第7話
湯けむりに覆われた広大な湯畑から、旅館や商店がひっきりなしに並ぶ賑やかな温泉街を抜け、川沿いの緩やかな坂を登った先に、秀一さんが幼い日に訪れた、露天風呂はありました。川と言っても、それは温かい源泉が湧き出して流れているもので、ほんのり緑に光る流れの上には、ぼんやりとした湯気が浮かんでいます。周りには、まだ溶けきらない雪の塊が、ところどころに姿を残していました。昔話を聞いて思い浮かべる風景みたい、そう秀一さんは言いましたが、河原のあちこちで源泉が湧き立つ様子は、確かに人々の思い描く、極楽のようでした。
そしてそこへ到着し、秀一さんと私は、男湯と女湯、それぞれに繋がる石段のふもとの分かれ道で、入浴後の合流時間を確認し合いました。
「思う存分、味わってきてください」
微笑む秀一さんに手を振って、私も石段を登り始めます。
女湯のほうは更衣室の入口を外から見えないようにするための配慮なのでしょう、石段が木製の仕切りを左周りにぐるりと回る作りで、仕切りの裏側に扉がありました。
私は扉の前、秀一さんから見えないところまでやってくると、一度足を止め、大きく深呼吸をしました。トントントントントン、誰かが私の胸の内に居て、ここから出してと必死に叩いているみたいに、心臓が激しく鳴るのを感じます。
けれどそんなものには構わずに、私は勢いづけて目の前の引き戸を、ガラガラと開きました。
そこには、既に服を着た濡れ髪の若い母親が、小さな娘の長い髪にタオルをあてる姿があるだけでした。上手くランチタイムと重なったことが理由でしょうか。図書館の本棚のごとく整然と並んだ、四角区切りの衣類棚には、ぽつり、ぽつりと数えるほどの荷物が置かれているだけです。
よかった。棚の二段目の、私の背丈から一番出し入れのしやすい籠に荷物を降ろし、静かに脱衣をすませると、タオルだけを手に、早速露天風呂へと出て行きました。
ガラス張りの扉を開けると、ふわり、と冷たい外の空気が身体を包みます。
扉を出たすぐ前にはかけ湯があり、私は桶一杯のお湯を身体にかけてから、ひんやりとした丸い石畳の上を、一歩、二歩、転ばぬように慎重に歩き出しました。かけ湯でかぶった暖かさは、みるみる冷たい風に乾いていきます。踏み出すごとに、建物の死角になっていた大きな露天風呂が目の前に広がっていきました。
湧き立つ湯気で、湯船の端まで見渡すことはできません。
だけどそれは、小さい湖ほどの大きさでしょうか。初めて見る、広い広い露天風呂に、私はただ圧倒されました。流れてくる湯気が、頬をかすめます。湯船の左の一角には、木で作られた屋根があり、その下の湯のなかで、こちらに背を向けるかたちで女性が一人入浴しているのが見えました。
湯船の周囲には同じく木製の背の高い囲いがあり、それが男風呂との仕切りの役割を果たしています。その向こうから、「ひゃあっ」と男性の、騒いでいるような声が聞こえた気がしました。あぁ、秀一さんはどうしているんだろう、頭の片隅ではそんなことを思いながら、私はついに湯船の端まで辿り着き、静かに右足を湯のなかへと、踏み出したのでした。濡れた石の上で滑らぬように、ゆっくり、ゆっくりと。
出して! 胸のなかの誰かが、必死に扉を叩いています。トントントントントントン!だけど、私は——。
そのときでした。こちらに背を向けていた、湯船の女性が、振り返ったのです。
ぱち、ぱち、ぱちと、瞬きをしながら私を捉える、ぎょろりとした瞳。
それはあの男の目と、瓜二つでした。
そして彼女は、湯のなかで肩を動かし、身体の向きを変えました。ゆっくりと、こちらへ向かって来ようとしているのです。焦った私は、湯につけた足先を反射的に引っ込めましたが、濡れた石の上でバランスを崩し、その場に倒れてしまいました。じん、と素肌の痛みが身体に響いたような気がしましたが、そのまま意識は遠ざかっていきました。
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