A Happy New Year
日生 いろは
A happy new year
1)ほんの一週間前まで、街は赤と緑と金色でどこもかしこも染められて、
恋人達の距離はいつもよりもっと近く、冬休みの学生達は私服で日中も夜も楽しそうに歩いていた。
僕はこの寒さを凌ぐため、顔の半分を、マフラーで覆い、
ダウンジャケットのポケットに手を突っ込んで、少し前屈みで歩く。
2)大学1年生の冬休みは、人通りを避けて足早に通り過ぎた街並みを、今年は、人恋しくて、誰かの幸せを目にしたくて、ゆっくりと、歩く。
2年生の冬休み、彼女とずっと一緒にいたかった僕は、親に嘘をついて正月しか帰省しなかった。
3)お互いに、親元を離れて一人暮らし。当然のようにどちらかの部屋に入り浸りになり、これが同棲というやつかなどと実感し始めると、おかしなことに、急に母親の有り難みがわかってしまった。
僕がアルバイトのある日は、彼女の部屋に帰る。すると不慣れながらも料理を作っていてくれたりする。3年生の冬休み、僕の隣には変わらず彼女がいてくれる。
4)彼女がアルバイトに行く日は、僕が買い物をしておいたり、米を一合用意したりする。そして僕はふと思うのだ。母は、父の帰りを待つ間に料理の支度をしていたのではなく、母の時間を割いて、家族のために料理をしてくれているのだと。
5)身の回りのことを自分自身でやらなくてはいけなくなって初めて、母の仕事だと思っていた家事が、仕事ではないことを知った。
僕がゲームに夢中になっている間、母は母の時間を使って、家事をこなしている。父の帰りを待つというより、その時間に合わせて行動しているのだ。
6)僕は母に言われなければ、手伝うことなどしなかった。高い所にあるものを取ってと頼まれれば、それだけしかしなかった。母の手元を見て、今何をしているのかさえ知ろうともしなかった。食事を与えてもらい、洗濯をしてもらい、掃除をしてもらい、僕は何もかにもをしてもらっていた、それはまるで
7)赤ん坊の頃から変わらずずっと世話をさせてきたのと同じだ。
僕は将来やりたいことがある。そのために地元の大学ではない所を選び、両親と話し合い、進学させてもらった。とても有難いと思いながら日々勉強もしている。友達と切磋琢磨しながら、少し社会に触れながら、僕はここで居場所を作った。
8)僕は今、母や父のことを思いながら歩いている。
アルバイトのために、どうしても1日は帰省できないと言った時の母の声は、少し悲しそうで、でも2日に帰って来れるんだものねと笑った。
父はなら俺も1日は出勤して2日を正月にすればいいなとメールしてきた。
9)僕は少し立ち止まり、手の中のスマホを見つめてみる。
母の声に、父のメールに、僕はさみしさを覚えた。
二人の態度はまるで大人に対するもののようで、家を離れた僕は、帰る場所を失ったのだろうかと思った。
立ち止まった僕を追い抜いて行く人の流れに、僕の時間が____置いていかれる。
10)僕の視界にぼんやりと、赤や緑や白に塗り替えられた街が、輪郭を失って、ただの色の集合として見える。
歩みを止めた僕は、足早に通り過ぎて行く人々の邪魔なモノなのだろう。
くっと顎を上げてみる。
色が溢れる地上は昼も夜も光が溢れ、建物は空に近くなり、手をのばせば星を掴めそうだ。
11)これが僕の故郷だったら。夜は深い藍色をしていたり、終わりのない黒だったりして、その中で瞬く星は、ここよりももっとくっきりと、輝いて見えるのに。
溜め息とともに吐き出された白のかたまりを掻き消すかの如く、スマホをポケットに戻し、僕は再び足を動かし始めた。
12)感傷的になる必要はない。僕に正月が来ないわけではないのだから。
ほんの少し、心の温度が気温と似ているのは、彩り飾られた街並とそれを受け入れている人々に取り残された僕が、いつもと変わらない日常にあるからだと思う。
それでも、幸せそうな笑顔を見かけるたび、心に温もりが戻る。
13)「よいお年を」と見送られたアルバイトの帰り道。明日顔を合わせることがない人のご挨拶。明日も顔を合わせるバイト仲間と苦笑しながら、返すしかない「よいお年を」。
部屋に帰ったら年末らしいテレビ番組を見て、画面の中の除夜の鐘を聞きながら、スマホ片手に最初にメールするのは彼女かな。
14)見知らぬ人の笑顔と幸せなオーラに心地好く充てられながら、僕の頬もマフラーの中で少し緩んで、
ストリートミュージシャンの声を背中で聞きながら、僕の心を代弁しているようだと苦笑いする。
部屋までの道のりは人に溢れていて、ドア一枚を隔てただけで別世界のような孤独が待っている。
15)近い未来を想像し、来たる孤独への耐性をつけようと決意して、ひとつ、ふたつと角を曲がり、人の気配から遠ざかって行く。
あの薄ぼんやりとした街灯を巻き付けられた電柱の角を曲がれば見えて来る、僕のアパート。
16)通りの賑やかさからは嘘のように静かになる。それは僕にとって部屋探しの条件の一つだったかもしれない。
気を休めるために音から離れることも大事なのだが、星は遠くて、煌めいている自分の田舎に身を置いたつもりになりたかったのではないかと、最近になって気付いた。無意識なホームシック。
17)突然音から放り出されて独りになると、色んなことを思い出すものらしい。脳裏に浮かぶありきたりな言葉は、「人は一人では生きていけない」だった。僕の隣にはいつも誰かがいて、それは彼女だったり、友達だったり、アルバイトの仲間だったり、両親だった。
(せめて温かい布団で眠りたい)
18)一年生の冬、母が送ってくれた湯たんぽ。一度も使ったことがないくせに、どこにしまったかはちゃんと覚えている。湯たんぽなんてカッコ悪い。母の優しさが恥ずかしかった僕は、あの時電気毛布なるものを買ったのだった。あれはとても温かい。だけどすごく乾燥する。そう、つまり、お蔵入り。
19)冬の寒さを温かさに変えるものが何なのかを知ったら、心地好くて手放せなくて、でもその根本にあるものに気付けたから、僕は今、母のことを恥ずかしいなんて思わないし、父のことを一番近しい大人の見本として見ることができる。両親を敬うことができる。優しい気持ちを持つことができる。
父さん、母さんと、しばらく呼びかけることができなかった時期。いわゆる反抗期には、僕はきっと両親の存在すら恥ずかしかった。僕は一人で生きているつもりになって、恩恵を忘れ目の前に没頭した。いざ一人で生活を始めてみると、些細なことが身に沁みる。
例えば僕と彼女の間には、ギブアンドテイクのルールがあって、どちらからともなく始まったとても良い習慣だと思っていることがある。
僕がアルバイトの時は彼女が食事を用意してくれる。その後片付けに食器を洗うのは、作ってもらった僕の方で、逆もまた然り。彼女がアルバイトの時は僕が用意をして、彼女が片付けをしてくれる。作ってもらったことへの感謝の気持ちは、言葉とともに示す。もちろん僕達二人ともがフリーの日は、外食することもあるし、狭いキッチンに一緒に並んだりする。彼女はお湯を使わない。どんなに寒い冬の日でも、水で食器を洗う。僕がお湯を使わないのと聞くと、彼女の母がお湯を使わない人だそうで__手の乾燥が気になるからというのだが__、指先で、てのひらで感じる水の冷たさに母を重ねているのだそうだ。彼女もまた、一人暮らしが良い経験となっていて、二人で感じる「一人の孤独」を、僕達は鼻先をくっつけて笑い合う。
僕は少し、優しくなれたかな?
背中のバッグに手を回し、隙間から鍵を探し出す。財布、文庫本、剥き出しのボールペン。ごつごつと手に当たる放課後の日常の間を縫って、ちりりと取り出したキーリング。寄り添った二つの鍵の片方を確かめ、俯いて数歩。闇に慣れた僕の目に、玄関によく来る見慣れた靴の先を見た。一瞬期待してきゅんとなった僕のハートを、僕は裏切らなかった。
顔を上げるとそこにある、僕の大切な彼女の姿。鼻を真っ赤にして、手のひらを擦り合わせながら、僕が目を丸くしているのを楽しんだ顔で。
「おかえり」
「え?……えっ?」
僕はきょろきょろを当たりを見回した。本来なら、実家に帰省した彼女がここにいるはずはなくて、でも今僕の目の前で、ちょっと意地悪なにやけた顔を見せているのは間違いなく彼女で、みっともなく動揺している僕は、爪先立った彼女の冷たい手のひらに頬を挟まれて、思わずびくりと震えあがる始末。
「お姉ちゃんに乗せて来てもらったの。キミにどうしても伝えたくて」
頬を冷やす彼女の温度に、どれほどの時間僕を待っていたのかを教えられる。僕は彼女を包むように手を重ね、ごめんね、ありがとうと呟いた。
視界に入る距離に停まっている自動車のハザードランプを気にするように、彼女はこほんと咳払いをした。
「あのね」
彼女は腕をいっぱいに伸ばしたまま踵を地面に着けて、改まって僕に言う。
「今年もたくさんお世話になりました。ありがとう。来年も、よろしくね」
彼女の笑顔と言葉は僕の心を一瞬にして春にする。温かい僕の頬に触れている彼女の手のひらも、きっとすぐに同じ温度になる。
不覚にもちょっと泣きそうになりながら、僕は一時間前の台詞を思い出していた。
『良いお年を』。
__ああ、先輩方。年末だけど、僕にはすでに良い年になりました。
オレンジの点滅を横顔に映す彼女の右側に回り込む。彼女のお姉さんに背を向けるように。
ロングコートの腰に腕を回し抱き寄せて、少しだけ温度差のある唇を合わせた。僕達の横をごぉ、と自動車が通り過ぎ、一つの塊だった影が動いてはっとする。
僕は彼女から体を離し、カッコいい言葉を言ってあげたかったのに、実際に出て来たのは実につまらないものだった。
「来年からも、よろしくね」
ほんの数分の逢瀬。僕はそれまで家族や孤独について考えていたのに、突然の彼女の登場は、それら全てをかき消して、今や僕は誰よりもハッピーだとさえ思うようになっていた。
助手席から手を振る彼女には愛を、運転席のお姉さんの顔は殆ど見えなかったけれど、僕は感謝を込めて深く頭を下げて二人を見送った。
部屋に入る前、共同スペースに設けられたメールボックスを開いてみると、はがきが一枚入っていた。表書きの文字を見ただけで差出人はわかる。
書面に印刷された「A Happy New Year」の文字と地元の風景写真と、添えられた母からのメッセージを見て、僕はスマホを取り出した。
12月31日23時57分。
回線が込み合っていないだろうかと心配しつつ、履歴から自宅を選ぶ。
聞こえた呼び出し音は数秒で、少し不審そうで、でもきっと僕だとわかっていたような母の「もしもし」の声は、僕を心の底から安堵させた。
メールボックスの横の壁にもたれながら、僕は白い息とともに吐き出した。
「遅くにごめん、__だよ」
宙空の白い塊は、途切れ途切れに表れては消えて行く。
左手に持った普通はがきの年賀状は、間違いなく、僕の元に届いた。
僕は去年、二回の正月を迎えたのかな。それとも、今年、二回迎えるのだろうか。
ふと思い付いたそれは、母の嬉しそうな声を聞いているうちにどうでもよくなって、僕の頬はずっと緩みっぱなしでどうしようもなかった。
一日あとに、会いに戻るから。今はそんなに、話さなくても、大丈夫だよ。
A Happy New Year 日生 いろは @hinaseiroha
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