接触の章
接触 上 八尋の日
「珍しく今日は釣れないなぁ……」
釣りを日課としている八尋が魚を釣る事が出来ないと言う事は実に珍しい。どれぐらい珍しいかと言うと、関東圏に雪が降る回数よりも少ないのだ。一向に釣れないこの状況を打開するべく八尋は竿を豪快に振り戻し、しばしの休憩を取る事にした。熟練者にもなると柵のあるエリアに移動しその柵に固定具を取り付けた釣り竿を立てかけながら休息を取るのだが八尋はそうしなかった。経験則から今そんな事をしても釣れないと悟ったのだ。
釣り堀の中には売店の他にもうどん屋がありそこで少し遅めの昼食を取る事にした。
「いらっしゃい百崎ちゃん、浮かない顔をしているねぇ。あんたが釣れないんじゃあこの下町にや魚を釣れるやつだなんていないんだからちゃんと釣らんと」
カウンターの向こうで穏やかな顔をしたお婆さんがそう答えた。
「それが周りは入れ食い状態、僕の分なんて残ってやしないんじゃないかと疑っちゃうよ」
「そりゃあ気の毒だ。ほいよ、いつものかき揚げうどん」
八尋は決まって昼食は大盛りのかき揚げうどんを食べる。注文を取るだなんて野暮な事はお婆さんもしなくなっていた。うどんを差し出すとお婆さんはカウンターから離れ、裏からテレビのリモコンを取り出し小さく古いブラウン管の電源を付けた。色あせたブラウン管に映っていたのは大きな魚を釣り上げた時の水しぶきの様に汗を流しながら懸命に走る高校球児の姿だった。
テレビには目もくれずに割り箸を迷い無く二分割にし、八尋は大きな一口を啜り上げた。
「おや、私の気苦労かいね」
お婆さんが八尋に向けた言葉だった。八尋はお婆さんの方を向く事は無く、右手でそっと七味を取りうどんに振りかけた。
「何が?」
「割り箸じゃよ、綺麗に割れているじゃろ。心に少しでも乱れがあると綺麗に割れないもんさね。釣りも同じ、悩みがある人ほど釣れないもんさ」
お婆さんの言う通りだった。今は空腹を満たそうと無心でうどんに食らいついていたからこそ綺麗に箸が割れたのだ。八尋はメールの返信を出し忘れていたのを思い出す。
「婆ちゃんごめん、ちょっと行儀悪くなるけど堪忍な」
「かまへんかまへん、行儀なんて見知らぬ他人か目上の人がいて初めて気にするもんじゃ。私の前では何にも気にせんでよか」
八尋はポケットから携帯電話を取り出し左手で操作しはじめた。念のため新しくメールが届いていない事を確認すると新規メール画面を開き迅速に文字を打ち続けた。それでも空腹と目の前のうどんから漂う薫りには勝てず右手でうどんを食べ始める。止まった左手に掴まれたままの携帯は湯気に包まれ、汗を書いている様に濡れ始めた。軽く袖でその水滴を拭き取り携帯をカウンターに開いたまま置いた。両手でうどんの器を持ち、つゆを口の中に流し込む。
「ごちそうさまでした!」
うどんを食べ終えるとポケットから小銭をテーブルにばらまきそのまま携帯を握りしめた。普段は静寂な動きをする八尋が見せる豪快な様にお婆さんもどこか嬉しそうだった。
「完成!」
“透明な羽だなんて綺麗だね。僕も気になったから早速インターネットで調べてみたんだけど本当に薄いガラスの様に透けているんだね!
やっぱり栄吉君はすごいや!”
特に何かを新しく聞く事も無く短く、簡潔な感想を述べた。何よりこのメールには不純物が一切含まれていない。嘘、見栄、疑念、全てを押しのけ書き記された純粋な思いとは個々まで清々しい物なのだ。心機一転、釣りを再開すると十数分もしないうちに三匹も釣れたのだ。いずれも小振りではあるが活き活きしており八尋もご満悦だ。メールの返信が来たのは四匹目を釣るための餌を針に付けている時だった。竿を大きく振り釣りを再開し、八尋は携帯を開いた。
“他にも色々な昆虫に巡り会えて楽しいぞ! 毎日が輝いている様だ!”
短く届いたその一文は八尋の心にぐさりと刺さった。槍が刺さる感覚よりはこの釣り竿に付けられた針に引っかかった様な感じに近い。栄吉が輝かしい日常を歩んでいる中自分は毎日釣り堀に通うだけの人生。働いているとは行っても週三の夜勤、フリーターの中でも全然働いていない方だ。釣り竿は撓り、心を引き裂き始めた。四匹目の魚が釣れる事は無かった。
家に帰ると反対の道からとぼとぼ歩いてくる栄吉を見つけた。
「富士見さん……、その様子だと負けたみたいですね」
「バチが当たったんでい……」
「バチ?」
「い、いや。こっちの話しだ」
大負けした様子を目の当たりにして八尋は自分の財布の中身を確認する。いつもよりも懐が暖かい事を確認し栄吉の肩を叩いた。
「今日は僕がおごりますよ」
二人がやってきたのは町内の廃れた居酒屋だった。味は確かなのだが立地が悪く客足も遠のいてしまっており、そんな客を呼ぶために値段も格安と言う貧乏フリーターの二人に取ってはありがたいお店なのだ。
「それにしても富士見さんって不思議ですよね」
「ん? なにがでい?」
先ほどまで栄吉が纏っていた負のオーラの面影なんか無く幸せそうに焼き鳥を頬張っていた。八尋は続ける。
「僕この間聞いたんですけど富士見さんってほんとは好青年らしいじゃないですか。若々しく元気がいいって聞きましたよ? なんで僕と会う日はそんなおじさん見たいな口調でしゃべりながら常に半纏を着ているんですか……」
「憧れてんだようっせえなぁ。お、そういえば今日は釣れたんかい?」
栄吉は八尋の背に置いてあったクーラボックスに目が行った。八尋は店の中じゃ失礼だと栄吉を制止しようと試みたが彼は強引にクーラボックスの中身を確認した。
「お、活きの良いのが三匹いるじゃねえか! 店主に言って焼いてきてもらってくらぁ!」
「あ、ちょっと……」
栄吉の強引さに圧倒されつつも焼き魚が食べられるのだったら設け物だと少し心を躍らせた八尋は携帯を手に取った。遠目に栄吉と店主が話し込んでいるのが見えたので長くなりそうだと考えたからだ。
八尋はメールを出そうと考えたが内容が思いつかない。聞きたい事も現時点では特に無かった。興味が既に焼き魚に行っているからだ。する事が無いからメールを送る、でもメールを送る内容はする事が無いから分からないと言う悪循環に
「そうだ」
携帯電話を横向きに傾け、ピントを合わせた後にシャッター音が鳴る。携帯の向きを縦に戻しメールを打ち始めた。
“今は知り合いと酒を飲んでいるところ! 栄吉君とも飲めるといいな。”
そう書き記し画像ファイルを添付した。話題が無いのであれば話題に繋がりそうな事を書けば良い、そう考えたのだ。しかし送信ボタンに指を伸ばすと体が静止する。
「栄吉君から見たら僕は今社長な訳で……これって社長が食べるお店じゃないかも知れない……。何か聞かれたらどうしよう」
せっかくメールを送る機会ができたのに送れない事を彼は残念がった。栄吉の方を見ると店主が魚を焼き始めた様でしばらくすれば彼も帰ってきそうだった。だからこそ彼はそこで携帯を閉じるべきだった。だが彼が選んだのはそんな選択肢ではなく事を悪化させる手段だった。
「魚焼けたってよ!」
嬉しそうに皿を両手で持ち歩いてくる栄吉を見て八尋の食欲は増した。
「富士見さん、携帯鳴っていません?」
栄吉がその場に座り魚を一匹つまもうとすると携帯が鳴り始めた。
八尋が送ったメールが数十センチ先の携帯電話に届いた瞬間である。
見栄張り文通生活 冴貫言文 @yomitokubungaku
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