第2話 機械仕掛けの神様

 ヒロシマ・ナガサキ。


 まだ幼かったアナは、この二つの都市の名を知った夜、姉と明りの消えた部屋でお喋りをした。だけど、それには細心の注意が必要である。もし眠りもせずにお喋りをしているだなんてことがバレれば、怒ると怖いママにお尻を叩かれるか、心配性のパパが娘達の不眠症を疑いかねないからだ。


 だから、二人のお喋りは窓の外の夜風より静かだった。


 アナは、たった一発の爆弾でたくさんの人間が亡くなったことが恐ろしくて、悲しいと語った。姉は、ウラン型とプルトニウム型の原子爆弾の構造についての講釈からはじめ、二発の核兵器の投下が大日本帝国の戦争政策決定にどのような効果を与えたかを語った。


 アナは姉の語る言葉をスポンジのように吸収した。難解な単語について解説を求めれば、姉は詳細に教えてくれた。アナは、それを特に苦労することなく理解した。とにかく姉の解説がわかりやすいのだ。姉は特別な人間だから、それも当たり前だった。


 核を巡る言葉の旅は、半世紀前の太平洋戦争から東西冷戦下の現代にまで辿り着いた。世界を何度滅ぼしてもお釣りのくる破壊力を突き付けあう米ソ。相互確証破壊が生み出す均衡の上に成り立つ平和という名の幻想は、それでも長らく維持された。


 それが、100万の死メガデスへの恐怖によるものか、ヒロシマ・ナガサキでの悲劇を繰り返してはならないという人類の理性によるものか、あるいは歴史の闇に潜むかの暗躍によるものだったのかはわからない。


 アナの姉は、それを奇跡だと評した上で笑った。


『きっとね、神様がバカな人間が滅んだりしないように見守ってくれたのよ』


 あまりに唐突な言葉に、アナはきょとんと瞳を丸くした。この姉が、神様だなんてものを信じているとは、とてもではないが信じられなかった。きっとまたわたしのことをからかってるんだ。そう思って唇を尖らせていると姉は真顔のままに言い放った。


『だって滅ぶのが当然だとしか思えないもの、こんな世界』


 その断言口調に、またアナは驚いた。どうやら姉は本気らしい。


『世界に何十億といる人間が、それぞれのエゴをむき出しにした挙句に核兵器なんてものを生み出しておきながら、結局は、その影に怯えるようにして生きている』


 語る姉の口ぶりに一切の迷いはなかった。それだけでアナは察した。今の姉の言葉は、きっと姉が頭の中で熟慮と吟味を重ねた上でのものなのだ。


『人類は自らの生み出した力を制御する力をもう失っているのよ。なら、こんな不安定な世界が長続きするって信じる方がおかしいわ』


 アナは頷いた。姉がいうならばそうなのだろう、と。


 なにせ姉は特別な人間だ。頭が、ずば抜けて良い。ママもパパもそれを喜んでいる。特別な才能ギフトを授かったのだと。だが、アナは見抜いてもいる。二人の喜びの裏には拭いきれない懸念がある。姉の才能が、あまりにも異常なのではないかと。


『今に酷い事が起こるわ――誰もがの訪れを願いたくなるようなね』


 その予言めいた言葉で夜のお喋りは終わった。


 そして――やがて姉の予言は現実のものとなった。


 90年代初頭に勃発した湾岸戦争。戦禍に巻き込まれたクウェートで核弾頭が炸裂した。十数万を数える人命が一瞬にして蒸発することになった。しかも、世界の誰もが、どうしてこうなったのか分からず、関係各国は互いに互いを非難することしかできなかった。


 生み出した力を持て余し、その力に振り回される人類の不完全さは、こうして証明されることになった。


 だが、姉――リース・ペンフィールドは、その予言の的中を誇らなかった。


 当然だった。


 核による死者の名簿に、アナとリースの両親が含まれていたのだから。



 目覚めと共にアナが感じたのは喉の渇きと酷い頭痛だった。霞む視界に映るのは見慣れない木造の天井。そこでようやくに自分がいまベッドに横たわっているのだと気付いた。


「……姉さんの夢、久しぶりだな」


 半ば夢見心地につぶやいた。夜のお喋りの興奮は、今も忘れられない。いけないことをしていると知っておきながら、それを破っているという背徳感が記憶の濃度を何倍にも高めていたのだ。


 胸の内に、懐かしくて愛しい郷愁が泡のように浮かび――そしてすぐさまには弾けて消えた。アドレナリンが揮発したかのような暴力の臭い、お願いだからやめてという懇願の言葉、蹂躙される精神の断末魔、全てを破却した先にある絶望的な救済。


(――ころして)


 逃れられぬ地獄。


「ぐっ……!」


 胃が中から突き上げられるような吐き気。熱にも似た痛みが食道を上り詰め、堪えきれずにげぇげぇと吐いた。まともな食事もしていなかったせいか、吐き出されるのはほとんど粘ついた胃液だけだった。端正な顔を苦しげに歪める時間が三十秒ほど続いてから、アナはのそのそと手の甲で口元を拭った。


 その酸っぱい臭いがアナの脳神経に火を入れた。そうだ、夢は夢でしかない。もう、夜のお喋りの平和さを取り戻すことなんてできない。クウェートの名が歴史に新たに刻まれたあの日に、そして、ジェシカが死んだ先ほどにまた一層難しくなったのだ。


「――やーっとお目覚め?」


 唐突な刺々しい言葉だった。びくりとアナは肩をすくめた。例のジョゼとかいういけ好かない少年だろうかと思った。違った。恐々と背後を振り返れば、地面に敷いた敷物の上で少女があぐらを掻いていた。


 褐色の肌をした少女は、もともとツリ目がちな瞳を一層に鋭くしてアナを見つめていた。いや、より厳密にいえば、はっきりとした敵意を以て睨み付けていた。少女は、ずいぶんとラフな英語にのせて苛立ちをぶつけてきた。


「げーげー吐いちゃったりして情けないの。ってーか、いったい誰がそれ片づけると思ってんのよ」

「そ、それは……ごめんなさい」突然の口撃にアナはまごつくしかなかった。

「なんでジョゼは、アンタみたいなの助けたんだろ。いみわかんないし」

「……」


 アナは無言だった。この少女が何にイラついているのか分からないが、その苛立ちを自分にぶつけられるのはあまりに理不尽だと思った。だが、状況がはっきりと見えない以上、変に口を開いてあげ足をとられたくはなかった。


「だいたいが何でアンタみたいなのが、この国にいるのよ。平和貢献が使命だとか酔ってるくせに、いざって時にはビビるばっかりの腰抜けの一味?」

「違います」淡々と返すアナ。

「ふーん。じゃあ、アレね、テレビゲームのやり過ぎで自分のこと無敵で万能だとか勘違いしちゃったクソバカね?」

「……違うわよ」段々と腹が立ってきた。

「残念ね。アンタは無敵でもなんでもないし、この国でアンタにできることは一つもない。そう、一つもね。友達か誰かがレイプされて死んだって? そんな、でゲロ吐いてるようなお嬢様には何ができるのよ」

「――ッ!」


 爆発した。鈍いはずの体がバネで跳ねたみたいに動き、少女の着るタンクトップの胸元をつかみあげた。


「つまらないことですって?」


 鼻と鼻がひっつきそうな距離まで顔を近づけて睨み付ける。


「あなたに何がわかるの? ジェシカの死の何がッ!」

「あ? 知るかボケ。ってか少し離れろ。息が、アンタ」


 我慢できなかった。気付いた時にはただ怒りをぶつけるようにしてアナは少女の頬を鋭く張っていた。ピシャリと乾いた音が響いた直後、すぐにアナの視界がひっくり返った。したたかに背中を打ちつけてようやくに少女の押し倒されたのだとわかった。


「立場わかってんの、アンタ?」


 少女は冷え冷えとした殺意を、眼下のアナへと向ける。


「命助けてもらっといて何様? 先進国の人間ってのは生まれつき偉いの?」

「そんなの関係ないでしょ! 貴女がバカにしてはいけないものをバカにしたからよ!」

「はぁ? 何よそれ」

「命よ……どうして、そんなに人の死を軽いことのように言えるのよ」

「そんなもんこの国じゃそこらじゅうに転がってるっての」


 少女は、そう言ってから腰のホルスターに手を回して拳銃を抜く。イスラエル製のオートマチックだった。そして、アナの額にぐいっと押し当てる。


「ねぇ。なんなら、そのにしたげよっか?」


 アナは金属の冷たさを額に感じながら、しかし、不思議なことに恐れを感じなかった。殺せるものなら殺してみろという捨て鉢な気分もあった。だが、無様に命乞いをして、この少女を喜ばせてしまっては、ジェシカの名誉が守れないという思いが何より強かった。


「気に入らない目ね。生意気もいい加減にしなきゃ」


 ゴリッ、とさらに強く拳銃が押し当てられた時だった。 


「――ベア、そこまでだよ」


 ぎいっというドアの軋みを立ててジョゼが姿を現した。AS操縦服ではなく野戦服の上をはだけ、タンクトップというラフな格好だった。


「ジョゼ! 驚かさないでよ~、びっくりして吹っ飛ばしちゃうとこだったじゃん!」ベアと呼ばれた少女が一転、明るい声で答えた。

「ベアがそんな間抜けな子ならAS任せないから」

「そ、そう? まぁ、ジョゼがそういうんなら、それでいいけどね」


 今までの殺伐ぶりはどこへやらといったようにベアは声を弾ませていた。そして、素早く拳銃をしまうとアナのことなどもうどうでもいいというようにジョゼのもとへと駆け寄った。


「こいつ、いきなり吐いたりしてたけど、別に病気とかじゃないと思う」

「ありがとう。ASの整備が終わったら休んでて。また後でご飯食べよう」

「うんっ、約束だよ、ジョゼ!」


 ベアは、ぎゅっとジョゼに抱き着いてからスキップのような足取りで小屋を出て行った。その一幕を見て、アナはほとんど呆気にとられるような思いだった。なんというか、まぁ、実にわかりやすい子だった。


「気分、悪いの?」ジョゼが、やや躊躇いがちに訊ねる。

「えっ、ああ、その……はい、ちょっと」

「無理しなくていいよ。ベッドそのまま使って。そうだ、水飲む?」


 アナは素直に頷いた。口の中がベトベトする。それに仕方ないとはいえ、さすがに口がゲロ臭いと言われて、そのままでいられるほどに無神経でもなかった。


 ジョゼは小屋の片隅に積まれた段ボールを漁り、ペットボトル入りの水を一本取り出した。段ボールの印字を鵜呑みにするならば、国連の人道支援物資でアンゴラに引き渡されたものらしい。


「はい、これ」

「ありがとう」


 受け取ったペットボトルが、どんな経緯でここに来たのか不審に思ったが、新鮮な水の魅力には抗いがたかった。キャップを外すと、ほとんど流し込むような勢いで水を飲んだ。


「あっ、一気に飲んだら」

「げほっ、ごほっ……」

「……ゆっくり飲んでいいよ。別にとらないし、なんならもう一本あげるから」


 そう促されて、アナは赤面した。浅ましいと思われただろうか。しかも、それを見た相手が、よりによってこのジョゼだというのが気にくわなかった。


「……気を遣ってもらってありがとう。でも、だいじょうぶだから」

「わかった、君はだいじょうぶだから、とにかくゆっくりと水を飲むといい」


 そうやって大人ぶった態度をとられると余計に恥ずかしくなった。アナはそれ以上、何も言わずに黙々と水を飲んだ。もう一本欲しいとお願いした時は、恥を承知の上のことだったとはいえ、思っていた以上に恥ずかしかった。



「アンナ・ペンフィールド。皆はアナって呼ぶわ。アメリカ人。歳は十六」

「ボクはジョゼ。混血メスチソだよ。歳は……わからない」


 どうぞ、よろしくだなんて二人とも言わなかった。これは日本式ビジネスの名刺交換ではない。ベールゼブブのリーダーによる、米国人アナに対する事情聴取だ。


「アナ、聞かせてくれ。どうしてアンゴラに来た。この国がどれだけ危険か知ってるだろ?」


 その暗に自分の行動を非難するような言葉を耳にする否や、アナはまたもやカチンとくるものを感じた。だったらば、自分が知っていることをすべて話してやるまでだ。


「元々、ポルトガルの植民地だったこの国は、独立戦争を経て独立を勝ち取ったけど、その主力だったアンゴラ解放人民運動MPLAに反対する者も多く、アンゴラ国民解放戦線FNLAアンゴラ全面独立民族同盟UNITAが反旗を翻したことで戦いが始まった。それが現在も続くこの内戦の始まり」

「らしいね」ジョゼは奇妙なほど他人事だというように頷いた。

「FNLAは隣国の政変などもあって勢力が衰えたけれど、現在もMPLAとUNITAは国を二分して睨み合ってる。MPLAは首都ルアンダを押さえて優勢だけど、それでもまだどちらが勝つかは分からないのが現状……ということでいいかしら?」まるで簡単な質問を投げられた生徒が、やり返してやったというみたいな口ぶりだった。

「その通り。オマケに数えるのもうんざりするくらいの武装勢力や民兵組織がひしめいて殺したり殺されたりの毎日が続いて、ついには国連にも見放された」


 ジョゼの言葉は、あくまで淡々としていた。恨み節でもなかった。実際、もしジョゼが外部の人間ならば同じく、こんな国を見放すだろうと思っていた。


「違うっ。国際社会はこの国を見放したわけじゃない。国際連合アフリカ統一機構アンゴラ派遣団UNAMIAは一旦、態勢を立て直す為に――」


 むしろアナの方が勢い込み、感情的ですらあった。


「そうだとしてだよ、この国の人間が、それを信じられると思う?」

「……それは」


 アナが口ごもる。たしかに自分はアンゴラで生まれ育ったわけでもなんでもない。一日一日が文字通りの戦いという過酷な日常を送ってきたわけでもなかった。


「でも、貴方たち自身が、そんな風に諦めてしまっていてはこの戦いは終わらないわ」

「……そうかもね。でも不思議だよ。どうして外国人の君が、そんな風に気を遣うんだい?」

「それは……その、ジェシカが、そう言っていたから」


 今度はジョゼが口ごもる番だった。自分が撃ち殺した女性の名が、ここで出てくるとは思ってもみなかった。


「彼女のことは気の毒だったとは思う」苦し気にそう言うのがやっとだった。


 アナは不快げに眉をひそめる。だが、結局は何も言わなかった。ジョゼが手を下したことについてのわだかまりはまだある。とはいえ、それを今ここで蒸し返したとしても建設的な話にはならないだろうことも理解できるくらいには冷静だった。


「ジェシカは難民支援のNGOのメンバーだった。アメリカにいた時、両親を喪ったわたし達の面倒を見てくれたの。歳は十以上も離れていてお姉さんみたいだった」


 語る内に、また悲しみがぶり返してくる。鼻がツンと刺すように痛んだ。こぼれだした涙をぐしぐしと手の甲で拭った。


「……ジェシカが言ってたの。支援というのは井戸を掘るのが仕事じゃない、井戸の掘り方を教えるのが仕事だって。戦いで荒れ果てた国を再建するのはアメリカやソ連、国連でもなくて、その国に生きる人達自身なんだって……わたしは、そんなジェシカのことを尊敬していて……」

 

 床に涙が痕をつくるのを見て、ジョゼは小さく肩をすくめた。


「辛いことを聞いたみたいだ。話を本筋に戻そう。君はどうしてこの国へ?」

「この国へ来たのは……姉を探す為よ」

「さっき言ってたね。両親を失ったわたし達って」

「ええ。姉は……ありていに言えば天才だった。図抜けていたといってもいいわ。飛び級でMITに進学したのに、それが突然、イギリスに長期の交換留学に行くといったの」


 ジョゼはMITが何かもわからなかったが口を挟まなかった。ただ、おそらく学校についての話をしているんだろうということくらいはわかる。ただジョゼは知識として学校を知っていても、経験としては何一つとして知らなかった。


「時々、電子メールが来てた。元気にやってるって。わたしは、それで安心してたけど――一か月前、ジェシカが教えてくれたの。アンゴラで姉と瓜二つの人を見かけたって」

「それでお姉さんを追って、ここまで? 電話か何かで聞けばいいのに」ジョゼは信じがたいというように訊ねた。

「聞いたわよ、すぐに。メールでね。返事はすぐあったわ。ジェシカの見間違いだって言ってた。自分は変わらずロンドンで元気にやってるって……だから、疑うのはよくないと思ったけどメールの発信元を探った。いくつものサーバーを経由して偽装してあったけど、発信元はこの国だった」


 ジョゼは微かに驚いた。ASの整備や通信手段の問題もあって、それなりに技術には精通しているつもりだった。だが、目の前の女の子が、こうも事無げに電子メールの偽装を見破る能力を持っているとは信じられなかった。もしかしたら、この子もそれなりのスキルを持つか、持たざるを得ない事情があったのかもしれない。


「姉は、わたしに嘘をついてまでアンゴラで何かをしている。それが何なのか知りたくて、わたしはジェシカに頼み込んでこの国にやって来たの」

「そうか。君の事情はわかった」


 ジョゼは微かに考え込むようなふりをした。そう、あくまでふりだ。どのみち答えは一つしかないのだから。


「でも、この国で人探しだなんて不可能だ。残念だけど諦めた方がいい」

「……それは、できないわ」

「どうやって探すつもり? 手掛かりは?」

「ない、けど……」

「一緒に探してくれる人は?」

「いないわ……」

「君の身を保障してくれる人は?」


 答えはなかった。


 少し意地が悪かっただろうかとジョゼは罪悪感を感じたが、それを打ち消す。必要なことなのだ。もちろんやろうと思えば、すぐに港町モサメデシュにでも連れて行って置き去りにすることも可能だ。だが、それをしたところで彼女はまた同じことを繰り返すだけのことだ。無謀を納得させた上でなければ、一週間もせずに彼女は蠅の餌になるだろう。


「……」


 アナもヒステリックに駄々をこねたりはしなかった。その様子を見る限りアンゴラの大地が、どれだけ頼りもない白人の少女に冷酷かは理解しているようだ。やれやれ、と内心ジョゼはため息を漏らす。頭が良いだけ、この子を諦めさせるのは余計に手を焼きそうだ。


 その時、扉を叩くノックの音が鳴った。


「入っていいよ、エンリケ」

「やぁやぁ、我らが王よ。お姫様のご機嫌はどうだい?」


 ポルトガル語の軽い調子の挨拶と共にエンリケが姿を見せた。その前から正体を見破られていたことについては彼自身、何の驚きもなかった。ただ、ベールゼブブの中でノックなんていう文明的な真似をするのがエンリケだけだからのことだ。


「一通り話し終えたところだよ。しばらく、しっかり考えてもらうさ」

「そっか。さっき怒り顔のベアに、いつその子を追い出すのか聞いとくようにって言われたもんでね」

「苦労かけるね」

「何、我らがエースパイロットのご機嫌取りも副官の立派な仕事さ」


 エンリケが肩をすくめた。


「それで? わざわざ副官殿がここに来たってことは、もあるんだろ」

「ああ。ちょっと整備場まで来てほしい。三番機にトラブルだって」

「わかった。すぐ行くよ」


 ジョゼは立ち上がると英語に戻してからアナに話しかけた。


「いいね、諦めるんだ。明日、街まで送ってあげるから」

「……」


 アナは何も答えなかった。別に期待もしていなかったのでジョゼは念を押すこともせずに、エンリケと一緒に小屋を後にした。




 ベールゼブブのキャンプは赤茶けた渓谷の断崖に沿うようにして築かれていた。


 粗末な転落防止の柵はあるが、それでも、たまに不注意者が落ちてそのまま川に流されて消える。お世辞にも快適とはいえない場所だが、それでも他の武装勢力の目から逃れ、水を確保するためにはこんな場所しかなかった。


 自然、ASの整備場といっても正規軍の設備と比べれば、実にお粗末なものでしかない。AS用のヒートハンマーの先端を改造して作った巨大ツルハシによって岩壁を掘っただけのものだ。それでも8メートルからの巨体が、岩穴に埋まっている姿は壮観で、まるで中東の巨大な石仏のようにも見える。


 そこにベールゼブブの保有するASサベージが三機が、膝を着いた待機姿勢のままに肩を並べていた。


「どうしたんだい、ラッテン」


 ジョゼは問題の三番機の前で、そのパイロットに声をかける。ラッテンと呼ばれたガッシリとした黒人の少年は、表情一つ変えずに振り返り小さくうなずいた。


「さっきの戦闘。右脚の挙動に違和感があった。動きが少し粘るような感じだ」


 感情のまるっきり読めない平板な声だった。聞きようによっては憮然としているようにも聞こえるが、そういうわけではない。元々が恐ろしく寡黙で、話すことにそもそも慣れていないだけだ。ASパイロットとしての腕は良いので認められているが、一部の口さがない連中からは、その武骨な容貌も相まって『じゃがいもバタタ』などと呼ばれていたりもする。


「マッスル・パッケージは?」

「二週間前に交換した。それからは今回も併せて二度しか出撃していない」


 なら、人工筋肉繊維マッスル・パッケージが傷んでいるわけもない。対AS戦の戦闘機動を演じれば当然痛みも激しくなるが、前も今回も大した敵ではなかった。となると他にハード面で悪さをするとなると、補助駆動力となる油圧系となるが、それもこの間、整備し直したところだ。


「……なら、やっぱりソフトの方か」


 そう漏らすと、ラッテンも同意するように小さく頷いた。やれやれ、まったく頭が痛い話だ。


 最先端装備であるASのメンテナンスには、やはりそれに相応しい知識が求められる。ハード面は、ある程度、どうにかなる。破損時の症状から推測出来るので、自動車を何十倍かややこしくした機械を分解し、破損個所をなだめすかすか、それでもヘソを曲げるようなら部品ごと交換すれば話は済む。


 だが、ASを制御するモーション・マネージャに代表される制御ソフト群は、現代に蘇ったロゼッタストーンのようなものだ。それを読み取るには神秘的なプログラム言語についての深い理解と知見、そして何よりパイロットとしての経験が要る。今までにソフトを触ってきた中で、何をどうすれば、何がどうなったかというノウハウを集合させるのだ。


「エンリケ、とりあえずベアを呼んできて。ソフトを触るって言ったら嫌がるだろうから」

「はいはい、ジョゼがすぐに会いたがってるよって言えばいいんだね」

「……任せた」


 そう言えばベアは、ポルトガル系アンゴラ人らしい黒髪のポニーテールを揺らし、瞳を輝かせながらに駆け付けるだろう。その後、騙したなと尻を蹴飛ばされるかもしれないが、そこは我慢するしかない。


「ラッテン、長丁場になるけどやるしかないよ」とジョゼ。


 ラッテンは、むっつりとしたまま頷いた。なるほど、そうやって黙っていれば、たしかにじゃがいもそっくりだった。



 アナは小屋のベッドの上で膝を抱えていた。


 壁に穿たれた通風孔から、真っ赤な日差しが横から差し込んでくる。まるで焼けた鉄の棒のような鮮烈な色彩は、触れれば火傷しそうだった。ボストンで見てきたものとは日差しすら違って見える。


 自分は今、アフリカにいるのだ。姉を追って、ここまでやって来た。不確かな情報をもとに藁にもすがるような思いで。


 もしかするとすべては自分の思い込みなのかもしれない。ふと、そんな弱気が兆した。姉は、やはりロンドンにいて、あの全てを見通すかのような怜悧さを杖にして、広大な数学の宇宙を気ままに旅しているのかもしれない。ならば、全ては無駄だったのかもしれない。アフリカまでやって来たことも、そして、ジェシカの死すらも。


 ……帰るべきなのかもしれない。あのジョゼとかいう少年兵の勧める通りに。


「だけど、わたしは……」


 アナは、胸元に垂らしたネックレスを手繰りだした。白い谷間から姿を現すのは不滅の輝き――ダイヤモンドだった。姉が、ロンドンに旅立つ前にくれたものだった。こんな高価なものをどうやってと訝しむアナに姉は笑った。


『これは人工ダイヤモンドよ』


 主に工業用途に使われる物だった。宝飾品にも使われることもままあるが、やはり天然のものと比べれば、その価値は雲泥の差だ。姉は、クスクスとおかしそうに笑みを浮かべながら、アナの首に手を回してネックレスをつけてくれた。


『テクノロジーはあらゆるものを生み出すわ。それは貴女への贈り物であり、ワタシの誓いなのよ』


 相も変わらず謎めいた言葉を発する姉に、アナはわからないというように首を振った。


『そうね、いうなればワタシは神様を造る旅に出るの。不完全な人間に代わり世界を見守ってくれる優しい機械仕掛けの神様デウス・エクス・マキナをね」

 

 いつかの夜、ずっと幼かった頃の彼女が残した不吉な予言を的中させたこの世界に姉は絶望していた。彼女が旅立った後、もしかすると、その絶望を打ち破る希望を姉は見出したのかもしれないと思うようになった。だとするならば、自分もそれを手伝いたかった。姉の絶望と同じものを自分は持っているのだから。


「……だから、姉さんに会うまでにはやっぱり帰れない」


 血を分けたの姉が、自分に嘘をついているとは信じたくなかった。だが、あらゆる電子ネットワークの情報を収集分析した結果、姉がアンゴラにいることは間違いない。ならば、真相を明らかにして、その上で手を貸したかった。この危険な国でしか為せないことならば、尚更のことだった。


「悔しいけど、あの子に頼むしかない」


 ためらいもせずにジェシカを射殺した少年兵に。忸怩たる思いはある。だが、彼に対する怒りとはまた別の領域で、どこか彼に対する共感を抱いていた。


(――ボクは蠅だ)


 その声音には拭い難い絶望がこびりついていた。それだけで彼もまた世界に絶望し、暴力と報復を繰り返すばかりの地獄に疲弊しているのだと知れた。


「……何ができるかはわからないけど、どうにかするんだ」


 考えるのよ、アナ――自分をそう励ます。自分に何ができる。どうやってジョゼ達に自分の価値を認めさせる。


 銃を持って戦う? 拳銃が精いっぱいの自分にできるわけがない。 

 ASを操縦する? 車の運転すら覚束ないというのにナンセンスだ。

 

「なら……」


 ――いいや、これは無しだ。自分のプライドが許しはしないし、ジョゼ自身もそんな気はないだろう。圧倒的優位に立ちながら彼は好色な目で自分を一度も見たりしなかった。どころか性暴力に酷い嫌悪を抱いている節すらある。


「それに色目を遣ったら、あの子に殺されそうだし」


 ベアとかいったろうか。あの黒髪の少女に八つ裂きにされるだろう。その想像は絵面としては無残だったが、どこか微笑ましくもあった。そういった一面は、まだまだ彼らが年相応の人間性を残している証拠に思えた。


「……よしっ、とにかく当たって砕けろでぶつかってみるしかないわね」


 アナはベッドから降りた。ちょっとだけよろけたが壁に手をついて姿勢を保った。ふと直立二足歩行というものの難しさに思い当たるが、それこそが人間が猿から進化した秘訣だった。その瞬間から前脚は手と呼ばれるようになり、手という汎用マニュピレータを利用する中で脳を進化させてきた。生物界を見渡せば格段にスペックに劣る人間が、地球の覇者となった過程は全て直立二足歩行を達成した瞬間に始まったのだ。そして、それはそのままASという兵器にも同じことがいえた。


「さっき、あの子たち、ASがどうのこうのって言ってたわね」


 ポルトガル語らしい言葉はほとんど理解できなかったが、ASだけはそのままアーム・スレイブと発音していたのだ。


「そこにいるのかな?」


 いや、そうに違いない。そう心を励ましてアナは小屋を後にした。扉を開いた瞬間、焼けるような日差しがアナの体を真っ赤に染めた。別段、熱くはなかった。ボストンと同じだった。



「んがーーーー! なんであたしまでこんな目に合わなきゃいけないのよーーーっ!」


 ベアの怒号が、整備場の穴に反響してうわんうわんと唸り「のよーのよーのよー……」という残響がしばらく尾を引いた。


「それも全部ラッテンのせいよ! いいじゃない、ちょっと右足が遅れるくらい! 気合が足りないのよ気合がっ! 遅れるんなら意識して右脚だけ早く動かしなさいよもーっ!」


 瞳を吊り上げたベアが、ボカボカとラッテンの広い背中を殴りつける。当のラッテンは何も言い返すことなく、黙って古い型のラップトップの液晶を睨み付けている。画面を埋め尽くす白い文字は、おそらくASの下半身の挙動制御の何事かについて語っていると思われるが、ラッテンには霊感の訪れを待つしかできずにいる。


「無茶言っちゃダメだよ、ベア」椅子に腰かけてラップトップと対峙するジョゼは、あくまで冷静だった。

「むーっ、でも、さすがにジョゼのいうことでも……」すっかりヘソを曲げたベアが憮然と鼻を膨らます。

「ベア、いいかい、ボクらはASが無ければただの子供なんだ。その整備より大事なことって何があるのさ」

「だって、今日、ジョゼ一緒にご飯食べるって約束したのにっ」

「ああ……」

 

 言われてみれば、たしかにそんな約束をした気がする。ジョゼは後頭部をポリポリと掻いてから、近くで椅子に腰かけて収支計算をしていたエンリケを呼んだ。


「エンリケ、手が空いたら晩御飯、ここに持ってきてよ」

「了解。というかすぐ持ってくるけど?」

「いや、そっちの仕事が一段落したらでいいから」

「これ? とっくに片付いてるよ」エンリケはつまんだ書類をひらひらとさせる。

「……じゃあ、何してるんだ?」

「皆が働いてるのに、俺一人だけ遊んでたらベアに殴られるんだよ」と声をひそめてジョゼに耳打ちする。

「なるほど」


 たしかに今のベアならやりかねない。


「ってわけで、ここで食べられるものを何か持ってくるから」

「頼むよ、副官殿」


 そうしてエンリケが去り、ジョゼは黙然としてラップトップとの格闘を再開し、ベアがブーブー言いながらにそれにならい、ラッテンが石造となったかのように微動だにせずひたすらに霊感の到来を待っていた。他の少年兵達が五、六人でジョゼの乗機を整備する音、谷底からの濁流の音だけが音のすべてのはずだった。だから、再び誰かの足音が近づいてきた時、全員がエンリケが戻って来たのだろうと思った。


 違った。


「……何しに来たのよッ!」触れれば切れるような敵愾心を露わにベアが吠えた。


 先ほどまでの怒号に含まれていた、仲間同士のふざけあいのような温さは一切なかった。一気に緊張する空気の中、視線の先にいる金髪の少女――アナは臆することなく一歩を踏み出した。


「ジョゼ、貴方にお願いがあるの」

「無視すんな、アメリカ人ヤンキー!」


 誰がヤンキーだと怒鳴り返したくなるのを堪える。アナは、更にジョゼに歩み寄っていく。無視され続けたベアが勢い込んで立ち上がると椅子が倒れる。ラッテンもシャーマンのまねごとをやめてアナを見つめていた。


「……君の為にできることは、君を街へ送り届けることしかないよ」

「わたしをここに置いて」

「ダメだ」

「どうして?」

「君が無駄なことをしようとしているからだ。それに君はボクらと違って帰るところがある。アメリカは、ソ連に核を撃ち込まれそうだってことを除けば世界で一番安全なんだろ?」


 アナの手が震えた。核攻撃。両親の死、姉の嘘、ジェシカの死。それらの物事が一瞬、意識の表面上に浮上して、すぐに消える。鉄の意思で冷静さを握りしめる。


「ええ、そうよ。だけど、あの安全な我が家には、わたしの探しているものはないから」

「お姉さんのことは諦めるんだ。もし本当にこの国にいるんなら、まともなことに関わってないよ」

「そうね、その通りね」


 米ソの演じる代理戦争――二十年以上にもわたるアンゴラ内戦。国際社会も撤退した地獄では何が起ころうとも不思議ではない。だが、何が起こったとしても残るのは破壊の無残な痕跡、そしてそれに集る蠅くらいのものだ。アナも、それを知ったばかりだ。嫌というほどに、その脳味噌に地獄を刻まれたばかりだから。


「だけど、それでも、たった一人の肉親だもの。諦めるなんてできない」


 そうやって諦めてしまえば、ジョゼと同じになってしまう。他人のものも、あるいは自分のものであっても命を簡単に投げ出してしまう彼らと同じに。それはアナ・ペンフィールドの許容できることではなかった。


「だから、貴方の力を借りて、ここで姉を探したいの」

「……帰れ」


 ジョゼはため息を漏らした。やはり厄介だった。となれば、やはりここは現実を突き付けるしかなかった。


「ボクらは無駄飯食らいを養えるほど優しくも豊かでもないんだよ。君に分けてあげるのはさっきの水が最初で最後だ。ここの誰も一切、君に手を貸さないからな。餓死したいんなら勝手にすればいいさ」


 冷たく言い放ちジョゼは、ラップトップへと視線を戻した。もう会話するだけ無駄だ。ジェシカを殺した呵責から、ある程度は譲歩していたが、これ以上の譲歩はジョゼ個人の領分を超える。次、うかつなことを言えばベールゼブブ全体に関わることになる。そうなればベアが、アナを殺すのを止める理屈すら立たなくなる。


 頼むから「わかった、帰る」と言ってくれと内心で願いながらにジョゼはプログラムを見つめる。頭に何一つ入ってこないのを承知でも、そうするしかできなかった。


 だが、アナは踵を返すどころか、さらにジョゼへと近寄ってきてすぐ背後までやって来た。視界の片隅で、ベアが髪を逆立たせて、怒りを爆発させそうになっているのが見えた。ああ、もうダメだ、とにかくベアが暴走する前に一発ぶん殴ってでも――。


「――これ、ASのモーション・マネージャでしょ?」


 アナが肩越しに画面を覗き込んだ。

 

「え?」

「これ、誰が書いたの? なんか変な処理だけど……あぁ、脚の駆動系がヘタったのを無理にプラグラムでごまかしてるのか……でも、これ動かしたら違和感あるんじゃない?」


 ジョゼもベアも言葉を失った。英語が分からないラッテンは、英語が分からないなりに難しい顔をしてアナの美しい横顔を見つめていた。


「どうして、それが?」

「書いてあるの見ればわかるじゃない。あ、ここも。ねぇ、これに乗ってるの誰?」


 ジョゼは無言のままラッテンに目を向けた。それにつられてアナがラッテンの方を見やると、ラッテンは咄嗟に視線を外し、再びラップトップの画面へ目をやった。


「ねぇ、ジョゼ、あの人に聞いてよ。えっと……腰の上からを右に旋回させる時、変な抵抗がないかどうか」

「……ラッテン」


 ジョゼがアナの言葉を翻訳すると、ラッテンは数秒考え込み、やがてむっつり顔で頷いた。


「正解だってさ」

「やっぱり。ここもきっと脚と同じようなことしてるんだわ。スレイブのコマンドを一部、あえて遅延処理させるようにしてるのよ。たとえるなら怪我をした後、すっかり治ったけど麻酔だけかけっぱなしになってるみたいなものよ、これ」

「……そう、なんだ」


 ジョゼは、なんとかそう返すのが精いっぱいだった。たしかにラッテンの三番機は、FNLAの残党が合流した武装勢力から鹵獲したものだ。正規のメンテナンスを受けていなかった機体ならば、どんな修正が加えられていてもおかしくない。


「どいて」


 アナは有無を言わさぬ様子でジョゼを椅子から立たせた。そして腰かけると猛烈な速度でキーボードを叩き始める。誰も何も口を挟まず、それを傍観することしかできなかった。


 やがて足音が、また一つ近づいてくる。


「やぁやぁお楽しみの食事の時間だよー。って、どうしたの、みんな」


 さっぱり状況の飲み込めないエンリケが不思議そうに首を傾げる。


「ふんっ……」ベアは悔しそうに鼻を鳴らした。

「神様の言葉が読める人が降りてきたんだよ」ジョゼが肩をすくめる。

「……」ラッテンは黙ったままアナの横顔に見惚れていた。


 やがて、モソモソとエンリケを加えた三人のパイロットが食事を終えた頃。


「ま、こんなもんかな」


 アナが椅子の上で肩をほぐすように背伸びした。


「これで違和感はかなり消えてるはずよ」アナがラッテンにウインクを送る。

「……」ラッテンは無言のまま小さく会釈を送った。


「さて、ジョゼ――ここからは商売ビズよ」


 アナは椅子の背もたれの上に肘を置き頬杖をついた。


「ここまでは水のお返しってことでいいわ。で、あと二機も……っていうんなら条件次第では聞いてあげるけど?」


 ジョゼは、しばらく苦り切ったままの表情でいた。悩ましかった。今までお祈りするしかなかった難病を、確実に治療できる医者が唐突に現れたのだ。とはいえ彼女を巻き込んでいいものだろうか。


「悩むなら殺しとく?」と耳打ちするベアは無視する。

「……彼女は役に立つ」傍らのラッテンがボソりとつぶやく。

「いいんじゃない。うちが喉から手が出る欲しい人材だよ」とエンリケは気楽げに笑った。


 だが、ジョゼはなかなか決めきれず、いい加減にアナが焦れてきた頃になってようやくに動いた。


「……わかった」ジョゼが頷いた。

「じゃ、交渉成立ってことね」アナは不敵な笑みを浮かべる。

「ああ、君の身や食料は保障する。噂を集める程度のこともする。だけど」

「だけど?」

「キミに何かあっても部隊は動かさない。ボクはベールゼブブのことを第一に考えるから」

「……わかったわ」今度はアナの返事が遅れる番だった。


 だけど、それも当たり前か――とアナは思い直した。ASの医者と、ASそのものではあまりに価値が違いすぎる。彼らはこの暴力の大地で生きているのだから、その判断はごく自然なものだった。


「とにかく、よろしくお願いするわ」アナが手を差し出した。

「……」ジョゼは、再び散々に迷ってからその手を取った。


 二人がぎこちなく握手した瞬間、


「ちょっ、調子に乗ってんじゃないわよっ! ジョゼはアンタのことなんか全然好きじゃないんだからね!」とベアが暴発し、

「いや、誰もそんなこといってないから」とエンリケが苦笑いと共になだめ、

「……」とラッテンは相も変わらずむっつりとしたまま心を奪われていた。


 こうしてアンナ・ペンフィールドは、ベールゼブブの一団に身を寄せることになったのだ。


 それが彼と彼女の運命を大きく左右することになるとは、まだ誰も知る由もなかった。



 ルタンゴはアンゴラの南西に位置する街だ。多数の街道が交差し、かつては農産物の集散地として栄えたこの街の近郊に米軍の拠点があった。決して大規模なものでもないが、コンクリートと鉄条網と機銃で囲まれた堅牢な陣地だった。


 ベトナム戦争の反省からアメリカは、紛争地に大規模な軍を派遣することを異常に嫌うようになった。あくまで黒子として現地勢力の訓練と指導に努めるのが、今のアメリカ流だ。だから、ここに務める軍関係者の任務に直接戦闘は含まれていない。彼らはあくまで軍事顧問団だからだ。とはいえ顧問団も寄り合い所帯だ。軍の人間もいれば、中央情報局CIAの人間もいる。その分、思惑も色々ある。


 リース・ペンフィールドは、前者と後者の中間といった存在だった。出来る限りに正確を期せば、彼女の所属はこうなる。先進強襲機兵開発実験小隊。そんな舌を噛みそうな名前で、彼女らを呼ぶ者も少ないので、こう呼ばれることが多い。『EMエコー・マイク』。更に縮めて単に『エム』だとか『ユニット』と呼ばれることもある。


「……UNITAの襲撃」


 照明の落ちた格納庫内で、リースはマグカップを傾けながらに報告書に目を落としていた。取るに足らない低レベルの戦闘……いや、虐殺か。だが、それをあえて拾い上げたのには理由があった。


の可能性あり、ね」


 そもそも、手にしているのは米軍の情報ではない。彼女が所属している、また別の組織からもたされた情報だった。組織の名をという。リースは、いつも笑ってしまいそうになるのだが、なんと彼らは半世紀にもわたって歴史の裏で暗躍してきたというではないか。まったくイルミナティもびっくりの秘密結社だ。


 だが、今ばかりは笑う気も起きない。


「……まったくあの子ときたら」


 添付された荒い写真には白人の少女が映し出されている。リースと瓜二つの容貌を持った少女だった。


「アナ、来てしまったのね」


 おそらくきっかけはメールだろう。簡単には見破れない偽装を施したつもりだった。だが、昔から電子戦についてはアナの方が長けていたのだ。


「……はぁ」


 リースは、自分の迂闊さを呪うように、ため息を漏らした。


 報告書によれば、UNITAはアナの身柄の確保に失敗。その消息は不明。だが、現場に残された痕跡から察するに少なくとも三機からなるAS部隊の襲撃があったとみられる。あくまで可能性としてだが、UNITAの下っ端を叩き潰したのは『ベールゼブブ』と呼ばれる少年兵達によるAS部隊ではないかと示唆していた。


「こいつらは殺すしかないわね」


 アナを救出するには、それしかない。どこの誰だか知らないが、自分の妹を奪った連中を締め上げて、どう扱ったかを吐き出させる。もし売り飛ばしてでもしていたら自分がアンゴラで覚えた方法の中でも一番酷いやり方で殺してやる。もし、殺してでもしていたら――ああ、それについては後で考えよう。


 今は他にも考えなければならないことがあった。


「ワタシ以外の連中アマルガムが動いているようね」


 UNITAにアナの拉致を命じたのは、その別の一派だろう。


 同じ組織とはいえ他人だ。顔も名前も知らない。知る必要もない。アマルガムはコミックに出てくるような悪の大首領がいて、全員が彼の指示のもとに行動するようなタイプの組織ではない。きわめて民主的であり、それ故に様々な思惑が入り乱れる組織だ。結果、アマルガムに所属していたとしても、いったいどんな組織のどの地位に自分がいるのかもよく分からないのだ。


「不愉快ね、このワタシにも全容が掴めないだなんて」


 こうしておけば組織の全容解明は出来ず、何があっても容易くトカゲのしっぽ切りで済ませ、世界に対する影響力は隠然と保ち続けることが可能だった。だが、デメリットとして意思決定が非常に遅く、そして、末端の現場では時としてアマルガム同士の利益相反が起こる可能性があった。


「……こっちも、すぐに暴いてやるわ」


 アナに害を及ぼした者は、誰であれ生かしてはおくつもりはなかった。


 整備用のガントリーに保持された巨体を見上げる。青白い月明かりに照らし出されるのは米国製AS、M6のマッシヴなフォルムだ。ブッシュネルという愛称ペットネームを与えられた第二世代の傑作機だった。だが、その細部が、通常型とは異なっていた。


 闇に浮かび上がったシルエットに向かって、リースは微笑みかけた。


「でしょう、わたしの?」

 

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フルメタル・パニック! - Lord of the Flies - ふかしいも @FUKASHI-IMO

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