始まり 下 八尋の視点
「お、栄吉君から返事だ」
八尋は栄吉から送られてきた『約束』についての返事を読んだ。メールを読み終わると彼はどこか嬉しそうにしながら携帯を閉じた。
「やっぱり栄吉さんはすごい人だ」
栄吉と同じで八尋もまた記憶が不鮮明だった。覚えているのは漠然と栄吉の事を慕っていたと言う記憶と栄吉がすごいと言う彼の認識の二点だった。そんな時、彼も日誌を手にし約束の事を思い出したのだ。栄吉がもしも夢にまっすぐ突き進んでいるのだとしたらそれは弟分として誇らしいし自分が約束の事を忘れていたと言う事を謝らなくてはならないと考えた。
悪夢はここから始まった。
「さてと……、
そう言いながら携帯を持つと八尋の手は震え始めた。自分が情けなく、非道な人間に思えたのだ。大学院の研究チームに入れる様になるには高いハードルがあり、栄吉はそれを乗り越えてきたのだと八尋は考え込んでしまう。自分から持ちかけた約束を自分から反故にしていたのだ。そんな時、八尋はしては行けない事をしてしまった。あろう事か栄吉と同じくカレンダーに目を落としてしまったのだ。
「きょ、今日ってエイプリルフールだもんね……。少しぐらい良いかな……」
この考えが甘かったのだ。
“さすが栄吉君、思った通りだよ。君なら出来ると思っていたんだ!
人の役に立てているかは分からないけど一応ちょっとした医療器具を作るメーカーの代表取締役になったんだ。
自分で立ち上げた会社でまだ従業員も少ない小さな会社だけどすごくやりがいを感じている。
皆、人の為に一生懸命で日夜新しい医療器具の開発と研究をしているんだ。”
「やっちゃった……」
人を殺めてしまったかの様な狂気的な目を八尋は浮かべた。返事は一分もしないうちに帰ってきた。
“代表取締役って社長だろ? すげえな!”
冷えた手で心臓を鷲掴みにされた気分だった。自分は栄吉を裏切ったのだ。罪悪感を感じずにはいられない。それでもこの嘘を告白したところで罪悪感は消えないのだ。なぜなら約束を反故にしたと言う別の罪が待っているから。失望されたく無い、その一心で彼は嘘をつき続ける。
“社長だなんて大げさな事言わないでよ。本当にまだ小さい会社なんだ。
この間は僕の会社で発明した医療薬が認められて病院で初めて投与されたんだ!
あれで子供の命が一人救えたと思うと嬉しくてしょうがないよ。”
次第に嘘をつく罪悪感は薄れ、それ以上に今の自分とは違い立派な行いが出来ていると思われる事に快感を覚えつつもあった。
“今の医療器具メーカーって薬も作るんだな。俺にはよくわからないけど頑張っているんだな!”
栄吉から届いたメールに背筋が凍った。
「やばい」
八尋は言葉を零した。焦る必要が無い事にも気がつかず慌てまくり、上の階からの床ドンを受け静まり帰る。
「ごめんなさい!」
見えないであろう上の階の住人に一礼を捧げ、携帯へと向かった。言い訳の方法を考えつつも饒舌に彼の指先は栄吉の疑問を躱してみせた。
“普通の医療器具メーカーはそうだろうね、効率もいいしお金もかからないから。でも効率ばかりを求めていてもしょうがないなって思ったんだ。第一それなら既存の大手でいいからね。僕は僕なりの会社を作ってがんばろうと思うんだ。”
上手く隠した上に自分の事を良く見せる事も出来た。嘘の事を身を守る鎧だと形容する人がいる様に、この嘘は既に八尋に取ってはファッションの様なものになっていたのだ。
そんな時、八尋はふと自分の嘘の事ではなく栄吉の真について気になり始めた。浅ましい自分のごまかしよりも誇らしい栄吉の自慢話が聞きたかったのだ。急いでメールに追記文を加え再送した。
“栄吉君はどうなの? せっかくだからもっと話を聞かせてよ!”
メールを送ってから二十数分、返事が返ってこなかった。先ほどまでは軽快なペースで送って来ていただけに少し不審がってはいたが気に留める様な事は何も無かった。
“もっとって言われてもなぁ……。そういえばアメリカに行った時に向こうの教授にツマジロスカシマダラって言う透明な羽をした蝶を見せてもらったんだ。透明な羽って言うのはそう珍しくも無いんだけど蝶であそこまで透けて見えるのは本当に綺麗だったなぁ。”
「透明な羽なんてあるの? それにアメリカにも行っていただなんてすごいなぁ。ちょっとどんな蝶か見てみたいな」
八尋は携帯のメール画面をインターネットブラウザ画面に切り替え、早速検索エンジンにツマジロスカシマダラと記入した。確かに栄吉の言う様に綺麗で透明な羽をしていた事に感動に近い何かを覚えた。その画像をクリックすると蝶の詳細な情報が記載されているページへと飛ばされた。
「本当に栄吉の言う通りなんだなぁ」
飛ばされたページはとある写真家の活動ブログだった。ツマジロスカシマダラの写真の隣にはこう記されていた。
透明な羽って言うのはそう珍しくも無いんだけど蝶であそこまで透けて見えるのは本当に綺麗だったなぁ。
純粋な八尋は「栄吉の言う通り」でこの事を片付け、メールの文とこのブログに乗っている文が一字一句同じだと言う事には気がつかない。栄吉が二十分も時間を掛けていたのはこれをコピペしていたからだろう。
「やば、もう七時じゃん」
八尋の日課は釣り堀に通う事だ。朝から夕方までは近所にある小さな釣り堀に通い詰めている。開業が七時半、今から向かっても到着は七時四十分頃になってしまう。一番のりである事に意味は無いがどこか釈然としない様子だった。
「メールは釣りをしながらでも出来るからな、急いで行くか」
立てかけてあった釣り竿とクーラボックスを担ぎ颯爽と部屋を飛び出した。
古びたアパートではあるが立て付けも良く防寒、防音は最低限揃っているこの我城を八尋はひどく気に入っている。二号室の扉をぱっと開けると同時に隣の三号室の扉も開いた。
「お? 百崎さんじゃねえの。今日もまた釣りかい? 好きだねーほんと」
「富士見さんもこんな朝からパチンコですか?」
「今日はこっちさ」
栄吉はそう言いながら新聞紙をちらつかせた。
「競馬の方でしたか」
「へへ、今日は当たる気がするんでい! 今日も帰りは夕方かい? 後でお隣さんどうしでぱーっと飲みにでもいこうや、当たった金でおごってやらぁ!」
「当たりは期待せずに待っていますよ」
「こんにゃろめ……」
こうして二人の旧友兼隣人の見栄張りが送る嘘と現実が交差し合う文通生活が始まった。お互いが隣人同士であると認識出来る様になるのはまた別の話。
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