アイスティー

樫木佐帆 ks

アイスティー




「堕しちゃったの。男の子だったから」そう言って、彼女は妊娠中には吸わなかったSeven Starを胸のポケットから取り出し、ライターで火を付け、その煙を吸った。「…うん、女の子なら良かったのにね。彼には妊娠していたことも言っていないの。まあ、でも彼は子供が好きだし、子供が出来たと言えば喜んでくれただろうけど、…私がね」 


 その理由を私は知っている。しかしここで蒸し返すことはないだろうと思った。遠い、それでいてそんなに遠くはない学生だった昔を思い出しかけ、彼女の吐く煙草の煙に邪魔された。「私は女の子しか好きになれないから。女の子が良かったなぁ。いろんなことをしてあげられたのに」


 彼女は同性愛者であり、そして学生時代に私と付き合っていた。それは大学まで続き、大学の3年目だろうか、いきなり別れを告げられた。男の人と付き合うから、と言う。私は彼女がいればそれでよかったのに彼女は現実というものを選択したのだ。男の人ともできるのかと私は裏切られたような気がして、そして、それきり会う事も無く、連絡も途絶えていたが、彼女が妊娠し、それを私の友人経由で報告した事からまた付き合いは始まった。


 彼女のお腹には違う生命がいる。妊娠すれば当たり前のことだが私にはどうにもそれが信じられなかった。日を置いて会う度に彼女のお腹は少しずつ膨らんでいき、ある日、そのお腹は元の彼女のものに戻っていた。今日のことだ。そして今、彼女と交わしている会話から読み取れるのは、彼女は女の子が好き、なのであり、同性愛者でありながら、恐らく、同性の小児性愛者という事だ。まだ確証は無いが、彼女は「女の子」にしか興味が無いのだ。


 試しに私は彼女に、いろいろって、何? どんな? と、質問をしてみた。「いろいろって…かわいい服を着せたり、いっしょにおでかけしたり、買い物したり、遊園地や動物園や水族館へ遊びにいったり、とか?」 普通の返答。でも何か違和感がある。何かを隠しているような。本当の母親はそんな事を言うだろうか。私は、そのほかには? と追求してみた。「その、ほかって… うーんなんだろ」煙草の灰を灰皿に落としながら、彼女は静かに、肘をついた左手の人差し指を何か大切なものに触るように動かし、自分の想像に酔うように目を伏せて口を笑みの形にし、そして「撫でたい、かな」と嬉しそうに言った。


 私は、ああ、と思った。その仕草だけで全てがわかった。彼女の、ピンと伸ばした人差し指はやはり綺麗だった。学生時代何度も触られて、その度に何度も思った事だ。私の指は彼女の指よりは綺麗ではなくコンプレックスに思っていたから印象深いのかもしれない。彼女の指はそのまま目の前の空中を撫で、アイスティーのストローを弾いた。ストローの先が回転し、少し溶けた氷がコップのガラスにぶつかり、少し丸みを帯びた、からん、という音を立てる。陶器の風鈴みたいだと感じた。


 そしてその音は私を、私と彼女の学生時代へと引き戻す。私から好きだと言って付き合って、体を交わして。でも、いつも、指先と視線はこのアイスティーのように冷たかった。その理由がこのアイスティーの氷のように溶け出そうとしている。私は、発作のように、私のこと好きだった? と言い出しそうだった。体の芯を巡る血液が急激に温度を失っていく気がして、彼女の吐く煙草の煙でどうにか暖を取ろうとしていた。クーラーの効いたこのカフェで彼女の吐く煙草の煙だけが暖かいような気がしたのだ。


 そうだ、そんなことは聞いてはいけない。聞いてしまえば彼女の容赦の無い一撃が放たれる。好きだったけど、女の子じゃないから好きじゃなかったよ、きっと彼女はそう言うだろう。言わないかもしれない。でも、少なくとも思うだろう。それだけで私は深い絶望へと落ちる。私は生まれるはずだった彼女の男の子の事を、かわいそうに、想った。彼女が「女の子」が好きな限り、絶対にこの世界の空気に触れることがない命だったからだ。彼女と一緒に頼んだアイスティーが、温くなっていく。彼女に「飲めば?」と促され、口に含んだ。ガムシロップを入れた私のアイスティーは口の中で甘みが広がっていき、確実に私の存在を刺していくのだった。

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アイスティー 樫木佐帆 ks @ayam

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