第10話

その場所というのは、沢渡と呼ばれる、草津からほど近い集落でした。

 「何があるのですか?」そう聞いてみても、

 「ちょっと」と秀一さんは言葉を濁すばかりです。

 学生時代、四万温泉の帰りに寄ったことがあるとのことですが、私を連れて行きたいというのは、ひいきにしているお店などが、あるのでしょうか。それとも、親戚かご友人か、誰か親しい人がいらっしゃるのでしょうか。

 考えをめぐらせながらも、私は秀一さんと、まだ人のほとんどいない、午前中の上り電車に乗り込んだのでした。全ての窓から日が差し込んだ、暖かい列車にうつらうつら揺られること四十分。到着した中之条という駅から更にバスに乗り換え、裸の枝々が生い茂る曲がりくねった山道を進んで行きました。

 「沢渡温泉」

 到着した停留所の古びた表札に、私は一瞬言葉を失いました。けれど、

 「行くのは温泉じゃないです」

 私の驚きなど想定内であるように、秀一さんはただそっけなく言うと、私の一歩先を歩き始めました。

 温泉というのは得てして、草津のように、宿やお店の連なる賑やかな温泉街があるものだとイメージしていました、けれどもここは、どちらかと言えば、私の実家近くの雰囲気によく似ています。民家の並びに挟まれた、ただまっすぐに伸びる、一本道。どうして地元ってこうなんだろう? そんな風にいつだって思っていた、懐かしい景色。家々の屋根も、壁も、木も、曇った空のようにやっぱり皆どことなくくすんでいるのです。

 「どこに向かっているんですか?」

 「もう、すぐそこです」

 一歩前を行く秀一さんは、チラリと私を振り返りました。そして前を向き直ると、すたすたと、「そば」と紺色の暖簾のなびく、木造の民家へと入って行ったのでした。

 「いらっしゃいませー」

 「二人です」

 それほど広くない店内には、中央にテーブルがいくつかと、奥に座敷の席が並んでいます。座敷は団体のおじさまたちで賑わい、テーブル席も二人連れや三人連れでほとんど埋まっています。テーブル席の人々は皆言葉少なく、真剣に蕎麦と向き合っていました。

 「くるみの汁でいただくざる蕎麦が、とにかく美味しいんですよ」と秀一さんの勧めに従って、早々に注文を終え、私たちは久しぶりに向き合って腰を落ち着けました。

 「ここ、普通の蕎麦屋と思ったかもしれないですけど、本当に美味しいんです」

 「ありがとうございます」

 「お礼なんて、やめてください。当たり前なんですから。だってお風呂には入れなかったんだから、やっぱり何かないと」

 思わず、ありがとうございます、ともう一度言いかけて飲み込みました。

 「前はいつ、ここにいらしたんですか?」

 「もう四年くらい前ですね。すぐそこの、旅館に泊まっていて」

 「そうなんですね。やっぱり、他の場所に行った帰りに寄られる方が多いんでしょうか?」

 「多分。ここのお湯は、草津の直し湯とも言われて」そこまで言ったところで、秀一さんは言葉を止めました。そして水を一口飲むと、「すみません」、と小さく呟きました。    

思わず口をついて出るくらい、温泉の風景は、いつだって彼の中に流れているのだ、と思いました。

 「・・・・・・やっぱり、不安です」

 切り出すと、秀一さんは眉を下げ、不安気にこちらを覗き込みました。

 「私は根本的な部分で、男性に対して恐怖心が残っています。それがいつ、どんな風に克服されていくのかわからないし、そもそも、克服されるのかどうかだって」

 私は思い留まり、言葉を止めました。

 「・・・・・・・そうですね」

そう、口を開いたのは秀一さんでした。

 「僕も、不安です」

 そして彼は、じっと私の目を見ると、続けたのでした。

 「僕のちょっとした一言が、あなたをひどく傷つけるかもしれないし、あなたの恐怖心はいつまで経っても薄れることはないかもしれない」

 続く言葉が怖くて、私はじっと秀一さんの表情を見ていました。

 「それでも、一緒にいたいと思っています」

 だけど彼は、私をまっすぐに見つめたまま、こう言ったのでした。

 「・・・・・・・はい」

 「櫻子さんと一緒に、いたいと思っています」

 「はい」

 「大事なことなので、二回言いました」

 「・・・・・・はい」と、思わず私の口からは笑いがこぼれます。

 「昨日は言わなかったけれど、昨日の僕の草津の温泉も、風情なんてものはなかったんですよ?」

 「え?」

 「もちろん夜じゃないし、雪でもないでしょう? それはわかっていたことだけど、高校生の集団が風呂を占拠して、お湯を掛け合っては騒いでいるし。それが落ち着いたかと思ったら、今度は丸くなって大声で歌を歌い始めた」

 「そうだったんですね・・・・・・」

 「幻想的な風景とは程遠い。それでも、本当に素晴らしかった。小さな頃に見た、雪の露天に勝るくらい」

 秀一さんは机越しにゆっくりと手を伸ばし、そっと、ためらいがちに私の手に触れたのでした。

 「あなたも、仕切りの向こうにいる。 そう思って見た、風景は」

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初恋温泉 西川エミリー @Emily113

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