The After - 2

 どういうことだろうか?

 彼女ははっきりと言ったはずだ、「やり残したことがあるから戻ってきた」と。戻ってきた目的は、他にあったのか?

 どれだけ考えても考えは同じ所をぐるぐる回り、ぼくは立て続けにコークハイをあおった。

 彼女がやり残していたこと?

 ドラマを観て、料理して、旅行して……確か、やり残したことは全部できたって言ってたはずだ。ということは、あの一週間の中に答えはある。

 わざわざ戻ってくるぐらいだから、とても重要なことなんだろう。そして、さっきの課長の言葉からすると、それは彼女自身のためではない。

 ……じゃあ、ぼくのため?

 彼女はぼくのために戻ってきてくれた。

 そこまで考えが及んで、ぼくはやっと腑に落ちた。


 彼女は、ぼくに彼女の死を受け入れさせるために戻ってきてくれたのだ。


 あのままだとぼくはおそらく、課長と同じような状態に陥っていただろう。彼女がいなくなったことを信じられないまま、受け止められないまま、毎日を死んだように生きていたことだろう。

 それを防ぐために、ちゃんと彼女は死んだのだとぼくにわからせるために、戻ってきてくれたのだ。「やり残したことがある」のは本当だけど、一番大切な「やり残したこと」はきっとこれだったのだ。

 ぼくが立ち直るのを手助けしてくれたんだ。

 ……ああ、いつもそうだ。

 彼女は、ぼくが気付かないようなところでぼくに優しくしてくれる。課長の奥さんみたいに怒ることなく、一週間かけてぼくにわからせてくれた。ぼくが彼女の死を受け止められるよう、精一杯の愛情を注いでくれた。それなのにぼくは、彼女がやり残したことに「付き合ってやっている」ぐらいの気持ちでいたのだ……。

 ぼくは大馬鹿者だ。

 今までぼくは、どれほど彼女に助けられてきたんだろう。そう、死んだあとさえも。

 ぼくはそっと目を閉じた。


 彼女のことは、今でも好きだ。大好きだ。こんなこと、彼女が生きているときは恥ずかしすぎて絶対に言えなかったけれど。

 それなのに、彼女を思い出すことが少しずつ減っている。

 思い出そうとすればいくらでも思い出せる、彼女との思い出。くっきりと胸の中に色づいて、目を閉じれば彼女の姿は目の前にいるみたいに浮かんでくる。

 でも、思い出そうとしないと思い出せないのだ。

 ぼくの中にいる君が、少しずつ薄れていく。

 薄れていくという言い方は正しくないかもしれない。ぼくの頭の中の、隅のほうへ、隅のほうへと君が寄っていくような感じ……と言えばわかるだろうか。

 頭の中に、懐かしい声が響く。


――だって、いつまでも私が居座ってたら、君は先に進めないでしょ。


 そんなことないよ。むしろ、居座っててほしいんだ。でないとぼくは、いつか、君のことを忘れてしまいそうなんだ。


――まあ! 私って、君にとってはたった数ヶ月や数年で忘れちゃうほどの存在だったの?


 違うよ、そんなわけないじゃないか。


――じゃあ、そんな情けないこと言わないの。私は君の中からいなくなるわけじゃないよ。ただ、君のこれからのために場所を譲ってるだけ。君はこれからも生きていくんだから、君の時間は私と違ってまだ動いてるんだから、私は君の頭の隅っこの薄暗がりで、それをのんびり見守りたいのよ。


 やっぱり、君には敵わないよ。そういえば、君のことをたまに思い出すけど、こんなふうに話しかけてくれたのは初めてだね。


――あら、それはきっと、君が酔ってるからよ。これは、酔ってる君が見てる素敵な夢。私からのプレゼント。君ってお酒には強いくせに、一旦酔うと夢か現実かもわからなくなっちゃうんだから、困ったものだわ。もう私は介抱してあげられないからね。飲みすぎないでね。


 ……善処するよ。


――あと、話しかけられるのはもうこれで最後ね。クリスマスだから特例ってことで許してもらえたのよ。残念だけど、二回目は無理だと思う。ごめんね。


「いいよ。また話せた、それでもう満足さ」

 そう呟くと同時に、ぼくは目を覚ました。

 いつから眠ってしまっていたのかわからないが、どうやらそろそろ一次会はお開きらしい。同僚たちがバタバタと歩き回っている。ぼくはお金を払い、店を出て、さあ二次会だと騒ぐ同僚たちの輪からそっと抜け出した。

「二次会はプレゼント交換もやるぞ、来ないのか?」

 そう言って課長に引き止められたけど、ぼくは丁寧に断った。

 プレゼントなら、もう貰った。夢の中とはいえ、彼女ともう一回話すことができたんだ。今までで一番素敵なクリスマスプレゼントじゃないか。

 ぴいんと張り詰めたような寒さの中を、家に向かって歩いていく。

 街を歩く人々は皆、腕を組んだり手を繋いだり、とても幸せそうな表情をしている。

 ぼくの隣には誰もいないけど、それでもぼくは幸せだった。彼女はたぶん、今もぼくの中にいる。ちゃんとぼくを見ていてくれる。


 ねえ、そうだろう。


 ひときわ冷たい風が吹き渡り、静かだった暗い空から、ふわりふわりと雪片が舞い落ちてきた。

 聖なる夜に降る雪は、白く、なんだかぽてぽてとしている。さらさらの粉雪ではないけれど、それでも立派な雪だ。

 街を行く人々がわあっと歓声を上げた。

 どこからともなく「メリークリスマス!」と声が上がり、人々はそれに続いて口々に挨拶を交わし始める。

「メリークリスマス」

「メリークリスマス!」

 その声はいつしか集まって大きくなり、白く染まりつつある夜更けの街に広がっていく。

 すれ違う知らない人とも、隣にいる大切な人とも。すべてのものに分け隔てなく。街の至る所で笑顔で交わされる挨拶は、冷えきった街を揺さぶって、少しずつ温めていった。

 ぼくは立ち止まって夜空を仰ぎ、小さく呟いた。あの夜空よりもっともっと高いところにいるはずの、彼女に向かって。

「メリークリスマス」

 そして声には出さずに、愛してるよ、と呟く。


――メリークリスマス、恥ずかしがり屋さん。


 遠くから、彼女の声が聞こえた気がした。いたずらっぽく、そっとささやくように。

 ぼくは少し笑って空に手を振り、やがてゆっくりと歩き出した。

 うっすらと積もった雪をさくさくと踏みしめて歩いていく。背筋をぴんと張り、前を向いて。

 さあ、ぼくが死ぬまで、しばらくお別れだ。

 それまでは、精一杯生きてやろう。嬉しいことも悲しいことも、楽しいこともつらいことも、たくさん経験して、今度会ったとき彼女に話してやろう。君のぶんまでちゃんと生きたよって、胸を張って言えるように。


 また会える日まで、君もお元気で。

 さようなら。

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レンブラント光線 紫水街(旧:水尾) @elbaite

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