第6話


 窓の外の枯れたススキが、一斉に風になびいた瞬間、遠くの大きな山に隠れていた太陽が顔を見せました。まだ色の少ない山並みを、圧倒的な午前の太陽が照らして、黄金色に染めていきます。肌にじんわりとした暖かさを感じて目を細めたとき、一点の桃色を実らせた、細い梅の気が現れ、そしてあっという間に後ろへ流れていきました。すばやく目で追おうとしましたが、それは列車のスピードに、もうずっと遠くに追いやられていました。見えない春は、もう空気のどこかに潜んでいるのでしょうか。気候は依然、コートを手放せない寒さだというのに、草木の力というのは計り知れません。

 「でも僕は花粉症だから、季節への感度はあるほうですね」と彼は言いました。

 「花粉症なんですね」

 「はい、もう薬は飲み始めているんですけど、それでも鼻がむずむず」

 そう話したかと思うと、秀一さんがそれはそれは派手なくしゃみをしたので、私たちはつい大きな声で笑ってしまいました。

 秀一さんと私は、渋谷から高崎行きの湘南新宿ラインに乗り込み、そこからさらに吾妻線に乗り換えて、長野原草津口へ向かう車内でした。普段実家に帰るときには、高崎から水上方面に向かう上越線に乗り換えるので、既にその経路とは枝分かれしています。だけど窓から見えるのは、やはり懐かしい、水色の空にそびえる群馬の山並みでした。

 どこまで行っても代わり映えのない、緑の山並み。緑といってもそれは、新緑とは程遠い、苦い青汁のような色なのでした。そして春夏秋冬問わず、風に揺られる、やせ細った枯れ木たち。ぽつりぽつりと並んだ家々の屋根も、曇った空のように皆どことなく、くすんでいます。私はこれらを一挙に、諦め色、と心のなかで呼んでは、嫌っていました。

 今だって、あとどれだけ東京でこんな生活が許されるだろう? そう思うと、やっぱりぞっとします。

 だけど、そういう全部がまるで過ぎ去った嵐であるみたいに、今はただぽかぽかとした気持ちでいられるのでした。

 「長野原草津口—、長野原草津口—」

 やがて車掌さんのこもったような声が言うと、周囲のほとんどの老若男女が立ち上がり、社内は急にわらわらした熱気に包まれました。「車掌さんの声ってどこも、あまりバリエーションがありませんね」なんてくだらない話をしながら、私たちも他の沢山の乗客と一緒に、長野原のホームに降り立ちます。

 ——温泉旅行に行きませんか?

 いつか彼の口から、そのような言葉が出ることはわかっていました。だけど、いざ誘いを受けると、躊躇の気持ちが先立ち、「もう少しだけ、待って頂けませんか?」そう、答えようとも迷いました。それでも私がイエスの返事をしたのは、彼の言葉がこんな風に続いたからです。

 ——櫻子さんと一緒に、久しぶりに草津に行けたらと思うんです。

 幼い彼が感銘を受けた草津の情景を見てみたい、という思いもありました。

 けれど何より、その思い出の草津に私と行きたいと思ってくれたことが、嬉しくてたまらなかったのです。

 秀一さんが学生時代、アルバイトでお金を稼いでは温泉旅行をしたという話を聞いたとき、心に浮かんだのは、誰と行ったのだろう、そんな嫉妬心でした。だけど秀一さんは、少なくとも一番思い入れのある草津には、誰とも行っていないはずです。そんな草津に誘ってくれたということは、私を特別だと、思ってくれているということなのでしょうか。そんな風に思うと、一緒に行ってみたい、その気持ちを抑えることはできませんでした。

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