第6話
〈6〉
「はぁ、はぁ」
全速力でここまで走って来た僕は、膝に手をつきながら肩で息をしていた。ふと顔を上げてみると、さきほどまで抜けるように晴れていた空は、木々の枝とそれに連なる葉によって埋め尽くされていて、まったく別の世界に来てしまった気分になる。でも、無機的な空間での生活を強いられていた僕には、それがむしろ気持ちよくも思えた。
「大丈夫かい?」
ずっと前を走っていたヨハンが心配そうに僕を気遣う。きっと一分にも満たない時間だったと思うが、あれだけの勢いで走っていたのに、ヨハンは息一つあげず、涼しい顔をしていた。
「あぁ、なんとか。それより、さっきのあれって例のサイレン?」
少しずつ息が整ってきたところで、あのサイレンとアナウンスについてやっと冷静に考える事が出来るようになった。どうやらかなりヤバい状況になっているらしい。
「至急館内に戻れってだけで何の説明も無し。でも、それがむしろ緊迫さを増大させていた。何にせよ病院側にとって子供たちに知られると都合が悪い事態が発生したのは間違いないよね」
ヨハンは「ふむ」と息を吐くような音を出し、顎に手を当てる。
「拓斗の線で間違いはないと思う。でも、今僕たちはそれを議論する道具を持たない。これをみてごらん」
ヨハンが地面を指して僕に見るように促す。そこにはでこぼこしているが、むき出しになった地面と折れた木の枝。脇には枯れ落ちた葉っぱが大量に積もっていた。
あっ、僕の口から間の抜けた声が漏れた。どうして今まで気付かなかったのだろう。
「道が出来てる…」
「そう、舗装されているわけじゃないけど、この辺りには草がほとんど生えていなし、明らかに踏み折られたような枝の残骸がある。この道を何度も人が行き来しているんだ」
「病院の人以外にはあり得ない。ってことはやっぱり―」
「あぁ、幽霊は病院の人間だ。火の玉は良く分からないけど、もしかしたらこの道の先に全ての謎が隠されているのかもしれない」
森の奥の方を見ながら喋るヨハンの声は、今までにない緊張感を帯びていた。
「行こう」そう言ってヨハンは先に進んだ。今すべきことが明確になったこの瞬間、僕にも迷いはなかった。僕は一度大きく身震いをしてから後に続いた。
しばらく森の中をヨハンの後ろにつきながらずんずん進んで行く中で、僕の目が何か違和感を訴え始めた。森の奥へ進んでいるはずなのに、さっきよりも明るくなっているのだ。
「あそこだ!」ヨハンが興奮しながら振り向き、前方を指差す。
今まで前が塞がっていたから良く分からなかったのだが、所狭しと並んでいた木々の密度が急に薄くなっていて、上方以外からも光が差し込んできていたらしい。
それに気付いた僕とヨハンは無意識のうちに早歩きになってそこへ向かっていた。
ドクン。ドクン。
まだ心の準備が、と思う一方であそこに僕たちが追い求めていた真実があるかもしれないという好奇心がそれを飲み込んで行く。
ドクン、ドクン。
あと少し。眼球に入り込んでくる光の量がどんどん増える。僕たちはいつの間にか小走りになっていた。
ドクンドクン。
待ちきれない思いがとうとう僕たちを走らせた。
いよいよだ。ラストスパートを決めるように加速して、思いっきり、光の出口へと飛び込んだ。
森を抜けた瞬間、あの太陽の照りつきが帰ってきた。眩しさに目がくらみ咄嗟に顔を腕で覆う。
「まぶっ―」僕は前方をこっそりと覗きこむように、ゆっくりと腕をずらした。
まず目の前に入り込んできたのは空色の青。そして青。むしろそれ以外の色が見えてこない。もちろんそれは本物の空ではないことは分かる。やっと目が慣れて来た僕はそれが何かを見定める為に、腕を完全に下ろした。
「これは…、アサガオ?」
まるで空の色をそのまま映したかのような鮮やかなセルリアンブルーのアサガオたち。近づいてみると、それぞれ一本ごとに支柱が添えられ、そこにとぐろを巻くようにつるがからみついていた。さらに周りを見渡してみると、せわしなく、ぎっしりと花が咲き合うこの空間は、円形できれいに開けた空き地のような状態になっている。明らかにこのアサガオたちは人為的に栽培されていた。
誰が?もちろん、病院の人間だ。でもどうして?分からない、全然分からない。これが、こんなものが僕たちの求めていた答えなのか…。僕は絶望に似たような感覚を覚えた。リスクを冒してここまで来たのに、ここに来ればきっと何かが掴めると思ったのに結果は大量のアサガオがあっただけ。
そういえばヨハンはどうした?僕はふと思い出す。かけていた期待とそれを裏切る現実にひしがれていたが、彼がこれをどう思っているのか聞きたい。辺りを見回すと少し離れた位置でアサガオを見つめているヨハンの姿を捉えた。
「ヨハンっ!」
僕は彼に近づきながら、声をかける。だけどヨハンはこちらに振り向くこともせずにアサガオをだけを見つめ続けている。
「ヨハンってば」
傍まで来た僕はヨハンの様子がおかしいことに気付いた。さっきから一ミリたりとも体を動かさずにずっとアサガオの方だけを見ていて目をそらさない。
「どうかし―」心配になった僕は彼の顔を覗きこみ、ぎょっとした。
アサガオだけを捉えていた彼の目は驚くほど見開かれていて、眼球全体が血走っている。
「どうした、ヨハン!?」
尚も返事がない。僕は完全に混乱して、どうすればいいか分からなくなってしまった。
すると、突然
「ハハハハッ」
ヨハンの口から乾いた笑い声が漏れだした。さっきまでの表情を一切変えず、ただ唇の端だけを上げて笑っている。
「そうか、そうだった…。ハハッ、僕は何て愚かだったんだ」
さらにヨハンはぶつくさと独り言を呟き始めた。森を抜けるまでのヨハンと明らかに違う。さっきまでの僕の中の混乱は静かにおさまり、急に背中に嫌な汗が噴き出してきた。
「そうだ拓斗、僕たちは生きてしまっているんだ!」
ヨハンはひんむいた目のままで僕の方へと体を向け、いきなり僕の肩をがしっと掴んだ。
「痛い、ヨハンやめてよ!」
ヨハンの手を振り払おうとしたが、彼の力が想像以上に強くそれができない。その間もヨハンの笑い声は続き、段々と狂気を帯びていく。
「ハーッハッハッハー!僕たちは死ななくちゃだろ?たくとォ」
そう言うと、ヨハンの顔が下から覗きこむようにしてぐいっと迫ってきた。
「どうしたんだよ、ヨハン?君の言っていることの意味が分からないよ」
僕は必死に訴えながら顔を背けようとする。ヨハンをなんとかしなくちゃ、そう思う一方で今のヨハンは危険だと僕の本能が叫んでいた。。
「ハハハハッ何言ってんだよ、たくとォ。ウソをつくとバチが当たるってママが言ってただろ?だからお前にもバチが当たるのさ!」
ヨハンは掴んでいた僕の肩を勢いよく押して、僕をあっという間に地面に倒した。肩と腰を強く打ちつけられ、大きな痛みが走る。
ヨハンは僕に馬乗りになった状態になった。
「さぁ生きることをやめよう」そして僕を見下ろしてにんまりと笑う。
逃げなくちゃ逃げなくちゃ。僕は手足をじたばたさせ、もがいてみるもびくともしない。
「ヨハンお願いだ、いたずらならも―」
懇願する僕の声は気道を強制的に塞がれ、途中で消えた。ヨハンが僕の首を一気に絞め始めたのだ。
「くるっ、ヨ、ハ、やめっ」
ヨハンの手首を抑えながら抵抗を試みるけど、体に酸素が行き渡らなくて力が入らない。筋肉がどんどんしぼむ感覚がして意識が混濁していく。
僕は死ぬのか?僕が一体何をしたというんだ、ヨハン。バチって、生きてちゃいけないってなんなんだよ。
そんな僕の必死のあがきも思考も無視するように、ヨハンは高らかに笑い続けている。最初はうるさいくらいに響いていたその声もだんだんと聞こえなくなってきた。
「やめ、て、おねが…」
やがて、それは完全に聞こえなくなって、僕の視界は真っ暗になった。
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