第7話
〈7〉
鼻先が何かをかすめる。消毒薬の匂いがする。あぁ僕はこの感覚を知っている。
目を開くとそこは真っ暗闇。だけど僕はここがどこかもう分かっていた。目が慣れるまでじっとしていて、天井についている蛍光灯の形がはっきりしてから確信した。やっぱりここは僕の病室だ。
「そっか、僕は…」
僕は生きている。まだぼんやりとした意識の中で最初に感じたのは安堵の気持ちだった。
「いたっ」だが、そんな気持ちもつかの間、次の瞬間には首にじわじわと痛みが訪れ、思わず手を当ててしまった。
あれは夢だった、そう思いたかったけど、この痛みが否応なしに僕に現実を突きつける。
一体ヨハンはどうして急に人が変わったように僕を襲ったのか、それにあのアサガオは何だったのか?いや、今となってはもうどうでもいいことか…。
ガラガラガラ。
ゆっくりと病室のドアがスライドする。静かに優しく動かされていても、音一つない廊下には大きく音が響いた。思ったよりも早いお迎えだったな。
「こんな時間に訪問だなんて非常識ですね、早坂先生」
廊下も室内も暗く、外に立っていた人間のシルエットしか確認できなかったが、毎日診察を受けている僕にとってはそれだけで訪問者が早坂先生と分かるのに十分だった。
「何を言っているんですか、あなたは怪我人だ。担当医師として様子を見に来るのは当たり前でしょう?」
「僕を罰しに来たんですか?」
僕は規則を破り森に入った。そして、おそらく見てはいけないものを見てしまった。だから僕にはきっと何かしらの処罰があるだろうと踏んでいたが…。
「やれやれ、何を早とちりしてるのやら。僕はあなたたちを助けに来たというのに」
先生は肩をすくめて、ため息をついた。
「助けに?先生の冗談に付き合っている暇はないんですけど」
「信じる信じないはあなた次第です。ですが、時間がもうないとは言っておきましょう。私と一緒に来るなら即決してください」
そう言うと先生は身をひるがえし、顔だけこちらに向けてさらに付け加えた。
「私についてくれば、あなたが何者なのかも教えてさしあげますよ」
それは一種の殺し文句。僕の頭の中にそのセリフがリピートする。先生の「助けに来た」という言葉の真意は良く分からない。だけど、猛烈に最後の言葉だけが、ずっと探し求めていたものが、僕の体を無意識に突き動かし、おもむろにベッドから飛び降りた。その衝撃で首が痛んだがそれもなんのその、慌てて僕は先生の方へ駆けよって行った。
「賢明な判断です。行きましょうか」
先生はいつもの笑顔でにっこりとほほ笑み、静寂で満たされた廊下に出て行った。
僕たちの足音だけがコツコツと廊下に響く。先生の後ろを追っていきながら、僕は何をほいほいついて行ってしまっているんだと、自分を詰っていた。甘い蜜に誘われて樹木にやってくる虫のように、僕は簡単に敵の罠にはまろうとしている。だが、それ以上に自分が何者なのかを知りたいという願望が勝っていた。
それに良く考えれば、僕を罠にはめる理由も無い。状況的には圧倒的にあちらが有利なわけで、こんなふうに呼び出すなら、保護した時点で別の場所に連れて行けば済む話だ。
「ここは少し危ないですね」階段まで辿りついた時に、早坂先生が言った。院内の階段は廊下以上に暗く、足元がおぼつかない。
先生は白衣の胸ポケットに手を入れると、そこから何かを取り出した。それは結晶のような規則正しい構造を持ったガラス(僕にはそう見えた)の多面体だった。
先生はそれを掌にのせる。もう片方の手がすっとその上をなでるように通過した。すると、急にそのガラスが先生の肩あたりまで浮上した後、そこから幾筋もの光が漏れだし、辺りを照らしだした。不思議なことにその光はとても明るいのだが、眩しくはない。
「さぁ、先を急ぎましょう」先生は何事もなかったのかのように、階段を下り始めた。
呆けていた僕は我に返ると、慌てて続いた。
「先生これは一体…」
階段をおりてからさらに驚いた。ガラスから放たれている光はとても小さく見えるのだが、廊下の先まで視界がクリアになっている。
「これはフォトニックマテリアルの一種です。この結晶内では光の反射を自由に制御することが可能ですので、光の量、強さなどを自在に調節できます。光を一点に集中させればレーザー発振も可能になりますよ」
まるで聞いたことのない外国語を聞いている気分だった。何の説明をしているのか意味が分からない。先生に詳しい話を聞いてみたけど、黙って前へ前へ歩き続けるだけ。しばらく食い下がってみたけど駄目だった。だから、僕はあれが何なのかを考え込みながら歩いていたんだけど、いつの間にか自分の知らない場所を歩いていることに気付いた。
周りをキョロキョロ見回しながら進んでいると、先生が急に歩くのをやめた。僕は危うく先生の背中にぶつかりそうになったが、ぎりぎりのところで止まることが出来た。
「ちょっと、急にとまらないで―」僕が悪態をついていると、先生が僕の前から体をずらした。白い後ろ姿の代わりに視界に入り込んできたのはガラス一枚張りの自動ドアで、その向こうにはここと同じ様な廊下がただずっと続いていた。
先生の方をみやるとドアの脇にある端末を何やら操作しながら、顔の高さにあるモニターをじっと見ていた。そしてピピッと音が鳴ったかと思うと、
『「オプト・メンブレン」ノチェック完了。通行ヲ許可シマス』
頭上から抑揚の無い、機械音声が降ってきて、僕は一瞬びくついた。そして数秒してから自動ドアが開き始めたのだが、その先の景色を見て僕は自分の目を疑った。
さっきまで見えていたガラス越しの景色とは全く違う物が見えてきたからだ。
「これって…」廊下の色は変わらず真っ白だ。だけど、病棟などは塗り壁であるのに対して、ここは金属できた壁に白く塗装がしてあるだけ。天井には蛍光灯の類や通路に窓が無いのに、非常に明るく、壁や床にそれが反射して光っていた。そして、すぐに僕はピンときた。ここは研究棟だ。この病院で行ったことがない所といえば最早ここしかない、それになぜか僕の感覚がそう叫んでいる。
もしかして僕はここに来たことがあるのか、そう思った瞬間、頭にずきっと刺すような痛みが走った。まるで僕に何かを知らせるように、ずきっ、ずきっ、と時折リズムを変えながら暗号のように僕の頭の中に響く。
「ここからは迅速に行動します。急ぎますよ」
先生は僕の頭痛に気付いているのか、気付いていないのか分からないが、速足でどんどん廊下を歩いて行った。
通路は入り組んでいて、何度も右へ左と曲がり続けた。途中でいくつかドアであろう物が見えたりしたが、人は誰ひとりおらず、この無機質な空間がとても恐ろしく感じられる。
やがて、数分歩いた後に通路の突き当たりにある下り階段に辿りついた。
「ここを下れば、もうすぐ目的地です。心の準備をしておいてください。待っている時間はありませんので」
先生は言うだけ言ってそそくさと階段を下りて行く。心の準備ということはこの先に僕が求めていた答えがあるというのか?僕が立ち止まっている間にも先生はどんどん階段を下って行く。
この先に真実がある、嬉しいはずなのに怖くもあった。さっきから続く頭の痛みがどんどん激しくなっているからだ。今やガンガン頭の中で激しく音が鳴っている。ここが危険だと告げている。だけどこの瞬間を待ちわびていたのも事実。ヨハンならどうした?迷うことなく進むはずだ。そうだ、どちらにしろもう後戻りはできないんだ。
「よしっ」と僕は自分の両頬をはたき、気合を入れた。そして先生に追いつく為に勢いよく階段を下りて行った。
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