第9話


 その夜、私は中学生のときの、あの事件のことを、秀一さんにお話しました。

そんなことくらいで、と言われてしまったら? そう思うと、とても怖いことでした。けれど秀一さんは、幾度も頷きながら、私をまっすぐに見据えて話を聞いてくださいました。

 だけど言葉は少なく、やがて夕飯が部屋に運ばれた際も、私たちは静かに、テレビのバラエティ番組だけが場を賑わす沈黙の中、ただただ、向かい合ったのでした。そして、その沈黙に横たわるように、眠りにつきました。

 夜半過ぎ、物言わぬ秀一さんの背中は、そこにあるのに、触れられないほど遠くに感じられました。湯上りの、嬉しそうだった彼の表情が、背に映るように思い出されます。そこには、早回しの映画のように、二人で温泉めぐりをして、お饅頭をたべたり、浴衣姿で夕飯を囲んで笑っている、もうひとつの楽しげだった世界が映るのでした。

 やがてカーテン越しにささやかな日が差し、小さな鳥のさえずりが聞こえる時刻まで、私はそんな風にして過ごしていました。秀一さんは自然と目を覚まし、むくりと立ち上がると、シャン、と軽いカーテンを開けました、大きな窓いっぱいから差し込む明るさに、私も身を起こします。

 「おはようございます」

 逆光で、ほとんど黒いシルエットとなった秀一さんの姿。

 「おはようございます。眠れましたか?」

 秀一さんの声は、かえって戸惑うくらい、いつものものと変わりありません。

 「・・・・・・はい」そう答えてすぐに、「いえ」と私は付け加えました。

 「僕もです。でも、そろそろ起きましょうか。七時から朝ごはんですし」

 「はい」

 「今日なんですけど、少し早めに草津を出るのはどうでしょう?」

 「・・・・・・はい」

 「ちょっと寄って帰りたい場所が、あるんです」

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