに咲いていても、一つ一つの房は微妙に色合いが異なるのだ。


 この夏休みは母が既に受講料を振り込み済みの夏期講習に行って、去年より多い宿題を片付けて、家族旅行して、後はちょこちょこ近所に出かけて、それで終わりだろう。


 今の時点でも、僕の現実はそんなにも限られている。

 ポロリと透き通った雫が一粒、青紫の花弁に音もなく落ちた。

 すぐ上にある葉の先から雨露が移ったらしい。


 このスケッチだって、はっきり言えば、オナニーみたいなものだ。


 でも、それでいいんだ。

 もう少ししたら、それさえ許されなくなるのだから。


 視線の先に咲いた紫陽花は青紫の房の形を保ってはいるものの、描き出した頃よりも花弁が少し乾いていて枯れ始めだと知れた。


 紫陽花は桜のように花の盛りでパッと散りはしない。

 形はそのままで全体が干からびていくのだ。

 まるでミイラのように。


 この画面左の一房はもう少し葉に落ちる影を濃くしてコントラストを強くしよう。


 2Bの鉛筆を持ち直したところで、背後の植樹から、鳥の飛び立つ音がする。

 その羽ばたく響きで、初めて鳥がすぐ近くに潜んでいたのだと気付いた。

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