第8話
〈8〉
階段の下には踊り場ぐらいのスペースしかなく、その前にドアがあるだけだった。
「準備はいいようですね」先生は今までに見たことのない険しい表情をしていた。
「先に言っておきます。この部屋の中での出来事はあなたにとってショッキングな事かもしれません。ですが真実と向き合うためには必要なことなのです」
さっき覚悟は決めた。僕はどんなことでも動じない、そう思って黙って頷いた。
「いい返事です」
先生はまた笑顔に戻ると、例によってドアの脇にとりつけられた端末を操作する。そして、同じ様にモニターを見つめていた。一体何をしてるんだろうか?
『「オプト・メンブレン」確認。入室ヲ許可シマス。ナオ、コノエリアハ危険区域認定サレテイマス。長時間滞在ヲスル場合ハALSDノ服用ヲ行ッテカラ入室シテクダサイ』
また同じ様に機械音声が聞こえた。プシューと音を立ててドアがスライドしていく。それによる緊張感で自分の心臓の音、頭の中の警告音がうるさく響いていた。
やがてドアが完全に開き切った。中には一切の物が無く、病室何個か分のだだっぴろい真っ白な空間になっていた。しかし、それはただ一点だけを除いてだったのだが。
部屋の中央奥に揺らめく、鮮やかな金色。部屋の白と着ている服の白が同化していて見過ごしそうになったが、あそこにいるのは人間だ。その人の手首には腕輪がはめられ、そこから伸びる鎖は壁に埋め込まれていた。
誰?見間違えるはずがない。病院内であんなに綺麗な髪をしている人間は一人だけだ。
「ヨハン!」
僕は部屋の中に駆け込み、拘束されている人物、ヨハンに近づこうとしたのだが、
「あぁあアっ、あっアー」
急にヨハンからうめき声が上がり、彼が顔を上げた。
「――――!」
僕は足を止めて声にならない悲鳴を上げた。この世のものとは思えない凄まじいヨハンの形相をみてしまったからだ。
彼の眼球は左右で全く違う動きをしながらぎょろぎょろと動き、口からはだらしなくよだれをだらだらと垂れ流していた。
「あへっ、あへっ、ボクは悪いコ」
その上、頬がぴくぴくけいれんしていて、笑っているのかも悲しんでいるのかも分からない。彼の足元にはよだれで出来た水たまりがあり、酸味のある臭いが鼻をついた。
「どうして、こんな…、ヨハン、僕だよ。拓斗だよ」
「ひッ、ぼくは忘れる。忘れる。ヘハっ」
目の前に僕がいるのに、ヨハンは何も反応しない。ただ、うわごとのように分からない言葉を繰り返すばかり。
「ねぇいつもみたいに笑ってよ。僕の名前を呼んでよ!」
「Ich Johan.Ich bose Kinder.sterben…」
目の前にいるのはもう僕が知っているヨハンではない。聡明で勇敢でカリスマ性を持った、僕が憧れたヨハンはどこにも見当たらない。大切な物を失った、そんな悲しみから自然と目頭が熱くなって、涙の粒がぽたぽたと僕の頬を伝って落ちた。
「これがこの病院の真実です」先生が僕の横に並んだ。
「どういうことです…」
「メディシズム。これを聞いて何も思い出せませんか?」
ズキっ、ヨハンの姿にショックを受けていつの間にか消えていたあの刺すような痛みが戻って来た。そして同時に自らの中で湧きあがる嫌悪感。これは何だ?
「薬物主義。このように訳します。この時代ではあらゆる病気が薬物での治療を可能とし、また日常生活における向精神薬の利用も認められているのです」
「待ってください、それは医療界の裏話が何かですか?向精神薬って覚せい剤ですよね。そんなもの使った―」
「記憶を消す薬も然りです。ただし、その薬物の効果を引き出す為には一種の幻覚状態、トリップなどと言いますが、その状態になっていないといけません」
「いや、ちょとまっ―」
「彼は今、記憶を消す準備段階に入っています。その為に、LSDと呼ばれる覚せい剤を大量に服用して、幻覚状態になっている―」
「待てって言ってるだろ!」
僕は思いっきり腹から力を込めて叫んだ。
「もっと分かるように説明して下さい!だいたい覚せい剤の使用が認められているなんて馬鹿げてる。子供の僕だってそんなことが認められてないのを知っている。それともここは日本以外のどこかなんですか?それになんでヨハンは記憶を消されなくちゃならいんです?それで大量の覚せい剤だなんて…」
僕は叫んで先生に訴え続けた。
「ここはまぎれもなく日本です。そして私は最初に言いました。あらゆる病気が薬物によって治療が可能だと。つまり覚せい剤による後遺症も治療が可能なのです。私たちはもはや薬物なしでは生きてはいけない」
「ヨハンは?ヨハンはなぜ記憶を消されなくちゃいけないのか聞いているんです。それに、そもそも僕たちがなんでこの病院にいてこんな目に会わなくちゃならないんですか!」
僕は先生に掴みかかり、思いっきり揺さぶった。メディシズム?そんなの知らない。ただ、ヨハンを返してくれ。これ以上僕から何も奪うな…。
先生は打ちひしがれている僕を見て、何かを躊躇っているようだったがやがて口を開く。
「それはこの時代が全てあなたたちから始まったからです」
「は?」もう僕は疑問を口にするだけの機械になりさがっていた。次から次へとショックが加算されていき、僕の頭のキャパシティはもう限界ぎりぎりだった。
「この病院にいる患者は子供時代に同じ病気にかかっていました。その治療のために投薬されていたある薬物が、一部の子供たちの体内で免疫系の異常亢進を生み出したのです」
先生は僕の腕を掴んで下ろし、人差し指で何もない空中に触れた。するとその場所が一瞬ぐにゃりと歪んだように見え、その直後、横に伸びた一筋の線がそこに現れる。線はさらに上下に伸び、長方形の四角い枠が浮かび上がった。
「あなたのオプト・メンブレンを起動しました。これを見て下さい」
浮かび上がった枠の中に一瞬ノイズが走ったかと思うと、そこに何かの文章と写真が投影された。
「これはあなたのカルテです」
確かにそこに映し出されていたのは僕のデータだった。顔写真、名前と順に書いてあったのだがある一点で目が止まった。
「なんだよこれ…」
1992年 8月20日生 満187歳
「ぼくが、ヒャクハチジュウナナさい?」
なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。
カチン。
何かがかみ合う音が聞こえた。すると、突然僕の体を伝って何かが暴れ出し、脳ミソを突き上げた。それは神経伝導のインパルス。僕の頭の中で電気信号が氾濫し、脳ミソをぐちゃぐちゃに掻きまわす。
そして、次々と僕の頭の中に様々なイメージが湧き上がり通り過ぎて行く。薬、病院、誰だか分からないけれど年老いた懐かしい人、それにあのアサガオ。
おそらく一秒にも満たない間だったろうけど、詰め込めまれた情報が僕の頭の中で処理された時、一瞬だけど、とても頭がすっきりした。
「はははははっ」
僕は笑いをこらえ切れなくなり、たまらず大爆笑をしてしまった。そうか、そういうことだったのか。何であの時ヨハンが笑ったのかやっと分かった。
「記憶が戻ったのですか?」
全てが蘇った。確かに僕たちは愚かだった。あぁ、気持ち悪い、全てが気持ち悪いんだ。むかむかする。胃液がせり上がってくる。
「一木さん、私の声が聞こえ、わぁっ!」
僕は早坂に向かって嘔吐した。全てを吐きだしこの汚れた体をとにかく洗浄したかった
「こんなんじゃ、全然駄目だ!」
僕は喉の奥に思いっきり指を突っ込んだ。もっともっと吐き出して全部をきれいにしなくっちゃ。
「何をしているんですか、やめてください」
うるさいよ、早坂。僕はこの穢れをとりはらわないと、あのいまいましいソライロアサガオ。あんなものを毎日食い続けていたなんて。
「記憶が戻っても、大丈夫です。薬物に頼らないリハビリが可能です!」
でもあれが無ければ僕らは正気を保てない。どうりで他の子供たちがあんな楽しそうにしてるわけだ。なるほど、あれは記憶を無くした後のリハビリなのか。いっぱい食べて元気になりましょうって。
そうさ、これは僕たちの為に生まれた技術、そして僕たちが望んだ結果だ。
「大丈夫です。私たちを信じて!」早坂が僕を抱え込み、動きを拘束してくる。
「黙れよォ!おまえらアンチ・メディシズムに俺が救えんのかぁ!」
早坂の頬骨と顎骨との間に拳をめり込ませる。
「ぶふっ、やめてください。お願い―」
「どうせ、お前らも、俺たちを、広告塔に、使いたい、だけなんだろ!俺たちのことを憐みの目でみるんじゃなねぇ!!」
馬乗りになってさらに早坂を殴って殴って殴りまくる。
「ぶぶぅ、がっ、やめっ」
叩きのめす、まだのめす、さらにのめす。
「はぁ、はぁ」
やがて僕は殴り疲れ、動きを止めて気付いた。早坂がぴくりともしなくなっていた。顔面は全体がはれ上がっていて、もはやどんな表情をしていたのか分からない。僕は慌てて襟を掴んで揺さぶる。
「おい、どうした?喋れよ、なぁ!」
首ががくんがくんと僕の手首の運動に合わせて揺れるだけだった。
そして、一気に自分の血の気が引いていくのが分かった。僕が、僕が早坂を殺した。
「ハハハッ、ハハハッ、僕はまた罪を重ねた」
僕は乱暴に早坂の死体を床に打ちつけると、ゆっくりと立ち上がった。そしておぼつかない足取りでまだ奇声を発しているヨハンの方に向かい、その頬をさする。一筋の赤い尾がすっと引かれた。
「ねぇ、ヨハン僕はどうしたらいいのかなぁ、答えてよ」
ヨハンはただ「あぁぁあ」とどこを見るでもなく、唸り続けるだけだった。ヨハンは何も応えてくれない。もう何も失いたくない、一人になりたくない。何かもどうでも良いと思い始めた時だった、
「おや、これはいけませんね」
入口の方から声がした。絶望の淵に一人取り残された僕はゆっくりとそちらを向く。
「昼間の侵入者と共に始末しようと思っていたが手間が省けましたな」
そこには小太り眼鏡野郎の院長が、脇に黒いスーツを身にまとった屈強な男たちを連れて立っていた。
「院長、僕はまた…」
「どうやら記憶が戻られたようですね」
そう言って院長はちらっともう動かなくなった早川を見た。
「早川先生のことは何も悔むことはありません。むしろ、あなたたちは社会の大切なリソース(資源)です。明らかな正当防衛ではありませんか」
院長は両手を広げて大げさに主張した。
そう、院長の言う通り僕たちは重要な社会的リソース。ある薬物の投与により子供のままで成長を止め、なお且つ一切老化しない特殊な体質を持ってしまった奇跡の子供たち。だから僕たちはかれこれ百年以上、その謎を解明する為にモルモットとして研究されている。
「あなたたちがいなければ、この超健康社会など生まれはしなかった」
僕たちは死ねない。それは年をとれないからだけでは無い。まだ人類の最終目標である不老という状態を達成する為の薬物が完成されていないから。
「それからご気分はいかがですかな」
最悪だ。徐々に色々なことを思い出していく。記憶だけじゃない。感情もだ。僕たちが年をとっていく過程で多くの人たちを失った。家族、友人、僕の担当医師たち。だから、最初から家族なんていなかった。もうそんなもの百何十年も前に死んでいる。
「ふむ、あまり優れないようですね」
僕たちを置いてけぼりにして、世界が過ぎ去りゆく中で、それに耐えきれなくなり自殺するものも現れた。事態を危惧した研究者たちは僕たちを死なせない為にあらゆる薬物を合成した。向精神薬、抗うつ病薬、睡眠薬。しかも、副作用がない、もしくはそれを打ち消すことができる薬だ。
「やはり、記憶を呼び覚ます鍵が各々異なるのがネックだな…。ベンゾドパビの服用量を増やすか」
その他にも僕たちを健康な体にしておくために、多くの薬が開発された。そしてそれが一般の患者にも適用され始める。これら新薬の開発は世界中の病気を駆逐し、人々は事故などを除けば、老衰以外で死ぬことが無いほどに健康になった。そしてそれと引き換えに人類は薬物なしでは生きられなくなってしまった。ここにメディシズムが誕生した。
「はははっ、やっぱりきたか」
僕の体が僕の意思とは関係なく、震え始める。はっきり鮮明に、蓄積された記憶と感情が僕の意識の奥底で目覚めはじめた。
僕は孤独であることを知っている。
僕はこの世の誰にも知られていないことを知っている。
僕は死ねないことを知っている。
こんな思いをするなら死にたいと何度も思った。でも死ぬことは怖い、どちらにしろ僕は死ぬことを許されない。なら例え、ぼろ雑巾のように最後の最後まで使い古されると分かっていても生きるしかない。だから僕は決めた。自ら記憶を消し、記憶することをやめようと。死に背き嘘をつき続けようと。
震えがどうにも止まらない。むしろひどくなる一方だ。このまま放っておけば間違いなく僕は発狂するだろう。いや、もう人を殺している時点で十分に狂っているか。あんなアサガオじゃ足りない。もっともっと本物が必要だ。
「先生、僕はどうしたらいいんですか…」
僕はその答えを分かっていながら、聞く。もちろん先生もそれを理解している。
先生はあの不気味な笑みでにやっとし、僕の傍まで来てひざまずいて耳元で囁いた。
「大丈夫、いい薬がありますよ」
あぁ、これで楽になれる。
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