第8話
そっと額に、ひんやりとした感覚が触れました。
目を開けると、そこにあるのは秀一さんの不安気な表情です。冷水で濡らしたタオルを、彼が私のおでこに乗せてくれていたのでした。
「あ、寝ていて平気ですよ」
「いえ・・・・・・あの」
「どうですか、気分は?」
「落ち着いてきました」
「よかった・・・・・・」
「あの、ごめんなさい。せっかくだったのに。秀一さんにまで迷惑かけることになってしまって」
「いや、迷惑なわけ、ないでしょう?」
彼が一瞬、眉をひそめたような気がしました。下手な謝り方で怒らせてしまったのかもしれない。私は視線を伏せて、秀一さんから目を逸らしました。
温泉からあがったばかりの、晴れ晴れとした、秀一さんの笑顔を思い出されます。うずくまる私を見つけ、一気に熱がひくみたいに不安気な表情に変わる前の、更衣室から出てきた一瞬の笑顔。
露天風呂で倒れた私は、意識を失い、すぐに目は覚めたものの、そのまま貧血のような症状で気分が悪くなりました。事情を考慮した宿が、チェックイン後すぐにお部屋にお布団を用意してくださり、そこでようやく休息をとることができたのでした。
「暑くないですか?」
「ええ。ありがとうございます」
「お風呂は浸かりっぱなしは駄目ですよ。長く入るときは、時々出て、涼みながらいないと」
実際には、右足のつま先しか温泉には入っていません。けれども秀一さんには、単にのぼせたのだろうと伝えたのでした。
「あの、私もう大丈夫です」私は、お布団から身を起こしました。秀一さんがおでこに置いてくれた小さなタオルは、片手に持って頬に当てます。
「だから、よかったら秀一さんだけでも、温泉に入ってきてください」
「いえ、そんなのはいいんですよ」
「でも、せっかく来たのに」
「いいんですよ」
秀一さんは、ピシャリ、と言い切りました。同じ目線の、彼の瞳が私をじっと見つめます。何か返す言葉を、と思いましたが、一ミリも逸らすことのない彼の真剣な眼差しに、どんな言葉も詰まってしまいました。
どのくらいの間、そうしていたのでしょう。
秀一さんはそっと、私の肩を抱き寄せました。ゆっくりと、秀一さんの表情を確かめようと顔を上げると、彼は静かに顔を近づけて、優しく唇を置くように、私に口づけました。
狭い唇に触れた、冷たくて柔らかい感触。
やがてゆっくりと唇を離しても、彼はじっと、視線を離さぬままなのでした。
「櫻子さん」
静かな部屋に、ぽつりと、私の名がこぼれます。すると秀一さんは、今度はもっと強く私を抱き寄せ、吸い付くように激しい口づけをしました。
「んっ」
突然、狭い部屋に押し込められたようでした。
そして、ついに私の胸に彼の手の平が乗せられた瞬間、私は全身の力を振り絞り、彼の身体を引き離していました。
ほとんど反射的な行動で、自分でも何が起きたのか、理解するまでに少しの時間を要しました。
「・・・・・・すみません。僕、どうしても我慢できなくなってしまって」
目の前の秀一さんは、私から完全に身を離し、息をするごとに熱が冷めていくようでした。
「いや、あの、私がごめんなさい。違うんです」
「体調が悪いのに、本当に、最低なことを・・・・・・」
「違うんです! 嬉しかったんです、すごく、嬉しかったんですけど」
みるみる萎れる花のように、秀一さんの頭は俯いていきます。
私こそ本当に、最低なことをしてしまった。
「あのっ」
呼びかけて、こちらを見た秀一さんに私は切り出しました。
「秀一さんに、お話しておかなければいけないことがあります」
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